第60話 ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ 』大量虐殺の記憶文化


ラン・ツヴァイゲンバーグ
『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』2020年刊

 今でもそうなのだと思うのだけれど、広島市の小学校では、原爆資料館の見学は必須だった。僕が小学生の時、何年生だったかはもう忘れてしまったけれど、皆で資料館に行って、ひどく怖かったのを覚えている。しばらく原爆資料館は僕にとって禁断の地になっていた。それでも大学生になった時にはもう一度訪れてみた。最近、この資料館の展示がリニューアルされ、視覚的に随分新しい工夫がされている。それに国立の原爆死没者追悼平和祈念館で、ぼくにも関わりのあるイエズス会の神父さんたちが被爆当時の広島で救援活動を行った記録を紹介する展示『わが命つきるとも』が2021年に開催された。


 広島原爆資料館 正式名称は広島平和記念資料館

 広島に住んでいても被爆後の平和運動や平和公園などの経緯について知らないことはいっぱいある。特に1960年代あたりより前はよく分からない。例えば、1963年には原爆慰霊碑の前を過激派の学生が占拠し逮捕者が出た。そして、1965年には自衛隊の観閲式が挙行され、100メートル道路を戦車などがパレードした。これらのことは知らなかった。それを教えてくれたのは、今回ご紹介するラン・ツヴァイゲンバーグ氏の『ヒロシマ―― グローバルな記憶文化の形成』である。実に丹念に資料を調べ上げている良書だと思う。2020年に出版された。一度は読んでみられることをお勧めする。

 被爆後のヒロシマで戦災者たちへの支援と街の復興は政治的なバイアスの中でどのように成し遂げられていったのか。第二次大戦における大量虐殺の犠牲者たちは、語り得なかった過去をある時期から語り始める。それは何故か。被爆者たちの PTSD がクローズアップされるのは、比較的最近になってからだった。何故そのように遅かったのか。あの語り得ぬ出来事をアウシュビッツとヒロシマの人々は、どのように結びつけていこうとしたのか。本書では、このような事柄を通してヒロシマという特異な体験を経た街と人にまつわる記憶文化がどのように形成され、変化していったのかが語られる。

 著者は、ヒロシマを見据えながら (タイトルにもあるようにナガサキについては、ほとんど語られていない) これらの重い問いに淡々と事実を積み重ねることによって答えようとしているのだが、政治的偏りはなく、ペシミズムや妙なヒロイズムに染まることもない。ためらいながらも真実と思えることを表明しているのである。


著者について


 筆者のラン・ツヴァイゲンバーグ氏は1976年イスラエルに生まれた。ホロコーストを生き延びたユダヤ人の祖父母を持つ。いつも食べ物を隠していた母方の祖父はポーランド軍に属していてソ連の捕虜になった後、シベリアの強制収容所に入れられ、そのころの空腹だった体験を子供や孫たちに伝えた。一方、父方の祖父は1945年にダッハウの強制収容所から米軍によって解放されたが、戦争とその体験について、ほとんど語ることがなかった。記憶と忘却には様々な在り方があるのだということを知ったという。イスラエルで育った後、1999年に渡米し歴史学を学んだ。ニューヨーク市立大学で博士号を取得。本書『ヒロシマ』は、この博士論文を基に書かれ、2016年に米国アジア研究協会賞であるジョン・ホイットニー・ホール賞を受賞している。現在はペンシルヴェニア州立大学で教鞭を執っておられるようだ。


巨大な神話作り



1947年、昭和天皇による広島巡幸 広島護国神社境内

 原爆が投下された後、ヒロシマは不死鳥のように廃墟から蘇った。しかし、その蘇りには即決しなければならない問題と占領下における統制という二つの大きな障害を潜り抜けなければならなかった。

 8月6日、米国大統領トルーマンは、TNT火薬二万トンを超える規模の宇宙に存在する基本的な力によって、日本は真珠湾の報復を受けたと声明を出した。そして8月15日、昭和天皇は戦争を終結し核の被害から国民を救うために降伏を決断するとした。このレトリックは目前に迫る占領と日本のエリートたちの利害関係が奇妙な形で一致した結果だったと著者は述べている。原爆というアメリカの科学が戦争終結をもたらし、日本が原爆を体験した唯一の国であり、物質的なものを失うことによって戦争終結させ国民の守るという道徳的な使命を得たという考え方がアメリカ人が広島に足を踏み入れる前に既に存在した。原爆は複雑な舞台の象徴の一部になっていったというのである。

 占領下において、原爆投下に関するアメリカへの非難は勿論、原爆に関する議論、証言、写真、医学的知識ですら厳しい統制下にあった。1946年に刊行された栗原貞子の詩集『黒い霧』の中のある詩は41行のうち30行が削除されたという。そのような中で原爆について語れる話題は、平和と原爆との同一視であった。こうして、原爆の犠牲者たちは戦争の犠牲者ではなく平和の礎としての犠牲者という文脈の中へ落とし込まれていった。平和の礎としての犠牲という考え方は、日本側にもあって、原爆によって日本の降伏が早まることによって、日本はドイツのように分割占領されることがなかった。このような発言を僕は何人かの日本人から聞いた。

