夜稿百話+α5 屈原『天問』哀憤のカタログ文学

吹野 安『楚辞集注全注釈一天問』

吹野 安『楚辞集注全注釈三一天問』

 『楚辞』の解説である『楚辞集注』を書いた朱熹は第三巻の冒頭でこのように述べた。『天問』は屈原の作で、彼が放逐され、山沢を放浪するうちに楚の先王の廟や公卿 (こうけい/高官) の祠堂に出会い、天地山川の神霊、奇異、古 (いにしえ) の賢聖、怪物の行事に関する壁画を見、それを難詰して問い、憤懣をもらした。楚の人々は、屈原の境遇を哀しみ、また、その志を惜しんで、その問いを記録したという。故に文の意味には順序がないという。悲憤という言葉は、あるが哀墳という方がピッタリな気がする。

 秦との和合に傾く楚王とその政権への諫言空しく、あろうことか排斥され、都の郢 (えい) を出て屈原は故郷の漢北を彷徨する。彼は、疲れ果て、宜城 (ぎじょう) の地にあった楚の祖廟の下に休み壁に描かれた数々の絵画を見た。王逸 (後漢の官僚・文人) は『章句』の中で、このように問うた。何故「問天」ではなく「天問」なのか ? 「天は尊くして問うべからず」という。

 今回の夜稿百話+αは屈原の『天問』についてご紹介する。

屈原の問いの根本

 司馬遷は『史記』の「屈原賈誼 (かぎ) 列伝」で楚の時代の屈原と前漢の時代の賈誼を取り上げている。二人とも讒言により退けられた失意の賢人を描いた。屈原について、こう述べている。自分は離騒の天問、招魂、哀郢を読み、その志を悲しんだ。長沙に行き屈原が自ら沈むところの淵を観、涙を流し、その人となりを思ったという。

 屈原の問い、その心の底には根本的な問いが存在した。楚の興衰、我の用舎 (用いられ捨てられる) は天によるものなか人によるものなのか。国に人無く、我を知る者が無いなら、我を知る者、それは天であるのか ? こうして『天問』は作られたのである。

屈原像  陳洪寿(1598~1652)

屈原像  陳洪寿(1598~1652)部分

 『楚辞』は戦国時代の楚の国の南方系の韻文を基に作られた17巻の詩集で、その中の『離騒』、『九歌』、『天問』、『九章』などが一般に屈原の作とされ、その他に宋玉や景差ら屈原の後継者の作が含まれている。賦は公的な宮廷文学としての叙事文学であり、辞は哀怨幽思の悲歌としての反体制的なムードを漂わせる抒情文学と言われる。(『白川静著作集』第八巻楚辞文学」)

曰く、遂古 (すいこ) の初め、
誰か之を伝え道 (い) う。
上下未だ形 (あら) われず、
何に由って之を考うる。(『天問』第一段)

 天地の始まり、天体の運行、神話伝説への問いかけ、このような百四十を超える問いで始まる『天問』は芸術性の高い「目録文学」と言われる。

第二段 鯀と禹の治水伝説への問いかけ

鴻 (こう/大水) を汨 (おさ) むるに任 (たえ) へざるに、
師 (もろもろ) 何を以ってか之を尚 (あ) ぐる。
僉 (みな) 曰く、何ぞ憂へん、と。
何ぞ課 (こころ) みずして之を行 (や) る。

 大洪水の発生するさなか、堯は群臣に治水を誰に任せるかを諮問した。彼らは口をそろえて鯀 (こん) を推挙する。鯀は洪水を治める能力など無いのに衆人は何故彼を推挙したのか ? 皆は心配ないと言った。堯は何故、試すことなく彼を派遣したのか ?

 鯀は天帝から「息壌(そくじょう/増え続ける魔法の土)」を盗んで洪水を塞ごうとした。息壌を捜していると鳶 (とび) が上空から、その場所を教え、亀は尾を曳いて息壌を埋めるべき場所へと先導する。鯀は自分の考えにではなく、何故これらの動物に従がったのだろうか ? 鯀は自分の考えに従っていれば成功していたかもしれないのに、結局、9年かかっても洪水を止められなかったが、その艱難努力にも拘わらず、帝堯は何故彼を刑罰に処したのか ?

