今回の夜稿百話は前回に引き続き小川正廣さんのもう一つの著作『ウェルギリウス研究』をおおくりする。ウェルギリウスは中世ヨーロッパにおいて絶大な人気を得たローマの詩人であることは、ダンテの『神曲』を見ればよく分かるし、フマニスムの形成過程でもキケロと並ぶ重要な作家でもあった。では何故、彼がそんな絶大な人気を得たのか、テーマは何であり、その魅力は一体どこにあったのか。それを小川さんの著作から紐解いてみたい。
ヘンリー・パーセルの作曲したオペラ『ディドとエアネス』、バロックオペラの傑作として誉高い。トロイの王子エネアスとカルタゴの女王ディドとの悲恋を描いている。ウェルギリウスが書いた叙事詩『アエネイス』を底本にして構想された。この作品の中でディドが自らの死を歌うアリアは名品である。
私が大地の中に横たわる時、あなたの胸の中に
私の過ちがなんの禍をもたらすことのないように
思いだしてください 思いだして ああ ! でも 私の運命のことは忘れて
私を思いだして ああ ! でも 私の定めは忘れてください
When I am laid, am laid in earth, May my wrongs create
No trouble, no trouble in thy breast;
Remember me, remember me, but ah! forget my fate.
Remember me, but ah! forget my fate.
しかし、ウェルギリウスの原作ではこのような哀感はない。本書ではエネアスはアエネアス、ディドはディードー、トロイはトロイア、イーリアスはイリアスと表記されているのでそれに従う。そこでは、ディードーのアエネアスへの憎悪は極限に達して恐るべき呪詛の言葉が連発されるのである。
たとえあの憎らしい男が
港に到着し、陸地に漕ぎ着くことが必定で
それをユッピテルの運命が要求し、その結末が動かぬとしても、
どうかあいつが勇猛な民との戦さに悩まされ、
土地を追われ、ユールスを抱くことも奪われて、
はては援軍を請い求め、仲間の無残な死を見ることになれ !
そして不平等な条約に降伏し、待望の国も
この世の楽しみも味わえずに、時ならずして死ぬめに遇い、
埋葬もされず、砂の真ん中に置き去りにされよ !
これが私の祈り。この最後のことばを、血とともに注いでやる。
(『アエネイス』Ⅳ 小川正廣 訳)
そして、口を床に押しつけ、「いま死ねば仇を討てぬ。だが、死のう」「そうだ、こうして亡霊の世界へ行くがよい。この火を目から飲ませてやる、非情にも沖へ去ったダルダニア人(トロイア人のこと)に。わが死の凶兆をみやげにもたせてやる(『アエネーイス』岡道男・高橋宏幸 訳)。」そう言い終えるとディードーは剣の上に倒れ伏した。
ローマという運命
ここまで話が変わるのかと思うといささか不思議ささえ覚えるのだが、アエネアスはトロイアの優れた武将であり、その陥落に際してパラスの木像であるパラディウムを抱えた盲目の父親アンキセスを背負い、子のアスカニウス (別称 ユールス) の手を引いて脱出したといわれ、敬神と孝心の武将として名高く、ホメロスの『イリアス』でもヘクトルに次ぐ勇者として描かれた。パラディウムはトロイアの建設者イーロスの祈りに答えて天空から下ったといわれている。ちなみにトロイアの古名がイーリオンである。死に場所と決めていたその地を去り、妻や父親アンキセスを失い、多くの友人を失った。そしてイタリアの地に向い、将来ローマとなる都市を建設することになる。
アエネアスはトロイアを出発してイタリアに到着するまで彼らに敵対する女神ユーノの妨害によって地中海を7年間放浪するが、それはオデュッセイウスの故郷への帰還に費やした時間を彷彿とさせる。シチリア沖で嵐に遭遇してカルタゴに流れ着く。そこはフェニキア出身の女王ディードーが支配する都市であり、彼女の援助によってアエネアスたちは体力と気力を回復する。女神ユーノと母神ウェヌスの差し金によってディードーは彼を愛するようになり、やがて二人は相思相愛となる。アエネアスはフェニキア人の新都市のために夫の如く協力を惜しまなかった。
