第88話 マーク・ソームズ + オリヴァー・ターンブル『脳と心的世界』三脳生物のジェリコのラッパ 


マーク・ソームズ、オリヴァー・ターンブル
『脳と心的世界』

 科学ものをご紹介するのは久しぶりだし、脳のことも田中力 (たなか つとむ) さんの『脳の中の水分子』で流体が形成する脳の形態を知って狂喜して以来だ。これは流体トポロジックな脳の形成過程を書いた本で、僕にとっては脳に関する本のベストヒットの一つだが、意識については書かれていなかった。

 今回は脳と意識について書かれている本であるマーク・ソームズ + オリヴァー・ターンブルの『脳と心的世界』をトリに述べるけれど、脳科学やそれと関係するいくつかの本や科学とは異なる分野の書籍も含めてご紹介したいと思っている。

 でも、‥‥まあ、如何なものだろうか。

筆者たち ソームズとターンブル


マーク・ソームズ(1961-)

 マーク・ソームズは神経心理学者、精神分析家で、1961年に現在のナンビアにあるリューデリッツに生まれている。南アフリカのウィットウォーターズランド大学で心理学と神経心理学を学び、その後ロンドンのユニバーシティ・カレッジで心理学を学んだが、同じくロンドンの病院で神経外科の臨床研究を行っている。南アフリカのケープタウン大学心理学科教授、ロンドンの国際神経・精神分析センター長、ニューヨーク精神分析協会神経‐精神分析センター長といったキャリアを持つお医者さんだ。夢を見ている脳のメカニズムを解明したことで知られる。精神分析と神経科学を統合するような臨床・研究手法を発展させ、2002年に出版された本書『脳と心的世界』は国際的なベストセラーとなっている。

 オリヴァー・ターンブルは、ケンブリッジ大学出身の神経心理学者、臨床心理学者で、ウェールズ大学認知神経科学センター上級講師、国際神経‐精神分析学会事務局長、バンガー大学副学長を歴任している。病気による失認や作話などの誤信念、特にそのような認知形成における情動の役割をテーマとして研究し神経解剖学の教育を専門としている。

人間は三脳生物だ !

 
『グルジェフ弟子たちに語る』

 アジアと呼ばれる大陸に、ある非常に賢い三脳生物が存在していた。ムラ―・ナスレッディンと呼ばれるその賢者は、地球上の生存におけるあらゆる特殊な状況に対して適切で含蓄のある格言を放つことが出来た。今、人間が脳と意識の問題にかかずり合っている状況ならきっとこう言うだろう。「自分の膝は飛び越えられないし、自分の肘に口づけしようとするのも馬鹿げている。」

 機械的に動く回虫の脳、感性に従って働いたりゆっくり動いたりする動物の脳、仕事というムーブメントを知性だけで理解する者の脳といった三つの脳を人間は持っている(『グルジェフ・弟子たちに語る』)。ゴロツキ聖者と言われ、あの暗号文書のような『ベルゼバブの孫への話』で知られたグルジェフはそう繰り返した。しかし、ゴロツキはひどすぎる。

脳のイリージョン

 脳と意識の関係は未だに、コンナンな問題だ。眼球に入った光は、網膜に投影される。網膜は光信号を電気信号、つまり光パルスに変換する。その情報は、後頭部の視覚皮質の脳細胞を刺激してものが見えると言うことになっている。しかし、光パルスから実際に見える光景との間は全くのブラックボックスだ。網膜には明暗に関わる桿体細胞と色彩に関わる錐体細胞があり、この錐体細胞には赤、青、緑を感知する三種類しかない。光の三原色に対応する。じゃあ、黄色はどうするの ? これは脳が、でっちあげる。つまりイリュージョンなのである。ホウ !

 ニュートンに対抗して『色彩論』を書いたゲーテなら喜びそうな話かもしれない。何年か前に美大を卒業した人にゲーテの色彩論を大学で習いましたかと聞いたら、イイエという答えが返って来た‥‥世も末だ。

 錐体細胞は網膜の中心近くに集中しているので網膜の周囲は主に明暗に反応している。視界の端は色が減少するはずだし、視神経が眼球壁をつらぬく所は死角なので視野には穴があるはずだけれど一様に綺麗な視界を脳は創り上げている。もう、随分前から色は脳の中にしかないとされてきた。これって、コンピューターが私たちにイリュージョンとして画像や動画を見せ、言葉や音楽を聞かせるのと同じじゃないのと考えたのはトール・ノーレットランダーシュでしたね(『ユーザー イリュージョン』)

視床 外部からの感覚データのほとんどは、
視床を通過して大脳皮質へ至る。視床は、
大脳皮質への入り口となっている。

  視細胞が数百個しかない眼から脳に送られるインパルスは脳の深奧部の視床に送られる。視床は嗅覚以外の視覚、痛覚、聴覚、体制感覚などの感覚情報の一大中継地であり、いくらかは情報処理の地点でもある。そこから、一億個の神経細胞がある視覚野に到達する。視覚情報は後頭葉、聴覚情報は側頭葉、体性感覚は頭頂葉に到着するのだ。そこでは各インパルスが各々の脳葉の一部にトポロジックに投射されマッピングされる。そのため投射皮質と呼ばれることもある。一時投射皮質は感覚器官が受容した情報を直接的に脳にマッピングしているけれど大脳皮質の極く小さな部分を占めるに過ぎない。

