もう10年位前になるだろうか。日本文化の面影を探ろうと能や煎茶の世界を一瞥したいと思った時がある。能については観世流の吉田篤史さんが、わりに広島に来られていたので僕の個展の際に謡と仕舞を披露していただいた。息子さんにも参加していただいて良い思い出になっているが、もう立派な能楽師になられているのではないだろうか。
今回は、『能勢朝次著作集』第二巻にある『幽玄論』を中心に『能勢朝次著作集』第五巻・能楽研究、六巻・謡曲講義なども交えて世阿弥の幽玄をご紹介するつもりである。「物数をつくして、工夫を得て、珍しき感を心得るが花なり。『花は心、種は態 (わざ) 』」という世阿弥。その花を培う幽玄とは何か。かなりシャッフルして再構成してお送りしたい。
散楽から能への道行
奈良時代に大陸伝来の俗楽によって伴奏される様々な芸能が輸入されると、たちまち上下に広まり、宮廷や寺院などの余興に欠くことのできないものになった。それが散楽(さんがく)である。時代が降ると在来の芸能と交わりながら様々な芸が展開しはじめる。その演目のうち、寺院関係の行事で行われる芸は呪師(のろんじ/じゅし)あるいは咒師 (しゅし) と呼ばれる人々に、奇術や人形廻しなどは傀儡子 (くぐつし) たちに受け継がれ、曲芸や歌舞は田楽に携わる人々の芸となり、滑稽な物真似芸が狭い意味での猿楽に受け継がれた。広い意味の猿楽はこれら全てを含んでいた。このことは『翁とは何か』に少し書いておいたことだ。
この猿楽興行とは如何なるものであったか、平安中期の藤原明衡 (ふじわらのあきひら/989-1066) の『新猿楽記』の序に感動をもって描かれている。それは、歌謡・お笑い・演劇・サーカスの組み合わされた一大ページェントだった。要するに全ての鬱屈を流し去ってくれるようなすばらしい見世物であったのだ。「さるがう」とは「さわぐ」、あるいは、面白いことを言ったり、したりすることを指していた。そして、散楽の訛りが猿楽の語源と言われている。この猿楽の中から、二人以上の対話による滑稽劇が狂言になり、真面目な内容の歌舞を伴う演劇が能となった。
横道万里雄(よこみち まりお)さんの『能と狂言』によると、能は狭義には歌舞を伴う劇のことであるらしい。だから「田楽の能」という言い方も可能なのである。鎌倉幕府が滅んだ年に観阿弥は生まれた。大和猿楽の物真似に田楽や近江猿楽の長所を取り入れ、奈良の百万を祖とする賀歌女 (かがじょ) 流の女曲舞 (くせまい) 師・乙鶴について曲舞を我がものとした。この曲舞節はメロディーの美しさ、軽快なテンポ、リズムの面白さにおいて画期的であったといわれている。
こうして、本座田楽の一忠、彼に師事した近江猿楽の犬王太夫(いぬおうたゆう/?-1413)、一忠の幽玄風体を仰いで研鑽に努め、ついに一世を風靡した観阿弥(かんなみ/1333-1384)の猿楽は、その子の世阿弥(1363-1443)によって完成をみた。猿楽の全てを幽玄で貫いたのは彼であった。世阿弥は、この三人を皆、舞歌幽玄を体現できる達人である(『申楽談義』)としている。天下の名声を得た者は幽玄風の演者のみであり、古今東西の達人の芸風と見えるものに幽玄を離れた者はいない。民衆の普く好む所に一致することなく天下の名望を得ることは難しいが、その好みは、時、所で異なるようでも、名声を得た者の芸風は幽玄であった。幽玄な芸のみが長い生命を持続しているのだ(『三道』)という。
「そもそも幽玄の境とは、まことには如何なる所にてあるべきやあらん」。この自問に自答しているのは、『花鏡』の「幽玄の境に入る事」である。公家のたたずまい・有様が姿の幽玄、そして、貴人のやさしい言葉使いが詞の幽玄、それに続いて、節かかり美しく下りてなびなびと聞こえるのは音曲の幽玄、よくよく稽古した能の姿のかかり美しく静かな装いがあって見た目も面白いのは舞の幽玄、これらを覚えすましていれば物真似も幽玄から離れることはないとしている。かかりは風趣あるいは風情、風姿と一般に考えられている。能勢さんは女性のしなやかな髪の懸り、謡いなどにおける声調の趣き、神がかりなどとの関連を指摘している。悪霊などは「憑く」のであって「かかる」を使うのは神の場合だけだそうだ(『かかりの芸術的性格』)。つまり、演者の姿や声に乗りかかるアウラのことであろう。
