
范寛『谿山行旅図』 北宋
大陽山楷和尚衆に示していわく「青山常に運歩し、石女夜児を生む」
雲門匡真(うんもん きょうしん)大師いわく「東山水上を行く」
西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師は『正法眼蔵啓迪』の中でこう書いている。青山は常に運歩する。それが分からぬ奴には人間の常運歩は分からぬ。念々起滅し、昼夜に流れ通しに流れている刹那滅には、とんと心づかずにいる。「青山常運歩」と「東山水上行」は同じことであると。石女、つまり生まぬ者が常に生み、生まれた者はいつも不生の面目でいる。禅語の独特のレトリックは古来多くの人を困惑させてきた。正法眼蔵に至っては手がつけられない。どうしてそうなのか。
今回の夜稿百話のテーマは、道元禅師の『正法眼蔵』に関わる「文字」と、そこから浮かび上がる「あまねく世界」である。前回ご紹介した西有穆山『正法眼蔵啓迪(けいてき)』を補足するものなので、まだお読みでない方は是非そちらを読んでからご覧くださればと思う。そこでも少しご紹介した西谷啓治(にしたに けいじ)さんの『正法眼蔵講話』からパルメニデスの「一」と遍法界などを中心に良寛との関係も少し交えてご紹介したい。
良寛と正法眼蔵
良寛(1758-1831)は越後の出雲崎に名主の長男として生まれた。名家である。11歳の時、大森子陽の狭川(きょうせん)塾で儒学を学び名主見習いとなったが出奔、隣町の光照寺で出家、やがて、10数年の長きを備中玉島の円通寺に国仙和尚のもとで修行することになる。曹洞宗の禅寺である。
良寛は親しく道元の語録に接していた。『読永平録』という詩が残されている。当時、『正法眼蔵』は、今日のように一般に流布されておらず、写本のみが秘蔵されていた。彼が読んだのは『正法眼蔵』説もあるけれど、この詩に関しては『永平広録』か『永平略録』であったろう。良寛はこのように書いている。
春夜 蒼茫たり二三更
春雨 雪に和して庭竹に灑(そそ)ぐ
寂寥を慰めんと欲して良(まこと)に由(よし)無く
暗裏模索す 永平録
明窓の下 几案の頭(ほとり)
香を焼(た)き燈を点じて静かに披読(そどく)す
身心脱落して只だ貞実のみ
‥‥
五百年来 塵埃に委(まか)せしは
職(もと)より是れ法を択ぶの眼無き由る
滔々として皆な是れなり 誰れか為に挙する
古を慕い今に感じて心曲を労す
一夜燈前 涙留まらず
湿(うるお)い尽くす 永平古仏録
‥‥
しかし、良寛の遺墨には正法眼蔵の巻名を羅列したものがあるらしく、『正法眼蔵』を読んでいた可能性もある。嗣法の乱れが、卍山道白(まんざんどうはく/1636-1715)らの宗統復古運動を呼び起こした。こうした流れの中で永平寺五十世の玄透即中(げんとうそくちゅう/1729-1807)による『正法眼蔵』95巻本の出版事業が道元の五百五十回忌に因んで計画され、享和二年(1802)に「本山版」として刊行されている(大谷哲夫『道元読み解き事典』)。『正法眼蔵』の75巻に色々付け加えられ、整理されたものが95巻本である。良寛が『正法眼蔵』を読んだとすれば、40歳半ば以降ということになるのではないか。
良や 愚の如く 道 転(うた)た寛(ひろ)し、
騰々(とうとう)任運(にんうん) 誰を得てか看(み)せしめん。
為(ため)に附(ふ)す 山形の爛藤(らんとう)の杖、
到る処 壁間(へきかん)に午睡(ごすい) 閑(しず)かならん。
(水月老衲仙大忍)
良寛は愚者の如くだが悟道は甚だ広い
その淀みなく流れに任せる様子を誰が看得できるだろうか
(印可の) よすがに山形の藤の杖を与えよう
座禅していようと昼寝をしていようと、その場が寂静の世界である
国仙和尚は良寛に上のような印可の偈を与え、良寛は30半ばにして寺を出て40前後まで諸国を旅することになるのであるが、この旅の途中、円通寺の典座(てんぞ)であった仙桂の訃報を知らされる。典座とは、禅宗寺院の食事係である。容貌は古の僧のようであり、言葉少なく飾らず、ゆったりと話す人であり菜園を作り食事を作り続けた。それは真の道者の姿だったと追悼の詩を残している。
道元と老典坐