しかし、この予想外の出来事に最高神ユッピテルはメルクリウスを使わして目的地のイタリアへ即刻旅立つように命令を伝える。アエネアスは、自分がイタリアに新たな都市を建設するよう運命づけられていて、これは自分の意志ではないと釈明して船出してしまうのである。ディードーは半狂乱になり宮殿内に火葬の薪を山と運びこみ、そのうえで彼の残した短剣で自害した。しかし、ディードーを愛したのはアエネアスが自分の心に従ったからだった。それ故、彼は罪のない愛人を破滅に追いやったことへの道義的責任に苛まれるようになる。それはアエネアスの耐えなければならない多くの試練の一つとなるのであった。
それらを乗り越えて、彼はローマ建国の祖となる。彼の母であるウェヌスのとりなしによってユッピテルは、トロイア人がイタリアの地で建設する都市は必ずや発展を遂げローマとなる、その「運命(fatum)」は不動であり、ローマ人の盛運は果ても限りも置かぬと定めたのである。
ホメロスの叙事詩
古代においてホメロスに対する哲学者たちの評価は、けっして手放しではなかった。紀元前6世紀には、ピュタゴラスやヘラクレイトス、クセノパネスらが神々に対して不敬だとしてホメロスを非難していたし、紀元前四世紀から五世紀の人であるプラトンは『国家』第三巻においてホメロスが描いた英雄たちが、あまりに感情に脆く、物欲が強く、残虐だとして英雄と言えど人間より何ら優れていないなどと若者たちに信じ込ませ、社会に好ましくない影響を与えているとした。国家の「守護者」の教育には勇気・節制とが理想とされなければならないというわけである。だが、一方で、『国家』第十巻では「あの素晴らしい悲劇作家たちの最初の教師であり指導者だった」と彼の詩に取り憑かれていたことを白状せずにはいられなかった。ホメロスの芸術的な長所を正当に評価できる感性を持っていたからこそ、叙事詩が文体においてミメーシスを含み、内容において神々の放埓な行いと人間の弱い性格や卑小さをあらわに描いているというマイナスの評価を下し、優れた文学が哲学の牙城を揺るがしかねないことをプラトンは懸念していたのであるという。
一方で、アリストテレスはプラトンと同じようにホメロスの詩を傑出した人間の模範的な行いを賛美するものではなく、弱点を持った人間たちの苦難の物語として受け止めていた。だが、『詩学』においてはホメロスを高く評価した。名声や幸福を享受していてもけっして理想的と言えない人間が、いわれなく不幸に転落し、そこで味わう苦難、それが悲劇や叙事詩における「厳粛な行為」の再現、つまりミメーシスなのである。それによって聴衆が感じるのは「恐怖」と「同情」から生じる「快感」であり、それが「カタルシス」であった。ホメロスは、その厳粛な事柄についての最大の作者だとされたのである。筆者の小川正廣さんはホメロスが追求したものは破滅に耐える人間の生、その誉を描くことなのであって破滅や死の美学を描くことではなかったという。そういえば、忠臣蔵だって運命の理不尽な重荷に耐えて本懐を遂げる物語だった。
ダンテはホメロスの作品を翻訳にしろ原文にしろ読んだことが無かった。それは『神曲』に代表されるように圧倒的なウェルギリウス人気のせいだったのである。ホメロス写本のアラビア語訳は中世にはなく、原典も15世紀末にイタリアにもたらされるまでなかった。ホメロスを理解するための最重要文献であるアリストテレスの『詩学』も15世紀末にギリシア語からラテン語に直接翻訳されるまで、アラビア語とラテン語による重訳のものしかなかった。アヴェロエス (1126-1198) らはアラビア語でホメロスやギリシア悲劇を読めなかったためにパトス、カタルシス、アナグノーリシス (認知) などの内容が理解できなかった。そのために中世にはアリストテレスのホメロス理解の最重要部が抜け落ちたのである。それは致命的な誤読となり、その影響は長く続いた。しかも、ビザンツではホメロスのパロディー作品の方が史実として受け入れられていた。ホメロスが大きな復権を遂げるのはシュリーマンのトロイア遺跡発見を待たなければならなかったのである(小川正廣『ホメロスの逆襲』)。
