


Ⅰ 死者の埋葬
四月は最も残酷な月、リラの花を
凍土の中から目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を
忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた
夏がぼくたちを驚かせた、シュタルンベルク胡を渡ってきたのだ。
(岩崎宗治 訳)

シュタルンベルク胡 アルプス山脈を南側に望む
ミュンヘン

バイエルン王ルートヴィッヒ2世
の溺死現場にある十字架
エリオットの詩『荒地』は第一次大戦の傷跡が残る1922年に出版された。これは五章からなる第一章の冒頭である。再生のための死がテーマになっている。シュタインベルク湖は狂王と呼ばれたルートヴィッヒ二世の死体が発見された場所だ。王の死である。この『荒地』にはタンムーズ神話や『聖杯伝説』が構造的に取り入れられている。そして、この続きには会話の一部が突然挿入される。
それから、日差しの中をホーフガルテンに行って
コーヒーを飲み、一時間ほど話をした。
ワタシハロシア人ジャナイノ。リトアニア生マレノ生粋ノドイツ人ナノ。
そう、わたしたち、子どものころ大公の城に滞在して、
従兄なのよ、彼がわたしを外につれ出して橇(そり)にのせたの。
こわかったわ。彼が「マリー、
マリー、しっかりつかまって」って言って、滑り降りたの。
山国にいると、とっても解放された気分になれます。
夜はたいてい本を読んで、冬になると南へ行きます。
(岩崎宗治 訳)

ホーフガルテン ミュンヘン
舞台は南ドイツのミュンヘンである。エリオットは1914年に南ドイツのバイエルンでウィーン出身の作家ホフマンスタールの作品を読んでいた。このような会話の挿入や神話だけでなく、過去の作品などからの数々の引用は話の筋を多声的で立体的なパッチワークのようにし、ジョイスのような文体ともパラレルになっていく。モダニズム文学の傑作とされるようになるのである。
トーマス・スターンズ・エリオットの前半生
トーマス・スターンズ・エリオットは1888年、アメリカはミズリー州セントルイスに生まれた。父方の祖父であるウィリアムは *1ユニテリアン派の聖職者であり、セントルイスに教会を建て、セントルイス・ワシントン大学の創立に尽力し、後にその総長となる。教育にも熱心な人であり、奴隷制の廃止も粘り強く主張した人だった。時には詩を書くこともある軽妙な文筆家であったという。
*1ユニテリアン キリストを偉大な宗教指導者として三位一体を否定するリベラルな宗教として知られる。18世紀半ばにイギリス国教会の牧師であったテオフィルス・リンゼイ と化学者・自然哲学者のジョセフ・プリーストリーが推進した思想
父親のヘンリーはユニテリアンの牧師を継ぐことなくあっさり実業家になった。しかし、ユニテリアンの信仰を持ち続け、禁酒と禁煙を守る模範的市民だったといわれる。母はニューイングランド出身でセントルイスの師範学校で教師をしていた人だった。詩を書くことが念願であったという。トーマスはその七番目の子供で、一番上の姉とは19歳の年の開きがあった。末っ子として猫可愛がりされたのは想像に難くない。幼いトーマスは本好きであったが、彼が読むことを許されない「俗悪書」があったようで、それが『トム・ソーヤ』と『ハックスベリ・フィン』であったという。気の毒な ! 後年エリオットは「幼い頃あれを読んでさえいたらと思う。今はどうしても批評家の眼で読んでしまう」と嘆いたという。伝記についてはT.S.マシューズ『評伝T.S.エリオット』からご紹介する。
1906年ハーヴァードの学生となったエリオットは、ダンテの『神曲』をイタリア語で口ずさみながら三年間で文学士の資格を得ている。その頃、ハーヴァードの教授には孔子好きのフランス文学者アーヴィング・バビットと哲学者のバートランド・ラッセルがいた。この二人からの影響は大きかったようだ。バビットを通じてフランスの象徴派の詩人たちを知る。一方で独自にラフォルグのことを知ったエリオットは、彼の詩集全三巻を取り寄せた。ラフォルグは中原中也を魅惑した詩人でもあるが、エリオットは彼の詩集を読んだ最初のアメリカ人ではないかといわれている。フランスへの憧れが彼をパリへと一年間遊学させることになる。そこでベルグソンの講義を聴講した。