 1948年 広島平和祭
広島県知事楠瀬常猪 (くすのせ つねい) の演説。
谷本清牧師から始まるNo More 広島運動の看板がある。

 米国陸軍の復興顧問であったジョン・D・モンゴメリー中尉は「ヒロシマを国際平和のシンボル」とすることを提唱し、戦災者の供養塔よりも国際平和記念塔を建設することを勧め、博物館の建設や訪問者のためのインフラ整備を提唱した最初の人となり、米国で復興資金を集めると約束する。一方で、広島市は政府からの復興資金を得られず、世界に募金を呼び掛けることになるが、キリスト教の宣教師たちの活躍が目立った時期である。平和記念聖堂の建設や被爆者のための家屋の建設資金が募られた。このような気運のなかで1947年に市の中心部である中島地区で広島平和祭という式典が開催されるようになる。

 この式典でマッカーサー連合軍最高司令官は戦争による破壊力は遂に人類を絶滅させるまで進展するだろう、それがヒロシマの教訓だとメッセージを発した。このような宗教的ともいえる厳粛な平和の語りが行われるようになると同時に原爆に関連する催しを広島の経済復興に利用しようという目論見も生まれていった。観光都市としてのヒロシマが復興の財源となるための路線が敷かれていったのである。


沈黙の壁とPTSD


沈黙

 8月6日に続く日々に、広島・長崎の人々が、どのような心の状態にあったのかを想像する能力が私たちには欠けていると著者は言う。当時の生存者でさえ、それが如何なる体験であるのか理解できなかった。広島逓信病院の院長だった蜂谷道彦医師は、被爆直後の人々の様子をこう伝えている。人々に声をかければ、皆一様に後ろを振り返ってあっちから来たと言い、前の方を指さして向こうへ行くと言う。出てきたところも言えず、行先も言えないような羊のようなものになってしまった(『ヒロシマ日記』)。原爆の生存者は、強制収容所の生存者と同様に、自分の経験を信じてもらえない、誰にも理解されないといった孤独の中に置かれていた。

 しかし、蜂谷医師の『ヒロシマ日記』やジョン・ハーシー氏が被爆体験を聞き書きした『ヒロシマ』などを読むと、あんな悲惨な状況の中でも、人間というのはユーモアや笑いを忘れないのだと知って、少し明るい気持ちになれるのは、せめてもの救いではある。それと、黒い雨訴訟で広島高裁の判決を受けて政府が上告しなかったために被爆者たちの勝訴が確定したのは、つい最近のことだ。ともかく、良かったと思う。黒い雨とは、核爆発後の大量の放射性物質を含んだ雨だった。


 「原爆投下後のヒロシマ」 アーカイブ写真コレクションAnefo

 原爆は一瞬にしてほとんどのランドマークを消し去り、戦前の記憶もまた吹き飛ばされた。被爆者の中では、自分だけが生き残ったことに罪悪感を持つ人も多かったと言う。生存者は、自分が「硬直した死体」であると感じ、その「死体」そのものでないことを自分の罪とした。また同時に、それが自分でなくて他人であることに安堵をおぼえると、いっそう罪の意識に陥るという (ロバート・リフトン『ヒロシマを生き抜く』)。そんな極めて強いアンビバレントな感情に曝されるという。原爆文学は総じて、原爆を表現し、そのための言葉を見出すために苦悩した。峠三吉、栗原貞子、原民喜、太田洋子、竹西寛子、林京子といった詩人・作家たちである。

 戦後、流言や中傷のために被爆者たちは差別されるマイノリティになっていった。放射能は目に見えない殺人者だった。当時、原因不明な病状は伝染病と誤解され、その恐怖心から被爆者は拒絶された。それは、ハンセン氏病の療養所にいる人たちに対するのと同じ風聞被害であり、知識の欠如から来ていた。思い出すのは、福島の原発事故の被害者たちに対する差別だ。何の科学的な根拠もないのに福島の被害者たちは差別された。これにはあきれたが、いったい何故だろうかと考えた。

 多くの人々は沈黙したまま自分の体験を語ろうとはしなかったし、敵に対する憎悪よりも諦観が支配するようになる。ジョン・ハーシー氏の『ヒロシマ』を通じて世界的に知られるようになる谷本清牧師は「私自身とても原爆の非人道性は身に沁みて感じ、怒り心頭に発する感があった。だからと言って相手方やアメリカを呪う気にはならなかった。そうする前に、このような戦争に参加したことのあやまちを反省させられたからである。こうして我らは『仕方がない』という思いに達して一応の心の安定を得た (『広島原爆とアメリカ人』)」と述べている。このような怒りの抑制は、後に述べるロバート・リフトン博士の言う死に直面した人間に多く生じる「心理的閉め出し」と呼ばれるものの一つと考えられる。これは必ずしも消極的側面だけではない。