まず、公家・殿上人のただ美しく柔和な様子、これが幽玄の体として俎上に乗せられるのだ。世阿弥は父である観阿弥とともに将軍足利義満にその芸を愛されたし、長らく関白であった二条良基にも多くを学んだ。彼等を通じて宮廷文化やその人々にも接する機会を得ていたであろう。かつての王朝美に触れ幽玄の境を認識することになるのである。能勢さんは、ここで語られる幽玄とは普遍的な民族情感であるという。
幽玄の基底. ―王朝美の姿と歌の心―
●王朝美の姿
「いろいろに咲いた植え込みの花に心が引かれるようで、立ち止まりがちに源氏は歩いて行く。非常に美しい。廊のほうへ行くのに中将が供をして行った。この時節にふさわしい淡紫 (うすむらさき) の薄物の裳 (も) をきれいに結びつけた中将の腰つきが艶 (えん) であった。源氏は振り返って曲がり角の高欄の所へしばらく中将を引き据 (す) えた。なお主従の礼をくずさない態度も額髪 (ひたいがみ) のかかりぎわのあざやかさもすぐれて優美な中将だった。」(『源氏物語』夕顔 与謝野晶子訳)
世阿弥は、猿楽(能)において女体が最も重要な姿であって、その中でも上々の風体というのは女御・更衣・葵・夕顔・浮舟などの貴人の女体であり、円熟した風趣のかかり美しく、幽玄無上の位であって、曲も妙声、所作も風情も最上のものでなくてはならないと書いている(『三道』)。また、その女体は、幽玄の根本風とも言うべきもので、その舞が幽玄美にあふれ、歌と一体となるなら、そこから妙体が遠見されるほどに理想的な「上果風の芸」となるという(『二曲三体人形図』)。
この妙体というのはひっかかる言葉なのだけれど、それはともかく幽玄の風姿は「平安時代の上臈の美しい舞姿」に最高度に発揮されると世阿弥は考えていたようだ。気品ある優麗典雅な美である。『源氏物語』に窺えるような王朝美の姿と歌の心が世阿弥の幽玄の基底にあったのである。この幽玄の情趣的展開によって舞台上に咲きいでるものが「花」であった。
「幽玄の境に入る事」の最後に世阿弥はこのように述べている。「ただ返す返す、身なりを心得てたしなむべし。然れば、究め究めては、二曲(歌舞)をはじめて、品々の物真似に至るまで姿美しく何れも上果なるべし。姿悪くば何れも俗なるべし。見る姿の数々、聞く姿の数々の、をしなめて美しからんをもて、幽玄と知るべし。この理(ことわり)を我と工夫して、その主に成り入るを、幽玄の境に入る者とは申すなり。この品々を工夫もせず、ましてそれにも成らで、ただ幽玄ならんとばかり思はば、生涯幽玄はあるまじき也」と。
●歌道と猿楽
「‥‥まず歌は、我が国風といってもよいものであるうえに、先哲のいろいろと書き置いた物にも、やさしく物あはれに詠むべき事とみえるのでございます。確かに、いかに怖ろしき物であっても歌に詠めば優しく聞えるようなたぐいでございましょう。それに、もともとやさしき花や月などを怖ろしげに詠むことに何の意味がありましょうか。ですから、この十体の中で有心体以上に歌の本意と思えるようなものはございません。それは極めて思い得難いものでございます。あれこれと詠んでみるような詠み方では、いささかも達せられるものではございません。よくよく心を澄まし、その一境に没入してこそ、稀に詠まれうるような歌なのです。ですから、よい歌と申しますのは、歌に心の深きものあるのみを言うのです。あまりに深く心を入れようとて、ひねり過ぎて嫌みな入り組んだ歌となり、それが堅固さのない姿だと心得られないのでは、心ないそれよりももっと情けなく見苦しいことでございましょう。この境が、ゆゝしき大事なのでございます。なおのこと、よくよくご斟酌あるべきと‥‥。」(藤原定家『毎月抄』)
