第77話 サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』民族浄化のためのジグソーパズル

サラ・ロイ 『ホロコーストからガザへ』

サラ・ロイ 『ホロコーストからガザへ』

 オスロ合意から1年後、誰もがパレスチナの平和と安定を期待していた時期にサラ・ロイは、合意は欺瞞であり、イスラエル側の占領支配の強化が進められることを見抜いていたと言われる。今回の夜稿百話はイスラエルの領土拡大とともにパレスチナがどのように縮小され、人々が巧妙に生活基盤を奪われ、ガザが巨大な監獄へと化していったかを概観します。

 一度時系列でパレスチナの問題の歴史を概観したいと思っている。Ⅰ部とⅡ部に分けⅠ部は主にアラブ諸国とイスラエルとの確執の歴史的経緯を概観し、Ⅱ部からロイの
『ホロコーストからガザへ』を中心にガザにおけるパレスチナ人の生活基盤の変遷を見ていく予定です。


サラ・ロイ


 サラ・ロイは1955年に生まれたユダヤ系アメリカ人の政治経済学者である。両親ともにポーランド出身でナチスの強制収容所からの生存者であった。父親はポーランド中央部のヘルムノ絶滅収容所からの極めて少数の生存者のうちの一人であったし、母は、やはりポーランドのグロース・ローゼンとアウシュビッツからの生存者だった。

 アメリカのコネチカット州、ウェストハートフォードに生まれ、ハーバード大学に学び、国際開発を専門とする教育博士号を取得している。彼女はイスラエルの占領を痛烈に批判する研究者と知られている。ユダヤ人であり、ホロコーストをよく知りながら、イスラエルのパレスチナ占領を批判する学者というレッテルを貼られた。しかし、彼女は、ガザ占領の総体を分析した最も信頼のある研究書を発表し、『ガザ回廊――反開発の政治経済学』は高い評価を受けている。研究を始めたころは満足な統計データさえなかった中から研究調査を開始して、占領地の実体、イスラエル側の占領政策の意図までも分析していたのである。


イスラエル支配の時系列


Ⅰ イスラエルとアラブ諸国との確執の時代

● 1930年代パレスチナ人(アラブ人)の人口は120万人、ユダヤ人は60万人で約三分の一の人口しかいなかった。ユダヤ人の購入した土地は全体のわずか6%といわれる (岡真理『ガザとは何か』) 。ヨーロッパで難民化した再定住化の決まらないユダヤ人は1947年にはまだ16万にいたと言われる (野村真理『ホロコースト後のユダヤ人』)。1947年の国連決議によるパレスチナ分割案ではパレスチナの半分以上がユダヤ人に与えられると言う不可解なものだった。これに対してアラブ諸国の反発は必至だった。



1937年のパレスチナ区分 パレスチナ人地区(黄緑色)
1947年のパレスチナ区分 ユダヤ人入植地 (緑色)
1947年の国連決議による分割案 オレンジがパレスチナ人地区、青色がユダヤ人地区、白色がエルサレム







● 1948年第一次中東戦争勃発。イスラエルの独立宣言に対してアラブ側が反発しシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの連合軍とイスラエルとの戦いとなる。この戦闘中にイスラエル軍によってパレスチナ人に対して民族浄化が行われ、ナクバ (大災厄) として記憶される。翌年の停戦により国連分割案より広い地域をイスラエルは領有化し、これが現在国際的に認知されているイスラエル領土となり、その境界線がグリーンラインと呼ばれている。同時に西岸地区をヨルダンが、ガザ地区をエジプトが支配する。 ガザのエジプト統治期 (1948-67) は狭いガザ地区の範囲が確定されるにもかかわらず、大量のパレスチナ難民が流入する。


1949年の停戦によるイスラエル領土(肌色)
ガザはエジプトが支配、西岸はヨルダンが支配する。
点線がグリーンライン

● 1956年第二次中東戦争が始まる。エジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化に反発したイギリス・フランスがイスラエルを巻き込んでのスエズ侵攻となる。戦いには負けたがエジプトはスエズ運河を手に入れる。エジプトはこの間、ガザを切り離したままでもっぱらUNRWA (国連パレスチナ難民救済事業機関) がサポートしていたため経済発展は進まなかった。