 占領によってヒロシマにおける記念の方向性にバイアスがかかったのは確かだが、悲しみ・怒り・復讐といった感情のレジームよりも和解と未来志向の上に打ち立てられようとしたことも確かだった。仏教的な精神性や戦時中の過剰な悲しみに対する過度な抑制を引きずった精神的風土の中に怒りは埋没していったのではないかと著者は考えている。


 第五福竜丸 第五福竜丸記念館 東京

 しかし、ある事件が全ての人々の眼を被爆者に向けさせることになる。1954年の第五福竜丸事件である。ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験は想定の2倍に達する破壊力を持ち、危険区域外で操業していた乗組員たち23名を被爆させ、死者を出した。この事件は反核運動に火を付けることになり、平和運動は被爆者の人たちの中に生き残ったことの意味を与え、その人生に目的を与えることになった。1951年に自死した原民喜は、既にこう書いていた。

 「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ (『鎮魂歌』)。」

PTSD の発見

 第二次大戦後、世界中の精神医学者や精神衛生に携わる人たちは、前代未聞の数の難民、爆撃の被災者、収容所の囚人、退役軍人、それらの人々が戦争やそれぞれの体験に苦しむ姿を目の当たりにする。この時期は世界の保険機構の制度化とグローバル化が進んだ。しかし、WHO などの国際機関は当初トラウマの問題を見過ごすか、あるいは敵視さえしていたという。とくに、爆撃に関するトラウマに関して、アメリカの民間防衛プロジェクトに関わった人々をはじめ、多くの研究者がそうだったというのだ。

 ホロコーストは、原爆投下の犠牲者、ヴェトナム戦争の退役軍人、レイプの被害者といった PTSD やトラウマの研究に繋がる多くの事例の一つだった。トラウマは過去の恐怖と未来にある恐るべき可能性についての「極端な知」である。主観的な個々の経験というレベルを超えて、より普遍的な人類の経験にまで拡大され、特定の経験知として一定の位置を占めるようになる。1960年代まで、この概念は確立されていなかった。経験や意識の変化のダイナミズムを捉えることは難しいのである。生存者たちが自己を理解し、自らの体験を語ることを通して発展していった。それは、精神科学の発展ともパラレルだった。


ロバート・リフトン 
1926年生まれのアメリカの精神科医

  日本では PTSD やトラウマに関する報告は、さらに稀で、PTSD が専門用語として一般に定着するのは1995年の阪神淡路大震災を待たなければならなかったという。被爆者の精神的なダメージに対する意識もかなり遅れていた。戦後の厳しい検閲、被爆者自身の被爆体験に対する沈黙、トラウマに対して否定的であったドイツの精神科学の影響などの理由が挙げられている。そして放射線という特異で未知な存在が身体と精神いずれにどのように影響するのかが見分け難かった。「大和魂」の存在もトラウマの症状を軽視させる原因のひとつでもあったのである。

 心理学的な調査のためにユダヤ系のアメリカ人であるロバート・リフトン博士がヒロシマを訪れたのは1962年のことだった。広島での調査は世界との関り方を変えさせるほどの衝撃だったという。イェール大学への着任を延期してまでヒロシマでの調査を続けた。オーストリアの文筆家ロベルト・ユンクと協働していた平和運動家小倉馨氏と広島大学原爆放射能医学研究所の渡辺正治氏らの仲介によって70名を超える被爆者自身に直接インタヴューすることができた。彼らは、政治の埒外にいて、いわば部外者だったリフトン博士に安心して体験を語ることができたのである。リフトン氏の人柄もあっただろう。彼は、被爆者たちがその生の中へ恐怖・死・悪といったものを取り込み、永続する「死との対面」が「心理的閉め出し」を生じさせていることを理解した。そして1964年の論文『死と死の象徴性』で初めてホロコーストの体験と被爆体験を結び付けたのである。

 リフトン博士のこの研究によって被爆という遥かに超越的で、受け入れがたい現実が人々の心にどのような影響を与え、人々がどのように反応し、ある人は、それをどのように乗り越えることが出来たが報告される。これは、被爆の問題だけでなく、今日の大災害に直面した人々にも当てはまることだと思える。リフトン博士の著作『ヒロシマを生き抜く』については既にご紹介しておいた。

 このようなリフトン博士による「生存者シンドローム」「災害シンドローム」に繋がる研究は、シンドロームの概念を進展させ、ホロコースト研究の枠を越えて、その概念を普遍的なものにしていった。ソンミ村虐殺事件以降、ヴェトナム戦争の退役軍人はホロコーストや被爆を体験した人々と比較されるようになるのである。加害者も、また、ただでは済まないのである。