ついで、言葉の幽玄と歌道との関係が指摘される。定家は『毎月抄』において、幽玄体・事然る可き様体・麗体・有心体の四つを以って和歌の「本の姿」とし、それを学べば後の長高様・見様・面白様・一節有る様・濃様などは容易に詠め、鬼拉(きらつ)体は難しいがそれも詠み得るようになるだろう。この十体の中で最も重要なのが有心体であるとして、続いてこう述べている。「何れの体にても、ただ有心体を存すべきにて候」と。能勢さんはこの定家の有心体は、世阿弥の能楽論における幽玄に当たるとして、能と和歌との密接な関係を指摘している。このことは後の禅竹においてより鮮明になる。
公家・殿上人の美しい姿にみられるように能の幽玄美を闡明にするのは女能であった。その女能の幽玄美が神能、修羅能、現在能を貫いているし、鬼人などは身なりは力動だが心の働き十にして身の動きを七にし、身体の動きと足の運びが融け合うようで姿美しければ、これも幽玄であるという。こうして、種々の物真似において、女能の幽玄美が展開されていく様子は定家の歌論における有心体と十体との関係に酷似していると能勢さんは言うのだ。幽玄の種を得るためには、歌道を習い、上品な仕立ての装いを学び、ことごとく物真似は変わっても美しく見える一かかりを持つことを世阿弥は挙げている(『花鏡』幽玄の境に入る事)。歌道は能作者・猿楽師にとって弁(わきま)えなければならない要件の一つだったのである。
本書には説かれていないけれど、興味深いので、ついでに書いておくのだけれど、世阿弥の著作である『六義』の冒頭は、古今集の真名序にある六義から始まる。その真名序にある六義(りくぎ)とは、もともと『詩経』の大序にある中国古代詩の6つの分類「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」を指していた。その世阿弥の『六義』には、古今集の註釈書である、いささかネーミングがよくないが『三流抄』や定家の孫である藤原為顕(ふじわらのためあき)が書いた『竹園抄』の内容が引用されている。この古今集註釈の引用は、世阿弥の作品にかなりみられ、その影響は見逃せないという (表章・加藤周一『日本思想体系24世阿弥・禅竹』) 。
そこには、天竺の礼文を唐土の詩賦 (韻文) とし、それをもって我が朝の歌とし、大きに和らぐ歌と書いて大和歌と読んだとあり、その文中に「羅什三蔵、彼の六義を伝えて、唐の詩賦とす。道慈律師(奈良時代の三論宗の僧)、彼の六義を日本に伝えて歌の六義とす」とある。羅什三蔵に眼を奪われた。「幽玄」の語を仏教で最初に用いた僧肇(そうじょう)の師である鳩摩羅什(くまらじゅう)のことだ。これについては、part1「僧肇から二条良基まで」を参照してほしい。礼文とは梵語のことのようだ。梵語は次回「禅竹の幽玄」における「六輪一露の記」で大きな役割を持つ。
ちなみに5世紀の末、劉勰(りゅうきょう)が著し、南斉の末期に成立したと推測される文学理論書『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』によれば、王者の徳化が一国を風のごとく靡かすことを詠うものを「風」、徳化が天下四方を正すことを詠うものが「雅」、王者の形容を神明に告げるものを「頌」というとある。王者という語を「幽玄」に置き換えると何となく風姿や風雅、風趣という言葉の意味が察せられるだろう。
演目の構成としての幽玄
