


右 田淵句美子『異端の皇女と女房歌人』
跡もなきの浅茅にむすぼほれ露の底なる松虫の声
(式子内親王『正治初度百首』より)
人が訪れた跡もなく生い茂る庭の *1浅茅に心もふさぎ、浅茅に結んだ露の奥底 (の草陰) から聞こえてくる、人を待ちわびているような松虫の声よ
(奥野陽子『式子内親王集全釈』)
*1浅茅 (まばらな、あるいは一面のチガヤ)
こんな森閑とした歌を詠む皇女がいたのかと驚いた。それはある種、夢幻的な表現ではないのか。生涯の最晩年に病をおして作詠した『正治初度百首』のなかの一首である。今回の流風一詩は、定家や法然の恋人、隠遁し世に忘れられた皇女という伝説に彩られてきた式子内親王の真の姿とその歌をご紹介する。
式子内親王の周辺

長文斎英志 (1756-1829) 女房三十六歌仙
式子内親王 19世紀
日本一の大天狗と頼朝が呼んだ後白河天皇が式子内親王の父だった。権代納言藤原季成 (すえなり) の娘成子を母として久安五年 (1149) に生まれた第三皇女である。八歳の時に保元乱 (1156) が、三年後には平治の乱 (1159) が起きる。この十一歳の年に賀茂斎院に卜定 (ぼくじょう) された。天皇の娘は全て皇女だが、内親王ともなれば母や兄弟の身分、寵愛の深さによって天皇から詔が出される。式子の場合は卜定の直前に内親王宣下がなされた。賀茂斎院や伊勢斎宮には内親王でなければなれなかったのである。
亮子内親王と好子内親王という姉が二人いた。亮子内親王は一年ほど伊勢斎宮であったが、安徳、後鳥羽、順徳とそれぞれ天皇の *2准母となった後の殷富門院 (いんふもんいん) であり、殷富門院大輔という女房歌人を抱えた女院御所は文芸を賑わせている。好子内親王は伊勢斎宮として五年の歳月を過ごした。
*2准母 天皇の生母が亡くなっていたり身分が低い場合などに、后妃や未婚の皇族女性(内親王など)が天皇の母に見立てられる制度。内親王などへの優遇策という面もあった。

以仁王 (1151-1180)
蜷川親胤(模)19世紀
弟には守覚法親王 (しゅかくほっしんのう) と以仁王 (もちひとおう) の二人があった。守覚法親王は仁和寺御室 (門跡) となった高僧であり歌にも秀でていて、天皇家のために御修法を行う仏教界の一大権威だった。一方で以仁王は才覚と人望があったが勝手に環俗し親王にもなれず帝位に就ける可能性は高倉天皇とその皇子の安徳天皇の即位によって断たれている。ついに平家追悼の令旨 (りょうじ) を諸国の源氏と大寺社に送り挙兵した。だが宇治橋の戦いで1180年に敗死にする。このことは式子に暗い影を投げかけることになった。
斎院サロンと定家
洛中にある紫野の斎院御所は平安中期頃から宮廷・後宮サロンと交流しながら別の文化サロンを形成していて式子が斎院であった頃にも上流貴族の花見や歌の詠み合いがあり、夜更けまで詩歌管弦の会などが行われた。『藤原実家歌集』には、そんな記録があるが、実家は式子の母と同族の *3閑院流の人であった。また、斎院の女房と平家の公達との恋愛もあり歌の贈答が知られている。斎院御所は、こういった文化的雰囲気に包まれていた。(田淵句美子『異端の皇女と女房歌人』)
*3閑院流 藤原の道長の政権を支えた叔父の公季 (きんすえ) に始まる藤原北家の支流に繋がる一門。絶世の美女といわれた待賢門院璋子は閑院流の人であり、母成子の叔母であり、後白河天皇の母であるから式子の祖母にあたる。

