


今回の流風一詩は先週、2026年の4月19日に、広島での僕の展覧会『ガザの詩 (うた) 』でのギャラリートークにおいでいただいた四方田犬彦 (よもた いぬひこ) さんに因んで、マフムード・ダルウィーシュの詩をご紹介します。ダルウィーシュと交流があり、彼の詩を翻訳された四方田さんは、話し出したら止まらないヴァイタリティ―の塊のような人だった。
地がわれわれを圧迫して、とうとう最後の路地にまで追い詰めてゆく。
われわれはなんとか通り抜けようと、自分の手や足まで捥 (も) ぎ取ったというのに
地はわれわれを締め付ける。小麦だったら死んでもまた生れることができるだろうが
‥‥
魂の最後の戦いのとき、われらの中で最後に生き残った者が殺そうとしている者の顔を一瞥する。
われらは殺戮者の子供たちのお祝いパーティを想像し悲しむ。
われらは見た、この最後の場所に開く窓から、我らの子供たちを放り投げた者たちの顔を。
星がひとつ、われらの鏡を磨いてくれるだろう。
世界の果てに辿り着いたとき、われらはどこへ行けばよいのか。
最後の空が終わったとき、鳥はどこで飛べばよいのか。
最後の息を吐き終えたとき、草花はどこで眠りに就けばよいのか。
‥‥
ここで死ぬのだ。この最後の路地で死ぬのだ。
やがてここかしこで、我らの血からオリーブの樹が生えてくることだろう。
(マフムード・ダルウィーシュ『地がわれらを圧迫して』四方田犬彦 訳)
1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争により、パレスチナ人は故郷を追われた。それは「ナクバ(大災厄)」として記憶された。周辺のアラブ諸国連合軍とイスラエルの戦いが続く中、パレスチナの人々は住み慣れた土地を追い出され、やがて、最後の路地へと追い詰められていった。
国家間の紛争は、占領下の民衆による第一次インティファーダ(民衆蜂起)へと姿を変え、デモやストライキの他に投石などの抗議活動が行われるようになり、投石する者に対し、当時のイツハク・ラビン国防相は「(石を投げる者の) 骨を折れ」という言葉を残した。手足は捥ぎ取られていったのだ。
その後、アリエル・シャロンの神殿の丘訪問を機に第二次インティファーダが勃発し、自爆攻撃や封鎖の応酬を経て、ガザは自由を奪われ、「天井のない監獄」と化した。鳥は何処にも飛べないのだ。水源は切られて農業は制限され、地は締め付けられ、パレスチナの木とも言えるオリーブは切られていった。パレスチナの人々の流した血から、やがてオリーブの樹が生えるだろうとダルウィーシュは結ぶ。彼の詩は。パレスチナの歴史を実況し続けた。
ダルウィーシュの流亡

アッコ パレスチナ
フムード・ダルウィーシュは1941年に当時イギリス統治下であったパレスチナ北部アッコの近郊ビルウェに生まれた。7歳の時にイスラエルという国が生まれ、イスラエルの軍事組織が彼の村を襲い占拠した。一家はレバノンに1年ほど逃れたが、戻ってみると、その村は徹底的に破壊され、アラブ系住民は皆無で村の痕跡は跡形もなかった。
イスラエルの小学校の来賓の前で詩を読んだ。こんな詩だった。「きみは太陽のしたで好きなだけ遊べるし、おもちゃだって持っているのに、ぼくには何もない。君には家があるけど、ぼくにはそれもない。きみにはお祝いがあるけれど、ぼくにはない。何故一緒に遊んじゃいけないのだろう ? 」イスラエル軍の人間に呼ばれ、そんな詩をつくるとお父さんの仕事は無くなるよと脅かされた。その後の彼は、詩を朗読するたびに投獄されることになる。
高校卒業後1960年にハイファで共産党の新聞の編集と翻訳に関わることになる。『オリーブの樹』など三篇の詩集を発表している。投獄や家宅捜査、官憲からの嫌がらせから逃れるためにモスクワに留学、1971年にはカイロに亡命している。1973年にベイルート移り、そこを拠点とした季刊文芸誌『アル・カルメル』を創刊し、詩作は爆発的に進行した。ベイルートは50年代から60年代に大きな発展を遂げ、70年代後半になると西ベイルートはパレスチナ居住区と化していたという。しかし、イスラエル軍によるベイルート空爆によって、さらにパリに亡命することになる。