 続いて、後頭連合皮質と呼ばれる部分は投射皮質と協働して位置、色、動き、光量、コントラスト、空間内方向と、より高次の対象認識である注意、視空間操作といった複雑なシステムに関わっていて、投射領域から来る情報を統合している。関連情報を互いに結びつけ、神経的なディレクトリを構築しているのである。こうした連合皮質内には記憶の一部が貯蔵される。その過程で、特定の属性が解釈され、イメージの形態が統合されるというわけだ。ここは、後で登場するエーデルマンの説に関係する。

内省と自己想起の起源

 統合問題に関して、このようなディレクトリを形成するという考え方の他に二つの違った考え方がある。その一つは「40ヘルツ仮説」と呼ばれるもので、例えば視覚経験の間、後頭葉の皮質細胞が同期して発火しているというもので、同時に発火する瞬間が統合されて意識の単位となるというものである。もう一つは外部知覚が内部知覚を基盤としているという考え方である。

 後者は、アントニオ・ダマシオやマーク・ソームズとオリヴァー・ターンブルが支持している説で『進化の意外な順序』や『脳と心的世界』で紹介されている。心的な装置、それ自体は無意識的なものだが、私たちは内部に眼を向けることによって意識的な知覚を形成するというものだ。脳は、外部環境と身体という内部環境の二つの世界のあいだに置かれている。

 内部環境とは、呼吸、消化、血圧、体温コントロール、生殖などに関わる世界である。内臓の働きが心理学的意味で「内的世界 (主観的経験)」を理解する上で決定的に重要な意味を持つとソームズたちは言う。内臓世界が重要なのは、このシステムの働きが基本的な欲求、フロイトの言う「欲動」の基盤を形成するからだとも彼らは言う。欲動が情動として経験されるのだ。内的指向型の脳システムの変化は意識にも影響を与える。

 内省や自己想起といった内部に眼を向ける能力こそが本質的な精神の特性だと彼らは言う。意識の背景には自己感覚があると言うのである。この自己感覚は物質的な身体の中で生きていることへの内的な気付きの結果である。コンピューターは、内臓的身体を基盤にした自己への気づきという能力が吹き込まれて初めて意識的なものとなるだろうと言うのである。エッ ?

 そういえば、動物の消化管を細部まで裏返したら植物の形態になると言ったのは、三木成夫さんだった。人間は、外側に動物世界と内側に植物的世界を抱えた二重の筒なのである。この二重の筒の連絡役が内観なのだ。ついでに言うと、密教では五臓三摩地観という肝、心、脾、肺、腎という五臓と五行を結び付ける観想法があった (覚鍐/かくばん『五輪九字明秘密釈』)。マンダラは身体の中にもあるのである。

0.5秒後意識


トール・ノーレットランダーシュ
『ユーザー イリュージョン』

 ノーレットランダーシュの『ユーザー イリュージョン』に戻ろう。アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットは、意識が活動できるためには、0.5秒の脳活動を要することを実験で確かめた。脳は、それを時間的に繰り上げることによって0.5秒の時間差をあたかも無かったかのように見せてしまうのである。感覚刺激を感じるのは0.5秒後であるのに、刺激のあった直後のように感じさせる。脳活動が0.5秒以内の場合は無意識の領域での、いわゆる閾下知覚 (いきかちかく) を含めた反応となる。意識は行為を始めたのがあたかも自己であるかのように思わせるが、現実には意識が生じる前から事は始まっているのである。

 行為は脳が決定しているのであって、「わたし」、つまり意識ではないとも言えることになる。このことは最近の脳学者さんたちも結構言っていることだが、グルジェフは既にこう語っている。「われわれは自己を制御できない。自分自身の機械を制御できない (『グルジェフ・弟子たちに語る』)。」

 そうなると、グルジェフの言うように私たちには意志は無く、単なる機械のように行動しているということになる。しかし、救いはある。実行しようとしたことを途中で止めることは出来るのだ。この抑制メカニズムは前頭前野にあり、人間の自由意志の砦となっている。意識は行為を成すことは不可能だが、意思決定の制御や選択は可能なのである。意識は計画行動の青写真を作れないし、脳内の下位組織に指令を下すこともできない。意識ができるのは無意識が提供する沢山の選択肢の中から選りすぐることなのだとノーレットランダーシュは言うのである。行動するのは、意識という「私」ではなく、無意識という「自分」なのである。

 自分」には隠れた観察者がいる。皮膚を刺されると特殊神経系による脳への迅速な報告がなされ、一方、非特殊系にはゆっくりと報告がされ、意識的な自覚を催す。しかし、例えば、皮膚への刺激は、何処にいるのか、誰といるのか、何を触っているのかといった状況、つまり、コンテクストなしに体験することはない。蚊に刺された、画鋲の上に坐った、キスされたなどの判断は何かを意識体験した時にすでに解釈されている。それは生のデータではなく、コンテクストという衣にすでに包まれているというのである。間テクスト的に意味を読み解くということは、意識には排除された情報を拾い出すということに繋がる。