秋月龍珉『道元禅師の「典座教訓」を読む』
典座とはどのようなものなのか、その真の姿を自覚したのは他ならぬ道元自身であった。日本では、それがどのようなものなのか全く理解されていなかったのである。彼は典座のような労働に真の修行の一端を見た。それで、帰国後『典座教訓』という心得を書くのである。
1223年の四月、明全とともに宋に着いた道元は、しばらくその船に留まっていた。翌五月、そこに禅宗五山の一つである阿育王山の年老いた典座が椎茸を求めに来る。20数キロの道のりを歩いて来たという。日本産の干し椎茸は美味で知られていた。端午の節句が近いから修行僧たちにご馳走するのだという。
道元は「あなたのような年齢で典座のような煩わしい仕事を何故なさるのです。座禅し、公案を参究されればよろしいのに」と言った。泊まって行けという道元の誘いに「外国の人、あなたは、まだ弁道のなんたるかをお解りでない」という。道元は恥ずかしさを覚えて「どのようなものが文字なのか。どのようなものが弁道ですか」と聞いた。すると老典座は「もし、その質問の意味するところとすれ違わないなら、それが文字を知り、弁道を体得した人というものです」と答えて、納得がいかなければ阿育王山においでなさいという言葉を残して急ぎ帰っていった。

阿育王寺 アショカ王由来の柱頭
同年の七月、道元が天童山景徳寺 (天童寺) で無際了派(むさいりょうは/如浄の先代住職)のもとで修行していた時、その老典座がわざわざ訪ねに来てくれた。道元は感激して再び問うた。
道元「いかなるものが文字なのですか」
典座「一二三四五」
道元「いかなるものが弁道ですか」
典座「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう/あまねく世界は今まで何も隠していない)」
道元は自分が少々文字の何たるかを知り、弁道の何たるかを知ったのは実にあの老典座のお蔭であったと述懐している。

天童寺と千仏塔

天童寺伽藍 宋代には天童山景徳禅寺と呼ばれたこともある
著者 西谷啓治

西谷啓治 (1900-1990)
西谷は1900年、明治三十三年石川県鳳至 (ほうし) 郡 宇出津 (うつし) に生まれる。奥能登の出身だった。父は呉服商だったが、小学校に上がると両親と共に東京に転居。中学時代に父親を亡くし、自らも結核の為一年高校進学が遅れる。後に京都大学哲学科へ進むのだが、たまたま書店で手に取った西田幾多郎の『思索と経験』を読んだことによる影響が大きかったと言われる。それは「自分よりも自分に近いもの」との出会いであったという。自分を登高に誘うもの、自分自身の道になるものの発見であった。そこから、トルストイの情熱、親鸞の「愚」、小泉八雲の神秘を知った。
京都大学で西田幾多郎、田辺元に学んだ。ばりばりの京都学派である。1935年に京都大学文学部助教授となり。30代頃から相国寺で参禅するようになる。1937~1939年にはドイツのフライブルクに留学しニーチェとマイスター・エックハルトに関する論文を書いている。1945年に博士号を取得。主著である『宗教とは何か』は英語やドイツ語に翻訳され、とりわけ大きな反響を呼んでいる。彼の『正法眼蔵講話』は和辻哲郎や田辺元の道元理解を現在に引き継ぐものとして重要なものではないだろうか。京都大学名誉教授であられた。
言葉のロジックと禅
僕は思うのだけれど言葉とは分けることである。言分(ことわ)けすれば言割り(理)になる。仏と言えば仏とそうでないものに分けられる。衆生といえば、それとそうでないものに分けられる。つまり、その連続が「一二三四五」です。禅は、教外別伝(きょうげべつでん)と言って、教えから離れて、生きた働きから生きた働きへと法を伝えていく。何故言葉の世界を禅が嫌ってきたかといえば。分けられない世界を分割してきたからではないか。
見方を変えるとレヴィ=ストロースの『神話論理』からメルロ=ポンティが出した結論のようなもの、すなわち、言葉は世界にならって作られたのではなく、言葉によって世界が作られたとも言える。それなら、世界はマーヤ(幻影)のようなものではないだろうか。交通法規を作っておいて、それに従って人間が行動する世界、世界はそのように言葉によって限定されてきたと考えられなくもない。そんなロジックな世界を嫌った。だが、道元は言葉の力を信じている。そうでなければ『正法眼蔵』75巻はいったい何なのだと問われる。