西ベイルートを進むイスラエル軍 1982
散文の作品『忘却のための記憶』は、その1982年のイスラエル軍のベイルート占領の様子をヒロシマへの想起として8月6日から書き起こした壮大な記録といわれている。ダルウィーシュにとってヒロシマは強い思い入れのあった土地であった。1983年にはレーニン平和賞を受け、PLOの執行委員ともなっていたが1993年のオスロ合意に疑念をいだいた彼はPLOから距離を取るようになった。
アラファトとPLOには功罪相半ばする面がある。まるで細かな断片と化したパレスチナ人たち、富者と貧者、難民キャンプ被収容者と知識人、労働者と銀行などとを再び繋ぎあわせまとめ上げた手腕、それに対してテロリストのイメージを西欧社会に負の印象を植え付けてしまったのである。(エドワード・W.サイード『パレスチナとは何か』)。
1995年にヨルダン川西岸のラマッラーに転居、翌年に長編詩『壁に描く』が刊行される。2004年には、サミエル・アブダラーとホセ・レイネスのドキュメンタリー映画『前衛の作家たち』とゴダールの『われらの音楽/邦題 アワーミュージック』に出演している。2008年8月、心臓疾患とその合併症のために亡くなっている。
ゴダール映画への出演

ジャン・リュック・ゴダール
(1930-2022)
『われらの音楽』はダンテの『神曲』に倣って三部構成になっている。第一部「地獄」は古今東西の戦争の映像、第二部「煉獄」は内戦間もないサラエブォが舞台、イスラエル人ジャーナリストのユディットがダルウィーシュにインタヴューする場面が挿入されている。ここには被抑圧者として歴史を背負うアメリカ先住民が登場しパレスチナ人の現状に重ねられている。第三部「天国」ではユダヤ女性オルガがイスラエルで自爆攻撃を疑われ射殺されるが、死んだはずの彼女が幸福な様子で水辺を散策し、若いアメリカ兵士に守られるも、金網の境界を抜けるのに通行証代わりに手首にスタンプを押してもらうというストーリーになっている。
そのダルウィーシュへのインタヴューだが、四方田犬彦 (よもたいぬひこ) さんの『われらの音楽』からご紹介する。ジャーナリストのユディットはテレビクルーを引き連れてホテルにいるダルウィーシュにインタヴューする。ここでの彼の言葉は、彼の著作や談話から引用されているものだという。
「運命の望むところによって、わたし個人の歴史は集合的な歴史と入り混じってしまった。わたしの人びとは、そこにわたしの声を認めるのだ。」「なぜわれわれは有名なのか。きみたちが敵だからだ。たぶん、いや、おそらくだが、ユダヤが問題だからだ。人が関心を抱くのはきみのことであって、わたしのことではない。‥‥」そして、「自分は負けた側の詩人である」と宣言する。「わたしは不在の名のもとに語る。戦いに敗れたトロイヤの側に立つということだ。勝った側よりも負けた側にこそ、より多くの詩と人間性がある。(四方田犬彦 訳)」
ただ、忘れないでほしい。ローマの建国神話を詠ったウェルギリウスの『アエネイス』の主人公アエネアスはトロイが陥落した後、家族を連れて逃げ出した敗軍の将であったことを。

イスラエル軍の空爆を受けたガザ市エル・レマル地区
2023年10月9日
W.B.イエイツの『レダと白鳥』
ダルウィーシュの親友であったエドワード・W・サイードの『パレスチナとは何か』には、意外にもパレスチナ詩とウイリアム・バトラー・イエイツの詩との関連が述べられているのでご紹介します。西岸にあるビルゼイト大学で英文学を教え、外交・政治にも活躍するハナーン・ミハイル・アシュラウィによる論文にサイードは驚かされる。パレスチナ詩人の中に予想外の感性の発展を見たというのである。
パレスチナ現代詩を開拓したファドゥア・トゥカーン (1917-2003) 、ジャーナリストとして活躍したサミフ・アル=カシーム (1939-2014) 、『もし、私が死なねばならないのなら』で知られるリファト・アラアイール (1979-2023) 、エドワード・サイード図書館を創設したムスアブ・アブトーハ (1992-) らの詩人たちを挙げることが出来るだろう。勿論、ダルウィーシュも。

