第65話『リルケ詩集』死すべき人間に、知りうることは少い



葉が落ちる、遠くからのように落ちる、
大空の遠い園が枯れるように
物を否定する身振で落ちる。


さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥 (せきりょう) へ落ちる

我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他を御覧。すべてに落下がある。


しかし一人ゐる、この落下を
限りなくやさしく両手で支へる者が。


(茅野蕭々 訳)

Herbst

Die Blätter fallen, fallen wie von weit,
als welkten in den Himmeln ferne Gärten;
sie fallen mit verneinender Gebärde.

Und in den Nächten fällt die schwere Erde
aus allen Sternen in die Einsamkeit.

Wir alle fallen. Diese Hand da fällt.
Und sieh dir andre an: es ist in allen.

Und doch ist Einer, welcher dieses Fallen
unendlich sanft in seinen Händen hält.


Rainer Maria Rilke

ライナー・マリア・リルケ 1913

ライナー・マリア・リルケ
(1875-1926) 1913

 ドイツ語圏で最も権威ある文学賞であるゲオルグ・ビューヒナー賞を受賞したドイツの詩人ドゥルス・グリューンバイン(1962-)は、ドイツではリルケの名が出ると、いじめ浸みたシタリ顔や女性蔑視の悪意をまぜ合わせたような空気が生まれる。彼の詩は海外においての方が遥かに受容されていて、その詩のねっとり感はドイツ人以外の人々には限りない魅力であると言うのである。彼の詩の特徴は対象への密着性にあり、バレエをよく見る人なら感じたことがあるだろう観客が演技者の跳躍と共に自分も同時に跳ねているような感じを持ってしまうことを言う(神品芳夫『リルケ 現代の吟遊詩人』)。跳躍する対象を主体が同一化してしまうのである。

 今回の夜稿百話は、前回のゲオルク・トラークルに続いて中欧出身の詩人ライナー・マリア・リルケをご紹介します。ヘルダーリンに並ぶ偉大な詩人、ロダンやセザンヌに影響を受け独特の形象観が特殊な静けさの時間を招来させる。彼もまた、ハイデッガーの愛した詩人でした。


リルケの前半生


 リルケは1875年オーストリア・ハンガリー帝国の主要都市の一つであるプラハに生まれた。当時支配層だったドイツ系住民の家庭で生まれ、母語はドイツ語だった。ユダヤ系の母は先に生まれて直ぐに亡くなった女の子の代わりとして彼を5歳まで育てたが、小学校を終えると軍人上がりの父はオーストリアの軍人学校へ入学させた。やがて結婚生活を破綻させるチグハグな両親に育てられたのである。


幼少期のリルケ 1879

 大学では法学部に所属していたが文学熱が高まり1896年にはミュンヘンへ移った。ミュンヘン大学で美術史の講義を受けながら文壇への道を模索する。そこでは、アール・ヌーヴォーの花が開き始め、ゲオルゲの詩人グループ、表現主義演劇の先駆フランク・ヴェーデキント、そしてミュンヘン分離派の画家フランツ・フォン・シュトゥックらがいて活況を呈していた。やがて、ニーチェを振り回したインテリでデモーニッシュな魅力のルー・ザロメと出合い、二人でロシア旅行するほどの仲になる。ザロメ36歳人妻だった。


ルー・アンドレアス・ザロメ (1861-1937)

リルケとザロメの記念パネル オリワ公園 グダニスク

 互いに真実の愛と思っていたのか相思相愛の間柄は詩にこう詠われる。

‥‥
ぼくはあなたについて行く。あなたの心がぼくを
どこへ連れてゆくのか、ぼくは尋ねない。あなたに従い、
あらゆる花のように、あなたの衣装の裾に触る。
‥‥
(神品芳夫 訳)

 ベルリンではザロメ夫婦の近くに住み、詩集『わがための祝いに』と詩劇『白衣の侯爵夫人』を発表、前者は詩集として刊行され一つの成果を得た。二度目のロシア旅行の前後に『時禱詩集』の一部となる『祈り』、『旗手クリストフ・リルケの愛と死の唄』などの着想を得た。彼女は文壇への道を進むための指南役を果たしたが、リルケが画家のハインリッヒ・フォゲラー (1872-1942) から北ドイツのヴォルプスヴェーデにある芸術村へ誘われたのを機に彼との交際をしばらく断つことになる。蜜月は潮時だったのだ。リルケはここヴォルプスヴェーデで知り合った彫刻家のクララ・ヴェストホフと結婚することになる。


