
生形貴重『利休の生涯と伊達正宗』
―茶の湯は文化の下剋上―
水を運び、薪をとり、湯をわかし、仏にそなえ、人にもほどこしと、吾も飲む。 (立花実山『南方録』)
利休の伝聞を集大成したといわれる『南方録』にある言葉である。お茶をたてるということは、これほどの事だと利休は言っているようだけれど、熊倉功夫さんは「仏にそなえ」と「吾も飲む」が大切だと言う (『千利休』)。「吾も飲む」は道楽としての楽である。人に施すは利他であるだけでなく自利でもある。ボランティアやおもてなしをする人にとっても自らも楽しむというのは大切な要素かも知れない。そして、「仏にそなえ」とは茶の湯が仏道、とりわけ禅の世界との関り、修行としての茶であること。ここに道としての基盤を持っていることが述べられる。
夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように、炭は湯のわくように、茶は服のよきように、これにて秘事はすみ候。
(立花実山『南方録』)
茶の湯の秘伝を利休に尋ねた者は、あっけにとられたのか、むっとしたのか「そんなことは分かっています」と言うと利休は、「そんなお茶がたてられれば、あなたの弟子になりましょう」と答えたと言う。夏は夏のあるべきように、冬は冬のあるべきよう、炭は炭のあるべきように、茶は茶のあるべきよう、時々刻々のあるべきようにすることは名人と言えど至難の業であるのかもしれない。
さて、今回の夜稿百話は千利休をとりあげますが、詫び茶については前回の第83話・村田珠光の所で述べておいたので、今回は生形貴重 (うぶかた たかしげ) さんの『利休の生涯と伊達政宗』を中心に利休の逸話をご紹介しながら、謎に包まれた切腹の真相に迫ります。

蹲踞(つくばい) 竜安寺
著者 生形貴重

生形貴重(1949-)本書より
筆者の生形貴重 (うぶかた たかしげ) さんは1949年大阪のお生まれ。中世文学と茶道文化の研究者である。表千家の茶家「生形朝宗庵」に生まれるとある。祖父である自徹斎貴一は即中斎宗匠から皆伝を賜り、大徳寺聚光院の昭隠老師に参禅得度したという人だったし、父親もまた茶の湯の世界の人だったが、自分を学問の道に進ませてくれたと言う。先祖は代々大和郡山藩柳沢家の家老であったという家柄である。
同志社大学大学院文学研究科をご卒業後『平家物語研究』で1986年に第12回日本古典文学会賞共同受賞、2002年には『利休の逸話と徒然草』で第12回茶道文化学術奨励賞を受賞されている。千里金蘭大学名誉教授、放送大学京都学習センター客員教授、不審庵文庫運営委員、表千家同門会大阪支部常任幹事としてご活躍である。著書に『平家物語の基層と構造―水の神と物語』『西行上人歌集 山家集類題』『茶心の背景―和歌と仏道』『平家物語―古典への旅』『茶道具を語る』などがある。
堺の茶匠たち

堺の鉄砲鍛冶 『和泉名所図会』
利休の生きた時代は応仁・文明の乱から戦国の下剋上へと激動の時代である。その中にあって堺は自治を獲得した自由都市であり、日明貿易で栄えていたし、やがて南蛮貿易に手を染めるようにもなる。この和泉の国の地方は平安から鎌倉期にかけて皇室や貴族の大社寺の所領であり、そこの人々は皇室に仕える供御人や神社に仕える神人であったと言われる。堺は摂津と和泉の国境にあり同様の状況にあった。幕府の直接支配を受けてこなかったのである。
その堺の町衆は近畿の覇者と上手く付き合うことによって町の繁栄を築いてきたし、室町将軍らの愛した唐物名物の茶道具たちも戦費の質草として堺に流れ込んでくる。戦火を逃れた知識人たちのアジールにもなっていて、その中には利休の祖父の千阿弥も含まれていただろう。
利休の生家の家業は納屋衆、つまり倉庫業で塩魚を保管していたと言われる。貿易を行うような豪商の家ではなかった。特筆すべきは祖父の千阿弥が室町幕府の芸能集団である同朋衆の一人であり、義政に仕えていたことである。この堺には武野紹鷗 (たけの じょうおう)、娘婿の今井宗久、紹鷗の弟子の利休 (幼名は与四郎) らの屋敷が隣接していたし、津田宗及 (そうぎゅう)や利休が初期に茶の湯を学んだ北向道陳 (きたむき どうちん) らもいた。紹鷗の茶は、四畳半茶室の草庵の茶であり、一点の名物を置き、和歌の懐紙などを床に掛け、信楽の桶を水指に使う「見立て」など斬新な茶の湯で一世を風靡していたのである。