江戸時代になると、『翁』は別格として、一日五種類の能が演じられることが正式になるが、それは、一般的に神能、修羅能、鬘(かずら)能、現在能、鬼能の五つであった。世阿弥は、「序の曲(一番目)は初めであるから誰でも知っているような内容の祝言で基本的なあり方の能であり、二番目は脇の申楽(猿楽)で、いまだ序の名残」としている。「四五番までは破であって色々品を尽くして事を成せ」という。そして「最後は急であり、破を尽くす所の名残の一体」と『花鏡』に書いている。一日の能演における曲目の配列は、序・破・急の原理、つまり音楽の進展上での原則がこの江戸時代にあっても守られている。
能勢さんは、音楽が優位にあるのだという。序は祝言の意の込められた脇能とも呼ばれる神能、破の第一段は源平武将の物語等を脚色した修羅能、演目の中心となる破の第二段には幽玄の最たる女能を、破の第三段は都鄙老若が見て感興をもたらすような人情味のあふれたものなど多様な雑能としての現在能を、最後の急は「乱舞はたらき目を驚かす風体」をもって華やかにその日を終える鬼能となっており、能の演目の配列においても幽玄美の情趣的展開となっているという。
猿楽の根幹をなすものは音楽つまり、音曲なのである。その太鼓、大鼓、小鼓、能管(笛)の音と謡などの声によって立ち上がるものが舞であり、それらが幽玄に貫かれたなら物真似も自然に幽玄の風趣を帯びるという。これから、それらを順次見て行きたい。
能の性根・音曲の幽玄化
音曲とは能の性根、つまり土台である。舞や歌にふさわしい素材を集めて、一曲の能を舞台芸術として構想する時、その基準も音楽の原理である「序破急の進行節度」に求められると能勢さんは言う。序は冒頭の部分で緩やかな静けさをもって演奏され、破は砕破の意味であって細かに万丈の変化を尽くし、急は急速なテンポで花やかに演奏して余韻深く終わる。三番叟のもみの段などはかなり激しい。音楽における序破急をもとに謡曲の構想もこれに準拠するという。基本は序一段、破三段、急一段の五段形式であり、脇能である神能形式、例えば「高砂」では、序に次第・名告・道行を、破第一段には一声・サシ・下歌・上歌を、破第二段には問答・掛合い・地の初同を、破第三段にはクリ・サシ・クセ・ロンギを配し、急の段には待謡・出端・キリを配する。このように一曲の構想が音楽の原理で作られているという事実は、普通の戯曲とは全く異なることを示している。一声、サシなどの解説は欄外の「能勢朝次著作 一部」に書いておいた。ただ、申し添えておくと、あくまで原則なので、これにあてはまらない曲もある。
「音曲には働く能というのがある。ひたすら静かな素材の音曲ばかりが主体の能や舞や所作のみの能は一面的であるから創作し易い。音曲・謡と一体となって所作する能が非常に重要である。真実、面白いと感じさせるのはこれである(『花伝第六』)」とある。演技が音曲の幽玄の匂いから立ち上がってその二つが混然一体となるためには詞章も舞台の演技を生み出すのに適した文句であることを第一とする。その節付けを幽玄にせよという。
「舞は声音から発することなければ感動はない。シテ (主役) が登場した直後などに謡われる短い謡である、匂いたつような一声から舞へ移る堺にこそ、その妙力はあるべきだ。また、舞収める所も音曲の感興につれて収まっていく段階がある。そもそも、舞歌の根本は如来蔵より出で来る。五臓より湧き出る息は、五色に分かれ三律二呂の五音・六調子となる。‥‥そうであるなら五臓より声を出すことに五体を動かす身体の働きがあることになり、それが舞のはじまりとなる。
‥‥こうして舞は音声の力がなければ感動を与えることはできないと心得るべきである。演じなれた舞も曲舞(くせまい)などの音曲にあわせて舞うなら勝手よく舞いやすい。笛鼓の拍子がなければ舞うことはできない。これは音の力によって舞うということではなかろうか」(『花鏡』舞は声を根と為す)とある。音曲によって観客を恍惚たらしめる一曲の山場は開聞(かいもん)と呼ばる。言葉の妙趣と音曲の妙感とが混然一体となる。それに対して演技の面白さに観客を瞠目させるのが開眼(かいげん)である。能はこれらを一曲の眼目とするのである。