 数々のテクストの織物が文学世界を形成していると言うのは、これまた数々の人たちが述べてきたことなので今更なんだと言われそうだが、ちょっと気になる。著作とは、作者である「私」がコンテクストの中で意識的にも無意識的にも意味を織りなしてきた「自分」の作業によって成立するんじゃないだろうか。文学の中で意味を読み解こうとする作業は、その著作と対話しながら無意識に折り合わされたものを含めて追体験することなのかもしれないのである。‥‥チョットヒッカカル

 実際には何百ビットという情報量がコンテクストとして毎秒毎秒感覚器官から脳へ流れ込んでいくのに、人が意識的に処理する情報量は毎秒40ビット程度だとノーレットランダーシュは言う。人間が意識できるものは少ない。意識は不要な情報を全てオミットした後に生じる。それは体が食べ物を必要とし多量に摂るとしても人間が食べ物で出来ていないのと同じだと言う。意識も情報を理解し咀嚼した結果で成り立っている。意識は情報を統合する能力であって、そのシステムが持っている選択肢のレパートリーの大きさが問題になる。

意識の埒外で働く脳

間脳は、視床下部 (自律神経の中枢)、脳下垂体 (ホルモン分泌)、
視床 (体性感覚などの大半の感覚を司る)、
松果体 (内分泌)によって構成される。

 

 大脳基底核 大脳の最深部で間脳の周囲を
取り囲んでいる。線条体・淡蒼球・
視床下核・黒質といった神経核の集まり

 脳全体には1000憶の脳神経細胞、すなわちニューロンがあり、驚くべきことだが、小脳には、そのうち800億個が詰まっているという。小脳は運動調節機能を受け持っていて、筋肉や腱、関節などからの深部感覚、内耳からの平行感覚の信号、大脳皮質からの情報を受け取り、それによって運動の強さや力の加え方、バランスなどを調整する。情報は小脳表面の皮質のローカル・モジュールに送られる。届いた信号は、何かを足されたり、引かれたり、掛け合わされたりして様々に変化して小脳から出て行くらしい。いささか、ショックかもしれないけれど、脳は系統発生的に古いものほど優秀なのである。面白いのは小脳には大脳のように両半球をつなぐ脳陵がない。

  三脳といえば大脳、小脳、脳幹と分類するのが妥当かと思うけれど、分類の仕方は色々あるらしい。ロシアの神経学者アレクサンドル・ルリアは脳を三つのブロックに分けている。〈覚醒・トーヌス (持続的活動や緊張)・注意を制御するブロック〉、〈感覚データを処理するブロック〉、〈計画と認知を行うブロック〉の三つで、それぞれ、皮質前部、皮質後部、脳深部の構造である基底核に相当する。


ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』

 大脳の両半球は脳梁で繋がっていて癲癇などの治療のために脳梁が切断されて、分離脳になると二重人格のような状態になることがある。それが神と自己との関係を作った起源じゃないのかと考えたのは、ジュリアン・ジェインズだった。意識の起源にも関連付けられている。ちなみに、大脳の左半球は言語的、分析的、理性的で、右半球は空間的、全体的、直感的に働くと言われ、左半球が意識系、右半球が無意識系などと単純化されたこともあるが、両半球が協力することもあれば、それぞれ単独で活動することもあるようだ。それほど明確なものではないのである。

 小脳の各モジュールには、それぞれをつなぐ回路がなく、小さなコンピューターの集合体のようになっているらしい。そのおかげで、体の動きや他の機能を恐ろしいスピードと正確さで調整できる。各モジュールでは動作がいかに行われるかが定められていて、実際の動きの信号を受け取ると、それらを照合して、修正の指示を出すシステムのようだ、全て無意識のうちにである。

 視床‐皮質系に重大な損傷が起きると意識は失われる。ここは人間にとって意識を形成する重要な部分なんですよーということを表している。小脳をまるごと摘出しても人間には意識があると言う。これを知って腰を抜かしそうになったけれど、タダ、普段無意識にできていたことが困難になる。ぎごちなくしか歩けなくなったり、ピアノを無意識に弾けなくなったりするという動作関連に支障が起きるのだ。人間が意識なしに成し遂げてしまえることは意外に多い。自転車に乗ることもそうだけど、ミハイル・バフチンが言うように小説を書いたりすることもそうなのかもしれない。これはアリウルことかもしれないのだ。


河本英夫
『システム現象学・
オートポイエーシスの第四領域』

 大脳基底核もまた、無意識に活動するゾンビ脳らしい。言語発生、動きのコントロールといった随意運動、認知機能、社会的ふるまいや動機付け、感情の調整などに関わる。特筆すべきは、計画を立てる時、考えのまとまりや連想の多くは無意識に基底核で自動的に行われるという。つまり、計画は意識の裏側を通ってやって来るのだ。