ホロコーストの変遷



ザイールのキャンプ・キンブンバにいるルワンダ難民のために、
新鮮な水を輸送車で運んでいる様子。Photo Marv Krause

 第二次大戦終結後から1950年代までの一般市民を広範に巻き込む全面核戦争の脅威は「新たなアウシュビッツ」の到来への不安と共に核ホロコーストという新たな脅威へと変化していく。ホロコーストとはナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺を指している。ギリシア語の「全部焼く」を語源とする言葉だった。

 この頃、ジェノサイドという言葉もホロコーストに関係して生まれた。ポ―ランドの法学者ラファエル・レムキン氏の著作に由来する。それは、人種や部族を意味するギリシャ語の geno と、殺人を意味するラテン語の cide を組み合わせた言葉で、ホロコーストを拡張した言葉だと言える。

 もう一つの新たな用語はエスニッククレンジング、つまり民族浄化である。複数の民族が居住する地域で、ある民族集団が他の少数民族を排除し、地域の民族を単一化しようとする。あらゆるエスニック集団が鉄道車両に詰め込まれて生まれ故郷から追放された。その過程で、大量殺戮、集団レイプ、焼き討ち、拷問などが行われることがある。ボスニア内戦から使われるようになった言葉で、複数の民族が共生していた旧ユーゴはセルビア人、クロアチア人、ボスニア人、コソヴォのアルバニア人、ムスリムの人たちの憎しみの感情によって覆い尽くされた。独立したモンテネグロ、マケドニア、アルバニアでさえ紛争は頻発した。

 1960年代のヴェトナム戦争はヒロシマよりもホロコーストから学ぶことが大きいという風潮を生み出したという。それでも、1980年代までホロコーストは、しばしばヒロシマと関係づけられて語られてきた。こうした結びつきも、先行する世代にとってのヒロシマの重要性も、現在では失われつつあると筆者は言う。そのため、戦後のグローバルな追悼・記念的文化、あるいは1970年代以前のトラウマの言説や証言、進歩的な政治の発展に対するヒロシマの貢献は、かすみ始めると言うのである。


ノーマン・M・ナイマーク
『民族浄化のヨーロッパ史』2014年刊

  ルワンダやボスニア危機及び1989年以降の東欧での文書館の解放以後に再発見された、いわゆる「復帰」したホロコーストとこの1980年代までのホロコーストとは明らかに異なると著者は指摘している。20世紀末になると核による絶滅よりも、内戦やテロの勃発がクローズアップされ、近隣のコミュニティー間での殺戮である「親密な殺戮」の方が注目され、それらに対する危機感はいや増していた。1990年代には、ホロコーストは工業化された殺人というよりもナチ親衛隊による隣人の隣人による大量殺戮といった考え方の方に力点が置かれるようになる。ヒロシマの被爆は戦時中の事柄であるが、ユダヤ人虐殺は非戦闘員である隣人が対象となった異なる文脈を持つとする考え方である。

 頑なに難民をうけいれようとしない国もいかがなものかと思うけれど、この隣人の隣人による大量殺戮を扱っている著書の一つにノーマン・ナイマーク氏の『民族浄化のヨーロッパ史』がある。近代以前と以後の民族浄化には違いがあった。19世紀末から20世紀初頭における近代的な人種主義に基づくナショナリズムの勃興によって、以前の主に宗教間の相違を背景とした軋轢とは質的に異なったものになっていった。あの憎むべき優生思想に支えられていたのである。生存競争を勝ち抜くためには劣った種や少数民族は不要と考えられ、人種主義と一体化したナショナリズムは、支配民族の間にジェノサイドへの潜在性を高めていったという。これは、ガブリエル・タルドが指摘した「根絶することが困難な恐るべき社会問題」に通じることなのだ。


ノーマン・ナイマーク 1944年生まれ。アメリカの歴史学者。
1988年からスタンフォード大学歴史学科教授、
同大学フーバー研究所フェロー。

  近代国家は、その国家イデオロギーのもと、彼らの考える「健全な」組織体へと向かわせようとする。国家は家族生活に干渉し、出生率を操作し、マスメディアに干渉し、国家を統治するエリートの価値観を繰り返し教え込み、住民は監視を受け、巧みに操作される。その一環として、高度近代主義はエスニック集団の追放を目的とし、その集団の身元を割り出し、集団の違いや他者性を明らかにするというわけである。この『民族浄化のヨーロッパ史』では、先ほどの旧ユーゴにおける民族浄化の他、次のようなものが紹介されている。20世紀のものだけだ。

