


『リンゴ』
リンゴを ひとつ
ここに おくと
リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ
リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なにも ない
ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ
(まど・みちお『まど・みちお全詩集』)
『ぞうさん』という童謡に触れたのは、もの心つくかつかない頃だろう。ほとんどの日本人がそうだといっていいと思う。それが何時だったか思い出せない。それは子猫たちの足どりのような幼稚園の歌の時間だったか ? 風にのって、花のかおりのようにただよい口の端にのぼり歌い継がれてきたんじゃないか。そう思える。作詞者が、まど・みちおで作曲者が團伊玖磨(だん いくま)なんて知っている人は少ないかもしれない。ちなみに、まどの「一ねんせいになったら」に曲をつけたのは山本直純 (やまもと なおずみ) だった。
今回の流風一詩は、神秘主義者とかハイデッガーの世界に近いとかいろいろ書かれるようになっている まど・みちおの詩をご紹介する。
まど・みちおの前半生
まど・みちお (石田道雄) は1909 (明治42) 年、山口県の徳山町 (周南市) に生まれている。父は電話工事技師、母は裁縫が上手なひとだったようだ。父親は台湾へ単身赴任だった。6歳の時、母は兄と妹をつれて台湾へ、事情はあるらしいが毛利支藩の侍あがりで酒癖の悪い祖父の下に置き去りにされている。この頃の孤独感は「しーんとして遠い」という彼の詩の本質へとつながっていく。
『あさつゆ』
あさが
しーんとして
てをあわせています
(まど・みちお『谷川俊太郎のあれやこれや』「わたしのまどさんファイル」より)
10歳頃まで故郷で過ごし1919年に両親のいた台湾に渡る。小学校、高等小学校を経て、15歳から台北工業学校土木科で学び、同人誌を通学仲間と創刊した。卒業後、台湾総督府の道路港湾課で働く。1931年 (22歳) にはプロテスタント系と思われるが台北ホーリネス教会で洗礼を受けている。3年後の1934年に児童雑誌「コドモノクニ」に作品を送り北原白秋によって特選に選ばれた。この年に白秋は台湾を訪れている。2年後には『ふたあつ』に曲が付けられ早くもレコード化された。ここから詩や童謡詩を本格的に創作するようになる。

「コドモノクニ」1925年11月号
1922-1944まで出版された児童雑誌
1943年 (33歳)、船舶工兵としてマニラやシンガポールなどの戦地に赴く。輸送や航路の調査が任務だ。しかし、船酔いするひとだった。航海中に爆撃を受けたりもし、病気で入院したりもした。病弱だった。敗戦後には一時、捕虜収容所に入っている。
徴兵の二年前に書いた二つの詩『朝』と『はるかなこだま』が『少国民のための「大東亜戦争詩」北原白秋氏に捧ぐ (1944年刊) 』に収載されたが、戦後、戦争協力詩として指摘されることになる。その『朝』から問題と思われる箇所を書いておく。「‥‥この戦争に/神となられた方方が/朝夕お通りのこの銀の空には/もはや塵ひとつ飛んでないのだ。/なんでもやれば/そのやったことはただちに/おそれおおくも/宮城へまでおつたわりしていくような気がするのだ。/‥‥」この 『まど・みちお全詩集』には、お詫びにならぬお詫びとして謝罪の言葉が述べられている (あとがきにかえて) 。だが、白秋の戦争詩のボルテージの高さに比較しないではいられない。皆さんはどうお思いになるだろうか。
復員後、川崎の味の素の工場で守衛をしていたが、1949年 (40歳) 、詩人・児童文学者の与田準一の呼びかけで婦人画報に入社、「コドモノクニ」から誌名変更された「チャイルドブック」や児童書、教科書などの編集に10年間携わる。この間に武者小路実篤、丸木俊、土門拳、佐藤義美らと知り合った。1951年 (42歳) 、音楽教育家である酒田冨治の依頼で童謡『ぞうさん』を書く。翌年、團伊玖磨が作曲しNHKで初放送された。その後の数々の受賞などの活躍は省略する。
2014年に104歳で亡くなっている。
ある展覧会の記憶