● 1964年、パレスチナ解放機構PLOが発足し過激派のファタハなどによる対イスラエルへのゲリラ活動が始まる。後にアラファトが代表者になるとイスラエル敵視条項の修正と共に徹底抗戦の姿勢が改められるようになるのだが。次に起こる第三次中東戦争までの間、エジプトはパレスチナ人を自国に受け入れることを拒絶していたためにガザは土地の狭さ、資源の乏しさによって経済発展する術はなかった。

●  1967年の第三次中東戦争 (イスラエルとエジプト・シリア・ヨルダン連合軍との戦争) が勃発。ヨルダン川の水利用を巡るシリアとイスラエルの衝突が懸念されるとエジプトはイスラエルの紅海への玄関口であるアカバ湾を封鎖し、窮地のイスラエルはエジプトを急襲して6日間で勝利した。これによってエジプト領のシナイ半島、シリア領のゴラン高原、ヨルダンの支配していた西岸、東エルサレムを占領し、その領土を4倍に増加させた。同時にパレスチナ難民100万人が生まれ、ほとんどがヨルダンに逃れた。


アカバとアカバ湾
第三次中東戦争 エルサレム市街 神殿の丘入り口に向かうイスラエル軍

第三次中東戦争 エルサレム市街 
神殿の丘入り口に向かうイスラエル軍

スエズの混乱は国際問題であった。国連の停戦決議をイスラエルとエジプトは受け入れ、同時に安保決議242が採択され、占領地からのイスラエル軍の撤退、安全な国境での脅威や力の行使からの自由と平和、非武装地帯の設置が謳われたが、占領地の返還とイスラエルの承認とがセットになっていたがイスラエル側は返還を渋り、シナイ半島、ヨルダン川西岸が返還されたのは第四次中東戦争後であり、その時点でもゴラン高原と東エルサレムは返還されなかった。


第三次中東戦争後
ガザと西岸を含むイスラエル占領地 (淡緑色)
イスラエル領 (濃緑色)


● 1973年、第四次中東戦争の勃発。占領地の非武装化を条件にして占領地の返還に応じないイスラエルに対してエジプトとシリアを中心にしたアラブ諸国は苛立ち、戦争が開始される。特にエジプトはソ連のテコ入れで軍事力を強化し戦争初期はイスラエル軍を圧倒しさえした。戦争の終盤にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がアメリカなどのイスラエル支援国に対する石油輸出禁止、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定し、いわゆるオイルショックが起こった。アラブ側の敗戦だったが、国連安保理の停戦決議がなされ、順次、停戦が受け入れられた。

● 1976年、土地の日。ガリラヤの土地をイスラエルが国家の目的で没収するがその内約6平方キロがアラブ人の所有であったためこれに対してパレスチナの町はゼネストを決行し、ガリラヤからネゲブまで行進するがイスラエルの軍と警察が非武装の女性を含むアラブ人6人を殺害し100人以上が負傷する事件が起こる。パレスチナ人がイスラエルに対して組織的な行動を起した最初の事件であった。

● 1978年キャンプ・デービッド合意。カーター合衆国大統領はエジプトとイスラエルの関係悪化を解消するためにメーリ―ランド州にある大統領山荘であるキャンプ・デービッドに
サダト・エジプト大統領ベギン・イスラエル首相を招いて両者を調停し、翌年に両国間の平和条約が結ばれ、シナイ半島はエジプトに返還されたがパレスチナ自治についての協議は進まなかった。サダト大統領は3年後の1981年、エジプトのイスラム聖戦のメンバーによって殺害される。


キャンプ・デービッドの会談 左からサダト・エジプト大統領、
カーター合衆国大統領、ベギン・イスラエル首相


Ⅱ イスラエルとパレスチナとの確執の時代

● 1987年から第一次インティファーダ (民衆蜂起) が始まり、1991-92年の湾岸戦争を受けて大きな広がりを見せる。石油の利権が絡めば国際社会が一致して解決に乗り出す姿勢は国連決議が一向に履行されないパレスチナの現状に人々は失望と怒りを募らせたのである。これに対してイスラエル側は武力による鎮圧だけでなく、封鎖、外出禁止令、磁気登録IDカードの導入などによって占領地域の経済生活の破壊を意図し始める。当時の国防相イハック・ラビンは「石を投げる者の手足を折れ」という言葉を残した。この頃、ガザではスンナ派のイスラム主義組織ムスリム同胞団からイスラーム抵抗組織ハマースが組織された。

