第87話 ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』 水の哲学者の新世界マップ

ミシェル・セール
『作家、学者、哲学者は世界を旅する』

 「今日、科学と社会の間の界面 (インターフェイス) を活性化させるためにわれわれにたりないもの、それは『もう一人のジュール・ヴェルヌ』である」とミシェル・セールは述べた(『ジュール・ヴェルヌの世紀』序文)

 若くしてブルバキ派の数学に深く関心を持ち、「普遍学」を博捜したライプニッツを卒論のテーマとし、バシュラールの科学的詩学に耽溺した。つまり、科学と文学を哲学で結びあわせ、ヴェルヌのように科学を文化に組み込もうとしたのである。プラトンは幾何学から自ずと導かれた新たな哲学思考を政治や道徳とに折り合わせようとしたという。この和解、縫合、新たな結び目をセールも試みてきた。その著作は難解なことで知られるけれど、今回の夜稿百話は、このセールの思想を包括的に、しかも比較的読みやすく書かれた『作家、学者、哲学者は世界を旅する』を取り上げたい。

ミシェル・セール 生き残りの人生


ミシェル・セール(1930-2019)

●戦争の傷跡

 ミシェル・セールは1930年に南フランスのアジャンに生まれている。彼の幼年時代には5度から6度もの戦争があった。その頃の様子は、その著書『世界戦争』に書かれている。彼の生家はガロンヌ川での浚渫 (しゆんせつ) 工事の業者だった。川底の砂をとりのぞいて水路を確保し砂を運ぶ。一家は川の中に住んでいたとも言えるのである。父は第一次大戦時にヴェルダンで毒ガスによる攻撃を受け、戦死者の死骸に囲まれた中で入信したという。だが、この頃のことを一切語らなかった。母親の通った学校で結婚したのは母一人だった。他の友人たちは教父や許嫁、未来の友を奪われ山と積まれた人肉の山を泣いたという。

 1936年には南西フランスに内戦が勃発したスペインからの難民が押し寄せた。街の入り口の人口は10倍に膨れ上がり、8歳だった彼は幾夜も荷物を運び、絆創膏を切り、毛布を積み、パンを運んだ。

 ドイツ軍の電撃作戦によって南ベルギーのワロン人であった寡婦は父親とはぐれ、自分の部屋の階下のガレージで亡くなった。幼い子供六人が残され、一番下の子はまだ母親の乳房にしがみついていた。セールの両親は彼らを引き取り自分たちの子供として育てる。

 第二次世界大戦が起こると、彼の幼い頭は死と爆撃と処刑と犠牲者で割れんばかりとなる。ラジオは嘘ばかりつき、歌わされる歌は卑劣なものばかりだった。11歳の時、高校の最上級生たちの死体を埋めるのを手伝わされる。一方は政府民兵として、片方はレジスタンスとして殺し合っていた。フランスが解放されると国内で起きたのは熾烈な内戦だった。やがてショアを知り、ドレスデン、広島、長﨑を知る。


ミシェル・セール『世界戦争』

●寄宿生活と海軍

 少年時代と高校では空腹に悩まされた。寄宿生活は牢獄のようだったが、この苦しみから逃れるために神秘主義者となった。この苦痛から奇蹟的に癒された後、海軍士官学校を経て、二年間海軍に在籍し1949年に退籍するが、スエズ動乱とアルジェリア戦争に参加することになる。植民地戦争もまた恐るべきものだったという。暴風雨に襲われ二週間ほど行方不明とされた。これが生き残り時代のはじまりであり、それ以後、自分の人生は「生き残り」であったという。自分の存在の全ては戦争で出来ている。70年このかた涙の雨はとどまることを知らなかった。

●その後

 エコール・ノルマル・シュペリエールに入学し、1955年に大学教授資格を得た。教授の資格は数学、哲学、古典文学と広範囲に及んだ。それに、詩的想像力の研究で知られるガストン・バシュラールに師事しているのは特筆して良い。それにミシェル・フーコーとも親交を深めていった。1960年にアカデミー・フランセーズの会員となり、1969年からパリ第一大学・ソルボンヌで教える他、コレージュ・ド・フランス、スタンフォード大学、ジョンズ・ホプキンス大学などでも長年教鞭を執った。

ガストン・バシュラール (1884-1962)
ガストン・バシュラール (1884-1962) 