ロダンの仕事


 リルケは結婚後まもなく実家からの援助が打ち切られ、生活のためにとりあえずロダン論の執筆を引き受けた。1902年、パリに出てソルボンヌの裏につましい部屋を借り、フランス語漬けになりながら、ロダンの仕事ぶりをつぶさに見、話しを聞き取った。彼のモットー「つねに仕事をしなければならない」が実行されるのを傍で見ながら「物」という言葉に眼が開かれてゆく。

彼は、『ロダン』の中でこのように述べている。ロダンは第一印象も第二印象も信じない。観察し、様々な運動や回転、半回転を記録し40もの要約、80もの特徴をノートに残す。彼はモデルの表情の中のあらゆる移り行きを知り、微笑がどこから来て、何処へ戻っていくかを知り、人々の顔を彼自身が参加している舞台のようにその真っ只中に立って体験する。そこで起こることはなに一つ重要でないものはなく彼の眼を逃れるものもないと。(リルケ『芸術と人生』)

 そして事物に関しては1903年にルー・ザロメ宛ての手紙にこう書いている。

「‥‥驚愕の感情の瞬間の経過から、夢の断片から、一つの予感のはじまりから、もう彼は事物を作って、それを自分の回りにおいたのでした。次から次に事物を。こうして彼の周りに一つの現実が生まれました。事物たちの広範で、静かな親族が生まれ、それが彼が他の、もっと古い事物たちに結びつけたので、しまいに彼自身、偉大な事物たちの一つの王家の出であるように思われてきたのでした。‥‥(『芸術と人生』ロダン  富士川英郎 訳) 」

 パリで当時、話題になっていたゴッホなど新たな芸術に耽溺していくのだが、このロダン体験やセザンヌ体験は彼が詩の中で事物や時間というものを考え得る上で大きなインパクトを与えることになる。それについては後述する。

 リルケのパリ時代は1902年から不遇なデンマーク人を主人公に自己を投影した作品である『マルテの手記』が完成する1910年までを一般に言うらしいが、彼にとってパリは重苦しく、不安な都市であり、「正体を失くしていて、軌道を外れた星のように何か恐ろしい衝突に向かって突進しているようです (『巴里の手紙』(神品芳夫 訳)) 」と書いている。『マルテの手記』の冒頭は、まさにそんな感じだ。


愛すべきものが作り上げる時間


 1889年と1900年のザロメとの二度のロシア旅行の後、キリスト教に批判的だったリルケの宗教観に変化がみられるようになる。神は「矛盾の森」となり自分は「神の見る夢」というふうに、より身近になる。一つの一つの事物の中に、ある種の親和性と神性を見出し始めていた。

 私が親しくつきあい、兄弟のように思っているこれらすべての物のなかにあなたを見つける。小さな物のなかではあなたは種子となって日を浴び、大きな物のなかではあなたも大きく身をゆだねる。(『祈り』神品芳人 訳)

 幼年時代の愛すべき事物が、年齢を重ねるにつれて蔑 (ないがし) ろにされていく。それが一人の孤独者の好意ある優しい手にかかると温もりの戻った小鳥のように身動きし目覚める。事物を美しいものとそうでないものを分けることは冷酷であり、事物はすべて一つの空間であり、自己はこれら従順な事物によって測られる。この可能性を満たせるか否かがリルケにとって重要であった。そして彼はこう述べる。

 「事物 (もの) 、私がこう言うと (聞こえるでしょうか) 一つの静寂が生まれます。事物 (もの)の回りにある静寂が。全ての運動が静止して輪郭となり、過去と未来の時から一つの永続するものが円を閉じます。それは空間です。どんな物にもかりたてられていない事物 (もの) の安静です。」 (
『事物につて』より「ロダン」1907年  富士川英郎 訳 ) 

