第74話 ミルチャ・エリアーデ『太陽と天空神』お天道さまと雷電と豊穣の牡牛

宗教学概論1
ミルチャ・エリアーデ『太陽と天空神』

第一章 概説
第二章 天空ー天空神、天空の儀礼と象徴
第三章 太陽と太陽崇拝


 ミルチャ・エリアーデの宗教学概論が如何に素晴らしい著作であったかを思い知らされる。まず何よりも、その視界の広さと高さである。寡聞ながら、世界の宗教をこれほど高みから俯瞰し得た著作は他に例がないのではないだろうか。

 多分、その理由は、歴史と地域性との差異から神・神聖の顕現、つまりエピファニーの普遍的性格を担保していることにあると思う。時間的にも場所的にも異なる事象を扱いながらエピファニー自体の内容とその表現には似た性格があり、その点で平等であるという観点に立っているからだ。呪術的・宗教的博愛主義ともいうべきもので、大胆というか天晴れというか、原始信仰から高級宗教へという進化論的仮説は廃棄されている。この設定はそうない。そして、差異は差異としながらもエピファニーという紐で繋ぎ合わせようとしている。


左 シヴァ・リンガへの献花 ヴァーラーナーシー
中 シヴァ・リンガへのミルクの奉献   ディーワーリー祭
右 ヨニ・リンガ 大理石 マディア・プラデーシュ インド

           

         例えば、シヴァ・リンガを崇拝するほとんどの信者が、それをファロスの祖型としてしか見ないとしても、少数の奥義に達する者たちとっては、宇宙の規則的循環と創造と破壊の表象=イコンであり、それを通して原初の統一へと帰還し再生することを可能にする形態なのである。エリアーデは、そのどちらの見方もシヴァによって顕現される聖の現実的様態として肯定する。このような多様な見方をひっくるめてシヴァへの信仰なのである。エリアーデの考えている聖性とはこのようなものなのである。

 今回の夜稿百話は三巻本である宗教学概論の第1巻『太陽と天空神』をプロットしてご紹介する。「抽象化されていく天空神」と太陽神、そして、それを補完する天の牡牛と死者の圏域に関わるテーマをご紹介したいと思っている。それは、天空の太陽のように回帰する歴史の中に残存するイメージたちでもある。


ミルチャ・エリアーデ



ミルチャ・エリアーデ1907-1986
ルーマニア古典文学の路地

 宗教学・民族学者であるミルチャ・エリアーデは、1907年ルーマニアのブカレストに生まれた。父親は職業軍人で顕学の文人エリアーデ=ラドゥレスクを敬慕し、イリミア姓からエリアーデ姓に変えたという人らしい。母のヨアナはブカレスト近郊でハン (隊商宿) を営む家の出身だった。

 14歳にして幻想短編『私はいかに賢者の石を見つけたか』が全国高校生コンクールで一等になるなど早くから文才を発揮している。この早熟さは、フレイザーを読むために英語を学び、ヘブライ語、ペルシア語といった言語習得にも発揮されていった。ブカレスト大学文哲学部に入学。『生誕の災厄』で知られるエミール・シオランと友人となった。比較宗教学、神秘主義、極右主義で知られるナエ・イオネスクのクラスに入りその影響を受ける。

 卒論は意外にカンパネラ論「ルネサンス哲学への寄与」だったが、博士課程ではインド哲学、特にタントラ・ヨーガについて研究し、このヨーガに関する論文で博士号を取得した。この博士課程での研究のためにインドに留学し、カルカッタ大学で『インド哲学史』を書いたスレンドラナート・ダスグプタのもとで学ぶようになる。この教授の家に下宿したが、その娘マイトレイと恋に落ちた。しかし、この関係は認められず教授の家を追放されることになる。この失恋は痛手だった。ヒマラヤ山麓のリシケシュの僧院に半年も籠っていたが、その失恋体験は後に小説『マイトレイ』に結実し、エリアーデの名声を世界的なものにする。人生いろいろだった。エリアーデにとって学術研究と小説の執筆は、その一生を駆け抜けるための両輪と言ってよかった。


リシケシュの街並み

 インドからの帰国後はブカレスト大学でナエ・イオネスクの助手を務める。両大戦の戦間期には、師のイオネスクの影響もあったのだろう、ナショナリストと極右の思想に染まっていた。そして、新たな右翼の思想で実存主義を基礎に置くトレイリズムにエミール・シオランやコンスタンティン・ノイカと共に染められていた。政治的理由で短期に投獄されたこともある。

 1940年にルーマニア政府によりロンドンに文化担当の大使館職員として派遣され、その後もリスボンの大使館で勤めた。第二次世界大戦後は、パリに移住、フランスで活動する。その後1956年からシカゴ大学で教鞭を執り、1986年に同地で亡くなっている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   


天空神 主権者生殖者の天空神 あるいは「天」と「牡牛」


 天空神は、二つのタイプに大きく分けることが出来る。この二つの型は、純粋に並行して存在しているわけではなく、絶えず交差しながら進展していると言える。一つは、世界の主であり、絶対的な主権を持ち、法を順守させる全知の存在というタイプ。もう一つは、男性性を強く持つ、創造者、大地母神の夫、雨をもたらす者としての天空神であり、生殖神となることによって月や大地と関わる大女神の要素を吸収していくタイプである。

 とはいえ、主権者が雨を配する存在であることもあれば、繁殖をもたらす存在が専制君主である場合も当然ある。だが、大きな傾向として、天空神は、その受動的な性格から、もっと具体的で人間に近い具体性を求められるのが常のようだ。簡単にいうとご利益を求める身近な対象が必要とされた。ここからは、インド・ヨーロッパ語族の文化的地域をいくつかに区分して、上記の二つのタイプをご紹介していく。


1.  インド/ ディアウス → ヴァルナ → インドラ


ディアウス

 全アーリア種族に共通の仮説的な神として晴天の神ディエーウス Diéus があるらしい。インドのディアウス、古代ギリシアのゼウス、古代ローマのジュピター、ゲルマンのティル・ヅィオなどは、この天空神が歴史的に進展した形態だと言う。最も原初的な天空神は気象を支配し、雷はその重要な要素だった。このインド=アーリアの天上神の個性は豊かで、その働きは複雑である。しかし、それらの神の決定的要素は至上権なのだとエリアーデは言う。