四つの世界像

●三つの世界旅行

 セールは深淵なる智慧に到達するためには三つの旅が必要だという。
・一つは世界を旅すること。太平洋の大海原、氷山が漂う北海、砂漠や暴風雨に立ち向かい、島々を探検する。疲労と狂喜の果てには世界地図をパラパラとめくるわびしさが残る。
・次いで知識 = エンサイクロぺティーの旅。もう一つの困難は学問を総和すること。数学や厳密科学に没頭し、宇宙論、生化学、人間や社会や政治にまつわる人文科学を経めぐる。この旅には中心が至る所にあり円周はどこにもない。せっかくの情熱も全体への展望はまるきり欠けてしまう。
・第三はコンピューターによって果てしない遍歴を何重にも成し遂げてしまうこと。この年代記的世界地図によって知の放浪は成し遂げられるか、あるいは一つのプロジェクトに統合されるという。

 あらゆることを細部にまで知ることは出来ないが、束の間に広がるこの全体を可能な限り容易にアクセスできる無数の扉を持ち、操ることが出来るとセールはいう。彼の四部作『人類再生』、『白熱するもの』、『小枝とフォーマット』、『ユマニスムの物語』は、そのことを語っている。

 生涯の終わりにレヴィ=ストロースの高弟である人類学者フィリップ・デスコラによって幸運がもたらされた。彼は人類の文化を四つの群島に描き分けてくれたのである。

フィリップ・デスコラ1949-

●四つの群島

 このデスコラの分類によって古典主義時代には神を除いて到達不可能と思われていた眺望が得られたとセールは述べる。四つの群島にあるそれぞれの世界像のタイプは以下の通りである。

トーテミスト。人間たちの間の相違を動物や植物の種といった動物相や植物相に対応させる。
アミニスト。あらゆる存在のうちに同一の魂が見出されるが、それらはめいめい独自の身体をまとっている。
アナロジスト。実在するものは全て異なっていて、無秩序でバラバラなものに可能な関係を見出すことに精魂をかたむける。
ナチュラリズム。あらゆる身体 (物体) が分子や原子によって形成されるが人間は内面性を持った魂を持ち、各人を違った風に文化や社会毎に多種多様化する。アミニストとは逆の立場と言えるが近年の西欧で見られる通常の世界観。

 この四つの分類によって地理的に遠く離れた種々の社会はグループを作り直し、物理的、政治的な世界地図とは異なる新たな世界地図を作りだすことが出来る。いわば、ピレネーの牧人たちやモンゴルの羊飼いたちがコレージュ・ド・フランスやコーネル大学、オクスフォード大学にやって来て、教授たちの政治的、性的、宗教的な習俗を観察するといった観点が得られるというのである。

 これら四つのフォーマットは私たちの社会の混淆状態を理解するために重要なメスになる。我々は進歩によって古い誤謬から解き放たれていったとされる「小さな物語」は捨て去られる。それでは、この四つの群島の要約をご紹介する。セールの博覧強記はスモールワールド的なネットワークによってあらぬ方向へと飛躍しながら当意即妙な結合術によって記述されていく。

トーテミストの系譜

 自然から遠い都会の博識者たちが忘れ去った伝統、農村において口承によって永らえてきた『寓話』たち、古代ギリシアのイソップが真似た前6~前7世紀にアッシリアやバビロニアで大流行した『アヒカリ』といった物語は、永続的で、深遠な『寓話』であったが、それらは、ありきたりな社会・政治的倫理によって割り引かれ末席に置かれてきた。カエル、オオカミ、ロバ、ドングリなどのトーテムは生き物たちの秩序や分類を借りて社会の混沌をトーテム化しているのだとセールはいう。

ギュスターヴ・フローベール
(1821-1880)ナダール撮影

 文学の中に潜むトーテミズム。フローベールの『純な心』の主人公フェリシテは主人のオバン夫人に押し付けられたオオムのルルを愛し、死んでからも剥製にして自分の部屋に飾る。そこにはフェティシズムが見られるが、彼女の死の間際、最後の息を吐く間に一羽の巨大なオオムが彼女の頭上を舞うのである。ここにはトーテミズムの特徴を持つアニミズムがあるとセールは言う。

 17世紀フランスの作家ジャン・ド・ブリュイエールはアリストテレスの朋友テオフラストスが著した性格論の作品『人さまざま』を訳述する。このルケイオンの学頭を継いだテオフラストスは植物を四種類に分類するなど植物学の先駆でもあり、ブリュイエールは、その歴史的な植物、魚、石、蜂蜜などについての博物学の諸々の論文を列挙している。トーテム化はリンネが植物を分類したように、あるいはレヴィ=ストロースが分類を行う野生の思考を発見したように、生物たちを差異と類似に描き分け、関係を構築していく。民俗学者がトーテミズムと名づけたものはそれであるという。