 1915年のトルコによる数十万から150万人といわれるアルメニア人のジェノサイド、1921年の同じくトルコによるアナトリア系住民140万人の追放、ナチスによる600万から一千万に上ると言われるユダヤ人ホロコースト、1944年のソ連による約49万人のチェチェン=イングーシ人のカフカス北部からの強制移住、その過程で35%から45%が死亡、及び、18万5千人のクリミア・タタール人のクリミア半島から中央アジアへの強制移住、第二次大戦後のポーランドとチェコスロバキアではドイツ人1150万人が追放され、その途上、飢えと病気で250万人が死んだ。20世紀は新たな民族浄化の時代でもあった。これに、アフリカ、アジアの犠牲者を加えたら、いったい戦争の他に何人の人間が殺されたんだ。

 ポーランドの女性詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカはこう詠っている。

‥‥

どういう趣旨の集まりなのか ?
古い人間同士 ? 血縁関係 ? それとも祖国が共通 ?
話はするのか ? どこからくるのか ?
だれだ、背後で後押しするのは ?
だれかね、君のほかにその人たちの夢を見るのは ?

彼らの顔は写真のままか ?
寄る年波で老けているのか ?
元気か? 弱々しそうか ?
殺された連中の傷は治っているか ?
自分を殺した相手を今もおぼえているのか ?

‥‥
(ヴィスワヴァ・シンボルスカ『死者たちとの共謀』工藤幸雄 訳)


ヒロシマからアウシュビッツへ



第四回 原水禁世界大会ポスター 丸木俊 本書より

 1955年に反核・平和の全国組織である原水爆禁止日本協議会 (原水恊) が結成されたが、安保条約を巡る政治的緊張によって分断され原水協、原水禁とバラバラになり始める (原水禁は1965年発足) 。安保闘争は反米感情を増大させ、冷戦のイデオロギーは右翼と左翼の党派闘争の渦中にあった。1963年には第九回原水禁世界大会の直前に全学連の過激派学生による平和公園の原爆死没者慰霊碑前の占拠があり、公園史上最悪の暴力事件ともなっている。そのような経緯から平和公園の政治利用は禁止され、聖地化への方向へと向かい始める。

 この少し前頃から、原子力の平和利用をアピールする声が盛んになっていた。1958年、原爆資料館で「原子力平和利用」博覧会が開かれた。米国の売り込みの手先になるのかという批判もあったらしいが、明るい近代的未来をイメージさせて好評を博した。しかし、広島県被団協のリーダーたちは慎重だった。原子炉の燃えカスをどうするのか疑問は深まった。この森滝一郎氏の危惧は 3.11の悪夢となったのである。

 この博覧会の時、原爆資料館の展示物は一時、他に移される。これらの展示物の基礎は、もともと広島大学で地質学・鉱物学の教鞭を執っていた長岡省吾氏が被爆の瓦礫の中から丹念に拾い集めた瓦や溶けたビンなどの個人の収集物だった。推定された爆心地からどれくらい離れた所で花崗岩の表面が溶けて泡立っているのかを確認すれば一体何千度で人々が焼かれたのかに見当がつくのである。彼が原爆資料館の初代の館長となる。

 1962年は冷戦の対立とキューバによるミサイルの脅威とが高まっていった時期で、先に述べたように平和運動が分裂しはじめた時期でもある。その年2月、広島から3千キロ以上離れたアウシュビッツへ向けてほぼ徒歩による平和行進が始まった。第二次大戦におけるヨーロッパの悲劇の地と被爆の地が共に平和を訴える、そのためにアジア諸国とイスラエル、東欧を通過し1963年にアウシュビッツに到着した。著者はグローバルな「コスモポリタンな記憶文化」という発想は比較的最近のものだという。しかし、この広島・アウシュビッツ平和行進は、第二次大戦後の記憶のグローバル化と絡み合った戦争の記憶化が1950年代近くにまで遡ることを示唆しているという。

 この行進は、アジアでは概ね冷たく迎えられたという。それは日本が戦争加害者であったからに他ならない。シンガポールでは1942年に中国系住民が殺害され、何百もの遺体が葬られた場所が建設作業中に発見され、このことが地元の人々を憤らせた。それによって平和行進のメンバーは不安にさらされる。彼らが犠牲者であると同時に加害者でもあるということの宣言を発すること、そして、日本の戦争の現実に向き合うことへの不安だった。ともあれ、植民地時代の歴史を語ることがタブー視されていたシンガポールにおいて、この遺体の発見は中国系住民たちの抗議に留まり、シンガポール政府にとっては、日本軍国主義の犠牲になった人たちへの追悼と回向がこの行進の理由の一つだというメンバーの解答で十分であったのである。


アウシュビッツ・ビルケナウ博物館  死体焼却炉へ続く道 ポーランド

  イスラエルでも反応は鈍かった。イスラエルにとって軍拡は自分たちを守るために必須であり、ユダヤ人のホロコーストは全ての惨事を超えていた。当時、イスラエルの核開発はケネディ政権との外交論争の要となっている。「二度と繰り返すな」は「二度と繰り返させない」に取って代わられていたのである。ホロコーストに対する一元的見方が登場するのは元親衛隊のアドルフ・アイヒマンの裁判で彼の死刑が確定してからであって、広島・アウシュビッツ平和行進がイスラエルを訪れた1962年は、アイヒマンが処刑された年であり、まだ一元化の途上であったという。