右 ジュール・ラフォルグ (1860-1887)
特筆すべきは大学院時代二年間サンスクリットを一年間 *2パタンジャリを研究したことだった。パタンジャリに迷いブッダにしびれていたのだ。『荒地』には『ウパニシャッド』や、いわゆる南伝仏教経典である『スッタニパータ』の内容が見られるという(柴田多賀治『エリオットとインド思想』)。分かりやすい例で言えば『荒地』の最終連において三度繰り返される言葉「シャンティ」がある。これは、『ウパニシャッド』にみられる結語で、反復されて使われる「知的な理解を超える平安」を意味する言葉といわれている。
*2パタンジャリとして知られるのは前2世紀頃の文法書『マハーバーシャ』の作者、ないし西暦初期の『ヨーガ・スートラ』の作者とされる二人である。文脈からすると後者ではないかと思われる。
ヨーロッパの偉大な哲学者のほとんどが小学生にみえてくる、そんなインド哲学者が追求していた問題、それを理解しようとすれば、アメリカ人、あるいはヨーロッパ人としての思考や感性を忘れ去るほかないとエリオットは書いている(『異神を追いて』)。若き日に東洋の神秘的な哲学思想の洗礼を受けたのである。その彼がヨーロッパの古代にも眼を向けたことは容易に想像できる。エリオットを可愛がっていた長姉のエイダは、彼が「人間関係」から引きこもり、現実の中ではただ「演技する生活」になって心の奥底の神秘主義にはまり込んでいくことを危惧していたという(アクロイド『T.S.エリオット』)。
パウンドとエリオット
1914年にエリオットは奨学金を得てヨーロッパ大陸経由でロンドンに到着しオックスフォードに落ち着いた。留学生活は「無感覚」という言葉で表現されるほど憂鬱なものになっていった。それを救ってくれたのがエズラ・パウンドとの交流だった。パウンドは、ヴィクトリア朝の文学観から早く抜け出して新しい詩風を作り上げようとしていて、ジェイムズ・ジョイスなどの若い作家たちを積極的に支援していた。彼は、エリオットよりも早くロンドンで活躍しはじめたアメリカ人であったが、英国とアメリカの詩人たちが協力し、互いの作品を知り、相互に影響しあうような「詩における現代的な運動」を初めて可能にした。エリオットの詩を編集し、その出版に尽力したのも彼だった。