世阿弥は晩年の『五音曲條々』において、音曲のタイプを祝言・幽曲・恋慕・哀傷・闌曲(らんきょく)の五つの種類に分けている。祝言は詩経にあるように民の「安んじて以って楽しむ」治世安楽を言祝ぎ、幽曲は祝言にかかりを添え、声をなびやかに音楽性を押えて情趣風韻を漂わせて幽玄美を豊醇ならしめとしている。恋慕の曲味は柔和なる中に哀れを添え、どことなく哀感を添えて凄みさえ感じさせる曲であり、幽曲にさらに哀れが加わる。例えば、『松風』や『班女』の曲などがよい例だが、謡曲の恋は、ほとんどすべて悲恋として構想されているからである。
哀傷はこの恋慕の曲味に亡き人を憶う「亡憶」の感を添え、哀れに感涙を催す曲である。そして、最後の闌曲とは歌道における強き位をさす「鬼を取り拉(ひし)ぐ」体(スタイル)であり、「万曲の習道を終え是非を一音に混じる類して等しからぬ声をなす位」である。如何なる風曲をも自在無礙に謡う名人の曲であるという。是非を一音に混じるとは正しい謡いぶりに通常禁止されているような悪しき謡いぶりをまぜるのである。離れ業といっていい。それは名人一人の謡いぶりであって「類して等しからぬ」、つまり他の者が一緒に謡うことは不可能なのだ。だが、この闌曲もまた、冷えたる曲、無文・無心の能によって越えられるのである。
謡曲(詞章)の幽玄
シテ 「すはや数添ふ時の鼓。
地 「後夜の鐘の音。響きぞ添ふ。
シテ 「あら名残惜の夜遊やな。
詞 「をしむべし をしむべし。得難きは時。逢ひ難きは友なるべし。
「春宵一刻価千金。花に清香月に影。春の夜の。
序ノ舞
シテワカ 「花の影より。明け初めて。
地 「鐘をも待たぬ別こそあれ。別こそあれ。別こそあれ。
シテ 「待てしばし待てしばし夜はまだ深きぞ。
地 「白むは花の影なりけり。よそはまだ小倉の山陰にのこる夜桜の。花の枕の。
シテ 「夢は覚めにけり。
地 「夢は覚めにけり嵐も雪も散り敷くや。
花を踏んでは同じく惜む少年の春の夜は明けにけりや翁さびて跡もなし 翁さびて跡もなし。
謡曲『西行桜』
「風さそふ花のゆくへは知らねども惜しむ心は身にとまりけり」 西行
能の西行桜には白居易の詩「灯をそむけて共に憐む深夜の月 花を踏みて同じく惜しむ少年の春」が引かれている。
謡曲は能楽の詞章である。それは名句をヴォーカリゼ―ションに乗せて幽玄な気分情趣を醸し出し、聞いて酔い、謡って飽かない文章が目指された。古歌・古詩・物語などの詩的な文章における著名な言葉は、シテの謡う部分、シテの風情なり演技なりに関係ある部分に多く用いられる。卑しく俗な詞は避け、優しく意味のすぐ理解できる詞、祝言・幽曲・恋慕などの曲の味わいに合わせた詩歌の詞を用いること、シテの風情・振舞いを生き生きと動かすことのできるような詞章を作ることなどが肝要だとされた。(『風姿花伝』花修)
この情緒的で時につぎはぎな謡の詞章を能勢さんは『能勢朝次著作集 第5巻能楽研究(二)』の中で、このように謎解きしている。室町の文化は、公卿貴族に伍するだけの教養のない成りあがった武家が京都に移った時、成金が骨董をあさるように、分からないなりに平安の王朝文化を消化しようとした結果だという。なかなか手厳しい。『源氏物語』を全て鑑賞する素養はなかったが、その有名な文や名句を味わうことで満足し、中国の古典を全ては読めないものの『和漢朗詠集』の短い詩句を知ることで甘んじた。自己の鑑賞し得る範囲で武士の文化と平安朝文化をつきまぜて一種変った文化を作り出した。それがあの足利義満の金閣寺であったというのである。ここが面白いのだが、鎌倉時代の詞を対話に、平安朝の名句を謡う部分にそれぞれ用い、それらを割合破綻なく融合させ、『平家物語』のような文章を狙ってつくり出したのものが謡曲なのだというのである。