千利休像 部分 1566 正木美術館
利休がどの程度の財力があったかについては切腹直前の「末期の文」に記されていて、父の代の納屋衆の収益、堺周辺の田畑、自宅や本家、貸家などがあり、自分の代の財産としては古渓和尚と跡継ぎの道安に進呈するための金屏風それぞれ一双、六十貫文の貸し倒れの質草である奈良屋道具株、禅僧徳輝の墨蹟といったほどの財産であったという。
信長と利休
都を支配していた主人の三好長慶に取って代わった松永久秀は紹鷗 (じょうおう)に茶の湯を学び数多くの名物を手に入れていた。信長が上洛すると義満が所有していた付藻茄子 (つくもなす) 茶入を献上するなど信長の数寄心をくすぐっている。この久秀が信長に攻められて滅ぼされる時、最愛の平蜘蛛釜を道ずれにしてしまった。この釜の代わりに命は助けようという信長の申し出さえ断っている。

平蜘蛛釜を粉砕する松永久秀 月岡芳年
この頃、信長は堺の町に二万貫の矢銭を要求するなど堺へ、その支配を浸透させようとし、茶人で豪商だった今井宗久や津田宗及らを政商として厚遇し始める。同時に堺に集まる名物を狩り始めた。堺の町は三好との提携ではなく信長との提携へと傾斜していった。一方、利休は茶人としての名声を高めていたが、政治的にはニュートラルであったと言われる。
上洛した信長は日蓮宗や臨済宗の大寺院を宿舎に軍を駐屯させ茶会を開いた。堺の豪商や茶人を招いて経済的な結びつきを深め、武将とは別の新たな官僚組織形成の基盤とし、玉潤や牧谿の絵画、珠光茶碗、先ほどの付藻茄子 (つくもなす) 茶入、初花の肩衝 (かたつき) 茶入れといった室町将軍の権威を象徴する東山御物などを掲げて威光を輝かせた。麾下の武将たちに茶の湯を許可制とし、功績のあった部下には名物を下賜することによって部下としての誇りを持たせたのである。そして、それは堺の政商たちを茶会の茶頭として使う許可でもあった。

肩衝 (かたつき) 茶入れの一例 16世紀末
「茶の湯御政道」のはじまりである。この言葉は秀吉の命名とされている。それは、室町将軍たちの会所の茶を彷彿とさせるものだったが、一方で、信長は新たな社会秩序に対応する茶の湯のスタイルを求めたのではないかと生形は言う。そこに利休 (宗易) 登場の必然があったのである。利休を茶道の歴史の上で輝かせたのはこの信長と言ってよかった。
ちなみに、信長の茶の湯にたいする理解が、どれほどのものかは信長の養育係であった宿老・平手政秀が文武に優れ深い教養を持った武将であり、その薫陶を受けた信長の茶の湯も推し量られるという。京都から政秀邸を訪れた公家の山科言継は、その茶の湯座敷の立派なことに瞠目したという。信長は大うつけのイメージと非情な戦術家のイメージが強いが繊細な心遣いと自分の眼で確かめずには済ませない上に鋭い洞察力を持っていた。これは、信長の一般的なイメージを払拭させるに足る。
利休の眼力と計らわない意匠
利休の観察力の鋭さはさすがに並ではなかった。奈良の松屋久政による『松屋茶会記』に利休が絹屋宗林の茶会に招かれた時のことが記録されている。茶を飲み終わって香炉と火箸を拝見している。香炉は普通だが火箸は一般に、道具として賞玩するものではない。それをわざわざ見ていることに会記を書いた松屋久政は驚いたのである。
それに利休が細川三斎に招かれた際のまな板の話がある。鶴をさばく包丁の業を見たいとの所望だったが鷺でおこなわれたようだ、まな板が前より低くなっている気がすると利休が指摘するので三斎が厨房に問い合わせた。すると、古くなったのでまな板の表面を一分ほど削ったと言う。一分は3ミリほどである。(千宗旦『茶話指月集』)