ヴァルナ


ヴァルナ神 1675‐1700 ラジャスタン、インド

 ディアウスは天ではなく昼の天空現象を示すようになる。その地位は、ヴェーダの時代 (前1500‐前500頃) の当初からヴァルナ神に取って代わられる。ヴァルナ神の息は風であり、ミトラ神と共に「天上の二つの力、崇高な王」とされた。全知の無謬の神ヴァルナの密偵たちは天から降り立ち幾千もの眼で地上を監視する。この二神は、決して眼を閉じることがない。ヴァルナはインドラ、ヴァーユ、アグニ、プルシャと同じく「千の眼を持つ」サハスラークシャであり、千の眼とは星の神話的表現である。

 比較神話学のデュメジルたちは、この神の前で礼拝者たちは、自分を奴隷のように感じたと述べている。この神は人間が互いに交わす誓約を果たすように束縛する。それは王の力であり、人間を縛る絆、網であった。この神は、一つの権利も廃さず、何も獲得せず、何かを得るために戦わない。観想的な受動性を持ち、全てを見、全てを知り、宇宙を支配していて、法に背く者を束縛する至上権の威光なのである。


インドラ


インドラ ホイサレシューヴァラ寺院 インド 12世紀

 ヴァルナもまたインドラによってその地位を追われた。インドラは英雄神・戦闘神であり、電撃 (ヴァジュラ) を投げつけ蛇の悪魔ヴリトラを倒し、神酒ソーマを飽くことなく飲み乾し、大地より大きく、空を王冠として頂く。彼の力は宇宙・生命エネルギーの横溢であり、その力が樹液や血液を循環させる。雨を注ぎ、湿気を支配し、畑と鋤の主となり、「大地の牡牛」となる。畑、動物、女性を受胎させる力である。彼のエネルギー貯蔵器は無限であり、精液的エネルギーで宇宙全体を循環させようとする。その力に人の望みが託されるのだ。

インドラと牡牛

 畢竟、インドラとは生命の充溢なのである。しかし、彼はけっして創造者ではない。遍く生命を促進させ宇宙全体に広め、勝ち誇りはするけれど、生命を造り出すことはできないのである。インドにおける暴風雨に関わる神たちはマルト神群と呼ばれるが、それらの父神であるルドラは牡牛であり、母は牝牛の女神プリシュニだった。4つのヴェーダの一つ、アタルヴァ・ヴェーダ (前1500年頃~) では牝牛はあらゆる神々と交わって宇宙のあらゆるものを生み、殖やしたという。暴風雨もまた豊穣と関わっていく。大気と多産の神が牡牛の姿をした生殖神に専門化していくのは、神性に具体性を求める人間の性向の表れだといえるのである。


牛追い グジャラート インド

 ちなみに、モヘンジョダロやバルチスタンといった前アーリア時代にもインドでは牡牛が礼拝され、現在でも「牡牛遊び」は続いている。このように、前ヴェーダ時代 (前三千年) においても生殖=気象神の属性の一つは牡牛であった。シヴァ神は牡牛のナンディンに乗り、その神殿には牡牛の像が至る所にある。聖なる牛の信仰は、そうとうに古いと言える。


2. メソポタミア/シュメールのティンギル ≒ アヌ → マルドゥーク


 古代メソポタミアは、バグダッドを境に北部がアッシリア地方、南部がシュメール・アッカド地方と呼ばれたが、この南部は後にバビロニアと呼ばれる。

ディン・シン王を表す楔型文字
(𒀭𒄿𒋾𒀭𒂗𒍪, I-ti-n Sîn)の名。
1文字目の黙字𒀭は神性を象徴し、
4文字目の 𒀭は、”n”あるいは、”an”と読むことができる。

  シュメール語の「神」を表す言葉ディンギルは神の天空への顕現「明るい、輝く」を意味していた。アッカド語ではエルと訳されている。「神/ティンギル」を表す文字は、天を意味するan(a) あるいは an(u) と発音される楔形文字と同じで、その場合は「高い、高くあげられた」を意味するようだ。 anという記号は「雨天」あるいは「雨」を表すようにもなった。このディンギルは比較的早くに擬人化された神アヌとしてバビロニアにおける様々な部族の神を祀る万神殿の主となる。前4000年頃のことのようだ。しかし、アヌもやがて礼拝されなくなる。


アヌとマルドゥーク 

 このアヌ神の居場所は天であり、最も高所にあるとされる。ウルクにあるアヌ神殿はエ・アン・ナ  E-an-na 「天の家」と呼ばれた。最高の主権者であり、笏、王冠、王杖を持ち玉座に座る神であり、国を統治する王の権威は、このアヌから授けられ、王のみがこの神に祈願するのである。それ故、王権は天から下って来た。「天の父」「天の王」と呼ばれ、軍神でもあったから星はアヌの軍隊とされた。エリアーデは聖書の中の表現「万軍の王」という呼び名に注意を向けている。

 アヌの祭りは世界創造の日、つまり新年だったが、やがてマルドゥーク神に時代と共に取って代わられるようになる。アヌはディンギル神と同様に抽象的な存在となり、その神像さえ知られていないと言う。アヌと交代したマルドゥーク神は海の怪物ティアマトを倒し、その死体から世界を創造したとされる。とりわけ、ハンムラビ王 (前1810頃-前1750頃) をはじめとしてバビロンの支配者の尊崇を集めた。

 ちなみに古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』(前1200年頃成立) には、ギルガメシュにふられた娘のイシュタルのために天神アヌが巨大な「天の牛」を造り、地上に送って様々な害を及ぼすことが述べられている。ギルガメシュの友エンキドゥがその牛を殺した。イシュタルはウルクの城壁に上って呪いの言葉を吐くと、彼は天の牛の腿を引き裂き、彼女の顔に投げつける。その角から30ムナの青玉石と6グルの油が採れたという。しかし、天の牛を殺したものは死なねばならないのが天の掟だった。‥‥さて、この神話がいったい何を意味するか是非考えて見ていただきたいのである。