 そのような意識に上らなくても成し遂げてしまえる行為をいかに記述するかで頭を悩ましたのは河本英夫さんで、それをシステム現象学と呼んだ。小脳や基底核と小説が結びつくかどうかは確かじゃないけれど、考えをまとめることについて、基底核は人に知られている以上に遙かに優れモノなのである。

暗黙知が開いた地平

 暗黙知という言葉が、登場して半世紀以上がたった。著者のマイケル・ポラン二― (ポラニ―) は物理化学の世界から哲学に向かった人だ。いくつかの貴重な示唆がある。ゲシュタルト心理学では、対象の外見的な特徴が知られるのは、網膜や脳に刷り込まれた細かな要素が均衡のとれた形態 (ゲシュタルト) に達した時とされる。

 グルジェフは、厚かましい輩は「意識的に考える人」と思われたいと思っているだろうが、二種類の思考活動しかないことを教えてやるべきだという。そのうちの一つは、相対的意味しか持たない言葉というものを用いた観念による思考活動であり、もう一つは、地理上の位置や天候、時代、その人が成年になるまで育った全環境に依存して形成される〈形による思考活動〉であると言う。ポランニーは、私たちの認知を可能にするのは、経験した事柄を能動的に形成する形態 (ゲシュタルト) 化がなされるからだと見ている。この能動的形成や統合が知識の成立に欠かせない暗黙的力だと言うのである。これは、意識とは別の統合能力であり、脳の広範囲な協働が必要とされる。


マイケル・ポランニー (ポラ二―)
『暗黙知の次元』

  意味は、意味を支えるものと分離している。目をつむり杖を使って道の感覚をつかもうとする時、手に感じるゴツゴツやカサカサは、やがて道の形状や状態といった情報と関係を持ち始める。最初は手にあたる感覚が解釈によって意味のある感覚へと変化し、手の感覚と杖の先の感覚は離れた所にあるにもかかわらず、ある種の一体感を持つ。その感覚の意味は、感覚を感じた場所とは離れた所にある。

 身体内部で進行していることも、対象の位置や大きさ、形、運動として感知している。そして、より重要な事は、我々が外界のものに注目するためには、その外界の事物と我々の身体の接触によって生じる感知に依存しているという事実である。外界として経験しているものは、実は私たちの身体に他ならないとポランニーは言うのである。心身は相関しているのだろうか ? 

 身体は知的な活動の装置なのだ。私たちは身体内部を統合し、いわば、身体を拡大することによって事物の中に潜入することができる。そして、小説や詩や絵画などの芸術作品において、その理解を催しているのは、作品内に潜入して、その世界を統合し、拡大することによって生じる暗黙知であるとも言う。

 対象をけっして認識できないとする立場もある。しかし、わたしたちは対象をいくつかの断片として見ていて、それらの諸断片を意味あるものとして見ようとしている。脳による脚色はあるにしても、それによって、対象を暗黙的に知るようなになるとポランニーは言うのである。対象は断片では汲みつくし得ない意義深い実在だと言う。より複雑なものは、予期せぬ仕方で自らを現す可能性を持っている。だから心や人物は、小石などより、より深い実在を持っていると言うのである。彼の言う〈実在〉をハイデッガーの言う〈存在〉と、トックリと勘案してみてほしい。

深層心理学と神経科学

ヤサシイ問題とコンナンな問題

  脳と神経細胞間の生理学的プロセスが進行し解剖学的径路をたどる。それは、いわば、ヤサシイ問題なのだが、一方で、物質的なものから始まって精神的なものに終わるのは、何故なのか分からないコンナンな問題なのである。

 一見、心身相関論で片付きそうに思えるかもしれないが、しかし、物質的な関りを持たない思考が、何故、物理的な素材であるニューロンを発火させるのか説明がつかない。それは同時に起こると言うのは説明の回避でしかないし、精神は脳の創発であるというのも同様なのだ。これは知の限界であり、いみじくもムラ―・ナスレッディンの言うように「自分の膝は飛び越えられない」のである。

 心身相関論から、人工的なニューラルネットワークにより知的機能をモデル化すれば、AIも人間のような知的な機能、あるいはそれ以上の「心」を持てるのではないかと考え、その開発を目指す動きはご承知の通りだ。機械が心を持っている判断基準であるチューリングテストをパスするコンピーターもある。しかし、我々は自己の心しか認識できないのである。他者の意識は外側からの観察によるしかない。これは他我問題と言われるもので、自分以外にはその意識を確信できないのである。

内部環境と意識基盤

 マーク・ソームズ、オリヴァー・ターンブルの『脳と心的世界』には、この脳と精神の問題が問われている。もっと厄介な問題がある。脳・神経学と深層心理学との断絶である。本書は精神分析と神経科学を結び付けようとするなかなか興味深い本なのである。紹介が遅くなったけれど今回のメインは本書です。

 間脳 大部分は視床で、松果体の丸い粒が付いているのが見える。

 脳は、外部環境と身体という内部環境という二つの世界のあいだに置かれている。内臓の働きが心理学的意味で「内的世界(主観的経験)」を理解する上で決定的に重要な意味を持つとソームズたちが考えていたことは既に述べた。内臓世界が重要なのは、このシステムの働きが基本的な欲求、フロイトの言う「欲動」の基盤を形成するからだとも彼らは言う。欲動の変化が情動として経験される。内的指向型の脳システムの変化は意識にも影響を与える。