● 1991-92年の湾岸戦争。イランでは1979年のシーア派のイスラム革命が起こりスンナ派のイラクとの対立が激化し1980年から88年まで、歴史的因縁といわれるイラン・イラク戦争が起きていた。レバノン内戦とシーア派の過激集団ヒズボラの介入、アメリカのイランとの武器の裏取引に関わるイラン・ゲート事件と言ったグチャグチャな紆余曲折を経ての末停戦。

1900年にはイスラエルに敵対するイラクがクウェートに侵攻、イスラエルにもミサイル攻撃を行った。イラクはクウェートに多額の借金があった上にクウェートを含むアラブ首長国連邦の石油の過剰生産がイラク原油の価格低下を招いたと考えた。これに対して石油危機に対する懸念もあり、アメリカはイスラエルに自重を求めると同時にアメリカ主導の多国籍軍が結成され、結果は皆さんご存知の通りだった。戦後、対イスラエル和平交渉を進めるための中東和平会議がアメリカ主導で開催されたがPLOはパレスチナ代表としての参加が認められなかった。ジョー・サッコがパレスチナを訪れたのはこの時期である。

〇 1993年から2000年までの「オスロ時代」

● 1993年3月ガザ、西岸地区ともに封鎖され半年以上続いた。労働許可の全面停止となり、UNRWAの支援活動に全面的に頼ることとなる。これはオスロ合意への地ならしであったとロイは言う。パレスチナは第三次中東戦争の1967年からこの1993年までイスラエル経済に深く依存していた経済活動は全面封鎖によって低迷せざるを得なかった。1993年から2000年までの「オスロ時代」において国連の調べで国民所得の36%が減少した。失業と貧困が拡大し、労働市場や商品市場への連携も希薄になっていった。

● 同年8月オスロ合意によってイスラエルを国家として、PLOをパレスチナ暫定政府として互いに承認すると共にイスラエルの占領地からの暫定的撤退と5年間にわたるパレスチナ自治政府の自治が認められた。しかし、9月のイスラエルとPLOとのガザ・ジェリコ協定はパレスチナへの土地の返還ではなく共有が定められパレスチナの経済制度や将来的な国家につながる芽は摘まれている。

オスロ合意におけるイスラエルのラビン首相、クリントン米大統領、PLOアラファト議長

オスロ合意におけるイスラエルのラビン首相、
クリントン米大統領、PLOアラファト議長

● 1995年のオスロⅡで行政権と治安権が共にパレスチナ側にあるA地区と行政権のみのB地区、一方、どちらもイスラエル側にあるC地区という区分が布かれたが、2000年までには、イスラエル側が治安権を持つB・C地区の合計が83%にまで達した。パレスチナ側の地区は飛び地のように分断され、イスラエルの入植地、彼らのためのバイパス道路網、軍事基地、軍事検問所によってパレスナ人の都市の周囲は囲い込まれた。C地区での建設、井戸の掘削、道路施設はイスラエルの許可を必要とされた。

パレスチナ管轄地とイスラエル統治地域

パレスチナ管轄地 (A・B地区) と
イスラエル統治地域 (C地区)

オスロ合意についてロイはこのように書いている。「オスロ和平のように尊厳を否定した和平が秩序をもたらすことはない。継続する不正義が安定をもたらすこともない。悲劇的なことに、ガザ地区と西岸地区には、その両方が蔓延しているのだ (『ガザ回廊ー反開発の政治経済学』早尾貴紀 訳)。」

〇 2000年以降

● 2000年から第二次インティファーダ (民衆蜂起) が勃発し、第一次の時のデモやストライキ、投石といった抵抗だけでなく自爆攻撃、銃撃、ロケット弾攻撃も起こるようになる。イスラエルのパレスチナ強硬派の政治家アリエル・シャロンによる神殿の丘訪問という挑発が原因だった。