蹲(つくばい) 竜安寺
ちなみに蹲 (つくばい) に関する話も伝わっているのでご紹介しておく。これは利休が計らいを嫌った例として挙げられる。茶室の前には手や口を清めるための蹲や手水鉢があり、足元に水が撥ねない様にごろた石が置かれる。その石は計算して置くのではなく人足の目を塞いで物に入れて蒔いたものを杖で適当に直す程度でよいとしている (千宗旦『茶話指月集』) 。これは露地の掃除においても落ち葉を全て掃き取ってしまうのは不自然だという心に通じた。「そのままの美学」。
利休七哲と下剋上の茶
信長が安土城の築城を開始した翌年頃から、麾下の武将たちとの茶会が増え、利休 (宗易) らとの交流が活発となる。武将たちの茶会を手助けし、最後には客としてねぎらわれるというものだったようだ。このような中から利休七哲と呼ばれる直弟子たちが誕生する。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山監物、瀬田掃部(せたかもん)、牧村兵部、古田織部など瀬田を除く6名が信長の部下たちだった。信長の「茶の湯御政道」の煽りを受けた部下たちも茶の湯の会式へと精力を傾けていく。戦費の捻出のために堺の商人たちとの関係を深め、戦闘前のセレモニーとして、あるいは自分の部下たちへの報償の一端を担うものとして茶の湯は重要性を増していった。
このような政治・軍事のための茶ではなく、狭い一室での心の繋がりを尊ぶ侘茶を利休は武将の弟子たちに教えた。それは身分を超える主客の自由な交わりだった。織部は花籠を薄板の上ではなく床に直に置く工夫で利休に称賛されたし、本能寺の変後、秀吉に仕えた信長の弟・織田有楽 (うらく) は茶入れに古いと蓋との取り合わせを利休に真似たが、この茶入れに合わせるなら新しい蓋でなければとダメ出しされている。この有楽は後に利休の建てた待庵に並び称せられる如庵 (有楽のクリスチャンネーム Joan に因むという説がある) を建ている。

如庵 愛知県犬山市
利休の七哲たちは、信長の麾下のなかでも勇猛果敢で知られる者たちであり、それゆえに死線をかい潜り続けていたし、信長の天下制覇が進むにつれ上下関係は窮屈なものになっていったと想像しうる。このような状況で利休の茶は身分を超えた自由と和があり、既成の価値観を乗り越えようとする気概に溢れ、名物に依存しない侘茶という価値観を有していた。そこに武将たちは惹かれていったのである。その革新の一端として、利休は当時人気のあった高麗茶碗のような流行を追わず長次郎に楽茶碗を作らせる。当時下手であった棗 (なつめ) を用い、象牙や金属で作られていた茶杓を竹で作り、しかも中ほどに節があると言った利休好みを打ち出した。茶の世界に革新をもたらす下剋上の茶の湯だったのである。