この言葉は、僕にはセザンヌの作品を思い出させる。目の前にある表象ではなく実際の事物が過去の表象を呼び、未来の表象を呼び込む。


ポール・セザンヌ(1839-1906)『青い花瓶』

ベーダ・アレマン リルケの時間と形を語る


 パウル・ツェランの遺稿管理者だったことでも知られるベーダ・アレマンは『リルケ〈時間と形象〉』の中で時間の問題を扱ってこう述べている。リルケの作品から直接読み取れることは時間の充満について繰り返して詩の中で述べられているということ、未来と過去とは一つのもので、もはや分散することのない包括的な豊かさを示していることであるという。われわれの時間の背後には、より大いなる時間の圏域があり、過去に無駄に流れ去るものではなく、未来の全てを約束するものだと言う。この辺りはベルグソンの扇で象徴される時間論を彷彿とさせるものがあるが、「時の流れを圧搾してできた持続」と言うべきものは第九悲歌のこの詩句に特徴的にみられる。

見よ、私は生きている。何によってか ? 幼き日も未来も
減りはしない‥‥溢れる現在が
私のこころに湧き出てる。
(山本定祐 訳)

 魔術的空間感情というとノヴァーリスを思わせるけれど、リルケにも似た感情があるのではないか。彼の詩の中の時間は外部空間と内部空間とが密接に結合して異次元化する。彼の空間は決して静止してはいない。全ては動いている。外部空間を飛ぶ鳥は、内部空間を貫いて飛び、その飛翔の軌跡は彼の詩の基本的な定形の一つとなっているという。普通の人間のそれとは異なる結合。こんなふうな‥‥「伸びようとするわたしは/外を見る、すると私の内部で樹が伸びる」。それに、こんな詩の一節もある。

空間は我々内面から広がってゆき、事物 (もの) をみたす。一本の樹を存在させるためには、その樹のまわりに内部空間を投げかけよ、お前の中に在るあの空間から(山本定祐 訳)

この内部に対応する外部は
どこにあるのか。 このようなリンネルは
どんな痛みに当てられるのだろう。
その奥の、開いている
薔薇の内海には
どんな空が映っているのか。
‥‥
(『薔薇の内部』神品芳人 訳)

 バレエを観る時の外部の演技者と観客の内部とがシンクロして同時に跳躍する感覚、見るもが見られるものになる時の感覚なのかもしれない。このようにして移ろいゆくものは別の次元の本質を獲得するのである。それがリルケの「形象」だとアレマンは述べている。


ドゥイノの悲歌


 パリ時代も後半になると、リルケの人気は貴族層の婦人たちの間で急速に高まるが、その中でも重要な支援者がドゥイノの館の所有者マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯爵夫人だった。リルケを息子のように思っていた。


ドゥイノの館 フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア イタリア

 1911年の北アフリカへの旅行では古代エジプトに文明に触れた後、アドリア海に面したドゥイノの館に再び招待されたリルケに天啓が訪れる。館近くの海辺の岩場で悲歌の着想を得た。突然歌いだしが脳裏に浮かんだ。作家にはママあるらしいが、ミューズが歌ったのである。

ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が
はるか高みからそれを聞こうぞ ? よし天使の序列につらなるひとりが
不意にわたしを抱きしめることがあろうとも わたしはその
より烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は
怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、
嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを
とるに足らぬこととしているからだ。全ての天使はおそろしい。
‥‥
(『ドゥイノの悲歌』第一の悲歌 手塚富雄 訳)

 これが『ドゥイノの悲歌』のさわりである。ここに登場する天使はイスラムの天使たちに近かったらしい。北アフリカのイスラム圏への旅行の影響なんだろうか‥‥しかし、この詩の完成への道は遠かった。リルケはこの悲歌を完成させるための静かな環境を探し回ることになる。