左 ミトラ (ミトラス)  古代ローマ
右 アヌが娘のイシュタルに贈った「天の牡牛」を殺すエンキドゥ
  年代未詳  テラコッタ 「ギルガメシュ叙事詩」より


太陽神ミトラ 古代ローマ 2世紀 太陽神とミトラの習合


3. ヒッタイトの天空神からバビロニアの天空神へ



竜/蛇イルヤンカシュ (イルヤンカ) を退治する

嵐の神テシュブとその息子サルマ
新ヒッタイト 紀元前850-前800年 

マリティヤのライオンズ・ゲート アナトリア文明博物館蔵

 現在のトルコ中部であるアナトリアで帝国を築いたヒッタイト (紀元前1600年頃ー前1180) の主神の名前は不明だとエリアーデは言うが、太陽神アリンナ女神の夫神、天空、台風、風、雷であるこの神をフリット人はテシュプと呼んだ。二頭の聖なる牡牛が捧げられたこの主神とイルヤンカシュと呼ばれる蛇・竜が争う神話が残されており、「暴風と多産の神」と爬虫類の怪物との戦いのテーマが見られる。インドラ/ヴリトラ、ゼウス/デュポン、マルドゥーク/ティアマトと同じ構図を持っている。この頭文字Uとしか知られていない神は西アジア全土で民間に広く知られた神だったという。

 このヒッタイトの名を知られぬ神をシュメール=バビロニア人はエンリル、あるいはベールと呼んだ。エンリルは風や嵐、野生の牡牛の神であり、セム系のアッカドの人々の呼び名ではベール (主) という名で知られていた。その神は、天空神アヌの息子であったという。そして、エンリルの妻はニンガラ (偉大なる牝牛) とかベーリト (女主人) と呼ばれたという。


4.フェニキア/ エルからバアルへ



バアル神殿  パルミア、シリア 紀元32年  
ISILによって現在は破壊されている。

 古代フェニキアの万神殿で優位に立つエル神は「憐れみ深い牡牛」と呼ばれた。この神は後世バアル (主人、主/ベールのセム語名) と呼ばれる。セム族は、その歴史のある時期に暴風と多産の神バアルと、豊穣の女神ベリトという対偶神を崇拝していた。この崇拝において生命の聖性、血、性、多産といった根元的な力は過度に表象されていた。ユダヤの預言者はこの信仰をヤハウェに対する冒涜と見なしたことはよく知られている。預言者らは、宗教史を宣べながらも、そこから彼等の立場を正当化するメッセージを発しているのである。後のキリスト教では牡牛や雄山羊は、悪魔の象徴となる。しかし、バアル・ベリト信仰は相当な期間維持されており、そのヒエロファニー (聖化現象) は別のヒエロファニーに取って代わられるまで価値を持ち続けたと言う。


雷電を振り回すバアル神 前14-前12世紀
ルーブル美術館

 バアル神がハダト神と等しいことを考古学者のデュソーは確認した。ハダトの声は雷鳴であり、電撃を投げ、雨を降らせる。原始フェニキア人はこの神を牡牛の姿で表した。雷は儀式的な角の形をとることもある。エジプトのアモン神の原型であるミン神は「その母の牡牛」と呼ばれ、雷、雨、生殖は、その属性であった。エジプト人は、ミンがその配偶神ハトホルを連れてインド洋からやって来たと考えていたという。


 シナイ山

 中国における「天」が、規範や法といったものに対する特別な使命感ゆえに、ある個性を持ったように、ヘブライ人の至上神も、このような合理化の過程で、極めて複雑な進化を遂げたとエリアーデは言う。

 雷鳴はヤハウェの声、稲妻は彼の火・矢だった。シナイ山にその神は降り立つ。「三日目の朝となって、かみなりと、稲妻と厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた(『出エジプト記』19-16)。」デボラとバラクは「主よ、あなたがセイルを出、エドムの地から進まれたとき、地は震い、天はしたたり、雲は水をしたたらせた(『土師記』5-4)」と歌う。

 このような天空や気象に依拠したヒエロファニー (聖化現象) は他の暴風神と比較しても、その力の偉大さにおいて突出している。こうして、ヤハウェは唯一の絶対的実在となる。神はその民と契約を結ぶ。だが、何ものにも縛られない神は、それを破棄することもできる。神の前では何者も潔白ではあり得ない。それを破棄しないのは神の無限の慈悲によると考えられた。


5.イラン/ アフラ・マツダ、 ミトラ → ヴェレトラグナ


アフラ・マツダ


 アルダシール1世 (左) に王権を授与するアフラ・マツダ (右)
3世紀 ナクシュ・ロムタム遺跡 イラン

 紀元前6世紀にキュロス2世が、メディアから新バビロニアに至る諸国を滅ぼしてアケメネス朝ペルシアを勃興した。ヘロドトスはイラン人が一番高い山に登ってゼウスに供犠をし、その名を空の円形の広がりに与えたと言う。このゼウス神をイラン語でなんと呼ぶかは分からない。ザラトゥストラは自らの宗教改革の中心となる存在を知恵の王、全知たるアフラ・マツダに置いた。彼は、天空神的要素を持つこの神から自然の要素を一掃してしまう。

 インドのヴァルナ神とアフラ・マツダの至上神としての性格は近い。この神もまた、全知、無謬、眠らぬ監視者、約束の遵守を保証するものであった。ゾロアスター教の聖典である古代アヴェスタにはミトラ=アフラという言葉がしばしば登場すると言う。アフラ・マツダはザラトゥストラに契約 (ミトラ) を破るものは国に害を及ぼすと述べる。それ故、万の眼と千の耳を持つ者としてミトラも神格化されたようだ。

ヴェレトラグナと牡牛

 インドにおけるインドラに相応する神がイランではヴェレトラグナだった。宗教改革者ザラトゥストラにとって、この神は、牡牛、種馬、牡羊、雄山羊、猪といった男性的・戦闘的精神の血にひそむ基本的な力の象徴であったと言う。彼はイランにおける牡牛などの供犠に対して倦むことなくなく反対したといわれるが、前三千年頃のメソポタミアの都市国家ウルでは大気神は牡牛の姿でもあったことは既に述べた。そして、「神かけて誓う」時の神は古代アッシリアでも、小アジアでも牡牛の形をしていたという。全ての古代オリエント文化において「力」は牡牛によって象徴された。アッカド語で「角を折る」は「力を挫く」と同義であると言う。