 堯は鯀 (こん) を羽山に幽閉したのに即座に殺さず、一体何故三年も刑殺しなかったのか ?
堯は鯀がその刑罰に値するかどうか迷っていたのだろうか ? 鯀の死後、三年もの間死体は腐ることなく、その中で禹が孕まれ、鯀に抱かれて成長したが、どうして罪人の父と打って変わって治水を成し遂げ聖徳の人となり得たのか ?

 鯀は堤を築いて大水を防ごうとしたが「土剋水」のはずの五行の性は乱され 、大水は治まらず帝堯は激怒したのである。しかし、父の遺業を受け継いで遂に禹は父の成し遂げられなかったことを成就した。その事業を引き継いだが、禹の計画とは父のそれとどのように異なっていたのだろうか ?


「夏禹治水」  三才図会 18世紀

 翼のある龍、応龍は水と雨を司り女媧の天地創造を助けた。そして、後の黄帝の時代に怪物的な武神である蚩尤 (しゆう) が反乱を起こした際、それを応龍は殺した (涿鹿/たくろくの戦い) 。しかし、神力を使い果たし蚩尤の呪いを受けたために天に戻れず南方の湿地に留まったという。その応龍が禹の治水に当たって、その仕事を助けた。どうして地に線を引き水を流し去ったのか ? それは河海のどこを経過したのだろうか ?

 結局、屈原の問いに天は答えることはなかった。こうして事の詳細を書くことが出来たのは後の時代の注に従ったのである。屈原の問いには、いくつかの疑念と恨みが隠されている。堯は能力のない鯀を愚臣たちの言葉を迂闊に受け入れ、その能力を試すことなく用いた。これは君主のあるべき態度ではなかった。堯は鯀を刑殺する理由を確信できず優柔不断に刑を三年もの間ためらったが、結局執行してしまう。鯀の誠心と苦難は、その体を腐敗させることなく禹を誕生させることになるのである。

 これらの一連の問いは屈原の主君である楚の懐王とそれを取り巻く廷臣たちへの批判に他ならなかった。鯀は人々のために黒黍や黍を蒲や萩の生い茂る湿地に蒔かせた。治水だけに限らない長年の労苦に対して、屈原は同情的であり、逆に聖王といわれた堯の態度に疑念をいだく。やがて鯀の体は腐敗することなく禹を誕生させた。それは屈原にとって一片の希望になり得たかもしれない。そして、夏王朝の祖となった禹を助けたのは混沌の象徴である蚩尤を討伐した応龍であったことは、最後には理智が国家の苦難を乗り越えることへの確信だったかもしれないのである。

第四段 禅譲と世襲伝説への問いかけ

 禹は、その献身によって功なり、天下四方の治水を視察していた折り、どうして塗山氏の娘と出合い、桑が茂る台桑 (たいそう) の地で夫婦になったのか ? 三十年も妻のいなかった禹が結婚したのは後継者を得るためと思われるが、衆人とは欲望を異にしながら何故一朝の欲望を満足させることにしたのだろうか ? これは、四日後に妻を置いて視察に出かけたことを問うている。

 『淮南子』には、このような別の伝説が伝えられている。禹は「太鼓が鳴ったら弁当を持ってきてくれ」頼んでいたが、掘削中に石が誤って太鼓に当たって鳴ってしまい、山を穿つために熊の姿になった夫を見ると塗山氏の娘は驚きあきれて石に変身し、その石が裂けて子供の啓が産まれたという。啓の意味は「ひらく」である。石は地母神の最古の象徴と言われている (ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』) 。禹氏のトーテムが熊だったことが窺えるが、ちなみに楚の世家のトーテムも熊であり、屈氏はそこから分かれたのであった (竹治貞夫『憂国詩人 屈原』)


「禹像」河南省登封市、かつての陽城

 禹は堯や舜がそうしたように益に禅譲したが、この『天問』では、禹の死後、啓が益を殺して王位を奪うことになる。啓は益に代わり君主になろうとしたが、有扈氏 (ゆうこし) は服従せず反乱を起こした (『史記』) 。 益は啓の徒を排撃したが、啓には害を及ぼさなかったのは何故か ?  啓はどうして、それを乗り越え拘禁から逃れることが出来たのか ? 結局、諸侯は益ではなく啓に帰順するのだが、ここに堯、舜、禹と引き継がれた禅譲は、世襲制へと移行していくことになるのである。