創造の天使 イスラエル 15世紀
アル・カズヴィニ 画

第一次大戦とスイスへの移住


 1914年には第一次大戦がはじまる。リルケはミュンヘンに戻り、後方の文書係として兵役に就いたが、インゼル書店の店主であるキッペンベルク夫人らの努力で、1916年には免除となった。クララとの夫婦関係は、それ以前にすでに冷え込んでいて離婚の合意もあったが、カトリック教会を離れたつもりのはずが原簿に記載がないために離婚できなかった。それで、二人は事実上離婚状態となっていた。この時期にも女性画家や人妻たちとの交際があったらしい、恋愛なしに詩は書けなかったんだろうか。しかし、困ったときに助けになったのは常に女性たちだったし、困難な状況にある女性たちを助けてもいたのである。

 1919年、ドブルチェンスキー伯爵夫人の読書会への招きでスイスに渡ったリルケは戦後の混乱に揺れるミュンヘンよりもスイスの地が気に入ったようだ。この後、死に至るまでスイスでの生活が続いた。この地では画家のバルテュスの母親であったパラディ―ヌ・クロソウスカ (通称メルリーヌ) と再会し、やがてリルケのマネジャーとも言うべき存在になる実業家でミュゾットの館をリルケのために買い取ってくれた女性ナニー・ヴンダーリ=フォルカルトに出会う。


ミュゾットの館 1921-1926 ヴァレー地方 スイス

 1920年にはベルクの館、翌年にはミュゾットの館に孤独のうちに籠り、1922年に10年の歳月を経て畢生の大作『ドゥイノの悲歌』が完成する。この頃、彼はヴァレリーの詩『海辺の墓地』を翻訳していて、それは悲歌を完成させるための一つの契機となったと言われている。また、ミュンヘン時代に親しくしていたクノープの娘であるヴェーラが19歳で急死し、その悲報は『オルフェイスに寄せるソネット』へと結実していった。

‥‥
少女は世界を眠りに収めた。うたう神よ、
あなたは、彼女が目をさまそうと望まぬほどに
少女をみごとにつくったのだ。見よ。彼女は生まれて、そして眠った。

どこに彼女の死はあるのか。おお あなたは
あなたの歌が消えてしまわぬうちに、この主題をつくりだすだろうか。
わたしから離れて彼女はどこへ沈むのか。‥‥ほとんど少女のような‥‥
(『オルフェイスに寄せるソネット』二 神品芳夫 訳)

 この詩においても外部空間と内部空間とが密接に結合して異次元化しているように眠りとしての死と生とは密接に結合して分かちがたい。死と生は一つの芯を持っていた。1924年にはヴァレリーがリルケを尋ねている。翌年、パリに8ケ月に亘る滞在中にアンドレ・ジッド、ポール・クローデル、ヴァレリーらと再会し、俳諧と北斎の浮世絵に感化された。ロシアの詩人マリーナ・ツヴェターエワと文通し「わたしたちは歓呼して歌い始める」と高らかに綴ったが、体調はかなり悪化してきており、遺書を書くまでに至っていた。


ハイデッガーのリルケ


 ハイデッガーはヘルダーリンやトラークルの詩にぞっこんだったが、14歳年上のリルケの詩にも勝るとも劣らず執心したのはよく知られている。『存在と時間』が出版された後、リルケの『ドゥイノの悲歌』を知ることになるのだが、自分が諸著作で述べた思想をリルケは『マルテの手記』やその詩で表現していると述べたと言う (ハイデッガー『リルケ』)。『マルテの手記』のこのような箇所を中心とした部分がハイデッガーのいう「存在」との類似性を際立たせたという。

 ‥‥しかし、どうしても忘れることのできなかったのは、内壁そのものだ。この部屋の強靭な生活は、踏みにじられることもなく、そこに残っていた。それは残っていた釘にしがみついていた。それはまだ手幅ほどの床板の残片のうえたち、ほんのわずか室内を思わせる四隅の名残のしたに潜りこんでいた。生活は、それがゆっくりと一年また一年と、青黴の生えた緑に、緑を灰いろに、黄色を腐って変身した古ぼけた白に変えていった色のなかにあった。‥‥そうした調度の輪郭をかつてはなんども壁のうえにひき、いまはさらけだされたこうした陰の箇所にも、蜘蛛の巣や埃といっしょに生きていたのだ。‥‥
(『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』盲目の花キャベツ売り‥‥ 塚越 敏 訳)