エズラ・パウンド (1885-1972)1919
『荒地』は、当時パリにいたパウンドによって大幅な編集の手が加えられたのはよく知られている。エリオット自身が彼のことを「主導権を握った演出家」と呼んでいる。これによって「ぶざまに延びて混乱の極みの詩」と呼ばれた『荒地』は半分の長さになったが、パウンドはその詩に自分の言葉を付け加えることは一度としてなかったという。この編集によって『荒地』がある程度筋の通ったものになったのか、逆に論理性が切断されてコミュニケーションの欠如を招いたかは議論されてきた。おそらく、前者であったろう。
20世紀初頭の英文学は、19世紀末以来のフランス文学の流れと批評の影響下にあって、それらを吸収発展させモダニズムが生み出そうとしていた。韻律などの決まり事から自由になり、イメージを先鋭化し、詩の断片化や引用の多用がモダニズム詩の特徴と言われている。エリオットはパウンドの「自由詩」を厳格な韻律法と自由な詩との葛藤から生まれる緊張状態から生まれるとしていた (エリオット『批評家を批評する』)。それは、とりもなおさずエリオットの立場であったろう。
宗教の深層とモダニズムとの決別
1927年にエリオットは、ユニテリアンからアングロ・カトリックに改宗し、同時に英国に帰化している。この章は高柳俊一『T.S.エリオットの比較文学研究』からご紹介する。1930年には『マリーナ』や『灰の水曜日』などの詩も作られたが、より新しいものを模索し始めていた。1934年に聖スティーヴン教会のチータム神父のもとで、この教会の代表委員となり、教会の財務管理やミサ中の献金集めの監督さえ行ったのである。この頃のエリオットは詩劇のための戯曲をいくつか手がけていた。この頃の詩『マリーナ』から一節ご紹介するが、旧約聖書のコレヘトの言葉を思わせるようなペシミズムが滲み出ていると言われる。
犬の歯を研ぐ者は
死に向かい
蜂鳥の栄光に輝くものは
死に向かい
飽満の淫売の館に坐す者は
死に向かい
動物の恍惚を味わう者は
死に向かい
かくて彼らは空っぽになって風化する
『マリーナ』より(古川隆夫訳)
エリオットは、早くから現代作家のオリジナルな文章などは、ほとんどが出来そこないであって、古典の輝かしい文章を変容させることが作家の使命だと思っていたらしい。彼が理想としたもの、それが、ウェルギリウスとダンテだった。ローマの声、救世主の出現を予言するラテン語を代表する最高の声としてのウェルギリウス、ダンテが『神曲』の中で「もはやこれ以上先を見極めることのできない場所にお前は到達した」と述べた作家である。そのダンテは、自らの『神曲』をトマス・アクィナスの思想を土台に崇高なアレゴリー体系を持つ構造物、被造宇宙に対応する「神のまねび」にまで高めたという。この頃、エリオットはコクトーに影響を与えた新トマス主義の哲学者ジャク・マリタンの思想を通じて、ダンテの古典主義的な秩序という理想へ再び繋がろうとした。それは近代主義への批判であり、『四つの四重奏』へと結実してゆくのである。

ジャック・マリタン (1882-1973)
高柳は、エリオットには一種の文化的悲観論のようなものがあり、彼自身が無意識に持っていたピューリタン的な世界理解から生じたものかもしれないと述べている。そのような意識から当時のモラルというものに対する批判が生まれた。第一次大戦から新たな大戦へと向かう世界とは近代精神の頽廃の結果にほかならなかった。彼は評論『異神を追いて』の中で近現代の作家たちを攻撃し、近代そのものの価値さえ否定する。エリオットの改宗はモダニズム文学との決別であったという。こうした世俗化する流れの中でジョイスにも文学が救いであり、宗教の代用物であったとしてエリオットはジョイスを評価している。
ジョイスの小説、『ユリシーズ』は複雑に絡み合った糸、混沌であり、絡み合うことによって膨らみ、巨大なアナーキーへと成長していく神話形成であった。人間の生存の様相とその世界はストーリーとしてではなく神話と夢という無意識を基盤とする連想の集合体となる。ノースロップ・フライの文学の統合原理としての神話が思い浮かぶが、皮肉にもエリオットやジョイスの作品は、この神話解釈を通して古典化され、それに伴ってモダニズムも受け入れられていったのである。ジョイスの他にエリオットが評価していたもう一人の文学者がいた。それがウィリアム・バトラー・イエイツだった。