 国際アウシュビッツ委員会の働きで平和行進のメンバーたちはユーゴスラビアやハンガリーで暖かく迎えられた。1946年に設立されたアウシュビッツ・ビルケナウ博物館はポーランド人の殉教の遺跡であり、1954年に設立された国際アウシュビッツ委員会は、アウシュビッツでの記念行事を執り行う重要な組織となっていた。そして1963年1月、彼らはアウシュビッツに到着した。そこはヒロシマと同様に人間の人間に対する非人道的行為の象徴であり、ポーランド人の悲劇の場所であった。しかし、当時、極めて特殊な形でユダヤ人よりもポーランド人の犠牲を強調していて、それはヒロシマが韓国・朝鮮人の死者を周縁化していたのと同様だったと著者は述べている。

 生き延びた経験と証言活動が、どこでも同じという分けではなかった。しかし、平和行進の参加者たちは、戦禍による被害を抽象化し、普遍化することによって、異なった状況にある被害者たちの意識を結び付け、国際的な関係性を築こうとしていった。こうした犠牲者=証言者のグローバル化は、語りの収束を可能にし、ひいては「証言者の世紀」をもたらすことに貢献していったのである。


犠牲の王座


 広島市の郊外、賀茂郡黒瀬町 (現東広島市) によるアウシュビッツ記念館建設の頓挫は、冷戦の終結と先に述べたホロコーストの「復帰」によってヒロシマへの関心が相対的に薄まっていく原因となったと著者は述べる。ユダヤ人のホロコーストとヒロシマに関する「犠牲の政治」は、あまりに成功しすぎた。1980年代に入ると日本の侵略に対して韓国や中国は東アジアを巡る犠牲者の記憶の戦いといったものに参入し始める。同様に中東ではパレスチナやアラブ諸国がヒロシマの悲劇はパレスチナ人虐殺の悲劇と同じだと主張するようになるのである。

 アウシュビッツ平和記念館運営委員会は不用意にヒロシマ、アウシュビッツ、南京、ソンミ村、パレスチナ難民キャンプ、ソ連のアフガニスタン侵攻といった犠牲者政治の根底にある複雑で厳然とした歴史を同列に扱った。ヒロシマに匹敵するのはベイルートであるといったアラブ諸国からの抗議は、外務省を通じて広島県と広島市へと伝えられ、直接の抗議さえもあった。犠牲者言説は複雑で多様化しはじめていた。結局、この計画は複雑な政治情勢に巻き込まれ資金調達の目途のつかないまま空中分解した。


ベルリンの壁 ブランデンブルク門近く 1989年

  1989年は昭和天皇の崩御と冷戦の終結、バブル経済の崩壊という、いわば日本の分水嶺といった時期であり、中国などのアジア諸国の経済力が増し、アジアからの観光客が増加していった時期でもあった。その中で戦争の記憶についての論争の高まっていった時期でもある。クローズアップされていくのは日本の加害者としての立場だった。南京虐殺や韓国での従軍慰安婦問題が問われる。これらはドイツの戦争責任に対する真摯な謝罪と反省と対照的に比較された。

 ヒロシマやホロコーストに対してなされてきた言説には行き過ぎがあったのではないかという議論もあった。しかし、著者は、他の犠牲者を持ち出したところで、戦争の記憶の複雑さへの批判にはならないという。単にひとつの犠牲者を別の集団に取って代えることは、加害という一点の汚点もない「純粋な犠牲者」としての地位を争うゼロサム・ゲームとなるというのである。この様な問題が広島原爆資料館の加害者コーナーを巡る問題として浮上していった。

 著者は、更にこう述べている。「こうした言説の悲劇的皮肉は、戦争の犠牲者の団結を通して苦しみの共同体を作ろうとする望みを抱かせる基本的共感や崇高な感情が、あらゆる人々に利用され乱用されることにある。苦しみは意味を負わせられるが、それに付随する『正しい』意味が何なのかは完全に解釈に委ねられていて、世界中の競い合うグループが、本物の犠牲の王座が自分たちのものであると主張するのである (若尾裕司 他訳)」。こうした矛盾や限界は、今なお解決されていないという。


記憶の変遷



テロで被災した世界貿易センタービル 2001年

 9.11 世界貿易センタービルへのテロ、2008年の金融危機リーマン・ショック、3.11 東日本大震災と原発事故は近代の物質的基盤や後期資本主義の脆弱さと安全神話の崩壊を闡明にした。人間の生存とは、そのような薄い皮膜の上に支えられていたのである。