再興された賀茂祭 (葵祭) で斎院の代役
となる斎王台
式子は斎院の頃を懐かしんだ歌を残している。
忘れめや葵を草に引き結び 仮寝の野辺の露のあけぼの
(式子内親王 『新古今集』)
忘れることがあろうか、いやあるまい。賀茂の斎院として葵を草枕として引き結んで仮寝をした野辺の神々しく清らかな露のしとどにおいた曙を。
(奥野陽子『式子内親王集全釈』)
野辺とは、みあれ野を指している。賀茂祭 (葵祭) に先だって神山 (こうやま) から新しい神霊をみあれ野の「御阿礼所」に迎え、本殿へ遷す秘儀とされる儀式がある。斎院は禊の後に賀茂神社の北のみあれ野に建てられた仮の神舘 (かんだち) に二葉の葵を枕にして一泊する。この式子の歌を踏まえたと言われる定家の歌がある。
思ひやる仮寝の野辺の葵草 きみを心にかくる今日かな
(藤原定家『続古今集』)
藤原定家が式子の屋敷に参上したのは二十歳頃と言われ、式子は十三歳年上であり、斎院から退下した後のことである。父俊成はすでに彼女の歌の師であった。式子が亡くなるまでの二十年間、定家は内親王家の家司として出仕し、女別当 (前斎院女別当/さきのさいいんのにょべっとう) 、大納言 (前斎院大納言/さきのさいいんのだいなごん) という二人の姉も女房として仕えていた。そして俊成の妹の子の吉田経房は式子の後見人となる間柄である。
式子が斎院を退下したのは斎院となって十年の歳月が過ぎた1169年頃だった。病気のためとされている。後白河院に庇護を受け、その崩御に際して荘園をいくつか伝領し、三条実房、吉田経房が後見となった。三十七歳頃 (1185) には准后 (じゅごう) となり官職への昇進を推薦する権利などを持つようになる。定家の御子左家 (みこひだりけ) が仕えていたのも式子の権勢や人柄を頼んでのことだったろう。隠遁し世に忘れられた皇女というイメージとはかなり異なる。(田淵句美子『異端の皇女と女房歌人』)
忍ぶ恋・火急の恋
式子の恋の歌をご紹介しておく。皇女が臣下に降嫁することは一部の例外を除いてまずないし、院政期には、天皇や上皇に嫁ぐ以外は不婚を貫くことが常態となっていて、式子も生涯独身だった。だが、「玉の緒よ絶えなば絶えね‥‥」という激しい恋の歌もあり、忍ぶ恋の歌も多い。相手はいったい誰か、興味の的となっていた。
忘れては打ち嘆かるる夕べ哉 我のみ知りて過ぐる月日を
(式子内親王)
打ち明けてはいない秘めた思いの恋であることを忘れて待つ人が来ない歎きに溜息のもれる夕べよ、私だけが知る恋の思いに月日だけが過ぎてゆく。
萩原朔太郎は式子の恋愛歌はいずれも名歌であり「上に才気発刺たる理知を研 (みが) いて、下に火のような情熱を燃焼させ、あらゆる技巧の巧緻を盡して、内に盛り上がる詩情を包んでいる (『恋愛名歌集』)」と述べ、定家の技巧主義に万葉歌人の情熱を混じたものだと指摘している。この点、サッポーの詩と比較してみたい。十一番目のムーサ (技芸の神) と呼ばれた古代ギリシアの女性詩人サッポー (前7世紀末-前7世紀初) が式子と同様に「小さな炎」から燃え上がる火急の恋を詠っている。
恋の衝撃
‥‥
舌はただむなしく黙して、たちまちに
小さき炎 (ほむら) わが肌の下を一面に這いめぐり、
眼 (まなこ) くらみてもの見分け得ず、耳はまた
とどろに鳴り、
冷たき汗四肢にながれて、身はすべて震えわななく。
われ草よりもなお蒼ざめいたれば、
その姿こそ、わが眼に息絶えたるかと
見えようものを。
【されど、なべてのことは忍び得るもの、げにも・・・】
(サッポー 沓掛良彦 訳)
「肌の下を一面に這いめぐり」という肉体的で生理的な表現に対して式子のそれは石という無機的な象徴を使っている。二人の性格や表現の違いが面白い。
さざれ石のなかの思ひの打ちつけに もゆとも人にしられぬるかな
(式子内親王『正治二年百首歌』)
小さな石の中に燃えている火のように私の恋の思いは忍んで燃えていたのに、その火は石を打ちつけぱっと燃え出すように急に燃え上がり、あの方に知られてしまったことよ。
恋人は誰か
式子と定家とを叶わぬ恋人たちに見立てたのは金春禅竹の謡曲『定家』だった。二人の悲恋が死後の執心となり葛が式子の墓を覆う話になっている。また、法然の消息に聖女房という女性に宛てた親密な手紙が残されていて、それが式子であることが分かったのは昭和三十年の事である。ここらあたりは石丸昌子『式子内親王伝』が面白く伝えている。
定家の日記『明月記』には九条兼実やその子の良経、式子らの家司として、寺社や内裏などへのお供、牛車の手配、他家への伝言と持病の咳病を抱えながら、まめまめしく働く姿が記されているという。良き夫、良き父の姿も窺える。一方で狷介不羈といわれる内面性も併せ持った歌人としての定家もある。