(1908-2009)1973

(1908-1961)
『正法眼蔵』の「山水経」巻には、道元の言葉に対するこだわりの一端を見ることができる。先ほどの「青山常運歩」や「東山水上行」の引用である。これを無理会話(むりえわ)、つまり理解不能な言葉と見なすような輩は魔子六群禿子だと道元は罵っている。仏祖の悟りを示すものは究極的に言葉ではないと言うのが禅に限らず仏教の立場である。だが、道元は仏祖には理会話、つまり、理路を示す方法があるという。念願の語句というものがあり、語句が念慮透脱することを知れという。西谷は道元が禅の立場をそのまま押し進めながら教学としての思想を同時に押し進めてきたという。それが、『正法眼蔵』を中国・日本を問わず独自なものにしているというのである。
ずり落ちる色即是空

西谷啓治『正法眼蔵講話 一~四』
プラトンのイデア論には多様な円のイデアとして真の円という概念がある。本当の人間は「人間」のイデアであり、それぞれの人間は一種の断片、影にすぎないと考えた。誰それは人間である。これは本である。机である。そういうところから出発して、それらがあるとは何かと問いかけたところにイデアの思想が現われたと西谷はいう。不完全であっても人間と呼べるのは「人間」のイデアを分有(participate)しているからである。そういうイデアの本質、つまり神に向って完成していくという倫理的な意味においてもプラトンの思想は大きな意味を持っていた。それが、キリスト教における「神化/テオーシス」に影響を与えることになる。
これに対して道元と師の如淨との問答で表れているのはパーティシペイションというだけではないという。一つ一つが集まった全ては仏法の世界の中にある。「身心脱落(しんじんとつらく)」とは自分の身や心が抜け落ちることだけれど、自分の心身だけを問題にすると心理学的な範疇を出なくなる。そこで西谷は一切の身、一切の心を考えてはどうかという。それは現実にあるものだけでなく、遠い過去の、あるいは遠い未来に存在する、そんな可能な全てということを考えてよい。あらゆるものが存在している。そのための本質的な必要条件としての存在の場を考え、それが脱落することであるという。
カントのいうあらゆる経験の対象の先験的可能性と言い換えてもよい。いわゆる心というものが成立する場が破られ、踏み越えられる。あるいは、ずり落ちる。それが「色即是空」の意味することであるという。我々の身も心も空である。それが「身心脱落、脱落身心」であるというのだ。脱落というのはそれが成立する次元が自分から脱落してゆくことだという。「身心脱落、脱落身心」このような言い換えは道元には非常に多い。近年、科学者の中にこの存在の場を捉え「場の論理」として注目してきた人もいるのだけれど、そこからちゃんとずり落ちることができただろうか。
全宇宙が刻々動いている、それに任せて自分も生きる。一つ一つのものがそれぞれ動き続けている。青山も東山も刻々絶えず新たである。その中には生も死もある。絶え間なく生まれては死ぬ、生まれてくる中から滅んでいく。そういう生死の入り混じった姿が一瞬一瞬、一刻も変わることがない。全てが変化しながら同時にいつも変わらない。新たであるためには変わらないということがなければならない。変わらないということは、絶えず新たに証しされることによって成り立つ。つまり、絶えず新たな創造的な働きにおいて証しされることが必要であると西谷はいう。
パルメニデスの「一」
ギリシアのパルメニデスという人が「一」ということを言った。永遠の存在というのはThe Oneであると。本当に存在するのは「一」そのものであって「多」は影のような現象に過ぎない。ところが「一者」を見るためには心で見る他はない。しかし、人間は「一者」の外にあって、それを対象として眺めることができない。何故なら人間は「一者」の一部に過ぎないからである。多数のものを客観的に見ている心は、分別の心であり、その「一者」を知る心とは本質的に異なるものである。それを知るためには成り切るということが必要とされるという。
ここで、パルメニデスはエイナイ(在ること)とノエイン(考えること)とは一つだと言った。ハイデッガーにもそういう考え方があると西谷は言う。脱自という言葉はプロティノスに由来する。自分が自分というものからすっかり脱却した立場が本当に自分自身の故郷へ帰った姿だと。このように「一」と「多」、あるいは自己と他者という問題はパルメニデス、プロティノス、プラトンとギリシアだけとっても哲学において一貫した問題だというのである。