パレスチナの自爆攻撃を受けたネタニヤのパークホテル
30人が死亡、140人が負傷した。

 第二次インティファーダ以降、パレスチナ、とりわけガザ地区へのイスラエルによる破壊は、家屋、学校、道路、工場、病院、モスク、農業施設、畑、樹木に及び、検問所、鉄柵、土塁などのロードブロックによって、住民は教育、医療、移動の機会を奪われる異常な状態が加速していったが、それらは既に1993年から7年間も続いていたとロイはいう。それはガザの貧困の元凶であり、「世界最大の屋外監獄」への道だった。

● 2005年、当時のシャロン首相によってイスラエル入植者のガザ撤退と西岸への移住が実施され、ガザはパレスチナ人のみの状態になる。ロイはこの時点でガザ地区への五つの懸念を挙げていたのでご紹介する。
・イスラエルによる陸海空の境界の支配と全面的な治安管理。
・イスラエルでの労働許可の削減と貿易の管理。
・西岸地区の隔離壁 (国際法違反) の増加と土地の細分化。
・電気、水道、ガス、通信のイスラエル支配。
・パレスチナ指導者の不在と自治政府の弱体化による無法状態と貧困。

● 2006年、 ハマース律法評議会選挙に勝利。イスラエルとアメリカによるハマース政権の不承認。第一次中東戦争後の境界線=グリーンラインに沿う形での二国家分立をハマースもPLO主流のファタハも支持していた。しかし、イスラエルは東エルサレムから撤退する気は全くなかった。

● 2007年、ハマースによるガザ掌握と西岸のファタハとの連立政権樹立。アメリカ、EU諸国による軍事化支援を受けたファタハとハマースとのガザ内戦でのハマースの勝利。カザへの懲罰としての完全封鎖 (国際法違反) 。これにより、やがて、カザの雇用の54%を占めていた民間セクターの生産は止まり、輸出が唯一許されていたイスラエルへのそれも止まる。これにより10万人が失職 (内、4万人が農業、3万五千人が工業労働者)、パレスチナの全金融業に占めるガザの割合は40%から7%へと下落することになる。

● 2008年11月のイスラエルのガザへの包囲攻撃 (鋳られた鉛作戦) によってハマース双方との攻撃は激しいものとなった。イスラエル政府は、ガザに繋がる道路を全面封鎖し、食料・医薬品・燃料・水道設備や公衆衛生設備の備品・肥料・ビニールシート・電話・紙類などの搬入を完全に、あるいは部分的に制限した。ガザの食料、銀行、燃料、水道設備や公衆衛生設備の部品、肥料、電話、紙類などまでもが全面、又は部分的に搬入禁止となった。

 国連パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA) がガザ地区の75万人への食糧を配給するための食料を搬入するトラックは毎日15台分が必要とされた。しかし、11月5日から30日の間にガザ地区に入ることが出来たトラックはわずかに12台で必要量の11%だった。ハマースが政権を執る前の2005年には一日平均564台がガザに入っていた。国連世界食糧計画 (WFP) の食料搬入も似たようなもので、送れなかった食料については倉庫代を支払わなければならず、それはイスラエルの企業の懐に入った。パン製造所にはパン焼き窯のガスが無く、養鶏場のブロイラーの雛の羽化させるための燃料もなく、ガザ地区の人々の70%の蛋白源となる鶏肉は市場から完全に消えることになる。

 燃料の制約によって発電所は度々、停止し、そうでなくても一日4時間から12時間程度の停電となる。ガザは近代都市であり、停電していては都市の機能はままならない。病院はエジプトからのトンネル経由で密輸されるディーゼル燃料に頼っているとみられている。しかし、2013年にエジプトのムスリム同胞団のムルシー政権はクーデターによって倒され、エジプトはムスリム同胞団を母体とするハマースを嫌いガザ地区との密輸トンネルを塞いでしまう。

● 2012年 (反響作戦・防衛の柱作戦)・2014年 (ガザ侵攻)
2011にパレスチナ武装勢力による度々の越境攻撃の報復としてイスラエル軍は反響作戦としてガザの空爆を行った後、防衛の柱作戦によってハマースの幹部が殺害され、パレスチナ人158名が死亡している (パレスチナ人権センター調べ)