大井戸茶碗 『有楽』 15-16世紀 東京国立博物館

楽焼『尼寺』16世紀後半

楽茶碗 1750年頃 MET
秀吉の茶堂 困らぬやつ利休
明智光秀は里村紹巴との連歌で「ときは今あめが下知る五月哉」と詠んで本能寺に出陣したが、ときを出自の土岐氏にかけている。信長は本能寺の茶会の翌日に 光秀に討たれたが、その際、寺と共に名物もかなり消失したと言われる。やがて、秀吉が実権を握ると利休や堺の商人たちも信長にかわって秀吉との関係を深めていった。
かつて信長の家臣だった時代、秀吉と利休とのこのような話があったらしい。西国へ出陣中に利休 (宗易) に預けておいた革袋の金子を確かに受け取った、長々と預かっていただきありがとうございますと言う内容だった という (桑田忠親『利休の書簡』) 。
信長の葬儀を大徳寺で挙行してポスト信長をアピールした秀吉は山崎に築城し、利休や山上宗二、津田宗及らと茶会を行い堺衆らと親密の度を深め、堺衆は秀吉の兵站補給 (後方支援) の役割を担うようになる。この頃の利休は、秀吉が政権を安定させるための政治コンサルタントであり、茶の湯の師匠であり、茶の湯御政道のためのアートディレクターだった。とりわけ七哲のような信長の配下に師事されていたことは重要だった。前線の部隊に秀吉の動静全体を伝え、家康への臣従交渉の茶会もあれば戦のための結束茶会、宮中茶会も差配したのである。
利休と秀吉との関係は茶の湯の子弟関係から始まり、主従関係へと移行するという独特なものだった。互いに敬意を込めながらも、そこにはある種のライバル心もあり遊び心もあった。こんなエピソードがある。
秀吉が床に大きな唐銅 (青銅) の鉢に水を入れ紅梅を一枝添えて利休に活けて見よという。金だらいのような鉢に梅を一本活けてみよというのである。そこで利休は梅を逆手にしごいて梅の花を鉢の水面に散らしてみせて秀吉を感服させた。もう一つの逸話は石庭で有名な大徳寺の大仙院で突然、花を活けてみよという。利休は窓の向こうにあった庭石の上に花を活けて窓越しに花が見られるように設 (しつら) えた。利休の当意即妙である。秀吉は困らせてやろうとしても困らぬやつじゃと感服したという。

大徳寺 大仙院 枯山水
どうも利休の方からのリベンジもあったらしく、利休茶室の路地に朝顔が咲き乱れるのが美しいと噂となり、秀吉も、それは見ものと早朝訪れたが、そこには朝顔の花は一輪も無く摘み取られていた。落胆したか怒った秀吉であったろうが、茶室の花入れに一輪だけ朝顔が挿してあったという。井上靖の『利休の死』にも紹介されている世に知られた話である。
世を渡る橋
しかし、秀吉の覇者としての茶の湯と身分を問わない利休の茶の湯とは齟齬をきたすようになる。利休は二畳敷の草庵茶室を作ったけれど、秀吉のためには三畳半の三畳台目席を作らざるを得なかった。

(図は part2でご紹介する神津朝夫『山上宗二記と茶人宗二』より転載)
上の図の左下が利休三畳台目茶室の平面図で、左側の点前畳に台目畳が使われるが台子を置かないために畳の四分の一のスペースを削っていて通常の畳の四分の三程度の大きさになっている。
客室と台目席とは一部壁で仕切られていて、これは茶をたてる茶堂と客である大名との身分の上下関係を持ち込むことになり利休の身分を超えた茶の湯とは対立する考え方だったと生形さんは言う。それで利休は壁の下をくりぬいて茶堂が客から見えるようにしてしまうのである。

台子
もう一つの利休と秀吉との齟齬は関白となっていた天正十四 (1586) 年二度目の宮中茶会で起こる。秀吉は大阪城の黄金の茶室を持ち込むのであるが、この茶室は三畳の小間で、草庵の茶であるにもかかわらず台子が使われた。秀吉はここに台子を持ち込んで身分差別のある書院の茶の様式を持ち込んだのである。これは利休の小間の理想に反するものだった。これには秀吉の考えだけでなく、台頭していた官僚グループの影響があったのではないかと言われる。堺の政所は石田三成になっていた。