6.ギリシア/ ウラノス から ゼウスへ そして牡牛


 ギリシアにおいてウラノスは天空であった。夜の帳の陰に紛れて大地=ガイアに被 (かぶ) さり聖婚を果たす。しかし、そこから生まれた者たちは百の腕、五十の眼、巨大な体を持つ化物であり、ウラノスはこれらを憎んでいたとヘシオドスは書いた。その怪物たちは母の内懐に押し込められ、ガイアは呻き、苦しんだ。末の息子のクロノスは日暮れに父を待ち伏せて父親の生殖器を切り落とす。流れ出た血に染まった海の泡からアフロディテが生まれるのである。ウラノスが生み出した無際限の子供たちは、今は否定的に見られている何の基準も決まっていない「かの神話時代」の子供たちだったのかもしれないとエリアーデは言う。何ものからでも何でも生まれる時代、それは狼が子羊の傍に眠り、豹が子山羊と共にいた「初めの時」である。

キュクロプス ローマ時代

キュクロプス 1世紀 コロッセウム装飾彫刻

ポリフェーモス(最大のキュクロプスの名) 後期古典時代

 かくして、ウラノスの至上権は終りを告げた。それは不能の神であるインドのヴァルナと同じだった。ヴァルナは、息子のブリグの息の根を止め、地獄へやってそこを見学させる。ウラノスは一つ目巨人のキュクロプスたちを縛り冥界のタルタロスへ投げ入れた。そして、もう一つ重要な事として、天空神は被造物とされているからこそ、世界と神々を造る「多産性」を使命として持つとエリアーデは述べる。それ故、インド・地中海沿岸における宗教では、天空神は何らかの仕方で牡牛と同一視されてきたというのである。創造者は既に創造された存在、デミウルゴスなのである。

 リグ・ヴェーダではディアウスは「牡牛」と呼ばれているし、エーゲ海・オリエント地域でもそのような傾向を帯びているという。しかし、ウラノスの生殖が忌まわしいものであったことは、この神の特異な性格を物語っていた。有史以前に、この神への崇拝はゼウスに取ってかわられている。ゼウスの語もまた、ディアウスと同じく「輝き」「日」と関係している。そして、雷で撃つ者、多雨、順風を送る者、特に農夫といった異名を持ち、それらの名は豊穣を約束する。エウロペ神話に見られるように、時として、やはり牡牛となる。そして、「狼の形をしたゼウス」といった名は人身供犠を伴う呪術とも関係しているという。しかし、最も重要な名は父権を示す「父」であり、アーリア民族集団の主権者であり、王たちに権威を授ける神となっている。


太陽神


 一心太助が「お天道さまは何もかもお見通しでい」と啖呵を切ったのは江戸時代ことになっていて、強力な幕藩体制の時代だった。父権社会と太陽信仰とは縁が深いと言われるが、月と母権社会の関係もよく取り沙汰される。

 かつては、太陽信仰は遍く世界に広がっていたと考えられていたが、ドイツの民族学者であるA・バスチアンによって、かなり地域が限定されるようになった。J・フレイザー卿では、太陽崇拝がなされている地域、アフリカ、オーストラリア、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシアにおいては、ずっとその信仰は続いていたとされる。しかし、真に優越した地位を占めるのはエジプト、アジア、古代ヨーロッパだけに過ぎないとエリアーデは言う。西洋近代にとって太陽のヒエロファニーは、アリストテレス以来、長い合理化の果ての残滓だった。それは、月に対する象徴、神話、儀礼とその感情と比較すれば明瞭だと言うのである。


伊勢神宮 皇大神宮 板垣南御門

 天空の至高存在を太陽と考えるのは、アフリカにおいてかなり頻繁なものだが、比較的遅くに現れた現象だとする説もある。インドネシアのトラジャ族の太陽神プエ・ムパラブルは、アメリカ大陸での太陽神同様に創造神に昇格している。

 興味深いのは太陽が子供を産むと考えられているもので、ティモール諸島の一部では、首長者たちは太陽公ウプレロの直系を主張するケースがあるという。至高存在が太陽化し、繁殖神や特殊な創造神となると、主権者が、ある家系に独占される場合があるという。オーストラリアのアルンタ族では太陽は女性とされている。太陽崇拝が、社会の下位の構成員とは、はっきりと異なる親族関係を形成する場合がある。この型の親族関係は発達した社会にも見られ、その場合は、君主や貴族に限られると言うのだ。なるほどそうなのか。アマテラスが何故女性神なのか、天皇が万世一系とされ、大和族の親であるのは何故か。ここらあたりに謎を解く鍵があるかもしれない。

 新天皇の即位式である大嘗祭において、真床覆衾 (まとこおふすま) という寝具が使われることが知られている。折口信夫は、それにくるまることによって天皇霊が継承されるという説を提唱したが、現在は否定される傾向にある。真床覆 (追) 衾は、高皇産神 (たかみむすひのかみ) が天津彦彦火瓊瓊杵尊 (あまつひこ ひこほのににぎのみこと) をそれで包んで高千穂に降臨させたと日本書紀にある覆いを指していて天孫のシンボルとなっている。ともあれ、大嘗祭では神との共食がメイン行事となっているのだ。こうなるとエリアーデの示唆の方が興味深い。そして、それは次に述べることとも密接に関係している。


ストーンヘンジ イングランド

 オーストラリアのウィラジュリ・カミラロイ族では、加入志願者は儀礼的に死に、次に太陽として蘇る。加入志願者は、天空の至上存在の息子としての太陽英雄と同化を図り、至高存在の息子となるのである。そこでは死の領域においても太陽が重要な役割を果たす。月は死を知っているが、太陽は毎夜、死の領域を通過して翌朝、永遠にわれとわが身に等しい姿で蘇る。太陽は、死者の世界から蘇る者の原型となることが出来るという。

 太陽は霊魂の導師として死者の魂を「太陽の門」を通って西方に導くと考える地域もある。ハーヴェイ島の俗信では、死者たちは群れをなして集まり、年に二度、夏至と冬至のまさに日が沈もうとする時に太陽の後について地平から下の世界に降りて行こうとする。ポリネシアでは、最も西の地点は「魂の飛び立つ」地である。


 ソサエティ (ソシエテ) 諸島のマラエ

 もう一つ重要なことは、太陽信仰と祖先崇拝が並行していることであるという。この二つの複合は、巨石の記念碑を立てるという表現を共通して持つ。巨石碑は常に太陽崇拝と関連し、秘密結社とも関わると言われる。ソサエティ (ソシエテ) 諸島のマラエ、フィジー島の巨石ナンガは日が昇る方向を向き、バンクス諸島では太陽を再び輝かせるために巨石に赤い粘土を塗る。ここで、私たちは、太陽信仰の最も典型的で理想的な地域であったエジプトに到達するのである。