● 2018年~2019年 カザでの「帰還大行進」がイスラエル国境近くで始まる。 1948年のナクバと1976年の土地の日を記念し、強制退去させられた土地へのパレスチナ人の帰還を訴えた。毎週金曜日に開催され翌年まで続く。概ね平穏な抗議活動だったが、一部が投石や火炎瓶の投擲などを行ったためイスラエル軍が催涙弾と実弾を発射する過剰な反応を起こした。約2年の間に223人が死亡し、多くの負傷者をだし、国連総会や多くの人権団体から非難をあびることになる。

● 2023年 パレスチナ・イスラエル戦争勃発。ハマースのイスラエル国内への奇襲作戦 (1139人の死傷者)と人質として240人の拉致が行われ、これによってイスラエルとの戦闘が開始された。


2008年~2023年までのパレスチナ紛争による
イスラエル人 (青) とパレスチナ人 (オレンジ) の死者数。

(国連人道問題調整事務所より)

● 2024年にはガザの人道危機が、かなり認知されるようになりアメリカでもいくつかの大学で抗議活動が展開されるようにもなった。イスラエル首相を含む高官やハマース幹部にも国際刑事裁判所から訴追が行われ、泥沼のイスラエル・パレスチナ問題は一層混迷を深めていった。今年 (2025年)、一旦は停戦となったが、トランプ政権の調停は明らかにイスラエル寄りであり、ハマースも簡単には応じないだろう。イスラエルは民俗浄化のジグソーパズルがもうすぐ完成すると考えているのだろうか。


わたしはある日、鳥となって‥‥



サラ・ロイ『なぜガザなのか』

 サラ・ロイは『なぜガザなのか』の中で、ガザの人々に対する更なる懸念を述べる。2019年時点で、ハマースに対する信頼は既に失墜しており、過去に例をみない失業率、とりわけ若者 (15歳-29歳) のそれが70%を超えた。学校からのドロップアウトと児童労働が増加しホームレス化も広がる。ガザの人口の四分の三が30歳以下でありガザを離れることは禁じられている。人々は叫ぶ「我々は生きたい」と。諦観が蔓延し始め国外脱出産業が生まれた。「僕に残された唯一の夢は、とにかくガザを離れること」と或る若者は言う。ガザにもし、地下鉄が出来るなら、エジプトまでつながっていてほしい。いまや帰還ではなく脱出と言う事態にまで至っている。

 パレスチナ出身の詩人マフムード・ダルウィーシュは、こう詠う。

わたしはある日、なりたいものになる。
わたしはある日、いかなる剣も書物も
荒野へと携えていけぬ思考となる。
草の刃に断ち割られる山に降る雨のような
勝利も、力も逃げまどう正義もない !

わたしはある日、なりたいものになる。

わたしはある日、鳥となって、自分の無から存在を引っ掴む。

(『ダルウィーシュ詩集』四方田犬彦 訳者解説より)


不可能なる合一


 ロイは「ホロコーストからパレスチナへ――イスラエル問題へ」の章の中で二つの詩を紹介している。一つはエドワード・W・サイードが愛したT.S.エリオットの詩、もう一つは、さきほどのマフムード・ダルウィーシュの詩である。

ここに、存在の諸々の領域

不可能なる合一が現実のものとなり、
ここに未来と過去が
克服され、和解する。


(T.S.エリオット『四つの四重奏』岩崎宗治 訳)

不可能なる合一が、きっとオルタナティブなヴィジョンを生み出してくれる。あらゆる状況に、どれほど強力に支配されようと、別の道を考え、現在が凍結したものだと思わないこと。そうロイはサイードの言葉を紹介する。そして、ダルウィーシュのサイードへの追悼の詩が紹介されている。詩の美学がバランスの中で成立するように「抑圧する者とされる者」という対立する不可能なものが、それらに代わるものを生み出そうとする。