アミニスト 魂の分け前

 記憶の最深部、奇妙で忘れられたアニミスト的カテゴリーはフランスではコント、タルド、デュルケム、モースらによって、イギリスではフレーザー卿によって、ドイツではグリム兄弟やシェリングなどの神話と文化の理論家たちによって再発見されてきた。

 ラ・フォンテーヌの『オークと葦』は二つの植物の口論でありながら彼らの支配者は動く風であり、『狼と子羊』では捕食者である 強者=狼 が 獲物=子羊 に対して同じ動物でありながら他者を殺すための自己弁護であり、狩る者が狩られる者におしつけるアニミストの合法性だった。私たちは家族ではない、故に君を食べるという論理である。『狼と犬』では、痩せさらばえた弱者の狼が強者の猟犬にさそわれて番犬となるべき道へと誘われるも自由を失うという代償に気づくという設定だが、家畜化というメタモルフォーゼの道を示している。

 進化論とは突然変異と淘汰の操作、「いささかアニミストや生気論者めいた〈生の飛躍/エラン・ヴィタル〉」を通じて生み出されるメタモルフォーゼと言えるし、あらゆる変化がどのように生まれるかを説明してくれるのである。

『狼と犬』ラ・フォンテーヌ作 グランヴィル画

 プルーストの『失われた時』をセールは子供時代の愛の楽園への回帰と読み込んでいるが、「マドレーヌの味、紅茶の薫り」の前の「失われた者たちの魂が、何か下位のもの、動物や、植物や、動かざるものの中に囚われていると考える、ケルトの信仰をもっともだと思う」という箇所に注目している。文学のなかの底流にアニミズムは散見されるのである。

 ルクレティウスのクリナメンのような軽やかで柔らかく極小で記号的な力しか持たないものをセールは、ある種の精神と呼ぶ。それは堅い物質に生気を与える大気中の息吹、身体に侵入して、それを導く魂だというのである。同様に〈柔らかい数学〉は堅い世界を身体と魂の混淆としてコード化する。プラトンもガリレイも世界は数学の言語で記述できるとした。

 『ティマイオス』に登場するデミウルゴス (造物主) は世界霊魂について語り、プラトンは「混淆の魂に数学的な形を与えた」という。しかし、プラトンは幾何学や等差数列の周期性によって世界を魂だけから演繹しようとする。そこに変化やメタモルフォーズする姿はなく物体の諸部分を魂そのものから見出そうとしたのだというのである。一方、ガリレイの数学は事物の物体から特異的な部分の関数や方程式を取り出す〈部分の数学〉だった。その部分的な眺望から世界の巨大な魂の部分を見ようとした。彼はアミニズムに身体 (物体) や風景の物理性を回復させたという。

力学と局所的な動きに関連する2つの新しい科学に
関する談話と数学的デモンストレーション
ガリレイによる軍事コンパスの活用 1656


 ガリレイの科学は代数と実験の混淆だったが、そこから漏れ出ていた化学や生化学、生物学は、もろもろのコードの組み合わせとして発展してきた。遺伝子学や分子生物学のようにアルゴリズム化されてきたのである。そして、今や、コンピューターは、全てを一塊の情報、bit や pixel の濃い霧に包まれたコードへと変じた。それは新たなピタゴラス主義と言ってよかった。このような無限に小さな情報のエネルギーのことをセールは〈ソフト〉と呼びたいという。「ソフトがハードをプログラムするように、魂が身体を支配するように、無生物が生物を操っているのではないか」と疑う。ここにルクレティウスのクリナメンという微分的傾きを再発見する。この物質に生気を与える大気中の息吹は西欧をアニミズムへと駆り立てたと見ているのである。

 ここにアニミズムの創造性がある。それは、柔らかい情報を担うものと堅くエントロピーにさらされる二つのものを結合するのである。こうして、アニミズムにおける魂の分け前は情報と言う名によって受信され、発信され、記憶され、加工されるようになった。それは一つの魂に再結合されるのだろうかとセールは問う。

微分繋ぐアナロジスト

 世界はカオティックなバラバラで規定のない集合であるなら、この混乱の中で生き残るためには絶えまなく無数の関係を探し求め、結びつけ、構成する他ない。それはアナロジストになることを意味する。アナロジー、つまり類推を使う者である。ユカタン半島のマヤ人であれ、マリのドゴン族であれ、こうしたバラバラなものを分類しない人間を見たことがないとセールは言う。このアナロジスト型の哲学者として、そしてセールの手本としてのライプニッツがいた。