 内臓状態は神経伝達システムのみならず、血流、脳脊髄液循環に乗るホルモンによっても直接伝達される。ここから神経学者アントニオ・ダマシオは、意識の「内容」が外界のモニターである後頭皮質チャンネルに属するものなら、意識の「状態」は身体の内部環境をモニターする上向きの賦活系の産物ではないかと考えた。身体についての「私」の感じが、意識というものの背景であり、その状態は、意味や感じにあふれたものであるという。そして、私たちの自己を「表象している」だけでなく、今、どのような調子であるかも教えてくれている。最も基本的な私たちの「自己の体現」を表していると言うのである。意識は、内観的な機能であるばかりでなく、本来的に価値を知らせてくれるものとなる。

 
アントニオ・ダマシオ
『進化の意外な順序』

 意識状態の評価機能の起源は中核脳の内臓モニター構造にある。身体の繊細な秩序と変化をモニターできなければ生存は危うい。そのため進化上の意識の夜明けは、原始生物において純粋に内観的なものであったろう。しかし、内部の欲求は外部を通じてしか満足させ得ない。そのため外部知覚モダリティーにも感じが吹き込まれるようになった。こうして、ダマシオは、意識は単なる内的な状態への気づき以上のもの、すなわち自己の現在の状態と対象世界の現在の状態との絶えざる変化の結びつきよりなると結論付けたのである。しかし、ホメオスタシス一元論のような考え方には、あまり好感がもてない。

 意識は自己への気づきという背景を基に私たちの周囲で起きていることへの気づきへと進化した。その基盤の上に様々な意識のチャンネルが一まとまりに結びつけられる。このような意識の状態は、いわば、脳の中の小人、ホムンクルスであり、身体的自己の投影そのものだという分けである。一次的な単純意識はダマシオによれば中核意識と呼ばれる、そして、いわゆる意識の意識は、延長意識と呼ばれた。それは、再表象を伴い言語能力への依存度が高い。

 意識が完全に消え去ったなら、それは昏睡と呼ばれる。それは、視床を含む中核脳幹核群の破壊によって起こる。では、無意識とは何か。フロイトなら、それをエス(イド)と呼ぶだろう。彼は精神の理性的で現実に則った実行部分は必ずしも意識的であるわけではなく、意識化することさえ必ずしも出来る訳ではないことを認めた。自我活動の極く小さな部分だけが意識活動なのである。自我とは、ほぼ無意識なのだ。オオッ !

中脳水道周囲灰白質 PAGと約される。

  外界に対する情報を提供する五感による感覚モダリティー (感覚から来る様相) に対して内的指向型の感覚モダリティーがあり、それによって6番目の感覚であるクオリアが与えられる。情動とは外界に由来する全てのものを取り除いた後に残る意識の側面のことだと言う。

 脳幹の深部にある中脳水道周囲灰白質 (PAG) は、中脳水道を取り囲む垂直な円柱構造で快い感覚を生み出す腹側 (下部) と不快な感覚を生み出す背側 (上部) に分かれ、快・不快に関する情動を生み出している。ただし、痛みは快・不快に関わるだけでなく、体性感覚の下位モダリティーにも属する。

 中脳蓋及び背側被蓋  SELF
 (Simple Ego-like Life Form)

 トポグラフィックな意味での身体のマップは、脳のいくつかの部分に見られるが、上部脳幹にある蓋と背側被蓋にあるものが興味深い。ここはあらゆる感覚運動モダリティーからの入力を受けていて、その収束地になっている。主要な身体マップと内臓状態の投射とが近接していることは、内的・外的仮想身体が結合した全人的な原初的表象が生み出されることを意味し、原初的な活動傾向をも生み出すことを意味すると言う。つまり、不快なものへの回避や快なものへの接近です。こうして、基本情動と呼ばれるものの表出がはじまる。神経学者のヤーク・パンクセップが名付けたSEEKING、RAGE、FEAR、PANICの四つだ。

基本情動指令システム

 動物が環境によりよく適応するためには早期に学習しなければならない。中でも重要なものが、個人的な出来事の記憶である「エピソード記憶」だ。主に前頭葉にあるミラーニューロンはサルの研究で発見された。見ている行為を想像の中に映し出すシステムです。子供が親の行動を内在化する生理的プログラムと考えられるかもしれない。

 そのようなプログラムのなかでも最も基礎的なものが基本情動指令システムである。中核意識と言う基盤の上に、解剖学的にも理論的にも普遍的な重要性を持つ自己—対象関係コード化された一連の結合があるという。パンクセップが命名したこの「基本情動指令システム」が、活性化されると「あらかじめ準備されていた」運動プログラムが引き起こされる。その情動システムが先に述べたSEEKIG (快)、RAGE (怒りー激怒)、FEAR (恐怖―不安)、PANIC (分離―不安) の4種類である。