加藤泰義『リルケとハイデッガー』

 加藤泰義さんは『リルケとハイデガー』の中で、上の文章の中で重要なのは「さらけだされ」剥き出しになった状態であると言う。心が外にむき出しになっている状態とは、カオティックな外界が整除された内面意識に還元されることなく意識の緩衝枠を破壊した状態である。それはホーマンスタールが『チャンドス卿の手紙』の中で外界が意識の壁を突き抜けて侵入する状態が自己の意識の崩壊を呼び起こし「存在の全体が一つの大きな統一体」と感じられたと述べていることに呼応する。「詩人の眼には瞼がなくなる」のである。

葉が落ちる、遠くからのように落ちる、
大空の遠い園が枯れるように
物を否定する身振で落ちる。

 葉は実存の底へと落ちてゆく。大空の遠い園は失われ、物という意識は破壊され、存在全体が落ちるのである。ここでは ロダンの親しげな静なる事物 (もの) は一挙に全体へと拡大されている。そして、落下を両手で支えるのは一体何者なのか ?



「死の悲歌」 第十悲歌


 1926年、彼の病状は悪化し、遂にジュネーヴ湖畔にあるヴァルモンの病院に入院することとなった。白血病と診断されている。ザロメに「苦しみは僕を殴り、僕の皮を剥ぐんだ。昼も夜も‥‥」と書き送っている。彼を看病し、その最後を見取ったのはミュゾットの館をリルケのために買い取ってくれたナニー・ヴンダーリ=フォルカルトだった。


はしばみの花序

‥‥
しかしかれら、無限の死に はいたりえた死者たちが、わたしたちの心に一つの譬喩を
 呼び起こそうとならば、
見よ、かれらはおそく、葉の落ちつくした はしばみの枝に芽生えた
垂れさがる花序をゆびさすであろう、あるいは
早春の黒い土に降りそそぐ雨にわれらの思いを誘おう。
そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる
ものたちは、ほとんど驚愕にちかい
感動をおぼえるであろう、
降りくだる幸福のあることを知るときに。

(『ドゥイノの悲歌』第十歌 手塚富雄 訳)


Aber erweckten sie uns, die unendlich Toten, ein Gleichnis,
siehe, sie zeigten vielleicht auf die Kätzchen der leeren
Hasel, die hängenden, oder
meinten den Regen, der fällt auf dunkles Erdreich im Frühjahr. –
Und wir, die an steigendes Glück
denken, empfänden die Rührung,
die uns beinah bestürzt,
wenn ein Glückliches fällt.

(Duineser Elegien 10)


 無限の死とは何か。何故、立ち昇る幸福なのか ?  それはハイデッガーの言う「存在の空け開け」によって「神のようなもの」に両手で支えられるからなのである。ヘルダーリンの以下の名句はリルケに一つの示唆を与えたのではないだろうか。

死すべき人間に、知りうることは少なく、
喜びは多く、あたえられたり


 何故、このように言いうるのか ?



夜稿百話
リルケ著作 一部

ライナー・マリア・リルケ 『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』塚越 敏 訳

本書はリルケの中期の傑作として名高い。1904年から1909年に亘って書かれた。71の手記から構成され、ある不遇なデンマーク人を主人公に、パリの現実に生きる自分を投影しながら、その没落に抗い、芸術家としての生を耐え忍び、とり残された状態のままその手記は終わる。彼の全く理解し得なかった人生が、それを乗り越えた先で生じてしまうのである。

塚越さんの解説によれば、執筆の長い中断の後、1907年のセザンヌ体験が契機となって執筆は再開された。セザンヌは恐るべき試練に耐え、芸術的直観によって「事物」の存在のリアルな在り様を表現し得た画家だった。彼は本来的に生きることの可能性を見出し自分自身の生を生きた。しかし、マルテは、その可能性への行為のために消耗し、行動を開始できない。洞察したことを実現できないために没落した。本書の中の放蕩息子の帰宅は現実世界について洞察を得たものを現実の世界にするために帰宅する物語だが、マルテは帰宅することが出来ない。しかし、マルテはその洞察を手記の中に残すのである。不安な状況の中で苦悩しながら生き抜いていく実存の場面とその苦悩に耐えた後に得た洞察による「存在者」の存在する世界が同時にこの作品の中では描かれているという。この両方を読者は読み解く必要があると述べている。