藤原定家 『明月記』断簡
式子は自分の歌の批評を定家に委ねることがあり、彼の歌も式子のもとにあった。それが恋歌であることもあれば誤解を生じることもあったかもしれない。このことは、その頃の主流となっていた題詠歌が大きく影響しているという。平安中期まで歌の多くは、その場、その時、その景色に即して歌われるものだった。しかし、平安後期、特に12世紀の『堀河百首』以降は、あるテーマが与えられ興味があろうとなかろうとその歌を詠む題詠歌が主流となる。女性であっても男歌を詠むこともある。これが技巧中心となる新古今への流れだった。つまり恋の歌もフィクションとして詠まれ得た。(田淵句美子『異端の皇女と女房歌人』)
見えつるか見ぬ夜の月のほのめきて つれなかるべき面影ぞそう
(式子内親王)
(自分の姿が相手に)見えてしまったのだろうか、あの人の姿を見ない今夜のほのめくような月につれない人の面影が添って見える。
*「見えつるか」の句は難解とされていて奥野陽子『式子内親王集全釈』では垣間見をしている男の立場を歌っているとしている。
どうも式子が亡くなった後の明月記には、かなり形式的な記述しかなく、喪失感をあらわすような文章はないようだ。というわけで定家は恋人リストからは除外されている。
一方、法然が聖女房という女性に宛てた消息とはどのようなものであったのか。専修念仏に帰入していたと考えられる式子は (一説には乳癌と言われる) 死の間際に法然の訪れを望む手紙を出したが、法然は長期の別時念仏を修していることを理由にその申し出を断るのであるが、途中で打ち切ってそのような要望に応じることはままあることだった。手紙には、なまじお目にかかれば亡骸に執着するとか、夢幻のこの世でもう一度会うことなど本当はどうでもよいことで浄土で待とうとお考え下さいなどと訳ありとしか思えない文面になっているという (石丸昌子『式子内親王伝』)。 だが、弥陀の他力を信じて念仏を唱えるようにも述べていて法然が恋人であったのかどうかは、この手紙一通では判断しようがない。ちなみに式子の夢の歌はかなり多い、「夢幻のこの世」を詠う一首ご紹介しておく。
つかのまの闇のうつつもまだ知らぬ 夢より夢に迷 (まど) ひぬるかな
(式子内親王)
ほんの短い間の闇の中で、現実の逢瀬さえまだ知らない私はうち続く夢の中をさ迷っている。
詩歌や絵画に心の安定を見出してきた式子は1201年に五十三歳頃亡くなっているが、その10年前頃から呪詛や託宣事件に三度も巻き込まれる。当時、式子は鳥羽天皇の皇女で大らかな子供好きの八条院暲子の屋敷に以仁王の姫宮などと同居していたが膨大な八条院領の相続をめぐって以仁王の姫宮を呪詛したという噂がたった。そのため式子は後白河天皇の押小路殿に移り、出家してしまう。その五年後に橘兼仲の妻が、亡くなった後白河院の託宣があったとして祭祀や寄進を要求した事件にも巻き込まれ、洛外追放の沙汰も一旦はあったが沙汰止みとなる (『愚管抄』) 。また、亡くなる前年には後鳥羽院の命で東宮守成親王の准母となって東宮を式子の大炊御門 (おおいみかど) 殿へ迎えることとなったが後白河院の晩年に寵愛を受けた丹後局がこれを呪詛したという。結局、式子の病気のためにそれは取り止めとなっている。