エドゥアール・マネ
『エミール・ゾラの肖像』1868
当のイエイツ(1865-1939)は、エリオットの作品をマネの絵と比較して、自分はあの灰色がかった中間色が我慢ならないと述べ、明るい色彩や光が欲しい、そのようなエリオットの詩はシェイクスピアや聖書の翻訳者たちの末裔に加えることは出来ないとして、彼は詩人というより風刺家だと断定している。要するにエリオットの作品には感情の昂揚というものがないことに不満なのである。しかし、二人には荒廃した当時の精神風土を受け入れなければならないという共通の認識があった。エリオットはこの非神秘化された世界をすでに否定できない人生の事実として受け止め、自分の文体と言語をできるだけこの現実に近いものに煮詰めようとした時期があった。イエイツの出した答えは新しい神話の創造、世界の再神話化であったというのだ。
1940年、エリオットは62歳になっていた。代表作の『四つの四重奏』が出揃う時期である。60歳代にイエイツも『塔』(1928)や『螺旋階段』(1933)といった詩を残している。エリオットが気に入っていたイエイツの詩の一節がこれである。
君は、愛欲と狂気が
私の老年に寄り添ってご機嫌をとるのを、恐ろしいことだと思う。
若いときには愛欲も狂気も、それほど厄介なものではなかったが、
今、私を歌へ駆り立てるものが他にあるだろうか。
‥‥
(高柳俊一 訳)
インド神話・タンムーズ神話・聖杯物語
『荒地』の注には、わざわざ文化人類学者であるジェシー・L・ウェストンの『祭祀からロマンスへ』という著作が発想のもとになっていると書かれていた。この著作は、聖杯伝説が古代のギリシア・オリエントの祭祀や秘儀と関わっていることを J.G.フレイザーの『金枝篇』やレオポルド・フォン・シュレーダーの『リグ・ヴェーダと笑劇』などの説を交えて詳述している。
『リグ・ヴェーダ』賛歌において、雷神インドラは悪龍ヴリトラを退治し、七つの大河を解放する。「水の解放」と「大地の豊饒」が言祝がれる。また古代インドの叙事詩であるバラタ族の物語『マハーバーラタ』には、リシュヤシュリンガの物語が紹介されている。「カモシカの角を持つ者」の意味だが、仏教説話では「一角仙人」と呼ばれるようになる。ローマパーダ王が婆羅門を騙したために、すべての婆羅門に見捨てられ祭祀がとり行えなくなり、インドラの怒りに触れて大旱魃が起こった。それを除くためには一点の汚れもない聖なる婆羅門であるリシュヤシュリンガをこの国に連れてこなければならない。王の娘との婚姻が豊穣祭祀の一部となっている。

リシュヤシュリンガ
ローマパーダ王のもとへ誘い込むために送られた美女たち
シュメール・バビロニアの生命原理神タムムズ(タンムーズ)の死は植物を枯らし動物や人の死を呼ぶが、女神イシュタルが冥界に下ることによって年の半分を地上に帰還できるようになる (『金枝篇』) 。フェニキアからギリシアに広がった古代祭祀の特徴を色濃く残す植物神アドニスの祭祀は、アフロディテに愛された美少年アドニスの物語としてギリシア神話で知られる。彼は、嬰児の時に冥界の女王ペルセポネとアフロディテとの間で取り合いとなりゼウスの仲裁によって冥界と地上とを行き来するようになるが、成長してアフロディテとの狩りのさなか猪に突かれて死ぬ。
その祭祀は、傷あるいは死によって神のもたらす生殖力が停止ないし休止することを意味し、その復活を祈る儀礼と考えられている。フェニキアにおけるアドニスにあたるものが、現トルコ中央地域であるフリギアにおけるアッティスであった。アッティスは穀物神であり、小麦の刈入れられる春あるいは夏にひき臼で挽かれて死に、それにかたどられた人形は哀哭とともに水に投げ捨てられ、次の年の復活が祈念された。エジプトではそれがオシリスにあたる。