表紙の『一角獣と貴婦人』
15世紀 フランドル・タピストリー

本書『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』の中では、このタピストリーの描写がある。外部を対象としているのではなく内部に移し入れて直観として見ることのできる女性アベローネ。それゆえマルテが美しいと思う女性だった。その彼女が傍にいると想像してこのタピストリーの解説を行うのである。このように描かれている。「しかし、さらに祝祭がつづく。誰も招待されていない。期待などしなくていいのだ。すべてがそこにある。すべては永久にそこにある。」



ライナー・マリア・リルケ 『ドゥイノの悲歌』

1912年にドゥイノの館で天啓を得てから完成まで実に10年の歳月を費やして完成させた。その間は、第一次大戦と戦後の混乱を挟んでリルケにとっては暗い時代だった。二回目のドゥイノの館への訪問の時だった。リルケはすぐに返事を出す必要のある事務的な手紙を受け取っていた。そのことで頭をいっぱいにしたまま、館を出て60mもの岩が海中に沈みこんでいる海際の稜壁へ降りて行った。返事のことをあれこれ考えながら行きつ戻りつしていると嵐のざわめきの中にひとつの声が呼びかける。その声については本文に書いておいた。急いで肌身離さず持っていたノートにその声を書き残した。その夜のうちに第一悲歌、数日後に第二悲歌全編、第三・第十悲歌の冒頭が出来上がるが、その後その声は途絶え、悲歌は未完のまま長く残されることになる。その後、スペイン、パリ、ミュンヘン、スイスと居所を移しながら完成を見るのである。




『リルケ詩抄』茅野簫々 訳

リルケのまとまった詩集として最初に刊行されたのは1927 (昭和2) 年に茅野簫々 (ちの しょうしょう) 訳によるこの本だった。どうも中原中也には不人気だったようで、「蒼褪めた魅惑」とか「こ奴には血がないのだ」と述べていたらしい。訳者の茅野簫々 (1883-1946) は信州上諏訪の出身で諏訪中学から一高に入学、同級には中勘助、能楽者で英文学者となる野上豊一郎、医科には斎藤茂吉がいた。新詩社同人となると「明星」や「スバル」に短歌や詩を発表し始める。旧制三高を経て慶応大学教授となっている。リルケの訳詩は多々あるが簫々のものはある種の素朴さ直截さがある。本文にも一部ご紹介したけれど『薔薇の内部』の全詩をご紹介しておこう。

薔薇の内部

何処にこの内部に叶ふ
外部がある。どんな痛みを
人はかういふ麻布で蔽ふのか。
なんといふ天が此中に映ずるのだ。
これ等の開いた薔薇の、
憂いのない花の
内海に。見よ、
彼等がゆるやかの中に緩かに
横つてゐるさまを、慄へる手が
彼等を散りこぼすことも出来ぬやうに。
彼等は殆ど自分をも保てない。
多くの花は溢れさせ、
内部から流れ超え、
いよいよ充ちてゆく
日の中へこぼれ入る。
全き夏が一つの部屋になるまで、
夢の中の一つの部屋に。




『リルケ詩集』神品芳夫 ^編・訳

本書にはリルケが書いた『「セザンヌ書簡」より』が掲載されていて有り難い。端折ってご紹介する。

セザンヌは見ることによって得たものを確実に取り入れる操作と取り入れたものを消化し個性化へと向かう操作とを二つながらぶつけ合い意識化する。この二つの流れは同時に語りはじめ、互いに口を挟み、ひっきりなしに仲たがいする。それを老セザンヌは耐えながらアトリエや戸外を歩き回る、あるいは絶望してしゃがみこむ。若い頃からの知り合いだったゾラが書いた『制作』は、あまりに自分の画業とは、かけ離れていたためにゾラには背を向けてしまった。しかし、客がバルザックの創作した短編『知られざる傑作』の主人公の画家フレンホーファーのことを話すと、セザンヌは食事中にも拘わらず立ち上がった。その絵画には明確な輪郭などはなく、ただや移行する運動だけを表現するという新たな美術が進展しようとする方向を見事に予見していた。そのような達成不可能な課題に取り組みながら破滅していく画家の話だった。そしてセザンヌは声も出せないほど興奮して自分の指で何度もはっきりと自分を指さしたと言う。