『「在る」という不思議
佐藤慶次郎とまど・みちお展』カタログ
1999年11月-2000年1月
1999年に岐阜県美術館でまど・みちおと実験工房のメンバーだった佐藤慶次郎のジョイント展が開催された。意外だが まど・みちおの絵もかなり展示されていた。これが僕とまど詩との出会いとなる。それまでは、その世界の全貌をほとんど知らなかったと言っていい。
この展覧会で、谷川俊太郎の司会、まど・みちお、佐藤慶次郎というメンバーで「新時代・ものみなひかる」というフォーラムが開かれた。佐藤は谷川の親友だったし、谷川は、まどの詩をすぐれた現代詩として一貫して支持していたので、佐藤は、おそらくこの関係でまどの詩に触れたのかもしれない。その詩を知ったその日に自転車で書店まで詩集を買いに行ったそうである。佐藤は、まど詩のいわばファンだった。ちなみに美智子皇太后もご自分で英訳されるほどのまどファンであるらしい。

佐藤慶次郎(1927-2009)photo 植田信隆
このフォーラムのなかで記憶に残っているのは谷川のこの言葉、「まどさんの詩について、さかしらに物言えば言うほど自分がアホに思えてくる。」これはなかなかの名言だ、言い得て妙である。それと、谷川は、まどの詩が子供たちにうけるということに対して、少なからずジェラシーを感じていたようで、どうも『どきん』などの詩は、いいしれぬ感情のなせる業(わざ)であったらしいのである。
だが、こんな詩の風味は谷川俊太郎の詩の世界につうじるものがあるのではないかと思っている。
『おばあちゃん』
死ぬまえ おばあちゃんは
よく ぼくと公園に行って
ベンチで休んだ
そして 白いたびの おやゆびに
テントウムシが きてとまると
とらないで とらないで ! とあわてた
およめさんだった頃の自分が
虫になってかえってきたかのように
テントウムシがとんでいってしまうと
おばあちゃんは たもとから
手品のようにして
またテントウムシをつまみだした
ばかに太りすぎて
きみの悪い テントウムシだ
でも、ぼくにもそれをくれて
自分もひとつ口に入れたので
それは あめだまだった
あめだまは いつまでも
おばあちゃんの口の中にかくれていて
ときどき
じしんのように動いた
(まど・みちお『まど・みちお全詩集』)
このよくある日常の一風景に予想外の展開を仕掛ける技をなんと呼ぼう。
まどは絵を描く