ウェルギリウスの野望
ウェルギリウスがホメロスの描いた登場人物の一人を『アエネイス』の主人公にしたことは大きな意味があるという。ギリシアの英雄からローマの英雄像を作り出さなければならなかった。そこに大きな矛盾と野望があったというのだ。
『イリアス』におけるアカイア(ギリシア)軍とトロイア軍の血で血を洗う戦いは、争いの女神エリスの発案によってユーノ、アテネ、ウェヌスら女神たちの埒もない美貌争いから端を発した。まるで家族内の嫉妬や諍いを思わせる神々の軽薄な行いは、下界の人間たちに過酷な「運命」として重くのしかかる。ウェルギリウスの『アエネイス』においてもユーノは、トロイア戦争においてユーノ崇拝の中心地であったアルゴスの人々に対する殺戮への怒り、トロイア人パリスによって蔑(ないがしろ)にされた我が美貌、ユッピテルにさらわれ寵愛を受けたガニュメーデスとその子孫たるアエネアスへの遺恨によって彼を迫害した。ウェルギリウスは序歌に「かほどの憤怒を天上の神々が胸に宿すのか」と書いた。それにユーノは、自分の愛するカルタゴを世界を支配する国にしたいと考えていたが、「運命」によって妨げられる。ウェルギリウスの時代には、カルタゴとローマによるポエニ戦争(前264-前146)によってカルタゴは既に破壊されていた。それも世界のロゴスたるユッピテルの意志であったという。
オデュッセウスは、魔女キルケ―から帰国のためには冥界に降り、預言者テレシアスからその方法を聞かねばならないと教えられる。ご存じのホメロスの『オデュッセイア』の一節である。アエネアスはクマエの女預言者シビュッラに導かれ冥界にいる父アンキセスに出会う。息子を慰労した後、父はこれからのローマの壮大な歴史と英雄たちのカタログを開示するのである。ロルムス、カエサル、アウグストゥスらによるローマの権勢(Imperium)と支配が言祝がれる。ここはウェルギリウスを寵愛したアウグストゥスに対するオマージュとして言挙げされていると見ていい。そして、国家のためには無慈悲に我が子を殺すブルートゥスに対して深い憐みと同情が述べられ、舅カエサルと婿ポンペ―ユスとの内戦を嘆き、外国との戦いに勝利したローマの英雄たちが語られる。父は息子に傲慢な者には最後まで戦い、従う者には寛容を示せ、おまえが覚えるべきことは諸国民を統治する技術であり、平和を人々の習いとさせよと諭す。
ここでは芸術や学問に対するギリシアの栄光が世界の統治というローマの栄光と比較されている。その世界の平和を確保するためには、自らの生命を危険に晒し、自らの感性や知性のための「技芸」を諦めなければならないのであった。アエネアスはポリスや国家に対する忠誠より個人の誉を重んじるギリシア的な英雄ではなく、国家に忠誠を誓い、我が身を犠牲にしてもその権勢拡大のために働く新しいローマの英雄像を託されている。
『イリアス』では、友人パトロクロスを殺された恨みに燃えるアキレウスが、敵将ヘクトルの遺骸の足に穴を穿って紐をかけ戦車に繋いで地面の上を引きずり回した。同じように若い朋友パラスの死を知ったアエネアスは、八人の若い敵兵を生け捕りにし、その火葬の炎の中に投げ込み、最大の敵トゥルヌスとの戦いでは、命乞いをする敵の肩にパラスの剣帯が戦利品として吊るされているのを見て恐るべき狂気と怒りに襲われ、無慈悲にもその命を絶つのであった。こうして物語は極めて後味の悪い終わり方をするのである。既に、ユッピテルの命によって疫病の女神ディーラがトゥルヌスの力を奪っていた。