ポール・セザンヌ『森への道』 1904




ライナー・マリア・リルケ『芸術と人生』 「彫刻/ロダン」、「事物につて」収載

幼年時代について書かれた手紙が収録されているのでご紹介しておく。幼年時とはいったい何なんだろう ? と自己への問いかけからこの文章は始まる。

「あの燃焼、あの驚愕、あの間断のない、それ以外ではありえないということ。あの甘美な、あの深い、あの輝かしい、涙がこみあげてくる感じ。あれは何だったんでしょうか ? (富士川英郎 訳) 」と。

ロダン論を書いていた頃読んだ聖アウグスティヌスの「あれはどこに行ったのだろう ? 」 という言葉が、どんなにか自分を貫いたことだろうか。幼年時代を生きていた時、私たちは完全にそれになり切っていて、その時代を知ってはいなかった。後に事物 (もの) は名前を以って現れてくる。その名前の閾 (いき) を超えることは許されない。用心深く名前を半ばカラにしておくか、あるいは事物から名前がぬけだしていく。それを人は運命と思い、洪水にあったように無意味な山の頂の上に逃れるのである。幼かった頃、完全な恐怖の内、完全な喜びの内に私たちは生きていた。それは私たちの心にとってあまりに豊か過ぎるものの中にあった。ここにはリルケの相反するものの合一する世界があった。



関連図書

神品芳夫『リルケ 現代の吟遊詩人』

本書はいくつかのエピソードに分けてリルケの生涯やその詩を紹介する著作でリルケを知るためにはとても良い本ではないかと思っている。本文の前半はこの著作を参考にさせていただいた。

訳者の神品さんによればノーベル平和賞を受賞した中国の詩人である劉暁波 (りゅう ぎょうは) はリルケの『秋の日』について獄中から愛する妻に宛てて一つの詩を書き送ったという。

リルケの「秋の日」は
僕が君に読んであげた最初の詩
読み終わったとき一本の針が
永遠に僕の血管に残った
それは時々鋭い一味を感じさせる

もし時間が経って
針先が鈍くなったら
僕はこの詩を探し出し
ふたたぴ針先をとがらせねばならない
そうすれば再び鋭い痛みがもどってきて
石は永遠に血を流させる
‥‥

(『牢屋の鼠』より 神品芳人 訳)



太田光一『リルケの最晩年』

晩年を過ごしたスイスでのエピソードが中心に述べられているが、それに加えて『ドゥイノの悲歌』の完成とその頃書かれた詩、及び晩年の恋人だったメルリーヌと呼ばれたパラディ―ヌ・クロソウスカなどが紹介されている。

リルケに関しては重要なことではないが、ツェラン関係で発見があった。注目したのは、ミュンヘンでのクレール・シュチュデとの出会いである。第一次大戦を契機にした二人の女性との出会いが書かれていて、一人は大戦が勃発してミュンヘンに帰ったときに出会ったルー・アルベール=ラザールという女性画家で、恋に落ちたが二年ほどでその関係は終わっている。当時、リルケはパウル・クレーと同じアパートに住んでいた。気になる一つというのは、終戦後、スイスからミュンヘンに彼を訪ねてきたクレール・シュチュデという女性の方で、リルケに自分の最初の詩集を送っていたのである。そういう分けでリルケを尋ねた。しかし、社会運動に血道をあげる彼女とリルケとは相いれることはなかったようだ。このクレールは、やがてイヴァン・ゴル夫人となり、パウル・ツェランを剽窃疑惑へと巻き込んでいくのである。ともあれ、二人とも結婚の破綻していた人妻であり、リルケにとって女性は詩想の源であったのは確かなようだ。