 「長いこだまは‥‥遠くから混じりあい/暗闇な、深い統一のうちで/夜のように光のように広大な‥‥子供の肉のように爽やかな香り/オーボエのように甘味で、草原のように緑いろの(シャルル・ボードレール『悪の華』より「万物照応」清水高志 訳)。」

 アナロジズムのための完璧な寺院、精神が無数の感覚を繋ぎ合わせる言葉と象徴の森であるボードレールの「万物照応」。混淆への擁護へと言葉は暗鬱な深い統一を探し求める。同時代のフローベールが書いたブリューゲルの『聖アントワーヌ (アントニウス) の誘惑』に刺激された同名の著作は、欲望の様々な地獄を描いた。それはアナロジーなきアナロジズム、比較を絶した豊かさがあった。様々な文学や美学にある、認識やエスピテーメにある、技術の、現実の、ガラクタ置き場、ブンダーカンマ―、バザール、ウィキペディアにある世界の大いなる混乱だった。

ピーテル・ブリューゲル『聖アントニウスの誘惑』

 a や b という言葉 (ロゴス) は a/bという比や分数の意味を持ち始め、記号や要素間の関係を表す比率=Ratio を意味するようになる。そして、二つの比の相等 a/b=c/d 、つまりアナロゴンを生み出した。ここには古代よりの数学の尽きることのない活力があった。迷路を歩むためのアリアドネの糸はライプニッツによって紡がれる。「理由を欠いたものは何もない」という信念の基、諸関係のネットワークは予測され、表現された。

 ライプニッツの精神は飛躍する。いくつかの最も基本的な概念を記号のように組み合わせれば、無数の概念を作り出すことができ、これまで誰も知ることのなかった真理もその中に含まれるはずだとライプニッツは考える。それで、この方法を記号によりあらゆることを表現できるという意味で「普遍的記号法」と自ら称し、また未知の真理を発見できるという意味で「発見の論理学」とも名づけるのである。事物の成り立ちが単純なものの複合によっているのだから、対象を表す記号を組み合わせることによって世界を理解し、真理を発見することができると考えたのである。それを数学的に演算できると彼は考えていた。(『ライプニッツ著作集』論理学 澤口昭 解説)

 先人たちの準備した総体の中で現在の私たちは情報の海の中でかろうじて生きている。その膨大化する海と関係のネットワークは継続的な闘争を続けるしかない。その一例が構造主義であった。レヴィ=ストロースの分析は明らかにトーテミズムと関係し、異なる地域の親族関係をアナロジーによって結びつける強靭な方法だった。微分的に細かく分離された情報の要素はアナロジーという強力な手段によって結びつけられるのである。

情報とナチュラリズム

 感情や言語、儀式、制度が文明によって異なるのに対して各々の事物は一様に同じ材料で出来ている。この人間と物との乖離が西洋を特徴付ける。それによって私たちは客観性を身につけてきた。前に投げ出すはラテン語の ob-ji (a) cere であるが 、対象 (object) とは前に投げ出されるものである。それは視界や観点と結びついていたためにパースペクティブのような眺めとして捉えられた。ナチュラリズムは主体による対象の認識の在り方である。

 ラシーヌが『フェードル』で邪悪な王妃フェードルの夫であるテゼー王を〈無数の異なる対象の、移り気な崇拝者〉と設定し、コルネイユが書いた『オラース』では兄に婚約者を殺された妹は〈私のただ一つの恨みの対象〉との思いを抱く。自分とは相いれない対象として切り離される。事物や現実の対象への表現に客観性という言葉以外を用いるのは難しいし、安易にリアリズムを標榜すれば事物の世界は自分から遠のいてしまう。この対象しかない世界の中で絶え間ない現実の労苦は続く。

 西洋のナチュラリズムは風車や蒸気機関などの力学的モデルから来たのではないかと言われている。その例の一つは時計である。天の運行を歯車の機械が模倣するように色々な機械は自然を模倣する。逆にオートマトン (自動人形) は自然と生命に、その図式を投影した。ばね仕掛けで自動で動くイメージは動物たちにも投影されデカルトの機械論的世界観を生み出した。同じ書籍を作るために印刷機が発明されたようにローカルな要求は技術をグローバルなものに拡張してゆき、世界観へも影響する。印刷術が言語へ、貨幣が貿易へ、簿記が商業へと影響を与えたように人造物が世界規模の影響を持ち始める、これをセールはフォーマット化と呼んだ。