エジプト


上から天空神ヌト、大気神シュー、大地神ゲブ
前950年 パピルス (『ネシタネブタシュルの死者の書)』)

 ウルは全能の神であり、偉大なる女神ヌトを娶る。しかし、彼は王の記念碑といったものに登場してこない。ウルは太陽神ラーの補佐役となりアトゥムと同一視されるという説がある。

 至高存在が、大気や繁殖の神に変貌することは既にみたが、太陽神化することもある。ウルやアモンといった存在もやはりそう考えることができる。大気神/天空神であったシューは後に太陽神となる。第五王朝 (前2500頃 – 前2400頃) 以来、数多くの神々が太陽神と化し、クヌム・ラー、ミン・ラーなどが生み出された。ラーはヒエロポリスの神学と神秘学で言う所の権力者の太陽化とによって、その支配権を確立したとエリアーデは言う。ずっと古くから、太陽神は、アトゥム、ホルス、神聖甲虫 (スカラベ) のキプリといった神々をも包摂してきたのである。

 太陽は朝、「葦の原」から昇り、夕べに「供物の原」あるいは「憩いの原」に沈む。それが、ラーの支配する太陽圏だった。このラーとオシリスとが葬礼神としてしばらく争う時期があった。ファラオの霊魂もまた、太陽に導かれて「葦の原」から「供物の原」に到るが、天上に住む権利について「原」の守護者である「供物の牛」と格闘しなければならないのである。この試練はファラオにとって加入儀礼となる。しかし、この試練も、梯子を上るか、光り輝く牝牛の姿の女神に導かれ星の大海を進むかして「供物の原」に至ることになる。もはや、ファラオは英雄としての試練を受けることなく不死性を手に入れるのである。この特権はオシリスが死の神として勝利し、昇天することとパラレルなのである。


『死者の書』に描かれたオシリス  パピルス  年代未詳

 死者の赴く西の彼方はオシリスの圏域となる。東方はラーの世界だった。ピラミッド・テキストには「「汝はオシリスを見張り、死者を支配し、死者から離れている。汝は死者と同類でない‥」とか「オシリスは、この東方にはけっして行かず、ラーの従者の道を通って、西に進む」といった文言があるという。太陽はオシリスに打ち勝ち、天の二つの原を奪還する。しかし、オシリスによって不死を英雄的に獲得せずとも王であればひとりでにそれが得られるようになった。これは、一種の堕落ではあるが、善行を行うなどの倫理的、宗教的な型の試練へと移っていったのである。それまでの終末論を変更しようとした人文主義的思想による変革に一役買ったのだとエリアーデは言う。


死と「楽園の回復」― 両義的な神性


 植物のヒエロファニーは大自然の再生と生命の更新といった形而上的宗教的意味を持っていた。「自然の春」は宇宙的生命の全面的改新、再始であり、畢竟、宇宙の回復の契機であり、人と社会が改まる契機でもある。全ては合体し、すべての物が照応する。必ずしも春という自然現象に重点があるわけではない。宇宙リズムは、それ自体がヒエロファニーとなり、このリズムをその母胎であった天文学的時間から解放するとエリアーデは言う。ギリシア=オリエントの「大年」は宇宙創造に始まり、カオスによるあらゆる要素の完全な融合によって終わる。この一巡りの循環期の最初は、時間の全面的で、絶対的な始まりの再生である。これによって時間は永遠の瞬間に変貌し「黄金の時代」「地上の楽園」への回帰となる。

 エリアーデは、人間は聖なる空間においてしか生きることができないという。この空間が獲得できなければ人間は宇宙論や土占いの法則によって、それを自ら作り出す。人間は努力せずともそこにいられるという伝承もあれば、そこへの困難な到達とその勲しとを言祝ぐ伝承もある。家の柱と世界軸の同一視から天と地との合体に及ぶまで、それは楽園へのノスタルジーの象徴となる。その願望は古代社会の方が、それに続く文明より容易に達成されたという。かつての表現の貧困さや卑俗さが、それによって表現する精神的態度に特別な重みを与えてきたと言うのである。

 それは、一方では超越的で、一方では意のままに繰り返される。魅惑的でありながら、しかも、恐怖と共に撥ね付けられるといった両義的性格を持っている。全知の主権者、絶対的な権威として抽象化された天空は、豊穣の牡牛という生命力と生殖力の対立的存在を持ち、永遠の生を持つ太陽は死の世界を対極に持って、冷徹な石とも関連していた。神性は究極の実在、絶対的な力であり、善悪、男女、生死といったいかなる種類の属性や性質にも限定されないとエリアーデはいう。そこには、分割される以前の全体性が存在している。

 死は喪失と離別をもたらし、以前からの死のイメージを活性化させ常に新たな広がりをもたらしてきた。そのような体験の内に人は。内外の世界を再構成する必要に迫られる。最近の大規模な自然災害、原発事故、感染症のパンデミックといった事態は、普通ではあり得ない。この様な圧倒的な現実は、人に世界の終末のイメージをもたらすという。生存者シンドローム研究の先駆であるロバート・リフトン博士は、死の不安は精神的麻痺を引き起こす根本的な原因だが、それを締め出したいと感じるのは、ただ死だけが原因なのではなく、むしろ死が生命の象徴に対して持つ関係ゆえなのだというのである。

 この人間にとって最も根元的な危機から解放されるために、何が可能かが問はれる。リフトン博士は、そういった危機にある人間に最も有効な精神的な象徴は「無垢の原初への回帰」というイメージであるという。それは、子供時代の楽園のイメージと言っていいかもしれない。精神的再形成へとつながる道がそこにあるという。なぜ、呪術や神話が必要とされてきたのか。そこには特別な法則に支配され、共感によって結び付けられた空間が存在するからだ。数々の象徴によってこのような神的宇宙の網状空間に人は参入できる。そうして人間は繰り返し宇宙の全体性を回復させ、世界との関係性を再創造してきたのである。