ここにユッピテルの意志である運命の決定と、国家の礎を築くために懸命になりながらも、けっして完全ではない人間として破滅の危機に直面しながら苦難に耐えて生きていく主人公の有様が語られる。何故なら、それが「叙事詩」であったからである。ここには、ギリシアの叙事詩に対して新しい英雄像を掲げるという野心と叙事詩というギリシアの枠組みから離れられない矛盾があった。しかし、彼らの作品は、彼らが断念せよと教えられた芸術の力によって、今なお生命を保ち続けていると筆者は結んでいる。
見よ、プリアモスを。ここにも栄光は、その報酬を受けている。
ここにも人の世を思う涙があり、人間の苦しみは人々の心を打つ。
(『アエネイス』Ⅰ 小川正廣 訳)
ウェルギリウスの生涯
プブリウス・ウェルギリウス・マロは、紀元前70年にイタリアのマントゥア(現在のマントヴァ)に近いアンデスに生まれた。通説では父親は下級官吏の使用人であったが、勤勉を買われてその養子となり、森林を買い占めたり蜜蜂を飼い小さな財産を大きく殖やしたという(スエトニウス『ウェルギリウス伝』)。北イタリアのクレモナとミラノで教育を受けた後、17歳の頃ローマに出て修辞学を学んで弁護士になろうとした。一度だけ弁護のために法廷に出たが、極めて内気だったためか話し方はあまりにたどたどしく、教育のない者のようだったので、それきり辞めたと伝えられている。この内向性は並外れたもので、詩人として名をなしてから、「あれが、ウェルギリウスだと」人が指差すと手当たり次第近くの家に逃げ込んだという。
前40年頃に『牧歌』が世に出るまで詳しい消息は分かっていない。エピクロス派の哲学者シロンに弟子入りし、ルクレティウスの詩に親しんだが、「田園の神々を――パンや老いたるシルウァヌスやニンフの姉妹を知るものは幸いなるかな(『農耕詩』河津千代 訳)」と田園の世界に立ち戻っている。この頃(前40年代)、カエサルはルビコン川を渡ってローマに討ち入り、ファルサロスの戦いでポンペイウスは破れ、カエサルの独裁、ポンペイウスの残党とカエサルとのスペイン戦役、続いてカエサルの暗殺、カエサルの養子であったオクタウィアヌスの台頭、第二回三頭政治(オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥス)の開始、キケロの惨死、オクタウィアヌスに対するカッシウス、ブルートゥスによるフィリッピの戦い、オクタウィアヌス派とアントニウス派とのペルージア戦争と、打ち続く内戦によってローマは混乱の極にあった。
ウェルギリウスは最初、詩人でもあり軍人・政治家、キケロに次ぐ雄弁家として知られるガイウス・アシリウス・ポリオに庇護を受け牧歌を書くことを勧められた。フィリッピの戦いで勝利を収めたオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)は、当面不要になった退役兵のために勝利の報酬として土地を分配しなければならかった。そのため、敵方の所有地の農民を強制的に立ち退かせて分けたが、土地が足りなければその周辺も没収された。ウェルギリウスはその巻き添えをくったのである。友人のガルスの取り成しでオクタウィアヌスに会うことができ、正当に土地の没収を取り消してもらっている。
この土地没収はイタリアの内戦による農地の荒廃に拍車をかける結果となった。ウェルギリウスの『牧歌』『農耕詩』は、そのような背景のもとに書かれたのである。その後、彼は、このオクタウィアヌスや富豪で文芸の保護者として知られるマエケーナスの庇護を受けて国民的詩人への道を歩むことになるのである。
ウェルギリウスの生涯についてはウェルギリウス『牧歌・農耕詩』にある河津千代さんの「ウェルギリウスの生涯」が詳しい。ここではさわりだけ紹介した(人名表記は小川さんの『ウェルギリウス研究』に準じている)。尚、ウェルギリウスが前19年にギリシアに旅立つ前に死の予感があったのか友人に生きて戻らなければ『アエネイス』の原稿を焼いてほしいと頼み、彼は亡くなったが、アウグストゥス(オクタウィアヌス)は焼却を許すことなく未完の部分を残して出版したという逸話がある。河津さんは、興味ある問題だが、その詮索は小説の領域になるとしている。