『アドニス』 アントニオ・コラディーニ作 18世紀 MET
ウェストンはインドやオリエントに伝わる古(いにしえ)の豊饒神話とケルトのアーサー王伝説が結びついて聖杯物語が成立したと考えている。現在では北東イラン語族のスキタイ人の伝承との類似が指摘されている (C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカー『アーサー王伝説の起源』)。「聖杯伝説」における初期のテキストにおいて聖杯城は海上か海辺、あるいは河川の岸辺にあり、聖杯のその最後の在りかは島の修道院なのである。漁夫王が衰弱すると国土は旱魃に苦しみ、多くの民も死ぬ。国土の豊饒とその繁栄は単なる人間ではなく神聖な王の生命と活力に依存している。
国土の荒廃は、ぺルスヴァルが聖杯と血をしたたらせる槍とは何かと問いを発しなかったことによるのではなく、王の病気あるいは体の障害から来るものであることをウェストンは確認した。ペルスヴァルの過失とは、問いを発しなかったために王を救えなかったことにある。彼は、聖杯城をもう一度探す旅に出るのである。そのために国土は “The Waste Land “、荒廃国、つまり『荒地』から解放されることがなかった。その詩『荒地』の「雷が言ったこと」からご紹介する。
Ⅴ 雷が言ったこと
‥‥
ガンジスの水位は下がり、群葉は萎れ
雨を待っていた。黒い雲が
遠く、ヒマラヤ山脈の上に湧き出た。
ジャングルは蹲(うず)くまり、静かに身をかがめていた。
そのとき、雷が言った
DA
ダッタ――与えよ。我々は何を与えたか?
友よ、熱い血が心臓を揺さぶり
一瞬身を任せるあの盲進
古老の分別も引き戻すことはできない
これによって、これによってのみ、われわれは存在してきたのだ
それは新聞の死亡広告欄にも見られず
善意の蜘蛛の巣が覆いかくしてくれる回想録にも
人気のない部屋で痩せた公証人の開く遺言状にも
現われはしない
DA
ダヤヅワム――相憐れめ。わたしはただ一度だけ鍵が
回される音を聞いた、ただ一度だけ
われわれは鍵のことを思う、めいめい自分の独房にいて
鍵のことを思いつつ、めいめいの独房を確認する
ただ日暮れどき、霊気にも似た幽かな声が
一瞬、虐殺された *3コリオレイナスを甦らせる
DA
ダミヤタ――己を制せよ。船は従った
楽しげに、帆と櫂に熟達した人の手に
海は凪いでいた。もし誘われれば、きみの心も快く
応じたことだろう、指図する者の手の動きに
従順に鼓動して
‥‥
(岩崎宗治 訳)
*3コリオレイナス シェイクスピアの後期の戯曲。民主制と貴族制の対立を背景としている。コリオレイナスは母国ローマを裏切って敵国のヴォルサイ軍と共にローマを攻めたが母たちの取りなしによって和睦を勝手に結ぶ。そのためにヴォルサイの刺客に殺されることになる。
1927年にエリオットがカトリックに改宗した理由がここらあたりに見いだされるかもしれない。何かを直感した。古代の再生儀礼と深く関わるカトリックのこの典礼に計り知ることのできない何かをである。大戦でヨーロッパは「荒地」となった。それでは王とは何を、あるいは誰を指しているのか。伝統と正統を重視し、それらは相互補完的だとする立場にあるエリオットはこう書いている。「我々は世界を見るに際して、キリスト教の教父たちのような世界の見方を知る必要がある。そして、根源にたどりつくことの目的は、より大きな精神的知識をもって我々自身の状況に戻ってこられるようになることである (『キリスト教社会の理念』高柳俊一 訳)。」
一つの世界という希望
何故エリオットは、ローマカトリックではなくアングロ・カトリック、つまり英国国教会における初代教会との繋がりと典礼を重視する宗派に改宗したのだろうか。別の観点から見てみよう。ヒントは、彼が主幹していた『クライテリオン』誌に掲載された「論壇」の中の文章にあるようだ。
英国はラテン文化とゲルマン文化双方の要素を共有して、二つの文化の懸け橋となっている。ローマ帝国がそうであったように、かつて英国も世界に広がる帝国であった。それゆえ、ヨーロッパのみならずヨーロッパとその他の世界を結びつけることができると考えた。第一次大戦を経験した者にとってそれは切実な問題であったろう。確かにローマ帝国からキリスト教的西欧としての神聖帝国は生まれた。しかし、文化再興の原動力として英国にそれを期待するのはすでに時代錯誤であったのではないか。もはや、世界の主導権は英国の手から滑り落ちていた。
高柳俊一は『T.S.エリオットの比較文学研究』の中でこうのべている。エリオットは、内にアメリカ生まれの知識人の不安定さを抱えながら、一方で現実には存在しない理念としての英国の文化伝統の理想を掲げて、自らそれと同一化していった。しかし、他方では、現実の英国が島国的で、ヨーロッパ大陸の伝統から切り離されていることを嘆いていた。このことは、彼自身の心的な不安定さを克服しようとする内的な圧力と理念と現実との複雑な絡みあいを考え併せて、初めて理解できることだという。そこには、文化の理想として西欧文化をより普遍的なものにしようとする無意識の傾向すら認められるというのである。彼にとって英国とは聖杯城だったのかもしれないのである。
夜稿百話関連リンク
第62話 小川正廣 part1 『ホメロスの逆襲』
第62話 小川正廣 part2『ウェルギリウス研究』
第89話 クレチヤン・ド・トロワとアーサー王物語 part2『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』
第95話 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』