 基本情動指令システムは、いわば祖先から遺伝によって「受け継がれた」記憶であり、進化上の利点を有する定型行動である。「良い」とか「悪い」とかいった対象は、これらのシステムの内容となり、「情動記憶」と呼ばれ、無意識が意識に及ぼす影響と考えられる。意識は、良い、悪い、無関心といった対象との関りを「再生」する。この能力によって情動は、今現在を越えて延長され、意識的に想起される。グルジェフは、現代人の宗教道徳のようなものも「自動ピアノのように」進むと言った。

 ちなみに、欲求が満たされると LUSTサブシステム が作動して快の感情が生み出される。そのシステム は視床下部から起こる前脳基底部に位置する複合的なグループ構造からなっている。「報酬」システムとも呼ばれるが、その指令神経装飾物質がエンドルフィンである。それは、ムラ―・ナスレッディンのいうように「まさに、バラ色、バラ色」だ。

人間の意識の進化――それはどこに行くのか


ジェラルド・エーデルマン
(1929-2014)
アメリカの生物学者
 1972年ノーベル生理学・医学賞受賞

  「記憶、『私』、人格、個性――それは円舞であり、繰り返しであり、世界を巡る鍋だ」とノーレットランダーシュは言い (『ユーザー イリュージョン』) 、ライプニッツは「いかなる肉体も、川の流れのように絶えず変化しており、肉体を構成する要素が途切れることなく入り込み、出て行っている」と述べる (『モナドロジー』)

 そのような中で、わたしたちが、当たり前として受け取っている「世界のあり方」、つまり、知覚している世界は、実は、それと記憶しているものなのである。私たちが知覚として捉えているものの多くは、記憶なのだという。ジェラルド・エーデルマンは『思い出された現在』において、私たちが、自分の記憶に保持しているモデルによって知覚した現実を自動的に再構成していると述べている。これが、ゲシュタルトであり、いわば、面影だ。

 刻々と新たな世界を知覚しているのではなく、認識出来る対象を改めて識別し直している。現実それ自体は、私たちの知覚装置が選択的にその特徴を抽出していること、そして、記憶はその抽出された特長をこの経験から認識可能な対象へと組織化し変形することによって二重に隔てられているという。

 海馬 大脳辺縁系の一部、
記憶や空間学習能力に関わる。
名称は、タツノオトシゴ (海馬) に似た形に由来する。

 進化のある時点で、ご先祖様の体内の内観からくる情報は、快・不快の感情を生み出し始めた。何かが、変だ、お腹が痛いとか気づくようになる。やがて、内観に結びついて意識が生まれ、記憶する能力はエピソード記憶を形成するまで発達する。それは自己としての活動の振り返りであり、特に海馬と関わる。自己意識なしには在り得ないことなのである。そして、自己意識は幾つかの記憶を統合しながら、あれかこれかを選択しうる能力を持つようになった。


 大脳辺縁系 帯状回(心拍数、血圧といった自律神経系)
+海馬(空間・短期記憶)+偏桃体(攻撃性や恐怖などの情動)

 意識とは関係性である。内・外との関係において「私はこう感じる」と言うことなのだ。情報の受容・分析・貯蔵・活動のプログラミング・調整・確認を人間は、ほとんど無意識にやってのけている。コンピューターはそのような作業を人間以上にやってのける。しかし、ソームズとターンブルは肉体なしには、意識は存在しないと言う。

 グルジェフは三脳生物の特性の第一は、世の中を逆さに見ること、第二は外部から繰り返し内部に入ってくる全ての印象は結晶化し、〈快楽〉とか〈愉快〉とかいった感覚を引き起こす要因となることだと述べ、その働きを器官クンダバファーと呼んだ。同時に、彼は、三脳生物が自らその体内にある神聖なものを意識的に取り入れ、自らの体を神聖なものに形成し直し、神聖で客観的な理性を獲得できるようになるとも述べた (『ベルゼバブの孫への話』)。しかし、今のところ自己の完成を妨げようとするクンダバファーの活動は、ムラ―・ナスレッディンの言うように「たかまりゆくジェリコのラッパのよう」である。私たちは今まさに、この高鳴りの中にいるのである。

本稿は2021年11月に一度、投稿したものを一部編集して再録しました。




夜稿百話


ソームズの著作

マーク・ソームズ『意識はどこから生まれてくるのか』

本書の後半あたりには、ソームズたちのチームが工学的に作り出そうとしているのは、一般にいう AI ではなく、「意識」だと述べていることに皆さんは驚愕されるだろう。肉体なしに意識は無いんじゃないのか ? 彼は、意識を少なくとも初歩的段階では、特に知的なものと考えていないという。自己への気づきを機械的に作り出そうとしている。チェスの対戦や音声認識といった実用的な機能に彼は興味がないという。客観的な目的を持たない、自己証明型のシステムを作りたいと述べる。意識は生命の中で進化してきたけれど、この実験では、機能的な組織をリバースエンジアリングすることで人工的に意識を作り出すことを目的としているというのである。ワォ! それには、現在の脳科学の研究で最も重要なテーマのひとつである自己組織化システムが鍵を握っている。いわば環境から分離して自身の存在を能動的に維持する傾向のことをいう。システムが外部のパターンに適応している状態である。それは、風が吹いていない状態で、木の傾きからその場所の風向きの主な方向を推測するようなものであるらしい。魚が自らの環境の中で自分の動きを感知するのと同じであるという。自己システムは自分の行動が実行可能な範囲に収まる形で世界に関与しなければ生命の危機に瀕する。しかし、三人称での客観的視点は一人称の主観的に視点に置き換えられなければならない。自分というシステム内部で起こることは外から眺めることが出来ないからである。それは世界の中で自分の動きに反応して、感じの脈動が変動することによって、全てが予期した通りかどうか確認しながら、そうなりそうにない時に何とかそのギャップを埋めようとすることが人間の経験であるからである。