パルメニデス(BC 515-?)
これを仏教でいう遍法界から見てみたい。遍法界とはあらゆるものを包んであらゆるものに行き渡っている世界である。あらゆる存在するものをひっくるめた万物万有の世界である法界にあまねく行き渡った智、それが阿耨菩提(あのくぼだい)である。それは人間の知性ではない。妙法は、その世界を貫いてその中で生きて働いているものであり、対象的に掴むことのできないものである。それを知ることは、外から知るのではなく、その中から法を照らす光によって知ると言える。アウグスティヌスのいうイルミナティオを思い浮かべることもできる。
しかし、法を照らす光もまた法であり、法と智とは分けることができない。それを何で証するかといえば自分がその智によって目ざめさせられる、自分が何たるかを知る者になった、つまり自覚したということであると西谷は言うのである。仏教の場合、とりわけ本覚の場合、その智は同時に本来自性心、つまり、それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それは有為によってではなく無為によって自ずから知れる。それが『正法眼蔵』「弁道話」巻、冒頭の「阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり」の意味である。こうして人は、「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう)」つまり、あまねく世界は今まで何も隠していないということを知る。
石ころを支える無限
では、この法界という、いわば The One と個々に石がある水がある、桶があるとはどういう関係なのか。今度はそこが問題となる。本当に石ころがあるという実相を知るのは、身心脱落の時であると考えられる。そのもののありのままの姿、ものがそこにあるということに我々が自分を投げ入れた時、ものが初めてものとして在るということの本当の意味が明かされると西谷は言う。諸仏の世界に対して事物の世界とは一応分けて考えられるが、事々物々も本来は覚りの世界に属している。
石ころ一つがころがっていることは、「宇宙のあらゆる事物がそれぞれ自身である」ということと無関係に成り立っていない。人間の身体のように肺も心臓も胃も肝臓もそれぞれでありながら有機的に関係しあっている。心臓が心臓であるためには全体によって支えられていなくてはならない。心臓の働きの中には肺や肝臓も働いている。かくれた所でたがいに相即している、これを仏教では「相依相入/そうえそうにゅう」と言う。たった一音でも現在・過去・未来のすべての音に支えられている。それが一音成仏の意味である。たった一人の人でもたった一つの石ころでも無限の存在しているものと「相依相入」している。従って瓦も悟りも鏡も無二一体となる。そして、自分が悟ると言うことの中に他の覚りを助けるという意味がある。他受用三昧もあるのである。
花は花として赤く咲く