T.S.エリオット『四つの四重奏』
「バーント・ノートン」「イースト・コウカー」「ドライ・サルヴェィジズ」「リトル・ギディング」という副題のもと四部で、あたかも四つの楽章のように構成されている。
『荒地』が書かれた頃は、最初の妻である神経症を患うヴィヴィアンとの生活、銀行での務め、そして文筆活動という多重の軋轢の中で、心理的に消耗していった自分を聖杯物語の漁夫王という神話の登場人物にあてはめ、それを老人の体験という形で表現してきたと高柳俊一はいう (『T.S.エリオットの比較文学研究』) 。それからの歩みは『四つの四重奏』のうちの「イースト・コウカー」の中でこう纏められた。
こうして私は道のりの中ほどまで来た、二十年が過ぎ去って――
多くは無駄に過ごしてしまった二十年、二つの大戦に挟まれた歳月――
言葉をどう使うのか知ろうと努めて、
‥‥
(高柳俊一訳)
若さを取り戻したいという願望と再生への確信、老いへの絶望を乗り越えようとする試みが詩作であったというのである。若さも再生も死も生もが折り畳まれ、その一点の「時」の上でシヴァ神は踊る。相反するものの合一。エリオットは、第一部「バーント・ノートン」の中で深く美しく詠っている。このパートは緊密に結びついていて途中で切ることができないが、一部だけでもご紹介する。
‥‥
廻る世界の静止の点に。
肉体があるでもなく、ないでもなく、
出発点も方向もなく、その静止の点――そこにこそ舞踏がある、
だが、抑止も運動もない。それは固定とは言えない、そこで
過去と未来が一つに収斂するのだ。出発点もない方向もない運動、
上昇でも下降でもない。その一点が、その静止の点がもしなければ
舞踏など存在しないだろう。だが、現実には舞踏こそ唯一の存在。
そこにわたしたちはいたとは言えるけれど、どこかは言えない、
どれくらいの間なのかも言えない、それを時間の中に置くことになるから。
現実的欲望からの内的な自由、
行為と苦悩からの解放、しかも、まわりは
感覚の恩寵に、静止かつ動く光輝に、囲まれている。
‥‥
(岩崎宗治 訳)

『エリオット全集 第四巻』
エリオットには詩人としてだけではなく、文芸批評家としての顔がある。「ウィリアム・ブレイク」、「ダンテ」、「ボオドレエル」、「イエイツ」らの評論が収載されている。
『エドガー・アラン・ポーからヴァレリーへ』という文章が、八木敏雄編 アメリカ文学作家論選書『エドガー・アラン・ポー』に掲載されているので端折ってご紹介する。
その作品をつぶさに調べてみると、ずさんな書き物、広い読書や深い学識に支えられていない未熟な思考、また主として経済的必要に迫らてであろうが、完全性に欠けた、さまざまな種類の思いつきの実験しか見出せないように思えるが、これでは公平さを欠くだろうとして、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーというフランスの詩人たちへの影響を語っていく。ポーの影響は、英米では皆無であるのに対してフランスでは絶大だったというのである。ポーは例外的なほどに、詩の呪文的な要素である文字通りの意味の「韻文の魔術」に鋭敏であった。その効果が我々を深い感情の奥底で揺さぶるのだ。しかし、彼は正しい音を持つ言葉を選ぶのに慎重だったが、正しい意味を持つ言葉に関してはそうではなかった。ポーの生きいきした好奇心が選び取る事柄は前思春期の精神状態にある者が喜ぶようなそれである。欠けているのは知力ではなく人間全体としての成熟であるというのである。ここでは、逆にエリオット自身が目指そうとしているものが透けてみえる。ポーは落とされたり、持ち上げられたり色々なのだが、エリオットの批評が非常に知的だが冷たいとよく言われる理由は分かるような気がする。