 特に 9.11 と 3.11 には薄気味悪いほどヒロシマとの類似性を際立たせたという。9.11では爆心地=グラウンド・ゼロという言葉さえ登場した。1940年代においても、2000年代においても、同時代の人々は世界をヒロシマ以前・以後に分け、9.11以前・以後に分けた。核テロの脅威は、この二つのグランド・ゼロを結び付ける。ヒロシマは再び歴史的悲劇の言説の中心へと復帰するかのようだった。

 著者は、ヒロシマは相変わらず非西洋の悲劇であり、それゆえ、日本と西洋の知識人の一部はヒロシマとヨーロッパの中心地域で起きたホロコーストを結びつけようとしたという。ホロコーストの「復帰」という事例は、ヒロシマの悲劇に対する別の位置づけと理解を探し求めることの必要性を示唆していないかというのである。

 最も気高い目的を持った人々を批判することは容易ではないとしながら、理想を掲げたヒロシマの記念行事はその時代の変遷の中で自然災害に似た出来事というイメージに変質してしまったのではないか、その出来事が持つ近代批判の潜在的破壊力を相対的に弱めたのではないかという。アジアの人々の苦しみを自らの国民的記憶の中で認めるべきだという指摘は常にあった。複雑な政治の渦の中で歴史の傷は悪化し続ける。先に述べたように東アジア諸国の中には、どんな日本人の謝罪にも満足しない、強固な犠牲者意識がナショナリストの諸グループによって助長されている。こうした状況の中では、日本人が過去を真剣に考えることも起こりそうにないとツヴァイゲンバーグ氏はいう。グローバルな記憶の変遷の過程で、ヒロシマの犠牲者が人類の名で振る舞うこと、普遍的メッセージを国際的レベルで推進することは困難になりつつあるというのである。無論、核兵器廃絶は急務だが、本書は別の視点からヒロシマに示唆を与えようとしてくれているのである。

 では、どうしたらよいのか ? 課題は我々に投げかけられている。

付 日本のホロコースト記念館とアウシュビッツ平和博物館


ホロコースト記念館 広島県 福山市 聖イエス会御幸教会内

 広島アウシュビッツ記念館ではないが、アンネ・フランクの父親、オットー・フランクとイスラエルに語学留学したこともある大塚信牧師との出会いによって1995年福山市にホロコースト記念館が開館している。

 これとは別に福島県白河市にアウシュビッツ平和博物館が2003年に開館した。ポーランド国立博物館から借り受けた犠牲者の遺品・資料や記録写真、当館所蔵のアンネ・フランク関連の写真・資料等の展示が行なわれている。

本稿は2021年8月5日に投稿したものを再録いたしました。






夜稿百話
参考図書

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』 1946年従軍記者として来日した著者が谷本清牧師、クラインゾルゲ・イエズス会神父、佐々木輝文医師らの原爆体験綴ったドキュメント。その年のニューヨーカー誌に一括連載され全米を震撼させた。戦時中のシチリアを舞台にした『アダノの鐘』でピュリッツァ賞を受賞している。

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』

1946年従軍記者として来日した著者が谷本清牧師、クラインゾルゲ・イエズス会神父、佐々木輝文医師らの原爆体験綴ったドキュメント。その年のニューヨーカー誌に一括連載され全米を震撼させた。戦時中のシチリアを舞台にした『アダノの鐘』でピュリッツァ賞を受賞している。


蜂谷道彦『ヒロシマ日記』 広島逓信病院長であった著者が被爆後の56日間の体験を綴った日記。被爆体験の貴重な資料の一つとなっている。

蜂谷道彦『ヒロシマ日記』

広島逓信病院長であった著者が被爆後の56日間の体験を綴った日記。被爆体験の貴重な資料の一つとなっている。


ヴィスワヴァ・シンボルスカ『橋の上の人たち』

ヴィスワヴァ・シンボルスカ『橋の上の人たち』

ヴィスワヴァ・シンボルスカは1923年ポーランド中部のポズナニ近郊にある小村ブニンとクールニクの間にあるプロヴェントという集落で生まれている (ブニンは1961年にクールニクに合併吸収された) 。ポーランドを代表する詩人の一人でノーベル文学賞を受賞している。

『橋の上の人々』は1986年(63歳)に発表された。当時のポーランドの世相を反映して政治を正面から扱った詩もある。君は人間である必要もなく、原油、肥えた飼料、第二次原料であればよい。会議場のテーブルの形は丸か四角かを巡って数か月もの論争と折衝が続く。その間に人が亡くなり、家々が焼け落ち、動物たちが息絶える (『時代の子供』)と。シンボルスカは生の混沌をシニカルな眼差しで俯瞰し警告する詩人、瞬間をマッピングする詩人、あらゆる不完全で滑稽な情報を多くの欠点や弱さを併せ持つ人間の実像と共に救い上げる詩人、才気煥発な教養人、道化や茶番を好む皮肉屋、神話や民話の破壊者、時に深く時に控えめに死をみつめる詩人。彼女の詩にたいする形容は結構広範囲にわたっている。