自(おの)ずと知る。これを自受用三昧(じじゅようざんまい)という別の観点から見てみたい。自受用三昧についても西有穆山『正法眼蔵啓迪』をご覧いただきたいが、ここでの自とは他のものに対していない立場、自分に相対する如何なるものもないということである。石も水も桶もそれぞれ絶対的に個別で一二三でありながらそれぞれが絶対的な仏の世界というわけである。石なら全世界が石、水なら全世界が水、桶なら全世界が桶となる。ここを押えておかないと『正法眼蔵』はわけが分からなくなるのである。
これだけ見ていると全く外界と遮断されていながらそれぞれのモナドが全ての世界を映しだしているというライプニッツのモナド論を思いださせるけれど、モナドには階層構造がある。中国の詩に「河は自ずから流れて山は自ずから緑なり(『唐詩選』)」というのがある。河はおのずから自然のままに流れ、また自ら流れている。そこには人間の意志の届かない自然というものが詠われている。河が河として自然であり、山は山で、また花は花として赤く咲く。誰も頼んだわけでもないが咲く。
ふつう人は、自己と対象を区別した中で自己を立てる。しかし、河が自ずから流れ、自ずから然りという所に人間が自ら然りということで河と一つになることもあるのではないか。自然の中に人がすっかり自己を投げ込む。この自ずからというところに自を見出せないかと西谷は問う。あらゆるものと一つで、そのものになりきるということ。つまり、三昧の世界である。そうすると河が流れるということにも自己の遊化(ゆけ)ということが出てくるのではないか。
法界のあらゆる出来事は、赤ん坊が自分の指をくわえるのと同じことで、自分が自分を使う。自分が自分を証すると言ってもよい。それが一つの基礎的な姿である。他の人間が相対の世界で色々なことをする、そのことがそのまま唯仏与仏となる。そのこともまた「自受用三昧」の意味となる。こうして、自分で自分を自由にしてゆく。自というおのずからとみずからが一つになった立場、その点を突き詰めて行けば本当の自己、自己本来の面目、父母未生以前の自己、天然自性心、各人に本来具足している本心本性といった自己の立場を自覚するのではないか。それがないと「身心脱落」の「脱落」は出てこないと西谷はいうのである。
毬つき三昧
三昧とはそれに成り切ることである。楽器を練習していて、上手になれば楽器を意識せずに演奏できるようになる。自分が演奏しているのか楽器が演奏しているのか‥‥それさえ意識していない状態。その状態を音楽が音楽を音楽するとも言える。何でもいいのです。ゲームがゲームをゲームするということだってある。ただ、そこにあるのは子供たちの遊ぶときのあの真剣さのようなものではないだろうか。
毬子 (きゆうし/まり)
袖裏 (しゅうり) の毬子 直 (あたい) 千金
謂言 (おもへら) く 好手にして等匹(ならぶもの)無しと
可中 (かちゅう) の意旨 若し相問はば
一二三四五六七
袖の中のまりは値千金
思えば 見事な手並みは並ぶものなし
そこの極意をお尋ねあらば
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな
良寛