 啓は夢に天帝の客となり祭祀歌謡の九歌と祭祀儀礼の九弁の楽を賜ったが、そのような者が何故、母の体を裂いて生まれ、母の身は砕けて命を終えたのだろうか ? これについて、洪興祖 (宋の学者・官吏) の『楚辞補注』では殷の始祖・契 (せつ) の母である簡狄 (かんてき) の胸が裂けて契が生まれたこと、屈氏の出身である魏の屈雍 (くつよう) の妻が右脇から水をながして腹上に子を生んだことを紹介して古の婦人が分娩の際に剖割して産む例を挙げているが (『三国志』) 、『楚辞集注』で朱熹は一笑に付している。

 この段にあるのは能力によって正当に選ばれ禅譲された益に対して、その地位を力によって簒奪 (さんだつ) し、母の命を奪って生まれた啓が対比される。賢臣が退けられ、不正で不孝な佞臣が権力を得ていく天道の矛盾を屈原は告発しているのかもしれない。啓が夏王朝の帝王位に君臨する一方で、闇の中に葬り去られた益の無念があり、それは、そのまま屈原の無念でもあったのである。

第五段 神仙の怪奇譚

 第五段は仙人や自然神の怪異が問われるが、それを単に迷信への疑惑とだけ捉えるのはどうだろうか。楚は南の地方の巫祝 (シャーマニズム) の盛んな国柄であり、屈原が作ったとされる『九歌』などは祭祀歌謡の曲であったことを考えるとそれを単なる迷信の否定と捉えることは出来ないのである。


白蜺嬰茀 (はくげいえいふつ)、
胡 (なん) 為 (す) れど此の堂においてする。
安 (いず) くんぞ夫 (そ) の良薬を得て、
固く蔵する能 (あた) わざるか。
天の式は従横 (しようおう) にして、
陽離るれば爰 (ここ) に死す。
大烏何ぞ鳴ける。
夫れ焉 (いず) くに厥 (そ) の体を喪 (うしな) える。

 王子喬 (おうしきょう) は白い虹に化して、うねうねと棚引いたが
どうしてこの堂の上に降りたのか。
崔文子は、良薬を得たのに大切にしまっておけなかったのか。
天の法則は陰陽と交わっていて
陽気が去れば人はそこで死ぬ。
大烏はどうして鳴いたのか ?
一体、王子喬の屍はどこに消えたのか ?

 王子喬は周の霊王の太子であったが廃位され仙人となった。王逸 (後漢の文人・官僚) の『楚辞章句』の注には、こうある。王子喬が白蜺 (げい/雲の色にして龍に似たるものとあり、雌虹とも言われる) となって堂の上をウネウネと棚引いている。弟子入りした薬売りの崔文子に薬を届けてやろうとしたらしい。しかし、崔文子は驚き怪しみ戈 (ほこ) を引いてこれを撃った。薬は落下し、あたりに王子喬の屍があったが忽ち大烏となって鳴いて飛び去った。するとその堂は青白い蜺となったという。


王子喬 三才図会

蓱号 (へいごう) 雨を起すに、
何を以て之を興す。
体を脅鹿 (きょうろく) に撰 (そな) えて
何を以って之に膺 (あた) る。

 雨の神・蓱号が雨を降らせるとき
どのようにするのか
一身両頭の鹿の姿でありながら
風の神はどうして雨に応じて風を吹かすのだろうか

 蓱号 (へいごう) は一説には太白神の精が降って雨師の神となったとある。その身は八足、両頭の神鹿である (林雲銘『楚辞燈』) 。風の神・飛廉には妙な出自があるけれど姿も変わっていて鹿身にして頭は雀の如く、角があり蛇尾豹文ありと述べられているという (『三輔黄図/さんぽこうず』南北朝時代の地理書) 。この飛廉と蓱号とが呼応すれば、雲が起こり雨を為すという。ただ、何を以ってこの説を屈原が持ち出したのか注釈者たちも検討がつかないという。

鼇 (ごう)、山を戴 (いただ) いて抃 (べん) するに、
何を以てか之を安んずる。
舟を釈 (す) てて陵 (おか) を行かば、
何を以て之を遷 (うつ) さん。

 大亀が山を背に載せて舞うのに
どうして蓬莱山を安定させられるのか
?
舟を置いて岡をいくように大亀が陸に上がったら
どうして蓬莱を移動させるのか ?