謡いは文章を追うよりその文中に流れる気分の変化流動を把握し、それぞれの句の持つ力を考える必要がある。それは室町期に盛んだった連歌を考えればよく分かるという。連歌は名句を繋ぎ合わせて作る。前の句に対してその心を理解し、後の句は心情的なある種の繋がりをもって付けることが大切とされた。それが「心付け」である。前句と次の附け句の繋がりは、その二句間の気分情調の連なりの理解できないものには不明であろうと能勢さんはいう(『謡曲講義』)。この連歌の「心付け」については、芳賀幸四郎『東山文化』で紹介したい。同じように謡曲の語句の間の微妙な情緒的連なりを感得できなければ、謡の言葉の面白みは理解できないのである。part1で連歌の二条良基と世阿弥とが密接な関係にあったことは書いておいたけれど、良基が世阿弥に影響を与えたのであれば、連歌と謡曲とが幽玄を介してパラレルな関係にあると考えるのは根拠のないことではない。そうであれば、謡曲とは「心付け」の結合術であると僕は考える。
物真似の幽玄
「先祖観阿。[静(しずか)が舞の能、嵯峨の大念仏の女物狂いの能など、ことに名を得し、幽玄無上の風体也]と花伝にも有り。‥‥大男にていられしが、女能などには細々となり、自然居士(じねんこじ/半俗の少年僧が主役)などに、黒髪着、高座に直られし、十二・三ばかりに見ゆ。」『申楽談義』
世阿弥のいう物真似とはこのようなレベルを念頭においているのである。青少年時代の能の稽古は物真似をさせず、舞歌の習得練磨を徹底させるのが世阿弥のやり方だった。舞えば常に面白く、謡えば必ず感を催すというまで鍛え上げる。これが完成してから物真似を学ばせるのである。そうすれば、自ずとその物真似は、幽玄の風趣を帯びてくる。物真似の三体は女・老・軍の順番に習わせる。女人・老人・武者の三体のことで、幽玄とその歌舞が調和しやすい順となっている。この三体の物真似が悉く幽玄に貫かれたら、その応用として、例えば神舞の装いは老体を、天女や神女の舞は女体を、放下や砕動風の鬼神は軍体をもとに稽古を重ねる。
このように幽玄化を施された物真似とは、一体何を物真似たのかが問われると言う。物真似とはシテであれば面をつけた役柄にふさわしい振舞い・姿そのものになることである。能勢さんの答えは、はなはだ「幽玄」的な答えだった。能は対象そのものでなく、対象の本意を似せ真似ぶというのである。「物狂いは憑き物の本意を狂うのであった(『風姿花伝』 物学條々から 物狂)」。その本意は勿論無形態のものである。観客の持つイメージを越えた世界のものであり、それを感得し本意を表現することが物真似だというのである。『松風』の曲では、シテが若女の仮面、金銀箔で模様を表す摺箔と呼ばれる小袖を着け、その上に繻子(しゅす)地や綸子(りんず)地に「刺繍(縫)」と「摺箔(箔)」で模様をあらわした腰巻、その上に広袖の表着である白の水衣(みずごろも)の装束で登場する。豪華な衣装を白の質素な水衣で覆うのは「本意の構成的表現」であるという。それは、その役柄において組み立てられた理想なのである。
姿を持たない植物の精も超現実的な鬼神も想像的な天狗や妖怪も人間的な形に整えられ、その人間においても古典的な人物を似せ真似ぶ。扮装の華麗絢爛さも演技の舞踏的なことも物真似の原則と矛盾なく行われた。全て舞台上に「らしき物」を創造する働きであった。『松風』ならば松風らしき女性、『葵の上』なら六条御息所(ろくじょうみやすどころ)らしい女性が、鬼なら鬼らしく感じさせるものが舞台上に表出せられるというのである。「有る姿の中に、有るべきものが宿されている」。まるでヴァ―ルブルクの図像学を彷彿とさせる言葉だ。僕はここに能における物真似の姿の本質を見る思いがする。能勢さんは言う、観客が役者の姿の中にこうしたものの情感的映像を重ねることができるなら、たとえ客観的な姿が室町時代の女性の姿であっても良いのであって、けっして六条御息所に平安時代の衣装を必要とはしないのである。