「聖と俗とは質的に異なる。しかし、聖はどんなふうにしても、俗世界のどこにでもあらわれることができる (エリアーデ/久米博訳)。」

付 月神と牡牛


ククテニ文化 (前5500年-前2750)の牛の土偶

 豊穣の牡牛が太陽ではなく、月と結びつく例があるのでご紹介しておきます。エスキモーの住む地域やペルーでは、嵐・雨の類型は月のヒエロファニーと関わる場合がある。牡牛の角は三日月に準 (なぞら) えられ、月と同一視されることもあった。大母性神と関係する牡牛の形をした偶像は新石器時代にはよく造られていたと言う。有史時代になってもバビロニアの月神シン (男神である) は「エンリルの力ある子牛」と呼ばれ、ウルの月神ナナ―ルは「強く、若い天の牡牛、エンリルの最も素晴らしい息子」と呼ばれた。エジプトでは月神は「星の牡牛」であった。


 

夜稿百話
エリアーデの著作 一部

ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』
宗教学概論2
第四章 月と月の神秘学
第五章 水と水のシンボル
第六章 聖なる石
第七章 大地、女性、豊穣
第八章 植物

豊穣の石 石の霊的力の中には子供を授ける力もある。南インドのセイレムで子供の欲しい女性はドルメンに花やご飯、白檀などを供えて、その石を擦る。石は多産であり、一人でに生まれ、殖えていくと信じられていた。ニューギニアのカイ島やマダガスカルでは、子供を望む女性は石に脂を塗る。面白いことに商売繁盛を願う商人たちも同じことをするという。ヨーロッパなどでも子宝に授かりたい夫婦が石の上を歩く。

人を生み出す豊穣の樹 ワクワクの国は中国の東にあり黄金の国と呼ばれた。ジパングの国のことらしい。10世紀の『インド神秘の書』は、この国にワクワクの木があり、果実は人間の形だが、中は中空で、取り入れるとしぼんでしまうと言う。
 アヨディヤーのサガラ王の妃スマティには6万人の子供が約束されていたが、生まれたのは一個の南瓜だった。しかし、そこから6万人の子供が生まれたのである。マダガスカルのアンタイヴァンドリカという種族は「ヴァンドリカ=樹の民」を意味し、近隣のアンタイファシー族の名は「バナナの木の子孫」という意味を持つ。

ミルチャ・エリアーデ『聖なる空間と時間』
宗教学概論3
第九章 農耕と豊穣の儀礼
第十章 聖なる空間、宮殿「世界の中心
第十一章 聖なる時間と永遠再始の神話
第十二章 神話の形態と機能
第十三章 象徴の構造

ニュー・カレドニアでは無数の岩や孔のあいた石にそれぞれ特別な意味がある。あるものは雨乞いに、あるものはトーテムが住み、あるものは殺された者の霊がいる。風景のどんな細部にも意味があり、歴史がある。研究者たちによれば、聖なる場所とは複合体であり、そこで繁茂する植物や繁殖する動物たち、その土地にゆかりの英雄、定期的に行われ、祝われる儀式や祭り、そしてそれらによって引き起こされる人間の感情の混合物だと言う。そこは原初の啓示の場所として、ある神話的人物による身体の養い方、食料の貯え方、穴からの獲物の捕え方といった手ほどきを受けた聖地であったりする。ボリビアのある種族はエネルギーと活力を得るために祖先発祥の地に立ち戻る。そこは俗的な空間から聖別された特殊な空間と言うだけでなく、将来においてもその聖なる力を維持し、保証してくれる場所なのである。

ミルチャ・エリアーデ著作集 第四巻『イメージとシンボル』

序論
第一章《中心のシンボリズム》
第二章 時間と永遠のインド的シンボリズム
第三章 《縛める神》と結び目のシンボル
第四章 貝殻のシンボリズムなついての考察
第五章 シンボリズムの歴史

宗教史が発見したものと民俗学、社会学、深層心理学の発見したものとを有効に利用できれば宗教史の前には様々なパースペクティブが開かれる。歴史的存在としてだけでなく生きたシンボルとしての人間を研究対象とする時、宗教史は「超精神分析学」となるとエリアーデは言う。「原初のシンボルを、それらが全人類の宗教的伝統の中で生き続けていようと、あるいは化石となり果てていようと再び蘇らせ、再び意識化するに至るからである。(前田耕作 訳)」ここにもある種の残存が意識されている。
中心のシンボリズム かつて人が住み、組織を形成し、社会を営むことによってそのトポスは宇宙となった、その外側はカオスであり、死と夜とがあった。このイメージは中国、エジプト、メソポタミアと言った進んだ地域でも尚生きていた。巨大な蛇アポビスの征服者であるファラオの敵対者は「廃址の、オオカミの、犬どもの息子」であり神話の大蛇だった。祖型的イメージであり組織された小宇宙を混沌に陥れるのはこれら悪魔たちであり、文明の一定の型を脅かすのである。カオスや無秩序や世界の崩壊は「奈落」への失墜であり、秩序や構造の廃絶を意味し、流動する無定形のカオスへの零落であったが故に敵対者を悪の力の化身としての悪魔に見立てる。それは現在にまで生き延びている神話的イメージであるとエリアーデは述べている。どんな小宇宙も人間が定住している場所でも「中心」と呼びうる聖なる空間が存在した。この「中心=臍」は至る所にあった。それは「世界の中心」であった。そこが聖体示現によって聖別される場であるか儀礼の場所であるかは違いはあっても、そこは天上界、地上界、地下界という三つの領域の中心なのである。


ミルチャ・エリアーデ著作集 第五巻『鍛冶師と錬金術師』

第一章 隕石と冶金術
第二章 鉄器時代の神話
第三章 性化された世界
第四章 大地母生殖の石
第五章 冶金術の儀礼と秘儀
第六章 炉に捧げられる人身供犠
第七章 バビロニアにおける冶金術のシンボリズムと儀礼
第八章 「火の親方」
第九章 神的な鍛冶師と文化英雄
第十章 鍛冶師 戦士 イニシエイション導師
第十一章 中国の錬金術
第十二章 インドの錬金術
第十三章 錬金術とイニシエイション
第十四章 術の秘密
第十五章 錬金術と時間性