 天帝は北極の神・禺強 (ぐきょう) に命じて巨亀十五匹に根の繋がっていない蓬莱、方壺 (ほうこ) 、岱輿 (たいよ) 、員嶠 (いんきょぅ )、瀛州 (えいゅう) の五山を、六万年ごとに三交代で、その首に載せ固定させた。しかし、竜伯の国の巨人が亀を六匹釣り上げ岱輿と員嶠は北極に流れてしまったという (『列子』) 。あろうことか『列仙伝』には、その亀たちが蓬莱の山を負ったまま舞い踊ったとある。


蓬莱山 部分 東京国立博物館
狩野探幽 原画  林得、笹山成意 (模)

黄褐色の部分を修正している。

 ちなみに、インドの神話にも似た亀の話がある。クリタ・ユガ (黄金時代) にヴィシュヌは魚になり、次に蓬莱山を支える亀みたいに陸地を背中で支える亀になった。その背中の上のマンダラ山に巨蛇ヴァースキを絡ませて神族と魔族が綱引きした。この時、海中でマンダラ山を支えて、その攪拌を成功させたのが大亀だった。これによって「甘露」とその杯を持つ「神医ダンヴァンタリ」、「幸運の女神ラクシュミー」、「霊象アイラーヴァタ」など14の宝貴が生まれたという。


「ヴィシュヌ・アヴァターラ」挿絵 19世紀

画面中央 上から女神ラクシュミー、マンダラ山、
巨蛇ヴァースキ、水面下のヴィシュヌが変化した大亀、
画面左側に神族、右側に魔族たち。


 ともあれ、この大亀が陸に上がったら蓬莱山はどうするのか、あるいはどうなるのかという問いである。これは夏の中興の祖である少康が、父が殺された際に、母の胎内にいて難を逃れ、料理人や牧童として苦労しながら独力で勢力を拡大し、王朝を再興したという、最も困難な働きに例えられている (林雲銘『楚辞燈』) 。しかし、その指摘は、ちょっと跳躍し過ぎている。

 この段の問いかけについては、唐突な感が免れないものが多く、注釈者たちにも不可解であったようだが、何故そのような問いがなされたのかを考えてみる必要がある。

天問に流れる離騒の世界

 この『天問』には宇宙や天地の成りたちに対する疑問から始まり、屈原にとって大問題だった国家の衰亡に対する事柄が当然問われている。本論では夏の王朝について取り上げたが、他にも殷、周などの国々についても触れられている。その興廃は、どのように起き、それに対する天命はどのように下されたのか。天道とは誤ることのない正義なのか。屈原の心には疑念と自己の境涯にたいする憤懣が渦巻いていたことは想像に難くない。そのことは、この言葉に集約された。

天命は反則す。
何をか罰し何をか佑 (たす) くる

天命は定まりなくひっくり返りやすい。
何を罰し何を助けるのだろうか
?

 しかし、ここで第五段にある神仙の怪奇譚にはどのような意味があるのか、そこまで読み進めれば起こる当然の疑問である。繰り返しになるが屈原が暮らした楚の国は南方系の巫祝 (シャーマニズム) の盛んな国だった。当然神仙思想に馴染みやすい。

 ここで『離騒』における主人公霊均の行動が思い出される。名家に生まれ優れた才能と徳を持つ霊均は、佞臣の言葉に惑う王の愚行を諫めても、聞き入れられず、疎まれ排斥されるようになる。沅湘の川を渡り舜の葬られた九疑に赴き舜に義憤を開陳したが、答えはなかった。失望した彼は天門に昇るも門番に拒絶され、理想の女性 (理想の君主の比喩) を求めようとする。天への伴侶探しの旅は占いでは吉だったが、高貴な神巫 (かんなぎ) はさらに遠くへと旅立てという。飛龍に玉と象牙で作った車を曳かせて、空高く馳せたが故郷を見て御者は悲しみ、馬も進もうとしない。故国を捨てた今、彼は自死を決意する。