梁楷 『布袋和尚』 宋
機会があって広島市立図書館で井上ひさしの『道元の冒険』を手に取ることができた。道元をパロディ化した戯曲で1971年の出版である。パロディなのだけれど、道元の思想にかなり深い理解があるのが感じられるよい作品だと思う。こういった仕事が日本の古典でもっとあるといい。


西谷啓治『寒山詩』
凡 (およ) そ我が詩を読む者は
心中 須 (すべか) らく護浄すべし
慳貪 (けんどん/けちで冷淡) は日に継いで廉く(きよく/私欲なく)
諂曲 (てんごく/心を曲げてへつらう) は時を登 (お) つて正しからん
驅遣 (くけん/追い払う) して悪業を除き
帰依して真性を受く
今日 仏身を得ること
急急如律令 (にょりつれい) ならん
寒山詩の冒頭にあげられるこの詩は禅の境地をよく表していると言われる。白隠には『寒山詩闡 (せん/明らかにする、広める) 提起聞』があり寒山詩の評釈において極めて優れているという。白隠によればこの詩は「勧発 (かんぼつ/仏道の発心を勧める) を以って皮体とし、護浄を以って骨肉となし、見性を以って心髄となす」と述べている。寒山詩は文学と宗教の二つの領域にまたがる偈であり、真の宗教詩と言われ、多くの詩人たちからその詩句が援用されている。黄庭堅は禅を学んでいた晦堂祖心 (まいどうそしん/1025-1100) に寒山詩に和韻するように言われたが自分には一生二生かかっても出来ないと答えたと言う。この詩集がどのように編纂されたのか、作者が誰なのか、何人なのかも分かっていない。
人は問ふ 寒山の道
寒山 道通ぜず
夏天 氷未だ解けず
日出でて霧朦朧たり
我に似するも何に由りてか届 (いた) らん
君と心同じからず
君が心 若し我に似たらば
還 (かえ) って其の中に至るを得ん
寒山は天台山のどこかにある山だが、この場合は心の寒山である。寒山の中に至るためには、その中心へ、心へと躍入する他はない。描かれた寒山の風光は寒山の心境でもある。山と心と人とは一つなのである。
寒山寒し
氷 石を鎖 (とざ )す
山の青木を蔵し
雪の白きを現ず
日出でて照らし
一時に釋く (とく/溶ける)
これより暖かし
老を養ふ客
重厳の中
清風足る
扇搖かず (動かず) して
涼気通ず
明月照らし
白雲籠 (こ) む
独りみずから座す
一老翁
老の極まりを窮めるということは一層難しいと西谷は言う。そのとりとめもない茫洋の内にどことなく象外の気が漂う姿がここにある。凝ったレトリックはなく平易な言葉であり、仏教の法理や禅理も捨て去って登り詰めた一つの高次な世界がある。明澄の中にほんのりと温かみがさす。

西谷啓治『宗教と非宗教の間』
「行ということ」、「宗教と非宗教の間」、「禅文化の諸問題」、「禅の現代的意義」他9篇収載。
「行ということ」から少しご紹介する。
近世、近代における根本的特徴は「行」という契機が失われたことであると言う。科学的な客観的知が支配的となり、客体についての究明と主体の自己究明が切り離せないような知が失われていった。知の過程で知る自己自身も内から変えられてゆき、その変えられた自己からさらにその事柄の一層深く広い理解が生じるような、「主客合一」の次元の知であり、外へも内へも広がるような知である。そこでは自己を知るということと何かを実際に体でするということが結びついていて、心身を挙げての自己全体が余すところなく集中されていくということである。「知行合一」としての知でもある。芸術やスポーツが精神力も育成すると言っても自己究明までは含まれないのがふつうである。合理性が身体性や情意といったものを切り離していけば全人格的統一性は損なわれ、知・情・意はバラバラになり情意の低迷や暴発が起こる。
かつては「道」としてのそのような「行」が行われていた。法を会得するための道は身体的な行いであるだけでなく明確に方法を持っていた。それはある「かた」へ自らを限定し逸脱する自己を矯めるということだった。「かた」は勝手に作り出したものではなく、自然の内にある理法のようなものに人間が出会い現成してきたものではないか。同時に人間がその理法を実現し、実現することにおいて知る、つまり知行合一的に知ることだと言う。行は道を行くことであり、道を行くこと自身が道である。身体という最下層へ、しかもその時、その時の行いのうちへ、現成してくるような絶対が真に絶対であるという。