彼はこうも言った、私がきみより先に死んだとしても、
私の遺言は実行不可能なものだ、と。
私は尋ねた、どの程度不可能なのか、と。
彼は応えた、一世代ぐらいは下らないと。
私は尋ねた、では、私の方が先に死んだら?
彼はこう言った、弔辞をガリラヤの山に捧げよう、
そしてそれにはこう書こう、「美学は均衡に達することになっている」。
だけれども忘れないでくれ、もし私が先に死んだとしても、私の遺言は不可能だ。


(マフムード・ダルウィーシュ『対位法的な読み方』岡真理・小田切拓 訳)

この「不可能なる合一」という人文主義理念が自分の仕事に大きな影響を与えてきたとロイは述べる。パレスチナ・イスラエル紛争での自分の体験とユダヤ教への理解との交叉、そしてホロコーストの生き残りの子供としての自分の役割とホロコーストそのものとの交叉において。




夜稿百話
サラ・ロイの著作

サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』

本書はサラ・ロイ氏の『ガザ回廊――反開発の政治経済学』(邦訳『ホロコーストからガザへ』) の増補第三版の訳と解説にあたる。2016年に出版されている。2019年には『受け入れがたい非在――カザの例外主義に対抗する一考察』が執筆され本書に加えられた。


関連図書

エドワード・W・サイード 『オスロからイラクへ 戦争とプロパガンダ 2000-2003』

エドワード・W・サイード 『オスロからイラクへ 戦争とプロパガンダ 2000-2003』

第52話 エドワード・W・サイード『オスロからイラクへ』ナクバは続いているに紹介しておいた。



エドワード・W・サイード 『イスラム報道』

サイード三部作の一つ。イスラム報道の問題点から浮かび上がる報道そのものへの批判が展開される。一部ご紹介する。

アメリカのマスコミが行う海外報道は、それぞれの国に対して強調点が異なる。それらの異なる点の共通の中心、つまりコンセンサスを解明し、具体化しようとすることに自覚的だと言う。しかし、結局彼らは「アメリカ」さらに「西洋」といった共同のアイデンティティに奉仕し、それを増大させる団体である。みんな、その中心に同一のコンセンサスをいだいているという。それは良く言えば文化の所産と言える。アメリカは対立する多数のサブカルチャーからなる複雑な社会であり、特異なアメリカ人意識やアイデンティティや役割などを表現する美辞麗句によって標準化された共通文化を築く必要があった。それが「星条旗の旗のもと」だったのである。
コンセンサスはそれ以上踏み超える必要のない境界線を形づくる。アメリカの軍事力を悪意をもって使うとかはコンセンサスになり得ないが、アメリカ人は悪者やヤクザ者から土地を奪いとる開拓者的な新たな精神を具体化している海外の社会や文化と一体化する傾向がある。例えばイスラエルである。ところが彼らは伝統文化、特に革命的再生のさなかにある伝統文化さえ信頼せず関心をもとうとしないと言うのである。





エドワード・W・サイード 『収奪のポリティックス』

エドワード・W・サイード 『収奪のポリティックス』

言語学者のノーム・チョムスキーへの言及があるので第31章 チョムスキーとパレスチナ問題 (1975年) よりご紹介しておく。

ノーム・チョムスキー (1949-2008)