つまり晩年は、権力闘争に巻き込まれ、かなり暗くつらい時期があり、精神的支柱として法然がいたとしてもおかしくはない話ではある。
百首歌の横溢
式子には現存する百首歌が三つあり、勅撰集や私撰集のなかには、それら以外の今は失われた百首から取り入れられている歌も多く、式子の詠歌が膨大な数に上っていることが窺える。後鳥羽院が廷臣や女房ら二十三人に詠進させ、自らも試みた応制百首である『正治初度百首』には、式子もその下命に応じて百首の歌を送っている。ここに准母の問題が絡むことになる。
一般に内親王や后たちが斎院御所や自分の御所以外の内裏や摂関家などの男性歌人が多く集まる公的な場所に直接参加することは勿論、歌を詠み送ることも皆無だった。式子も、それ以前には一度も宮廷や摂関家の歌合や和歌会に参加していないという。いわば、その結界を超えたのである。
式子の歌は俊成や定家、家隆らの新しい和歌を求める歌人たちに伝わり、写され、読まれていたし、逆に式子も彼らの歌を知り影響を受けていたと考えられる。彼女は新古今の歌人たちのネットワークの渦中にあって、その歌人として技量を高め、その地位を確立していった。『新古今集』に入集された女性歌人の歌で最も多いのが式子の四十九首、ついで藤原俊成女(むすめ)で二十九首であったから突出していた。(田淵句美子『異端の皇女と女房歌人』)
女院や内親王が臣下を師と仰ぎ、男の廷臣たちと互いに歌の研鑽を積むなどとは式子以前にはなかったことだという。その意味で彼女は異端の皇女だった。そのような強い意志を持った彼女だが、仲の良かった弟も敗死し父は武家との確執に明け暮れ世は騒然としていた。こんな激動する時代の中で、はたして皇女としての幸福はあったろうか。彼女が最晩年、病に喘ぎながら歌に託した「露の底なる松虫の声」は鮮烈だった。

奥野陽子『式子内親王』
式子内親王の詳しい評伝となっていて、歌の数々も紹介されていて、内容の濃い著作となっている。式子宛ての法然の手紙については少し踏み込んだ記載がある。

石丸昌子『式子内親王伝』
式子と法然との関係に焦点があてられている著作で恋人関係ありきの前提で書かれているため小説的な面白さがある。

沓掛良彦『式子内親王抄』
西洋古典を中心に比較文学者として活躍した沓掛良彦は東洋の古典詩歌に関する著作も多く、その一環としてこの『式子内親王抄』がある。萩原朔太郎や与謝野晶子らの式子評も掲載されている。

奥野陽子『式子内親王集全釈』
式子の三つの百首歌に勅撰集にある70余首を加えたものの全釈となっていて素晴らしい労作である。

田淵句美子『異端の皇女と女房歌人』
前半を式子内親王に後半を王権に密着する女房歌人たちに関する内容が紹介される。啓蒙的な内容が多い著作となっている。








コメント