冶金術の儀礼と秘儀 天使が老人の姿になってあらわれ、炉に木をくべていた鍛冶師に鉱道の入り口を示す。空海に高野山の地所を譲ったと言い伝えられる丹生明神は水銀の神だった。案内者としての神や妖精、鉱山の守護聖人たちから鉱脈のありかは教えられる言い伝えは長く続いていた。鉱山の試掘や炉の構築は厳格な宗教儀式を伴っていたのである。マレー半島の鉱夫にとって錫は生きていて、ある聖霊の管轄のもとにある。錫は移動でき、自分を再生産する。錫にかぎらず鉱山は生きていると考えられていた。鉱山を見張り、鉱石を統制しているのは土地の古い神が身だった。イスラムなどの新しい宗教は役に立たなかった。マラヤの人たちにとって金はデワ=神が管轄する鉱物であり金を探すことは不敬に当たったと言う。
アフリカのバイェカ族では新たな鉱道が開かれると首長は祭司と工人と共に祖先の祀る「銅の精霊」への祈祷を朗読する。バラタキ族では土地の精霊を鎮めなければならず、性的なタブーを中心に厳格な潔斎が課せられる。地下の生命とそれを統治する聖霊との接触は、通常よりも深遠でより危険だった。大地母の胎内でゆっくりと生成される鉱物は地上とは異なる地下世界の秘儀に結びついているからである。そこにはより高い法則の支配する自然秩序に介入すると言う感情が伴うのである。
炉の供犠では金属の溶解は操作を行う人間と金属との結婚と捉えられ、そのためには生命の犠牲が必要とされた。この成就のための最良の手段は供犠による生命の転移なのだと言う。犠牲の魂は生命を与え、新しい身体を返還させると言うのである。

ミルチャ・エリアーデ著作集 第六巻『悪魔と両性具有』

第一章 神秘的な光の体験
第二章 悪魔と両性具有
第三章 宇宙の再新と終末論
第四章 綱と操り人形
第五章 宗教的シンボリズムに関する考察

天啓の光 光が神秘体験につきものであるのはよく知られている。その光の中には雷電のような光もあった。稲妻に貫かれ、新たな人間として生まれかわるイニシエイションとしての死と復活である。特にはるかかなたを透視できるシャーマンたちは、それを「稲妻」や「天啓の光」と呼んでいる。まるで自分の家が引き上げられたかのようであり、大地が全くの平原と化し山々を貫いて前方が見通せる。また、目を閉じていても暗闇を通しても、ものが見え他人には分からない物事し未来の出来事が見えた。
オーストラリアではイニシエイション長であるバイアメは「両眼から発する光」が他の呪師たちとの違いだと言う。若い志願者に振り掛ける聖水は液化した水晶と考えられ、天の蒼穹から落ちた「凝固した光」と言われる。海ダヤク族は水晶を「光石」と呼んでいると言う。
神性と悪魔の反対の一致 神性と魔性の対立したものが合一の神秘として一致した時、自我は意識の全体と無意識の諸内容を同時に含んだ「個性化」が起こるとユングは述べた。イランではアフラ・マズダとアーリマンは両者とも無時間の神ズルヴァンから生まれたとされ、グノーシス派の神話ではキリストとサタンは兄弟であるという。ブルガリアの伝承では、神が独りぼっちで歩いていた時、自分の影に気づき、「起きよ、友」と叫ぶとサタンは影から立ち上がって、大地を我に、天は神に、行ける者は神に、死せるものは我に分配しようと契約を交わす。悪魔はいわば神の無知のために、神の孤独の故に、あるいは神と悪魔の共感の故に存在するのである。インドでは、デーヴァとアスラ、神々と魔神の間には区別、対立、闘争がある。『リグ・ヴェーダ』龍ヴリトラとアスラに対して戦いの神インドラとの戦いが述べられる。しかし、多くの神話がデーヴァとアスラが同体であることを示唆している。彼らはプラジャーパティ、もしくはトヴァシュトリの息子であった。アーディティア群神 (アーディティの息子たち/単数形では太陽そのものを指す) はもともと蛇であったが脱皮して死を克服し神々となった (『パンチャヴィンシャ・ブラーフマナ』) 。神ソーマは単に神話的蛇のように行動するだけでなく『シャタパタ・ブラーフマナ』では文字通りブリトラ=原初の龍と見なされている。

スーリア(太陽神) アーディティア群神 は太陽神として集約されるケースがある。頭部の周囲には11の小さなアーディティが彫られている。

ミルチャ・エリアーデ著作集 第七巻
『神話と現実』

第一章 神話の構造
第二章 「始原」の魔力
第三章 更新の神話と儀礼
第四章 終末論と創造神話
第五章 超克される時
第六章 神話・存在論・歴史
第七章 記憶と忘却の神話
第八章 神話の偉大さと頽廃
第九章 神話の残存と偽装

中世の終末論 中世の人々は「起源神話」を範例にしてあらたな神話を噴出させようとする。至福千年賛美と終末神話は十字軍といった集団的、ユートピア的、前革命的現象を引き起こす。全世界は救世主を待ちわびたのである。近代においても「神話的行為」の型は残存した。それは古代的心性の残存と言うべきものではなかったが、神話的思考のある面や機能は人間の構成要素であったとエリアーデは言う。古代社会では「原始への復帰」は多様な儀式を通して復帰への道を探っていた。宗教改革は聖書と原始キリスト教会への復帰と言える。
近代世界初頭の「始原」 近世において「始原」は権威となった。中央・東南ヨーロッパにおいても自らの民俗の高貴な起源を称揚し、ドイツではアーリア民族主義の人種差別神話が生まれた。やがてマス・メディアは数多くの英雄神話を立ち上げる。スーパーマンのようなキャラクターである。政治家などの公人は自身の神話化に躍起となって支持を得ようとする。神話的行為は、近代社会のすこぶる特徴的で、人間状況の限界を超越しようとするひそやかな願望を表している。
神話を知ることの意味 神話は人々に超自然者の創造を反復する方法、動物の繁殖や植物の繁茂を催す方法を伝える。それらは加入儀礼において語られると言うより演じられる。つまり再演されるのである。アメリカ・インディアンのキューナ族には火の創造の呪文を知る少年が日の中でも火傷せず踏み込めたと言う。ティモールでは田の作業小屋で稲が初めて現れた時のように祭司者は稲を呪術によって、その始めに立ち戻らせる。起源を知り、それを再演するのである。