ノーム・チョムスキーは政治哲学や硬派な時事問題の分析にまで手を広げ、それを強力な道徳的権威のもとに行うと言う。猛烈かつ容赦ない批判と共にイスラエルへの嫌悪を隠さない。パレスチナ人は、彼をある種の有名人として、あるいは誤解して自分たちを支持してくれる人物だと見ているという。彼のまやかしの見解に対する批判は、大学の内外、政策とやらを立案する「裏舞台」や表舞台で、不正な詐術に熱を上げ、道徳や人としての良識や理性までも踏みにじる知識集団に対するものだ。彼によれば、政治や精神状態、芸術や科学での「ある状況」が、いとも簡単に正統に変わるという。正統は「現実的である」、「実際的である」、「責任がある」などの自己確認で身を固める。知識人たちは、それらに囚われて、その価値観を疑問視したり彼らの特権を脅かすことを止める。純粋なアラブ人の立場には、純粋なユダヤ人の立場に劣らぬほどの利己的なナショナリズムに基づく状況的な理由があり、そうした理由がチョムスキーの批判の対象になると言う。彼が真に関心を持っているのはアメリカにおけるユダヤ人のイスラエル崇拝だと言う。そしてリベラル左翼に対する批判も鋭い。
チョムスキーの『中東に平和はあるか』はニューヨーク・タイムズとニュー・リパブリックの記者から批判されたが、サイードは盲目的な自民族中心主義に煽られた熱狂的な怒りを湧き上がらせた記事だと言う。チョムスキーはホロコースト抜きでユダヤ人問題を扱い道徳的で合理的な発言を行うのである。彼は、ひとたび自由主義の根幹が国家利益に売り渡されると、民主主義も、ナショナリズムの争いに対する真の解決も失われ、国家や帝国主義と国際的な帝国主義同盟への抵抗以外に、真の政治闘争も無くなってしまうと考えている。
サイードは、この『中東に平和はあるか』から合衆国に実質的な対中東政策の無さへと切り込んでいく。西洋や合衆国における学界の「オリエンタリズム」は非難すべきものであり、民族としてのアラブ人を支える学問がない。そして、アラブには反オリエンタリズムの伝統もない。こうして、実質的な対中東政策の無さが、中東の根本問題であるパレスチナとアラブ・パレスチナ人の問題に取り組む無能力につながると指摘するのである。一方で、サイードは中東情勢はチョムスキーが想定しているより、はるかに複雑で予測しがたいという。例えば、1924年頃から台頭したパレスチナ共産党からPLOに至るまでチョムスキーの支持する二国民併存主義は引き継がれていたという。ともあれ、チョムスキーの勇気や洞察は優れたものであり、彼の問題への取り組みは主に道徳的・知的な観点に沿うものだった。その主張の見返りに得るものは罵倒と孤独でしかないのである。彼は人間性を学識で強化し不屈の情熱で耳障りな真実とほとんど誰も知らぬ事実を暴き出している。『中東に平和はあるか』は、そうした情報の宝庫であると言う。



岡真理 『ガザとは何か』

本書は主に早稲田大学での岡真理さんの「緊急学習会 ガザとはなにか」の書籍化である。YouTubeに動画がUpされているのでURLを添付しておく。
https://youtu.be/8TtXbIi446I?si=VAmbL7Fvi738ikL0




マフムート・ダルヴィーシュ (1941-2008)『パレスチナ詩集』

マフムード・ダルヴィーシュ (1941-2008)『パレスチナ詩集』

四方田犬彦さんの訳者解説からダルウィーシュの詩を一つ抜粋でご紹介する。

地がわれわれを圧迫して、とうとう最後の路地にまで追い詰めてゆく。
われわれはなんとか通り抜けようと、自分の手や足まで捥 (も) ぎ取ったというのに
地はわれわれを締め付ける。小麦だったら死んでもまた生れることができるだろうが
‥‥
魂の最後の戦いのとき、われらの中で最後に生き残った者が殺そうとしている者の顔を一瞥する。
われらは殺戮者の子供たちのお祝いパーティを想像し悲しむ。
われらは見た、この最後の場所に開く窓から、我らの子供たちを放り投げた者たちの顔を。

星がひとつ、われらの鏡を磨いてくれるだろう。
世界の果てに辿り着いたとき、われらはどこへ行けばよいのか。
最後の空が終わったとき、鳥はどこで飛べばよいのか。
最後の息を吐き終えたとき、草花はどこで眠りに就けばよいのか。
‥‥
ここで死ぬのだ。この最後の路地で死ぬのだ。
やがてここかしこで、我らの血からオリーブの樹が生えてくることだろう。

(『地がわれらを圧迫して』四方田犬彦 訳)

彼の詩はパレスチナの現状を知れば知るほど感銘深いものとなる。


岡真理『ガザに地下鉄が走る日』

岡真理『ガザに地下鉄が走る日』

現代アラブ文学の研究者である岡真理さんの著作。月間「みすず」に連載されたもが加筆修正され出版された。パレスチナを中心にその周辺国での出来事、体験が述べられる。『アラブ、祈りとしての文学』に続く著作。その最終章「ガザに地下鉄が走る日」は、ガザの若者の旺盛な想像力やファンタジーが紹介され少し和むけれど、それも籠の鳥の若者たちの切実な願いでもあった。




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