有文と無文の風体から冷えさびへ
稽古鍛錬と工夫考案によって幽玄美は位風を高め、ついに最高位の妙花風に至るのであるが、それは無心の感、無位の位風であるという。音曲には、誰でもその美くしさを感得できるような品があって彩り連ねた、いわば文(あや)どられた有文の風体がある。あるいは、さして心動かす曲はないが、ただ美しくたおやかに聞こえ、幽玄の流れがほのかに漂うが如き無文の風体もあるという。「最上の無文」を世阿弥はこのように述べている。「聞いていて音楽の感興いや増して、しかも面白さが尽きないものであり、これを有文を究めて後の無文と知るがいい。これを上果妙声の位という。そうであるなら、無文の音楽は、[有文]を含んでいるがゆへに第一とする。これが最高の境地である「無得」である。有文の音楽は究められぬ所が残るが故に第二とする(『風曲集』)」と述べている。
成功する能に「見・聞・心」の別があり(『花鏡』)、「見」は演出花々しく、舞歌の面白く、幽玄美が観客の眼を眩惑させるような能である。「聞」は、しみじみした音曲の感興によってしとやかに面白く聞かせる能である。そして、「心」で成功する能とは「‥‥無上の上手の申楽(猿楽)に、数々の上演を重ねた後、歌・舞の二曲も物真似も謡曲の文辞の面白さである義理もさしてない能の、さびさびとした中に、何か感心のある所があるものを冷えたる曲ともいうのである‥‥是はただ、無上の上手が会得した瑞風かと思われる。これを、心より出来る能とも言い、無心の能とも、又は無文の能とも言うのである」と書いている。このように幽玄の深化の跡を辿れば、従来、幽玄美には含められなかった「侘び」「寂び」が能楽においては、やはり幽玄美の深化したものとして扱われていることが分かると能勢さんは言うのである。
世阿弥から禅竹へ
以上のように世阿弥は、能楽の全てを幽玄で貫いたといってもよいであろう。その意味で連歌において二条良基が幽玄の概念を多様に展開したのと同じ役割を果たしたと言える。そして、その極限は妙花風となり、ついに冷えたる曲、無心の能にまで昇華していくのである。
金春禅竹は世阿弥の娘婿であり、世阿弥が嫡男元雅を失った後、その期待をかけた名手であった。禅竹二十四歳頃、能楽秘伝書が授受されたことが分かっている。世阿弥の『六義』がそれであろうと言われているが、これは歌学と能楽とを結び付け融合しようという傾向が強い書であった。定家の秘伝書と仮託されていた『三五記』や『愚秘抄』などに禅竹は大きな影響を受けたようだし、それに加えて仏教の思想的影響は世阿弥のそれよりも鮮明になっている。
能勢さんは、世阿弥には一面に世間的な所があり、当時の上下にもて囃されるということ、及び自己に反省して心ゆく演技であればよいということに安心立命を得ていた。己が芸に自信を持ち、老後の花を咲かせることへと向かったという。他の信念にたよって安立を得ようとはしなかった。禅竹は芸そのものだけでは、自己に安住出来なかった所があるというのである。他に求める所がある。芸に対する自信に欠けたとも言えるが、自己の芸が深まれば深まるほど、かかる要求は強まったというのである(『禅竹が芸道安立の二大根源』)。だが、能勢さんが亡くなった後、世阿弥の自筆の『拾玉得花』が発見された。そこには「如何なるか常住不滅」とか、「妙音とは心行所滅」、「万象・森羅‥‥ことごとく、おのおの序破急をそなへたり」などの極めて宗教思想色の強い表現がみられる。この著作を世阿弥は禅竹に相伝している。それを考えると、おそらく禅竹は、その世阿弥の思想を受けて能楽を宗教的な思想の基(もと)に体系化しようとしていたのでないかと僕は思う。むしろ、そこにこそ禅竹の安心立命があったのではなかろうか。次回は、その「禅竹の幽玄」をみていく予定です。お楽しみに。
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