佐々木徹『西谷啓治 思索の扉』
佐々木さんは英文学者、京都大学文学部英文科ご卒業後、京都大学で教鞭を執られた、同大学名誉教授であられる。西谷啓治さんに私淑され、国際日本研究所での『正法眼蔵講話』の筆録を依頼されたりしている。本書は西谷の『宗教とは何か』が解説されているのでご紹介する。
近代はどんな宗教にであれ、無関心を生み出したが、それも宗教との関係との一つである。近代以降の宗教哲学は神に直結する理性、絶対依存の感情、神を見る直観と言った人間に内在するものに依拠してきた。しかし、やがてそれらは不可能になる。人間は「死せる物質の海に浮かぶ孤島のようなもの」となった。その破れは、逆に突破として捉えることもできる。その突破のために従来の西洋哲学にはない基本概念を東洋の仏教の中に見出だそうとした。では、どのように。
宗教の解明を「実存の実在的な自覚」から行おうとする。科学法則、経済関係などの実在や家庭での妻子といった多様な実在があるなかで自身の実在に触れることは稀である。自我自身が一層根源的な自己自身になること、根源的な自覚が求められる。仏教における「大疑」によって意識の次元ではなく自己自身が生まれ変わるという変化が起こらなければならない。最後の機縁は自己の計らいを超えたところから現れる。どんなに忙しく現実に縛られようと自己の根底は虚無である。自覚は虚無と深く結びつく。虚無に出会ってはいないという人も出会わないと言う仕方で虚無に出会っていると言う。その人の「存在」が虚無に出会っているからである。全てのものの跡形を留めぬ虚無が無常である。仏教の無は「無我」であるが、サルトルのように虚無の上に立つ実存主義は自ら依って立つ何ものもないことから自由を保障する。だが、この無は自我の根底にある壁のように自我を自我の内に閉じ込めてしまうという。それ故、脱自性がキータームとなる。自覚や意識と全く一つということは全体的にその内にあり、絶対無ということでは脱退的にその外にある。その全き内と全き外とが一つなる時、有即無と言われる。それは道元禅の核心とも言えた。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈
「山水経」から少しご紹介する。
山水経は蘇東坡の悟道の偈「谿声すなわち是れ広長舌 山色あに清浄身 (しょうじょうしん) に非ざるや 夜來八万四千の偈 他日如何が人に挙似 (きょじ) せん」の縁から述べられている。青山流水の自然が一大蔵経、尽大地尽法界が全自己の経巻、全仏祖の経巻という意味であると言う。仏法の而今 (いま) に山水は全自己の山水であり、仏も法も、有も空も寄りつけぬ空劫已然の面目である。山水は聳える山、流れる川に限らない、露柱も灯篭も、三頭八臂も熊さん八っつあんも、人々の四大五蘊にいたるまで全体ひっくるめて山水と言われる。もしこれを山、これが川というように一つ止めたら、それらは朕兆未萌の面目を失う。皆影像である。この山水は無碍自在に変通して現前一切諸法と表れるのを「山の諸功徳」という。
およそ山は国境に属していると言っても山を愛する人に属しており、山、主を愛する時、かならず聖賢高徳は山にいるものである。あるいは賢人聖人の水に住む者もある。水に住む時、魚を釣るものもあり道を釣るものもある。自己を釣るもの、釣を釣るもの、釣につられるもの、道に釣られるものもある。船子徳誠 (せんすとくじょう) は薬山の法嗣で雲厳、道吾と同参だった。会昌の廃仏 (9世紀半ば) に会って華亭江に逃れ船頭をしていたが法器がいればよこしてくれと二人に頼んでいた。道吾は座主の夾山善会 (かつざんぜんえ) を送った。以下その問答である。
船子 なんの寺に住んでおる。
夾山 寺には住んでおりません。住んでおれば言い得ません。
船子 では何と言うのだ。
夾山 目の前にそのようなものはありません。
船子 何処で学んだのだ。
夾山 耳や目から得たものではありません。
船子笑って曰く 言い当てれば、永遠に言葉に囚われる (繋驢橛/けろけつ/驢馬を繋ぐ杭) ぞ。
船子 大魚を釣るための糸は千尺の深さにあるというが釣を離れて三寸先を言え。
そこで夾山が何か言おうとすると船子は橈 (かじ) で夾山をぶちのめして川に叩きこんでしまう。夾山が舟に這い上がろうとして何か言おうとするとまたぶちのめされる。言葉で説明できず夾山は首を垂れて大悟した。夾山は離別の情に堪えず何度か振り返ると船子は「貴様は、まだ不伝の法があると思うか」と言って舟を覆して溺死された。非常な行跡と言うほかない。「魚を釣り、人を釣る」とは道に釣られることであると。