秀吉の黄金茶室 (復元) MOA
庶民の参加が認められた北野大茶会も九州の島津平定の祝勝茶会であると同時に武家の文化である茶会に公家たちを組み込むという意図があった。この頃、聚楽第が完成し、二畳茶室、平三畳茶室が建てられたが、その中でも、床ありの一畳半という究極の小間茶室を利休は作る。だが、秀吉は気に入らず、二畳敷にして路地の外を垣にし、白壁にして松を植えたが、それもやり替えさせた。それに門の上に大徳寺の古渓宗陳 (こけいそうちん) 禅師の書いた扁額も取り払わせた。利休が参禅した師であった古渓禅師は石田三成の讒言で博多に流されていた。利休は聚楽第の自分の屋敷で感動的な古渓和尚想望茶会を催している。
この背景には信長以来の大名たちと官僚大名たちとの権力闘争があったという。古渓は信長とも深いつながりがあった。三成たちは、武将による古い体制を排除して新たな官僚体制への移行を促進させようとした。利休には理想を現実化し得ないもどかしさが次第に高まっていったのではなかろうか。山上宗二によれば、利休は明恵上人のこの歌をよく口ずさんでいたという 「けがさじと おもう御法 (みのり) の ともすれば 世わたるはしと 成るぞかなしき」(山上宗二記) 。
さて、次回の生形貴重『利休の生涯と伊達正宗』part2は 秀吉政権内の確執からいかにして利休の自刃へと至ったのか。その真相に迫ります。


生形貴重『利休と信長』
信長の養育係といっても良い宿老・平手政秀は文武に優れた武将であった。信長の父信秀と清州衆との抗争では和睦に成功し、斎藤道三の娘と信長との結婚を成立させるような交渉の才覚を持ち、信長の初陣には合戦の後見をしている。信長自身も弓や鉄砲の稽古、兵法、鷹狩などを通じて戦国武将としての基盤を作り上げていた。一方で政秀は茶の湯や和歌などの風雅を楽しむ教養人であったから、お茶に関しても正秀から薫陶を受けていてかなりの教養があった。それに本文でも述べたように信長自身が持っている鋭い感性と洞察力の賜物でもあった。
本書にも利休が弟子たちを錬磨する様子が書かれているのでご紹介しておきます。利休の高弟である蒲生氏郷、瀬田掃部 (せたかもん) 、牧村兵部、細川与一郎 (三斎) が利休の茶会に招かれた。ところが躙口 (にじりぐち) つまり入口の前の座敷に茶壷がドンと置いてある。困った弟子衆は相談して正客の氏郷が茶室の中央あたりに置き直しておいた。利休が茶室に出てくるとあいさつの後、茶壷を水屋にしまい込んでしまった。怪訝な顔で、あれでよかったのかと弟子たちが問うと、利休は弟子たちの機転を褒めたという。テストに合格したという分けである。
弟子の南坊宗慶 (そうけい) が利休を招いた茶会のこと、相伴客は住吉屋宗無、津田宗及だった。夏を中心に用いる風炉の季節だったが、空気は冷ややかだったので釜の湯に一杓水を注がないで濃茶をたてた。しかし、作法通りに水指の蓋を取っておいたのを利休に咎められた。点前の作法を忘れたのか客に思われないように蓋をとっておくなど小賢しい知恵ではとうてい主客同心の茶などあり得ないと叱責される。相伴の客たちも優秀な茶人たちだったので聞いてみろと言われた。宗慶が彼等に問うと「今日のように涼しければ、一杓水をささなくても良いでしょう」との答えだった。腑に落ちない宗慶 は再び利休に問うた。すると茶の湯の要諦をつぎのように語ったという。茶と湯と上手く和合することがなければどのような名園の茶でも上々の風味にはなり得ない。暑くなると茶の風味は少しずつ失われてゆくもので、それに熱い湯を注ぐと一層その風味は損なわれるということらしい。茶の湯とは茶と湯との真の和合を目指す命名なのだという。