ミルチャ・エリアーデ『永遠回帰の神話』

ミルチャ・エリアーデ『永遠回帰の神話』

神殿とか供犠壇の建造は、宇宙開闢を繰り返す。神殿はこの世界をあらわすだけでなく、種々の一時的循環をも具現化する。建造の際の儀礼も多かれ少なかれ明白な宇宙開闢の業の模擬である。祖型的モデルは、その祖型がその初めのときにあらわれた神話的モーメントの再現である。エルサレムの神殿では、中庭は海 (地下世界) 、聖所は大地、テーブルの上の12のパンは一年の12か月、70の枝を持つ大燭台は10年間をあらわしている (フラヴィス・ヨセフス『ユダヤ古誌』) 。
バラモン教の供犠ではさらに明確になる。それは世界の新たなる創造である。壇の基底の粘土は大地と太初の水の混合物であり、側壁は大気を、その上段にはそれぞれの宇宙的区分が造られる。供犠そのものは太初の状態の復元であると考えられる。ブラフマー神の生み出した10人の聖仙であるプラジャーパティは自らの体で、この宇宙をつくりはじめた。全てのものを作り終えた彼らは自身の空虚を感じ死を恐れるようになる。そこで神々は復活と再生の贈り物をする。この供犠はプラジャーパティの原初の復活を再現するものなのである。
太初の状態を再建しようとする供犠者の意識的努力と天地創造に先立つ全体の復活の努力は、太初の状態を渇望するインド精神の最も重要な特徴である。
もし、「プラジャーパティが年」であるなら「年は死と同じであり、年を死と知るものは、それによって破壊されない」。「ヴェーダの祭壇は物質化された時間である (ポール・ムス )。」「かの火壇もまた年である。―― 夜は、その囲まれた石で、その数は360石、それは一年が360夜であるからだ。そして、その日はヤジュシュマティ (供犠者) の煉瓦である。そこには360の煉瓦がある。それは一年が360日であるからだ。」(堀一郎 訳)

新年の祭りは「混沌」から「宇宙」への移り変わり、すなわち、宇宙の開闢の反復だった。マルドゥークの地獄下りでは、王は女神の部屋で女奴隷として現われ「王の屈辱」を経て贖罪のヤギによる悪魔の追放、最後にサルパニットとの神の聖婚という象徴的遡行が行われる。このような古い時代の廃滅と宇宙開闢という儀礼的繰り返しは「時間」を全体的に再生させるという (『悪魔と両性具有』)。




ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』

インド留学中、エリアーデが下宿していた家の娘であるマイトレイ・デヴィに恋心をいだいたが悲恋に終わり、半年もの間、ヒマラヤ山麓のリシケシュの僧院スヴァルガ・アシュラムに逃れ、ガラスのない窓が一つだけの小部屋、その木製ベッドで綿毛布にくるまって横になっていたという。その経験を基に書かれたのか、1933年に発表され、評判をとった小説『マイトレイ』である。エリアーデは多くの小説を執筆しており、幻想文学のジャンルに入るものも多い。





参考図書

『ギルガメシュ叙事詩』

古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』(前1200年頃成立) には、幾つかのテーマがあるが、その一つをご使用介しておく。ギルガメシュにふられた娘のイシュタルのために天神アヌが巨大な「天の牛」を造り、地上に送って様々な害を及ぼすことが述べられている。ギルガメシュの友エンキドゥがその牛を殺した。イシュタルはウルクの城壁に上って呪いの言葉を吐くと、彼は天の牛の腿を引き裂き、彼女の顔に投げつける。その角から30ムナの青玉石と6グルの油が採れたという。しかし、天の牛を殺したものは死なねばならないのが天の掟だった。エンキドゥは夢を見た。アヌ神が、天の牛を殺しフンババを殺したために彼ら (エンキドゥとギルガメシュ) の一人は死なねばならぬと述べる。エンリル神はエンキドゥが死ぬべきでありギルガメシュは死んではならぬと言う。天なるシャマシュ (アヌ) はエンリルにこう答える。彼らは自分の命令に従ったのであって、それで無実のエンキドゥが死ぬべきなのかと。するとエンリルは、何故ならあなたが日毎に彼らの仲間のように降りて行くからだと怒りながら答えた。ここにも人間と神との断絶が意図されているのである。



マリア・ギンプタス 『古ヨーロッパの神々』

グルガン仮説で知られるギンブタスの主要著作。古ヨーロッパは南東ヨーロッパとバルカン半島あたりの小アジアあたりの地域でエリアーデの出身国ルーマニアも含まれる。その地域の新石器時代の母権社会の遺跡や遺品を紹介している貴重な著作となっている。




ロバート・ジョン・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下

ロバート・ジェイ・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下

原爆が投下されて17年の歳月が過ぎていた。だが、個人の学者にせよ、団体にせよ、組織的、具体的に被爆者に対する心の影響の調査は、なされていなかった。アメリカの心理学者ロバート・ジェイ・リフトン教授は被爆の心理的影響を70名を超える被爆者との対面での面接から、この著作を著した。

死者に対して、生き残った者が、生き残り得たという、いわば優位に立った感覚は罪悪感に変わる場合が多い。我が子に先立たれた親の罪悪感は殊のほか強い。このような罪悪感と死への不安から身を守るための反応として大きな力を持つのは感情の機能停止だった。ヒロシマでの実態調査で明らかになったのは、この反応が急性の場合が「心理的閉め出し」と呼ぶものであり、慢性の場合には「感情麻痺」というべきものになることであった。

心理的閉め出しは、被爆のような異常事態に対して順応するために極めて大きな役割を果たす。何も感じなければ死などないと感じられるのである。死者と一体化しがちな心の働きを弱め、完全な無力感を弱めたりもする。それは、象徴的死と言いうるものかもしれないリフトン博士は考えている。

しかし、生死を巡る象徴体系が完全に崩れて、内部の統合、統一、運動 (活動) に関わるイメージが失われ、人間の心の関係性/連続性と言うべきものが完全に失われる場合がある、強制収容ではムッセルマンと呼ばれる状態があるという。他者と自己を一切断ち切ってしまい、後戻りできない精神的死を示す状態である。環境に全くの支配を許し、死への本能的願望に飲み込まれる。





参考画像


シヴァ寺院内のスワヤンブ・リンガ




アルワドの主神 バアル
前550-前450 現在のシリアにあるアルワド島の主神。かつてはフェニキア人が支配し、島全体が城塞都市になっていた。鬚面で下半身は魚の神である。



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