澤木興道全集 第八巻
正法眼蔵講話(座禅箴・仏向上事・恁麼)
「恁麼」とはあれ、それ、あのとかいう意味である。自分が生まれた九州では「あぎゃん」という言葉を使う。「あぎゃんとって、どぎゃんですかい」「あぎゃんとって、あぎゃんばい」と言う具合である。お客さんがくると「あのナニが‥‥」「ナニって何です」「ナニって、あのナニじゃがな」。ナニという言葉には何でも入っている。口では言えないことを言う。「恁麼人恁麼事を作す」ナニがナニをするとは、仏祖の児孫は仏祖の行持に習うべしという意味である。日本の職人はその芸当をみな嫡々相承面授したもので、大工の教科書があって大工をしたわけではない。昔は皆見習いで、それを 教えてくれた者を受業師と言った。そういうふうに法が伝わった。法が伝わるということは形が伝わるということである。この形がよく身に付いた時、それで心を抜きにするものではないと興道師は言う。

澤木興道全集 第九巻
正法眼蔵講話(行持)
行持とは、無量無辺の諸仏の行持である。「仏祖の大道、必ず無上の行持あり、道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり」。道環という言葉は『荘子』にあり、羅什三蔵の高弟であった僧肇 (そうじょう) が『無明論』の中で取り上げたことで知られる。道は法で仏法、環は「無終中虚にして是非の依るべきなし」を言うとある。中虚は道教の概念から借用されている。古今縦横に大道がめぐる。「仏仏祖祖、仏住し仏非し、仏心し仏成して、断絶せざるなり」とある。それから各祖の行持が紹介される。
例えば、趙州は「一生涯叢林を離れず、十年も五年も黙っていても人はお前たちを唖漢とはよばぬ」という。黙って始めなく終わりなく只管打座するということは諸仏と同体であるという。同体であれば諸仏もお前たちをどうすることも出来ぬ。それは一生座禅が身に付いたということである。さらに説法は続く。達磨大師が唐土に来たのはどのような意図からかと聞かれれば「庭前の百樹子(柏楨の木)」と答え、涅槃経ではものみな仏性があると説いているが、犬にも仏性があるのか無いのかと問われれば、「無い」と答え、また別の機会に同じ問いを投げかけられれば、「有り」と答える。」有るも無いも区別がない。「無い」なら全てが無く、「有り」なら全てが有る。それが唖漢の意味であると言う。趙州の行持とはこのようなものだった。寝ても覚めてもの行持が欠ければ、その時は死人だと興道師は述べる。行持の一服は仏道の土佐衛門であると。「偏界一叢林」。

百樹 (柏楨の木)、イブキともいう。

大谷哲夫 編著 『道元読み解き事典』
本文中の永平寺五十世の玄透即中による『正法眼蔵』95巻本の出版は本書から引用させていただいている。

井上ひさし『道元の冒険』
「道元の冒険」、「十一匹のネコ」、「うかうか三十、ちょろちょろ四十」収載
1971年発刊の本書は二幕ものの道元禅師を主人公とする戯曲でパロディ―なのだが、なかなかに面白い作品になっている。例えば般若心経の歌は最近YouTubeなどで紹介されているけれど、ほぼ半世紀前に般若心経のコーラスが登場している。舞台は深草の興聖寺、叡山の攻撃に備えるべく弟子たちを前に叱咤する道元は何故か眠ってしまう。夢中説夢が始まるのである。警官を前にして禅の僧侶の夢の話をする男の姿に代わっている。婦女暴行の罪で留置されている。その男は現在の宗教者らしく末法の世を愁い、男女の婚合によって人の血を清めようとしているらしい。精神鑑定を受けるのだが、小説のタイトルだけを羅列して身の上を語ろうとする。
「やがてわたしは『千羽鶴』を折り『蓼食う虫』を『飼育』し『青春とは何だ』と『人生の探求』そして『田舎教師』になりました。あるとき――『帰郷』した『伊豆の踊子』と『浮雲』の下の『青い山脈』こえて『おはよう日本海』と言いたくて『海辺の光景』を見に行きました‥‥」
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