T.S.エリオット『キャッツ』
是非、つけ加えておきたいのは、モノトーンだとか冷たいとかいわれるエリオットが、アンドルー・ロイド・ウェバーの台本で知られるミュージカル『キャツ』の原作を書いていることだ。子供たちのための詩の絵本だがとても楽しい。1939年の作品である。副題のオポッサムおじさんは、確かパウンドがエリオットにつけたあだ名だったと思う。意外な一面が有る方が世の中は面白い。ヴィヴィアンの亡くなった後、再婚したエリオットの晩年は幸福だったようだ。

ジュール・ラフォルグ (1860-1887)
『聖母なる月のまねび』
肺結核によって27歳で夭逝したフランスの詩人。生前出版されたのは『嘆きうた』、『聖母なる月のまねび』の二冊の詩集と小冊子『妖精会議』のみであった。この『聖母なる月のまねび』に出版されなかった『地球のすすり泣き』と晩年の『最後の詩』を加えたものが本書である。
彼は自分の心情を「喪の紫」と呼び、手紙にこう書いた。「僕は神秘主義的ペシミストです。‥‥人生はあまりに味気なくあまりに汚い。上出来の冗談は最も短いものだってことを思ってもみない歴史は雑色の古くさい悪夢です。惑星地球は完全に無用なんです (中江俊夫『解説―ジュール・ラフォルグって ? 』) 。神秘主義的ペシミスムの詩とはどのようなものか、『聖母なる月のまねび』から「月の風土、動物相と植物相」を一部ご紹介する。
おお処女受胎の月よ、
安っぽい青雲たちの寄生虫であるぼくは、
ぼくらのバビロンの家並みの冷気に、夜々、
お前の風土 植物相と動物相を思うのが好きだ。
僕の倦怠をお前にささげるのにはどうしたらいいのかわからない、
おおぼくらの夜々の孤独な埠頭の虚無の筏よ !
お前の大気は不動だ、そしてお前は夢みているのか ? 沈黙の風土の中に凍って、
人間は死んだとせいぜいさやくにすぎぬ風のせいで
どんな雲も眠りこめない 無気力な空を、
地下墳墓のこだまを生む場所よ。
真珠層の山々と象牙の湾たちは
神秘な聖体器の岩壁を入江に反射しあう、
そこでは、たくさんの杭のうえで、のんびりした様子で、
人魚たちが髪を編み、脇腹をなめている、
彼方の、水銀の間歇泉のあの陽気なイルカたちに
月の淫蕩を飽食させ 蒼ざめて。
そうだ、それは魔術のそして永遠の
温度計もない、いくつもの海と陸を香らせる秋、
‥‥
(伊吹武彦 他訳)
ラフォルグはカルタゴの月の女神に詩を捧げていたり、フランス詩の詩型を熟知しながらもそれを改変して自由詩に近いものにしている。こうした点がエリオットへ与えた影響として考え得るのかもしれない。

シェーシャの化身としてのパタンジャリ
シェーシャはガルーダと共にヴィシュヌの乗り物とされ、乳海にとぐろを巻いているか、ヴィシュヌの寝床として、多頭の蛇の姿で描かれる。

左からシェーシャ、ヴィシュヌ、ブラフマー、ラクシュミー、賢者マルカンデーヤ 18世紀ヴィシュヌ派の細密画

タンムーズ(ドムジィード)前2000-前1600
棺に横たわる神

アッティス Museum Barocco

リシュヤシュリンガ
ローマパーダ王の国に彼をおびき寄せるために派遣された美女たち。
聖仙ヴィバーンダカが苦行の後、湖で沐浴をしていると天界一の美女と謳われたアプサラス (水の精) のウルヴァーシーの姿を見て漏精し、その水を梵天の命(めい)で牝鹿に変身したウルヴァーシーが飲んで額に小さな角のあるリシュヤシュリンガを生んだ。ここまでは「一角仙人」の話に近い。ちなみに能にも『一角仙人』の演目がある。 彼は父のヴィバーンダカと二人だけで森の中で苦行に励み、若き婆羅門に育った。この話はマハーバーラタ 第二巻 森の巻「角のある聖仙の話」に収載されている。




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