ゴットルフの駆動する巨大地球儀

 ローカルな文化に代表される局所性、ユマニスト達に代表される抽象的普遍、ネット環境に代表される世界的普及と言った三重のズレをセールは楽しんでいるという。それは、南フランスのオック圏 – アカデミー – メディアと言い換えることも出来る。アカデミーの普遍は、せいぜい五千年の範囲にある。今日の年代測定の技術は自然を表す第五の新たな文化の範囲を150億年と表明する。徐々に知は生まれ、変化し、あるものは消滅する。その結果、セールが「大いなる物語」と呼ぶものがバラバラに形成されていく。それは無数のコードの解読に他ならなかった。集団の単純さより、個人のバラバラな差異へ、諸概念の単純さより種々の特異性へと傾斜していく。ナチュラリズムの単純さは姿を消し複雑化してゆく。そして私たちは、個別性をじっくり味わうことが出来るようになった。

 アフリカに起源をもつ私たちは10万年に亘りグローバル化を推し進めてきた。新しい時間の測定器が人間の身体に対する世界観変えるのなら私たちの人間観や誤った歴史観を変容させていくだろうとセールは予言する。地球の裏側での遭遇は再会と言うべきものになる。空間も時間も、肉体を飲み込んでしまうのではなく宇宙のあらゆる細部が人間を横断し細部に絡み合い特別なものにして人間を主体化していく。人類が分断されることなく非人間である古い自然の無数の細部が、人類を仲間とする文化の発端となり、自然と文化は婚姻を行う。この第五文化があらたな人類再生を生じさせることをセールは願っているという。

水の思想家 セール

 ガロンヌ川で育ったセールは子供の頃、魚になっていたという。そして、世界中を旅してみた。しかし、自分を構成するものは、実際には自分から離れて広大な世界をさ迷っているし、世界の諸部分も自分を含めた人物や事物の内に身を落ち着ける。それは、あたかもルクレティウスのいう原子のようだった。

 四つの地図から窺える要素は一つの幹を形成しているように見える。デカルトのナチュラリズムに意義を申し立てたライプニッツは微積分学、動力学、二進数演算、計算機、前-情報学などを創始し、ベルグソンの〈生の飛躍/エラン・ヴィタル〉はある種の生気論の如くだし、現代科学はアニミズムやアナロジズムに舵を切り、コード化された情報理論は無機物や生物を問わずあらゆる記憶を増殖させるトーテミズムである。重要なのは、あらゆる対価を払っても総体を考えることだ。

 こうして、生命が生まれ、運動するように至る所に彼を構成する微細な要素は分散し、あらゆるものに遍在し、流れ、発散し、響き、生長し、各々の分子に侵入し、記憶するとセールはいうのである。彼は乱流の中に生きていたのである。





夜稿百話
セール著作 一部

ミシェル・セール『ライプニッツのシステム』

何故、この世界は今あるごとくなのか。このように豊穣でありながら、なお〈一〉なる世界であり続けるのか。世界の多元性と単一性とが我々の世界のあり様であるのか。この問いにライプニッツの哲学は答えようとする。世界の最小単位であるモナドには窓がないが、それらは全てが協力し合い、結び付けられ、表出しあい、適合している。

デカルトはアリストテレスの後を受けて数学を秩序と測定の学問と定義した。ライプニッツにとって数学は秩序の学問である。ライプニッツは同質、異質の質を重視し微積分学と関数理論を用いる。ライプニッツ哲学は一見両立不能に見える二つのファクターに準拠している。万物同一の概念と無限の概念である。前者は後者の源泉になっている。

諸モナドは互いに耳を傾け合い、理解しあうためには最小限一個の神が必要であった。諸モナドの連結は如何にして可能なのかが論点となる。n 個のモナドがあるとする。二つずつの結合と同じ関数 C2n 個の関係があればよい。増大の速さは三角数の数列が「普通の数」の数列を上回る速さと同じだという。

上図は三角数 1、3、6、10、15、21と数を増加させていく。

n が3以上あればより少ない線から結合が成り立ちうる。モナドの数が多いほどそうなのである。このモナド間の網の目は最も経済的な解決法でありライプニッツの予定調和説は結合法を媒介にして実体の複数性の中に内包されているという。