谷悦子『まど・みちお 懐かしく不思議な世界』
表紙絵 まど・みちお『風のネックレス』1964
まどには四年の間に百枚ほどの絵画を集中的に描いていた時期がある。1961年に突如描かれ始め、その年六〇枚が描かれている。100歳になってからの絵もあるらしい。子供のころから絵は得意で台湾時代にも描き、編集者として働いていた時期にもカットなどを描いていた。ロシア生まれでパリで活躍したセルゲ (セルジュ)・ポリアコフ (1900-1969) の作品が好きだという。言ってしまえばタシズム、つまり触覚的 (ハプティック) な抽象絵画と言っていいと思うけれど、上の作品を見てもらえば分かるようにある種の神秘性がある。
20代の1935年には、こう述べている。「一渥の砂にさへ、心の底から憐みを乞いたいような、胸の中に根強く蔓延している醜悪をとり除いてもらいたいような、ときめきを、ふるえを禁じえない。‥‥私たちは、遅かれ、早かれ、いづれは無生物に帰するのだ。/この諦めに似た、絶望を通り越した後の平安と言うか、しみじみした寂の世界は、その真実はいつも私たちの心の奥深く潜んでいる。‥‥(まど・みちお『動物文学』1935)
「しーんとして遠い」世界をこの宗教性が増幅している。ハイデッガーが人間の時間をその死から逆算したように、まどの時間も「いま」と「ここ」の向こうに死があり、それを超えて肉体が塵となった後の無生物に帰する寂静の世界を見ている。
『今ここで見ることは』
今ここで見ることは 思うことなのか
「今」の前と後ろに
無限につづく 明日 (あした) と昨日 (きのう) とを…
「ここ」からはじまる宇宙の
無限のひろがりを…
しみじみと 美しい
はるばると まぶしい
今のところ このへんで
たとえば ヤナギである ヤナギが
雲である 雲が
ウシである ウシが
アメンボである アメンボが
‥‥
(まど・みちお『まど・みちお全詩集』)
「在る」ということ
彼の詩の宗教性を別の側面から見てみたい。例えばこの詩。
『つぼ・Ⅰ』
つぼを 見ていると
しらぬまに
つぼの ぶんまで
いきを している
(まど・みちお『まど・みちお全詩集』)
なんだ?と思われるむきもあるだろうが、このように考えてというより感じてほしい。わたしがつぼを見ている。しかし、そこにわたしという意識が立ち上がっていなければ、わたしがつぼを見ているのか、つぼに見られているのか定かではない。つぼが、わたしを見ているということもできなくはない。つまり、意識の裏側では私がつぼでつぼが私なのだ。だから、つぼは呼吸するのである。つぼは「在る」。これが西田幾多郎の『純粋経験』というべきものであるが、このように述べてくると仏教徒のように思われるかもしれないが、まどはクリスチャンである。
なにも「ない」ところにリンゴを置く。リンゴの大きさは「ある」でいっぱいになる。リンゴによって、そこは「ある」だけになる。しかし、リンゴを置いたところには「ない」があったのである。そこには「ある」があるのか? それとも「ない」があるのか?「ある」と「ない」が共存しているのだろうか? それとも、「ある」もなく、「ない」もないのか? 「まぶしいように ぴったりだ」という表現が、その消息を引き取る。そこは『ある=ない』の有無相即の処、あるいは「在る」(存在/ エッセ) の不思議が垣間見えるのである。理屈はたてならべられる。そうら、だんだん自分がアホに思えてきた。
白秋の童謡詩とコトバ遊び
北原白秋が鈴木三重吉と「赤い鳥」に参加して以来、その詩は数々の童謡となって人口に膾炙したのはご存知だろう。まどにとってその影響は計りしれないだろう。白秋の童謡詩とまどのそれとには言葉で遊ぶという絶対的なプリンシパルがあるらしい。「言葉はかわい」、「綺麗な魔物」、「小さな魔物」、「生きている魔物」と詠った白秋の童謡詩がまずある。
『五十音』
水馬 (あめんぼ) 赤いな。ア、イ、ウ、エ、オ。
浮藻に小蝦 (こえび) もおよいでる。
柿木、栗の木。カ、キ、ク、ケ、コ。
啄木鳥こつこつ、枯れけやき。
大角豆 (ささげ) に酢をかけ、サ、シ、ス、セ、ソ。
その魚 (うお) 浅瀬で刺しました。
立ちましょ、喇叭 (らっぱ) で、タ、チ、ツ、テ、ト。
トテトテタッタと飛び立った。
蛞蝓(なめくじ)のろのろ、ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ。
納戸にぬめって、なにねばる。
鳩ぽっぽ、ほろほろ。ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ。
日向のお部屋にゃ笛を吹く。
蝸牛 (まいまい) 、螺旋巻 (ねじまき) 、マ、ミ、ム、メ、モ。
梅の実落ちても見もしまい。
焼き栗、ゆで栗。ヤ、イ、ユ、エ、ヨ。
山田の灯のつく宵の家。
雷鳥は寒かろ、ラ、リ、ル、レ、ロ。
蓮花が咲いたら、瑠璃 (るり) の鳥。
わい、わい、わっしょい。ワ、ヰ、イ、ウ、エ、ヲ。
植木屋、井戸換え、お祭りだ。
(北原白秋童謡集 第五集『祭の笛』)
同じようにまどの詩は、まさに「言葉は跳ねる」、「言葉は響く」、「言葉は光る」と言い得るのではないだろうか。「言葉は生きている」のである。
『うじ』
うねり くねり
であい もぐり
あわて まどい
うかび すべり
いさみ はやり
つたい のぼり
おちて くすみ
ふるえ はじき
よじれ ねじれ
もつれ はしり
おされ ころび
ちぢみ とぼけ
あせり もどり
たわみ またぎ
あえぎ もがき
ふくれ ゆがみ
こえがない !
(まど・みちお『まど・みちお全詩集』)
「しーんとして遠い」彼方へ
孤独な幼年時代に降臨したとも言える「しーんとして遠い」という感覚は死の感覚にも似て寂静な世界だった。そしてそれは、宇宙と交信するためのモデムとなった。世界にはモノがあり、生命があり、人があり、「在る」世界がある。それらが解体して混沌となって「無」の静寂に帰しても、なおそれを、まど・みちおはパースペクティブの焦点としながら言葉を道具として、この世界に投企し遊んできたとも言えるのかもしれない。彼にとって言葉は「名」ではない、概念ではないのである。「名」を超えた世界に絵があるように彼の詩も「名」を超えて「しーんとして遠い」彼方へと万物の故郷へと舵をきった。この焦点は、やがて「一つぶ」に結晶して種子となる。
『一つぶよ』
ぼくらの まえへと つづき
そして うしろへと つづく
えいえんの じかん
ぼくらの そとがわへと ひろがり
そして うちがわへと ちぢまる
むげんの うちゅう
きりがない はてがない さいげんがない
どこまでも どこまでも どこまでも
の なかの ぼくらよ 一つぶよ
と おもうことだけは でき
それだけしか できないのだとしても
その それだけよ 一つぶよ
(まど・みちお『まど・みちお全詩集』)