ウェルギリウス作品の波紋
筆者の小川正廣(おがわ まさひろ)さんのウェルギリウスとの出会いは、学生時代、T.S.エリオットの「文明」「キリスト教世界」「成熟」などが散見される評論集の中にその名を発見したことからだという。
そのウェルギリウスの魅力は二つあるという。一つは言葉の美しさ、もう一つはその崇高な精神的な価値にある。アレクサンダー・ポープは『牧歌』を「世界で最も優美な詩」と称え、モンテーニュは『農耕詩』を「最も完璧な作品」と位置づけ、ヴォルテールは『アエネイス』について「ホメロスがウェルギリウスを作ったと言われるが、それが真実なら、ウェルギリウスはホメロスの最も美しい作品である」とした。その精神的な価値は、社会的人間のモラルを説き、国や民族の統一する根本理念を示そうとしたところにあるとされた。エリオットが両大戦の中でヨーロッパの統一の理念をウェルギリウスに見ていたことは間違いない。
ストア派的一神教思想に影響されたウェルギリウスは、ローマの建国は神の意志であり、この神聖な国家はアウグストゥスの時代に全盛を迎え、人類を平和に統治するだろうと詠った。キリスト教徒にとって救世主の出現が「ローマ帝国」の誕生とほぼ同時であるという歴史的事実は大きな意味を持っていた。地上におけるキリスト教の確立こそがキリスト教において神の意志であった。ウェルギリウスは『牧歌』第四歌においてこのように詠っている。
クマエの予言の告げる、最良の時代がやってくる
偉大なる世紀の秩序が再び始まる
いまや乙女は帰り来り、サトゥルヌスの王国が戻ってくる
いまや新しき血筋が、高き天より遣わされる
‥‥
その子によって、鉄の種族はついに絶え、黄金の種族が
全世界に立ち上がる‥‥
その子は神々の生活に加わり、英雄たちが神々と交わるさまを見、
みずからも彼らと共にあって、
父の徳がもたらした平和な世界を統べよう
‥‥
(河津千代 訳)
キリスト教徒ならずともこの時代をふり返るならばこの詩をキリスト到来の預言と考えて不思議はあるまい。ダンテの『神曲』はキリスト教徒によるウェルギリウス評価の総決算の感があるといわれる。それは中世において、神との合一を求めて「巡礼」の人生を送る聖職者たちにとってウェルギリウスが哲学的・宗教的な求道精神の権化であったからだ。同時にローマの歴史とキリスト教世界との関係性を教える最も有力な権威でもあったからだというのである。
最後に 文化のフィルター
ウェルギリウスは、『牧歌』ではテオクリトス、『農耕詩』においてはヘシオドス、『アエネイス』においてはホメロスというギリシアの詩人たちを手本としている。同時代のローマの詩人たちがそうであったようにギリシア文化を同化・吸収して新たなローマの詩を創作しようとした。日本では確かにホメロスなどに比較してウェルギリウスなどのローマの文学は馴染みが薄い。ラテン文学はギリシア文学の二番煎じだという偏見は根強くあるという。優れたギリシア文化は直接ギリシアから学べばよいのであって何もローマの「レプリカ」を通して研究する必要はないという見方は今も支配的であるという。しかし、世界の多くの地域で新しい文化は過去の文化の評価から始まっている。文化の歴史はその繰り返しであるといえる。小川さんはギリシア文化がローマ的な変形を受ける過程で、いったい何が吸収されて生かされ、何が消化されなかったのか、また、何が新たに付け加わったのか。この問題こそ日本も含めて後世の人々にとっても大切なことだろうと述べている。これは最近、惜しくも亡くなった松岡正剛さんがずっと言ってこられた文化のフィルターのことでもある。
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