意識は自動的な行動が誤差につながる時、つまり行動を催す記憶痕跡が予期された結果にならないときに生じる。それは生命維持に、あるいは行動の結果が不首尾に終わりそうなときなどである。大脳皮質の意識は「進行中の予測作業」ということも出来る。それを図式化するとこうなる。

心的なプロセスを特定可能な物質的諸部分の量として表現する方法としてマルコフブランケットがある。Qnは外部の状態を示すQの脳内表象、φは感覚状態、Mは動作、eは予測誤差の幅、ωは調整の精度である。●感覚Øを脳のシステムの予測と一致するように変化させるため、動作Mすること。●より良い予測を生み出すために世界表象Qnを変化させること。●入ってくる予測誤差の幅eに最適な一致をみるために制度ωを調整すること。これらが「進行中の予測作業」で起こることである。

ソームズの仮説は意識がPAG (本文参照のこと) のような存在でなくても、そのように機能する何らかの装置が在ればよいのではないかというものだった。同じきめ細かな機能構成を持つ二つのシステムは、質的に同一の経験をするのではないか。ここから神経組織 (構成) の因果的パターンを、例えば、一つひとつのニューロンをシリコンチップスに対応させ、同じ相互作用のパターンを持たせる形でシリコンに複製するというものである。海馬や前頭葉などにある錐体型ニューロンと同じ機能を持つシリコンの同型体は既に作られているらしい。ただ、それを実現するためには、まだ多くのギャプを埋めなければならない。ソームズは初歩的な意識は特に知的なものではないと考えている。意識とは、プロセス制御であると考えればサーモスタットも意識的な装置と考えられる。そんな意識を持つコンピューターが可能となったのかどうか僕は未だその知らせを得ていない。







関連図書

中田 力『脳の中の水分子』

人間を水だけの要素として見る。まるで想像力のサーカスのようだが、シュベンクはやってのけている。その後、MRIの開発者の一人、中田力(なかだ つとむ)さんが書いた『脳のなかの水分子―意識が創られるとき』を読んで歓喜した。中田さんは脳の成り立ちをこのように考えている。一点から三次元に均等に拡がれば球になる。ここに分子同士の衝突のような小さな変化が積み重なってできる非線形性の要素が加わり襞が形成され始める。クリナメンみたいだ。これが脳の皺の原因となる。非線形性というのは、ちょっとしたきっかけが大きな変化をもたらすような仕組みをさしている。人間のような恒温動物は高い中核体温を持つ。胎児の場合はそれが高く、脳が形成される場所の中核から羊水に向って熱が放射される。その熱によってその場の体液はある渦の形を形成し、維持する。原爆のきのこ雲のような形のプリューム型の熱対流が脳の中で生じる。その結構複雑な対流にそってラジアル繊維と呼ばれるグリア細胞の突起が、いわば脳の形をした籠を編み上げる。そこにニューロンが絡んで脳表に達し皮質を作り上げるという。このラジアル繊維は脳が形成されると消滅して脳の活動で生じる大量の熱を放出するダクトになるらしい。よくできている。これが、脳が自己形成される中田さんの筋書である。ここから脳の渦理論が発展していくのであるという。中田さんのこの言葉は僕をシビレさせる。「生体における機能とは形態である。」






アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』

本書の鍵を握っているのはホメオタシスである。それは〈何があっても生存し未来に向かおうとする、思考や意思を欠いた欲求を実現するために必要な、連携しながら作用する諸々のプロセスの集合〉であるという。このプロセスは単細胞生物の単一細胞から多細胞生物の全身へ、全身システム内での内分泌腺・免疫系・循環系・神経系の分化へ、神経系による表象 (イメージ) 能力の獲得へ、感情、主観性、意識、文化 (言語を含む) へという進化の順序を想定させる。ダマシオのソマティックマーカー仮説では人間の意思決定に際して情動的な身体感覚、例えば心拍数の上昇と不安感や吐き気と嫌悪感などの感情と関わる身体感覚が意思決定に重要な役割を持つとするもので、このソマティックマーカーは脳の腹内側前頭前野と扁桃体で処理されるとされている。身体感覚、情動から進化した感情はホメオタシスの心的表現であり、感情の庇護のもとで作用するホメオタシスは、初期の生物を、身体と神経系の並外れた協調関係へと導く機能的な糸とダマシオは考えている。感じる心は、やがて文化や文明をもたらしたというのである。