『まど・みちお全詩集』
1992年に刊行。それまでの1000を超える詩が収載されている。有名な『けしゴム』の詩があるんだから鉛筆の詩もあるだろうと思ったら散文詩のなかにみつけた。冒頭の部分をご紹介しておく。
鉛筆
鉛筆には、女の子の級長のように、高貴な品があった。その級長の、朱塗の鉛筆入のように、あまく乳めいた薫りもあった。
鉛筆は、算術などを考えては、のっしのっしと歩いていた。のっしのっしと、いつか数千里をあるいていた。みすぼらしくちびたのを捨ててしまおうとする時に、ふとその事が。子供の私にもわかるのだった。だから本当は、「サカナヤ ノ トナリ ハ、オコメヤ デス」などと書いているような時にも、「サヨウナラ サヨウナラ」と言いながら、とぼとぼと一人、遠くの方へ歩いているのだった。
‥‥
(まど・みちお『まど・みちお全詩集』)

文芸別冊『まど・みちお「ぞうさん」の詩人』
2000年刊のこの文芸別冊には最新書下ろし詩篇として『きたきた きたきた』、『むようの ちょうぶつ』、『なんじなんぷん ! 』、『れんしゅう』が収載されている。
また、エッセイとして児童雑誌「コドモノクニ」に作品を送り北原白秋によって特選に選ばれた頃のことを書いた『処女作の頃』、その他、6編が収録されている。
1992年の対談の中に『一ねんせいになったら』を作曲した時の山本直純のコメントがあって面白かったので端折ってご紹介しておく。
NHKの番組のために作曲したけれど、詩を見たとき、こんなに難しいものを子供たちの歌にできるのかと苦吟したという。「一ねんせいになったら、ともだち100人」までは良かったし、この後におにぎり、遠足くらいまでは考えついたけれど富士山なんていう固有名詞がでてくる。この詩のとおりになぞったら、もっとやさしくしてもらえないかとダメだしがでた。自分の書くメロディテーは簡単だからいろんな詩をつけることが出来る。でも、この曲には絶対他の詩は付けられない。その時はまどさんのマジックに乗せられて気に食わないものが出来たと思っていたけれど、今では自分の代表作のように言われているという。

谷悦子『まど・みちお 懐かしく不思議な世界』
まど研究の第一人者の著作。章立てをご紹介しておく。
第一章 ふるさとは地球・宇宙――ものみなと共に生きる
第二章 〈ことば遊び〉の楽しさ
第三章 詩の授業――自分が自分である喜び
第四章 絵画――無意識の基層から現れるもの
第五章 「まど・みちおの世界」展
第六章 宇宙に生かされている喜び――第十一回丸山豊記念現代詩賞 記念講演
第七章 同人誌『昆虫列車』の意義と細目
付録 寄稿・エッセイ他

岡田紀子『まど・みちお詩論』
ハイデッガーが現象論を使って存在論を再建しようとした時に生まれた著作が『存在と時間』である。本書は、まどの詩をハイデッガーの思想に準じて考察する著作となっている。著者の岡田紀子はハイデッガーの研究者である。さかしらもここまで突き抜けると興味のかたまりになる。

谷川俊太郎『谷川俊太郎のあれやこれや』
谷川のエッセイ集をはじめ影響を受けた、あるいは親交のあった詩人とその詩が紹介されている。この中に「まど・みちお 私のまどさんファイル」「詩『まどさんね……』」が収載されている。

大橋政人『まど・みちおという詩人の正体』
詩人である大橋政人のまど・みちおに関するエッセイ集が第一部に収載されている。まどの絵画、その詩の形而上的な部分、超現実的というべきものに対するまどの強い興味などが述べられている。第二部には三好達治、山村暮鳥、新川和江などに関する文章がある。この人は詩集『まどさんへの質問』で第十二回三好達治賞を受賞している。

与田準一 (1905-1997)
「赤い鳥」などに作品を投函していたが、1928年に北原白秋を頼って上京し『白秋全集』の校正などを手伝う。つまり、白秋門下であるらしい。『赤い鳥』の編集者にもなっている。まど・みちおとの繋がりもここらあたりにあるのだろう。




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