 受け容れられない諫言→ 聖帝舜への哀訴 → 天界への跳躍 → 絶望という流れになっているのである。

 つまり、この五段の神仙譚は『離騒』の「天界への飛翔」の部分における天界そのものへの反問と考えてもよいのではないだろうか。自分は地上に絶望し天界に憧れ、そこにを旅することを夢想したが、ついにはその世界に
留まることも叶わなかった。王子喬は鶴に乗って緱氏山 (こうしざん) の頂に現れたことで知られ、蓱号 (へいごう) も飛廉も鹿神として天空にあり、蓬莱山は秦の始皇帝も憧れた仙界だった。そんな世界は本当にあるのかと、そこに受け入れられなかった自分はどうなのかという問いであろう。

 ちなみに、紀元前5000年から紀元前3000年頃の黄河中流域に展開した新石器時代の仰韶(ぎょうしょう)文化の遺跡が発掘された時、貝殻で装飾された龍と虎の動物文が発見されている。張光直は『中国青銅時代』の中でこのように指摘している。古代の原始道教における龍と虎と鹿は三蹻(きょう)と呼ばれ、もし、蹻に乗ることができた者は、天下を自由に経巡ることができる (葛洪/かっこう『抱朴子/ほうぼくし』内編) と。

張光直『中国青銅時代』

張光直『中国青銅時代』

 そして『天問』の最後あたりでは蕨を食べながらついに餓死した伯夷 (はくい) と叔斉 (しゅくせい) に触れる。高潔な彼らが、周の武王に対して父文王の喪も明けない時期に殷を討伐することを諫めたことを述べ、彼らの高潔な行いとその悲壮な最期に触れている。彼らに共感する一方で、諫言を聞き入れず衰亡へ突き進む楚の国の未来を予言している。このように見て来ると一見バラバラに書かれた疑問のカタログの中にひとつの構造が透けて見えて来るのである。



夜稿百話関連リンク
+α4『李賀詩集』

流風一詩関連リンク
第8話 屈原『九歌』

夜稿百話
楚辞注釈

吹野安 『楚辞集注全注釈一 離騒』

吹野安 『楚辞集注全注釈一 離騒』

吹野 安『楚辞集注全注釈―九歌

吹野 安『楚辞集注全注釈二 九歌』

楚辞関連図書


『白川静著作集』第八巻
『楚辞文学』収載

●『離騒』
この長編の作者は、特定の人格というより伝統的に巫祝を行う集団の性格を代表しているという。その集団は、シャーマニスティックな自然宗教の性格そのままに古代の氏族制社会のなかで儀礼的な役割を果たしながら存続してきた。だが国家の体制が整えられていく中で現実の政治勢力との衝突が生じ排除されていったのではないか。そして、九歌のような宮廷舞楽に変容することによって余命を保ってきたのではないか。(白川静香『楚辞文学』) そのような軋轢のなかでは聖と俗、理想と現実、伝統と革新、純粋と妥協とが鋭く対立する。現実が絶望的なものであればあるほど、神話はその宗教感情を刺激し、ノスタルジアのなかで回想されていくのである。

●九歌
随書『経籍伝』には僧道騫 (どうけん) が楚音を以って『楚辞』を朗誦したと記されている。九歌が祭祀のための舞曲であるのに対して、日本の祝詞のように朗誦される辞があって、それが展開したものが『離騒』や『九章』であると考えられた。それは人麻呂の長歌が悲歌の要素を伴うものであることと似た成立過程があるという。