ミシェル・セール 『ルクレティウスのテキストにおける物理学の誕生』

ミシェル・セール 『ルクレティウスのテキストにおける物理学の誕生』

セールは実験と操作で生まれる大量でエントロピー的規模のエネルギーのハードなものに対して、そんな大規模なエネルギーに比べれば無限小の情報エネルギーのことを〈ソフト〉と呼ぶ。ルクレティウスのクリナメンのようにソフトがハードをプログラムする、あるいは魂が身体を支配するように無生物と生物を操っているのではないかと言う。クリナメンは、その舵を微分的に傾かせる方法を知っているのではないかと想像する。




ミシェル・セール『世界戦争』

セールは実際に何度もの戦争体験を持っている。ところが彼は「世界戦争」を別の意味で使用する。それは全ての人たちを〈世界〉に対決させる戦争である。それは人々が世界というものを長らく忘れていたからだという。自分と同じように世界は身体を持っている。都市、農村、原野、砂漠、大洋、極地、これらは皆世界の身体であり、死に瀕する傷を負っている。私たち人間全体を地球環境に対峙させること、それが「世界戦争」なのである。人間の自然への空間的侵略をサピエンス (知) とともに始めたが私たちにはそれが見えない。「国は国自身のことに汲々とし、政治は自身をメディアにさらけ出し、メディアは政治を食い物にする。金の滴り落ちる魔術師たちの身振りのなかで、日々の見世物 (スペクタクル) が演じられる。(本書より)」フランスの農業人口が2%になってからフランス人は宇宙知らずとなり、自分たちが同士であれば飲食に事欠かないと子供たちに信じさせた。ハイデッガーは人間の友たる動物を貧しい者にしていると述べ、今やわれわれ人間自身がそうなろうとしているというのである。



関連図書

清水高志『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』

本書はミシェル・セールの思想についての解説書になっている。副題のように普遍学からアクター・ネットワークまでとなっており、普遍学については『作家、学者、哲学者は世界を旅する』で述べたので、ほぼご理解いただけると思う。本書には「自然契約」というセール思想のもう一つの重要な要素についての解説があるのでご紹介しておく。アクター・ネットワークについては今回は触れない。

「自然契約」はルソーの社会契約論が意識されていて、「不可視な場所の発見」をテーマとしている。ゴヤの『棍棒での決闘』(『世界戦争』の表紙参照) のように敵対する二つの闘争 (対話) としての対角があり、それに対して、それを眺める観客たちの関係の対角がある。

敵対者たちの「主体的暴力」の激化は、それを調停するルールあるいは契約として戦争という形態に移行させ戦争の法として安定させていく。一方、契約の対角では戦いに対する喧噪 (ノワーズ) や妨害音がある。

一対の闘争関係はグローバルな経済社会では自転車操業の椅子取りゲームになり、ヘーゲルの言う「主人と奴隷の弁証法」とも言うべきものになる。一方で、かつては地に足を着けていた個人は互いに意識的な求心性を失い無自覚的、間接的結びつきを持つようになった。捕えがたい流動的なネットワークに身を晒すようになる。人間の環境は「あるがままの多」として襲い掛かってくる。「予想できない脅威」としての環境=自然である。この自然 (あるがままの世界) と人間社会は対角線で敵対しあっていて、そこには新たな契約が必要とされる。それが「自然契約」である。

合理的と考えられた諸手段は世界の破壊を催してきた。これに敵対しているものは「あるがままの自然」、「あるがままの多様性」である。この多様性=自然との相互関係を導き入れた社会を模索しなければならないという分けなのである。物や知識の占有を巡る闘争にはその裏返してとしての倫理が必要であるが、現在の情報環境は情報を外に吐き出し、結び合わせて、新たな自然を定義しつつある。そこから倫理の創出がなされ本来的な自然と結びつくことができるというのである。





関連画像


セールの出身地 アジャンとガロンヌ川

ジャン・ド・ブリュイエール(1645-1696)
フランスのモラリスト、作家として知られる。


テオフラストス(前371-前287)

古代ギリシアの哲学者、博物学者、植物学者。アリストテレスの朋友でリュケイオンの学頭を継いだことでも知られている。

ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ
(1621-1695)
イソップ物語を翻案した寓話詩で知られるフランスの詩人。「北風と太陽」「金の卵を産むめんどり」「狼と子羊」などがある。


ピエール・コルネイユ(1606-1648)

17世紀フランスの古典主義の劇作家で、ラシーヌやモリエールと並び称された。16世紀のスペインの劇作家ベルビスの『シッドの青春』を翻案した『ル・シッド』が代表作とされる。





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