ロバート・ジョン・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下

ロバート・ジョン・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下

原爆が投下されて17年の歳月が過ぎていた。だが、個人の学者にせよ、団体にせよ、組織的、具体的に被爆者に対する心の影響の調査は、なされていなかった。何故、遅れたり、無視されたのかについて、リフトン博士は研究者が選択的に自身の心を麻痺させた結果ではないかと考えている。ある意味、調査には、そのような麻痺、つまり心の閉め出しが必要とされたという。およそ、死に対処するあらゆる仕事に必要なものだけれど、とりわけ被爆のような恐ろしい現実に一体化することは、研究者自身に精神的な麻痺を引き起こす「治療の逆作用」を生み出す危険があったというのである。

 しかし、同様に核兵器の開発・実験や製造に携わる人たちにもそれと同じ状態に陥っては、いないかと危惧している。核兵器のもたらす結果を感情面で締め出してしまっているというのだ。現代の物質的繁栄とテクノロジーの進化に伴って進行している事態に共通している問題と言えるのかもしれない。それは、リフトン博士が言う「際限を知らない技術がもたらす暴力と不条理な死」を招くのである。

 リフトン博士は被爆者への面接調査を二つのグループに分けて行った。一つは広島大学原爆放射能医学研究所によって無作為に選ばれた被爆者31名、もう一つは主として学者、作家、医師、政治指導者から成り立つ42名の被爆者だった。博士は多少日本語を話すことが出来、倫理的使命感をもって取り組んでいること、そして、組織的研究が必要であることを面接者に説明した。それに、平和象徴に関する博士の論文の日本語訳が『朝日ジャーナル』に掲載されたことが追い風になった。少なくともアメリカ政府のための情報収集ではないことが理解されたようだ。本書は、この面接での内容がかなり詳しく書かれている。




『栗原貞子全詩集』

彼女の有名な詩「生ましめんかな」で原爆文学に目覚めた人は少なくない。被災者が被爆後、身を寄せていた地下室、赤ちゃんが生まれるという言葉に呻いていた産婆が無事赤ん坊を取り上げ、身代わりのように死んでいく詩である。一方、「ヒロシマというとき」は、〈ヒロシマ〉といえば、〈ああ、ヒロシマ〉と優しい言葉が返ってくるために、私たちがしなければならないのは、私たちの汚れた手をきよめることだと締めくくられる。日本の加害の歴史を浮き彫りにする詩である。




梯久美子『原民喜 詩と愛と孤独の肖像』
梯さんによる原民喜の本格的な評伝。

「死について 死は僕を成長させた
愛について 愛は僕を持続させた
孤独について 孤独は僕を僕にした」(『鎮魂歌』)

原自身はこう書いている。「原子爆弾の惨劇の中に生き残った私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく引き出された(『死と愛と孤独』)。」被爆という空前絶後の経験によって原は地面にたたきつけられたと言ってもよいのかもしれない。

そして、被爆後、一つの決意が生まれた。リフトン博士は、過酷な体験を可成りな程度まで克服できると、生存者は自分の過去から生命肯定の要素を呼び出すことが出来、「能動的な緊張」と「はつらつとした現実感覚」を取り戻すことが出来るようになるとしている(『ヒロシマを生き抜く』)。

自分は奇跡的に無傷だった。そのことが、この惨状を伝えよとの天命と感じられた。自分の仕事は多かろうと書いている。原は亡くなった妻が用意してくれていたように簡単な医薬品やオートミール缶の食料、そして手帳と鉛筆の入った雑嚢袋を持って逃げていた。その手帳に原爆の有様をメモしていく。それは、現在、原爆資料館に収蔵されている。


『原民喜全詩集』

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依る変化ヲゴランナサイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカエル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

(原民喜『原爆小景』)

原は、まるで広島の惨禍に会うために帰郷したようなものだったと述べている。妻の死の翌年、看病のために千葉に来ていた義母も里に帰り、空襲も激しさを増してきたので、1945年2月に原は広島に吸い寄せられるように帰った。39歳の時である。兄の家業を手伝うという名目だった。広島は、空襲にさいなまれていなかった、取っておかれたように。

日ノクレ近ク
眼ノ細イ ニンゲンノカオ
ズラリト川岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ顔ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ 細イ眼ニ
翳ッテユク 陽ノイロ
シズカニ オソロシク
トリツクスベモナク

(原民喜『日ノクレ近ク』)

本文でご紹介した心理学者のロバート・リフトン博士は、目の象徴的イメージは、はるかな普遍性を持っていて、死者からの凝視は、生存者が自分は生き残ったということを罪悪と感じ、その「非を責める目の所有者」と一体化させてしまう(『ヒロシマを生き抜く』)という。しかし、原の描写はあくまで静かで深い。そのことが、ことさら心に響く。梯さんは、この文体は文学者としての原がこの状況を描写するために選んだ形式であると考えている。それまでの作品とは一線を画しているのは確かだ。







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