ベーダ・アレマン『リルケ 時間と形象』

後期リルケにとって時間が単なる経過ではなく、「あの垂直な時間」へと移行していく際の最も凝縮された根本的な様態は、別れであるという。 別れの時間的意味は、リルケにとって自然の裏側を、踏み込むことのできぬ空間を目指しているとアレマンは言う。『音楽に寄せて』では、「住まうことのできない精髄」としての音楽は「聖なる別れ」と呼ばれる。音楽は高められた空間が持つ不可視性とその中に住まうことが出来ない不可住性を持つ。「別れの外側」には存在しない。音楽だけに分れと出会いが同時にあるのだから。

すべての音楽は、別離である、
だがわれわれに向かってではなく、空間へ向かっての‥‥

崇高とは別離である。
(『音楽に寄せて』山本定祐 訳)

おお、おまえ変転する精神よ、もっと激しく変転するものよ、
‥‥
ただおまえだけが月のように天心をわたる。そして地上では聖なる驚きにみたされた夜の風景が明るみかつ翳る、
おまえはそれを別離のなかに感じとる。
(『ヘルダーリンに寄せて』山本定祐 訳)

別れは単なる感情の高まりではない。「変転する精神よ」という呼びかけは、事物 (もの) たちが我々「最も儚い存在」によって救われることを期待されていることの表現だと言う。この救いは単なる保護ではなく、より根源的で逆説的な気分の中での別れによって成就される。それは別離をくぐり抜けて別の次元へ躍出し、その次元の中で耐え抜くということなのである。それは「死してある」という次元であり「非在の条件を存在しつつ知る」という次元なのだとアレマンは述べている。





加藤泰義『ハイデッガーとリルケ』

本文冒頭の『秋』の詩の最後の二行、「しかし一人ゐる、この落下を
/限りなくやさしく両手で支へる者が」という詩句において両手で支える「一人」の者とは、測り知ることのできない「本当のつながり」、「純粋なつながり」、「二重の国」、「満ちた自然」とリルケが、その後に述べる言葉に繋がっていくと著者は言う。「落ちていく」のは大地に向かってであり、それは、落下や墜落ではなく根源へ向かって帰って行くことであると言う。ハイデッガーは、ただ「神のようなもの」だけが人間を救うことが出来ると語った (シュピーゲル誌での対談 )。この言葉に示されている内容はヘルダーリンの詩に深く関わっていると言う。ヘルダーリンは未来を志向する詩人、神を待ち望む詩人だというのである。このような詩がある。

われわれが食事を祝うとき 誰の名を私は唱えればいいのか また
昼の仕事を終えて憩うとき 語れ どう私は感謝をささげたらいいのか
そのとき私は 高きに在る者の名を言ったものだろうか 相応しくない不作法を 神のようなものは好みはしないのだ (ヘルダーリン『帰郷』加藤泰義 訳)

現代の「神無き時代」をハイデッガーは逆に宗教心の萌す原初的次元が育ちつつある時代とみていたと言うのである。それは本文の終わりにご紹介したリルケの『ドゥイノの悲歌』第十歌に詠われた「降りくだる幸福のあること」という言葉に示されている事柄なのである。






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ドゥルス・グリューンバイン (1962-)

若くしてドイツの最も重要な文学賞といわれたゲオルク・ビューヒナー賞を受賞した詩人。詩集に『Grauzone morgens/朝のグレーゾーン』、『明後日の詩』、『霧の中の巨像』、『等距離』などがある。

ハインリッヒ・フォーゲラー邸 (カバノキの家) ヴォルプスヴェーデにおける芸術家村の中心的な存在だった。 



死の天使アズ・ザバニア
右上には聖馬ブラクに乗るムハンマドと大天使ガブリエル、中央にザバニア、左に地獄の業火に焼かれる女たち。



バルテュス(1908-2001)1996

バルテュスは、母のパラディ―ヌ・クロソウスカ (通称メルリーヌ) と美術史家、画家であった父のエーリッヒ・クロソウスキーとの間に生まれ、兄のピエールと共に作家、画家として知られる存在となる。母は、リルケの恋人であったが、その頃は既に離婚しており、子供二人をスイスで養わなければならない状態だった。リルケには随分可愛がられ、幼いころから、その画才を認められていた。

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