熊倉功夫『千利休 日本人の心の言葉』
茶道研究者の熊倉さんが綴る利休のアフォリズム集。なかなか興味深い。いくつか簡潔にご紹介する。
「いかにも互いの心にかなうがよし。しかれども、かないたがるは悪しし。(南方録)」
これは説明不要でしょう。
「真より入り、草より入り、行より入り、仮名より入る、その入るところかわれども奥義は同一なり。(南方録)」
書院台子の茶は格式高く正式な茶の湯であるから楷書、草庵小座敷の茶はくずしやつした詫茶で草書と言える。どちらの道でも茶の湯の到達点は同じである。利休の流れでは草庵の茶に始まり台子点前に入るけれど稽古の方式は人によって異なってよいということらしい。
「むかしは濃茶を一人一服ずつにたてしを、その間あまりに久しく主客共に退屈なりとて、利休が吸茶に仕(し)そめしとなん。(茶湯古事談)」
濃茶は茶杓に三杯の茶に湯は少なく練る感じの濃いお茶、薄茶は濃茶の半量の茶にお湯をたっぷりめに入れて茶筅でよくかき混ぜるので泡立つ。むかしは客に対して一碗ずつ濃茶をたてていたけれど練るのには時間がかかるので人数分一碗にたてて回し飲みにしたということらしい。これを熊倉さんは「一味同心」のお茶と呼んで直心の交わりに通ずるという。
「露地にて亭主の所作に水を運び、客も初の所作に手水をつかう。これ露地、草庵の本体なり。この露地に問い問わるる人、たがいに世塵のけがれをすすぐための手水ばちなり。(南方録)」
腰掛の待合で客は亭主が手水鉢の水を汲み出して新しい水を入れると、亭主がいよいよ迎えにくるという緊張がみなぎるという。案内を受ける客の一人一人が手と口を手水鉢の水で清める。これを日本人の生活を律する重要な約束事であるケガレの清めであるという。

縁先手水鉢 三千院

矢部良明『千利休の創意』1995年刊
利休の事績と茶の湯の道具が詳しく述べられている。道具に興味のある人にはお勧めします。
●博多の神屋宗湛が初めて利休に出会ったのは天正十五年の正月、大阪城における茶会であった。島津征伐の記念茶会の意味があったと言われる。石田三成の案内で茶の湯飾りを拝見している。かつての書院飾りを彷彿とさせる豪華な品々が並んでいた。牧谿の『遠寺晩鐘図』、『青楓図』、『平沙落雁図』の三幅対、名物茶壷として『撫子』、『四十石』、『松花』が置かれた。これも書院の茶と関係の深い台子点前が行われ、利休、住吉屋宗無、津田宗及が茶頭を務め、利休が使ったのは『似茄子(にたりなす)』、白天目、痩栗毛の天目、井戸茶碗、紹鷗の象牙の茶杓といった豪華絢爛な道具たちであった。

牧谿『遠寺晩鐘図』
●桃山時代の前期に、信長や秀吉が名物狩りによって唐物の茶壷や茶入れ、唐茶碗を数千貫の金で買いあさっていた情念はその後の時代にも続いていたが、利休が長次郎に作らせた楽茶碗はそれほどの値上がりを見せなかった。利休が好んだ楽焼『大黒 (おおぐろ)』を利休の曽孫である千江岑 (せんのこうしん) が手放した時の値段は百貫文ほどだったという。詫数寄者の間で人気となったのは長次郎焼ではなく美濃焼だった。瀬戸焼の支窯でしかなかった美濃焼は技術革新と共に1580年頃から瀬戸焼から独立する。美濃焼は独創的になっていくのである。とりわけ白釉の志野焼はヒット商品になる。とりわけ楽焼に比べて大量生産が可能だった。この茶碗は親しみやすさ、分かりやすさ、楽しさがあり大衆性を持っていた。これが詫数寄の需要にマッチしたのである。

志野焼 『神橋』 16世紀後半

織部焼 美濃焼の一種で志野焼の後に作られるようになる。

井上靖『利休の死』
戦国時代小説とサブタイトルにあるように信長、武田の武将である多田新蔵、松永久秀、森蘭丸ら11人の人々を主人公とする短編小説を集めている。最後に『利休の死』が収載されていて、ここでは秀吉の利休に対する反目と二人の長年の緊張の結末が利休の自刃という終局として描かれる。
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