「九歌」のような祭祀歌謡は、江南の民の宗教歌舞であり、その詞章を宮中楽舞に相応しいように改編したものである。屈原が作者とされてきたが、実際にそれに手を染めたかどうかは不明らしい。その地域の神は「湘君」、「湘夫人」、「河伯」のみで、その他は一般的な信仰の対象であり、「雲中君」は雨乞いの楽舞だった。この「九歌」は地方のシャーマン的な祭祀から宮中の楽舞へとソフィストケイトされた。日本には、この種の楽舞はないという。「祈年祭/としごいのまつり」、「龍田風神祭」、「大祓詞」などはおよそ自然神をテーマにするが、祝詞を晶えるのみであるし、宮中の楽舞には「乞食者 (ほがいびと) の詠」があるが、本来は農耕儀礼の祝歌だという

他の国々である梁、晋、秦などの諸巫にもその祭祀歌謡があったという。斉の八神は極めて古いものと言われ、普巫は「九歌」における祭祀と比較的よく似ている。『楚辞』の「九歌」のみが残っているのは、それが大変優れたものだったからである。斉巫、楚巫、晋巫それぞれの祭神を紹介しておく。

斉巫楚巫 晋巫
天主東皇太一五帝
地主雲中君東君
兵主湘君雲中
陰主湘夫人司命
陽主 大司命*1巫社
月主 少司命*2巫族人
日主東君*3先炊
四時主河伯
山鬼
国殤+礼魂

*1巫社 (巫の結社と拠点)
*2巫族人 (祭祀を司る血縁集団)
*3先炊 (家政と火の神の祭祀)



●九章

九章のうち「惜誦/せきしょう」、「抽思/ちゅうし」、「思美人」までが漢北を舞台に懐王末年から襄王初年迄を、「哀郢/あいえい」、「非回風」が陵陽を舞台とし襄王七年から東遷以降を、そして「懐沙/かいさ」、「渉江/しょうこう」、「惜往日/せきおうじつ」が江南を舞台としていて、これらは八篇は『離騒』と深い関係がある。楚巫たちが都を負われ漂白の末に死地に赴く様が描かれているという。簡単にご紹介しておく。

●惜誦/せきしょう
忠誠を尽くして君に仕えたが、かえって佞臣の群から離され、小賢しく機嫌取りをすることも忘れた。名君が自分の心を知ると期待したが、ここに、かつての事を痛惜して述べ、憂いを表す。
●抽思/ちゅうし
聖と俗としての三皇五帝を我が君の手本とし、諫言を受け容れられず川に身を投げた彭咸 (ほうかん) を私の手本にしよう。北山に涙し流水に嘆息する。
●思美人
彷徨いながら心を和らげ南方の民が心改めるのを待つ。憤懣はあるが他人を頼みとすることはしまい。やがて香草のように芳香と光沢が入り混じり内から自然な美しさは滲み出るだろう。
●哀郢/あいえい
民は都の郢を追われ、流亡した。鳥は飛んで故郷に帰り狐は死ぬ時、もとの棲み処に戻る。我らは再帰を望むもそれは何時のときか。
●非回風
旋風が蕙 (けい/かおりぐさ) を揺るがすのを哀しみ、無実の罪を蒙った苦しみに胸が痛む。介子推 (かいしてい) の無垢な忠誠、諫死した伯夷 (はくい) ら非命を負った故人を詠う。
●懐沙/かいさ
死は避けがたい。今更、命は惜しまない。「忠を執り節に死せんとす」この言葉を君子に告げよう。長沙の石を懐いて自沈することを思う。
●渉江/しょうこう
自分は憂苦に満ちた生活を哀しみ、秋に山中に身を置く。変節して世俗に従うことはしない。しかし、我が身は愁苦し窮死するであろう。
●惜往日/せきおうじつ
昔は主君に信頼され、時の政治を動かし、先君の功業を奉じて民衆を照らし導き、法を明らめ正してきた。しかし、讒人たちの君をおおう罪の知られぬのが残念でならない。
●橘頌/きっしょう
神の生ましめた目出度い樹である橘。他の土地には移らず、この南国の楚の土地に馴染んでいる。そのようなあなたを師とし、手本としたい。


参考画像

応龍 「山海経」18世紀 ?

青龍紋瓦 方位を司る四神の一つ

仰韶(ぎょうしょう)文化の遺跡 東側に龍、西側に虎の文様が貝殻で象られている。(張光直『中国青銅時代』より)

コメント