復内側前頭前皮質

アントニオ・ダマシオ(1944-)

付け加えておくなら、『予測する脳』の著者ヤコブ・ホーヴィはこう述べているという。「脳は、環境的因子が生体に及ぼす長期的な影響と短期的影響を、いくぶん必死に、しかも巧みに封じ込めて、統合性を維持しようとしている。そうすることで、世界の豊かで重層的な表象が暗黙のうちに浮かび上がる。これは心と、われわれの自然における位置についての、美しくも謙虚な絵なのである (マーク・ソームズ『意識はどこから生まれてくるのか』より) 。ソームズは暗黙のうちにとは無意識のうちにということだと注意を促している。




ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ(1877-1949)『ベルゼバブの孫への話』

本書は20世紀初頭の神秘主義者・グル (導師) であったグルジェフが書いた神秘主義文献であるが、スタートレックを思わせるような宇宙船の描写から始まる。1921年、宇宙船カルナックに乗船したベルゼバブは三脳生物の住む惑星の調査から解放され (どこかの缶コヒーの宣伝みたいだが) 、故郷の惑星への帰途にあった。こんな設定なんだけれどムラ―・ナスレッディンの笑える格言と頓智話が縦横に織り込まれ、なかなか意味を察知できない暗号のようなカタカナ造語が満載されている。グルジェフは、この本を三回は読めと述べているが、未だに読めておりません。そして、序章でこんな警告を書いている。

「私の知ったかぶりの本を買おうとなさっている陽気なほら吹きの皆さん、私は〈職業作家たち〉が普通書くのとは全く違った書き方をするつもりであることをすでに警告しておきました。ここでついでにこう助言しておきましょう。これから先に進まれる前によくよく熟考なさり、その上で読み始めてください。さもないと、現在地球に存在している〈インテリゲンチャの文学用語〉にすでに完全に慣らされているあなた方の聴覚器官やその他の知覚器官、いやそればかりか消化器官にまでも大変なことが起こるかもしれません。つまり、あなた方はこの著作から実に嫌悪すべき影響を受けられ、そのためにあなた方の‥‥おわかりですか‥‥あなた方の好きな料理に対する食欲ばかりか、あなた方の〈内部〉をくすぐる心理特性、つまり近所に住んでいる金髪女性を見る時にあなたの内部でうごめく嗜好に対する欲求までも失われることになるかもしれないのです。(浅井雅志 訳)」

ゲオルギィ・イワノヴィッチ・グルジェフ(1866-1949)

ゲオルギィ・イワノヴィッチ・グルジェフ(1866-1949)





ジュリアン・ジェインズ 『神々の沈黙』

ジェインズは、プリンストン大学で比較生物学を教えていた人であるが、動物行動学の研究などから脳考古学や歴史人類学の研究に到った。本書は1976年に書かれている。彼によれば、紀元前2000年紀より前は誰もが統合失調症の状態だったという。それだけ読むと、「とんでも科学」かと思われそうだが、脳に関する研究からの裏付けがちゃんとあるようである(勿論その当時の脳科学のレベルでのことではある)。

意識(この場合、知覚意識ではなく自我意識をさしている)にとって最も重要な要素は言語である。言語野は、全て脳の左半球に存在し、右半球にはない。脳は可塑的で左の脳に障害がでれば、その働きを右の脳が肩代わりできることはよく知られている。しかし、右脳には言語能力を司る領域が基本的にない。ジェインズは、右半球で言語機能の補助的な役割が発達するのを妨げられた要因を『二分心』にあると見ている。左右の脳の側頭葉は、前交連という部分で繋がっている。今から3千年ほど前には、ここを伝って右の脳で生じた内容が左の脳に伝えられ言語化された。どのような内容かというと、それが神の言葉だったというのである。つまり、脳は神と呼ばれる存在と人間との二つの心に関わっていたというのである。しかし、脳の進化とともにその繋がりは途絶えたとジャインズはみている。

重度の癲癇の治療に脳の両側の連絡を絶ってしまう手術があるようである。それを施すと左右の脳の働きの違いがはっきりわかる。左半球は、分析・言語に関わり、右の脳は、統合や空間構築といった作業に深く関わることが分かった。右側は、神々が判断するのに相応しい場所であるとジェインズは考えた。脳の手術の準備として、脳の各所を微弱な電極で刺激する実験が行われたことがある。左脳の側頭葉後部、特にウェルニッケ野の辺りを刺激すると顕著に幻覚や幻聴が生じたようだ。このウェルニッケ野の中心から先ほどの前交連が反対側の右脳とつながっている(この反対側に繋がる右脳のあたりが神と関わる領域だと考えられる)。特に幻聴は、はっきりした声の場合は体の外から、はっきりしない場合は体の内側から声が聞こえた。声の主が特定できる場合もできない場合もあったが、その声は他者的であった。つまり自分に対峙する者として存在するのである。このような現象は統合失調症の患者によく見られる現象でもあった。




マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ『意識はいつ生まれるのか』

2015年刊 そう新しいことを述べている著書ではない。







参考画像

リューデリッツ ナンビア




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