左から エドワード・W・サイードと
ダニエル・バレンポエム 2002
サイードは音楽批評家でもあり、親友のバレンボエムとイスラエルとアラブの音楽家によるウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を創設したことでも知られる。
占領という外部からの力が強引かつ残忍に普通の人々の生活に押し入って来る状況に対して作家は何らかの課題を突き付けられる。そのことを契機として起きたことが問われるのである。民族意識を高揚させること。個々の状況を写実的に描きだすこと。それに必要なら適切な美的な要素を付け加えることが求められる。そのような課題を満たす表現がイエイツの『レダと白鳥』に重なると指摘するのである。それはギリシア神話のレダとゼウスの物語に仮託した詩である。
矢庭の襲撃 巨大な翼はなおも羽ばたきやまず
よろめく娘の上におしかぶさる 娘の腿は
黒い蹼 (みずかき) で愛撫され 項 (うなじ) は嘴にくわえられる
白鳥は自由を失った娘の胸に胸をあてがう
いかにして おびえた力ない手で 栄光の白鳥を
弛緩する両の腿から押しのけられようぞ
肉体は白の攻撃に身じろぎもままならず
胸の上に異様な心臓の鼓動を感じとるのみ
腰部のふるえからいま産みだされるものは
崩壊した城壁 炎上する堂屋と高楼
アガメムノンの死
このように手ごめにされ
空をゆく獣性の血によって征服されたとき
娘は白鳥の力ばかりか その知識も獲得したのか
嘴から冷淡に下につき放されるまえに
(W.B.イエイツ『レダと白鳥』 鈴木 弘 訳)
サイードが白鳥を何に、娘を何に重ねているのか説明の必要はないであろう。ちなみに、イエイツはアイルランド独立運動に青年期から関り、そのナショナリズムは彼の詩を通じてアイルランドの文芸復興へと昇華していった。

ウィリアム・バトラー・イエイツ
(1865-1939)
不在の記憶
パレスチナの恋人
しかし、私は亡命者なのです。
あなたの眼で私を封印してださい。
あなたがどこにいようと私を連れて行ってください―
あなたが何であろうと私を連れて行ってください。
顔色と身体の温もりを
心と眼の光を
パンの塩と律動を
地の味わいを
再び私に与えてください‥‥〈母〉なる大地よ。
あなたの眼で私を守ってください。
悲しみの館 (マンション) から出た遺物として私を受け容れてください。
悲劇から引かれた詩篇として私を受け容れてください。
玩具として、家屋のレンガとして私を受け容れてください。
私たちの子供たちが帰還することを忘れないように。
(マフムード・ダルウィーシュ『パレスチナの恋人』島弘之 訳)
この『パレスチナの恋人』は1960年代のダルウィーシュの初期の作品。1964年に発表された「身分証明書(アイデンティティ・カード)」という作品を含んだ詩集『オリーブの葉』などと共に彼の名声はアラブ世界全体に広がることとなった。この詩で、ダルウィーシュは祖国を追われた人間が、その土地に、もはや帰りつくことのできない悲哀を「恋人」に託して訴えている。
スヘイル・ハンマードのようなディアスポラとして他国に生きる人間もそうだけれど、パレスチナ人に一様に広がる喪失感は「不在の記憶」というべきものである。それは、パレスチナの光景が全てイスラエルによって塗り替えられ、記憶の縁 (よすが) さえ奪いさられたからに他ならない。大地に残されたものはもはや記憶を想起させる力を失い、自由な想像力である鳥でさえ飛ぶことのできる空が、もはや尽きていることを悟るのである。
最後の辺境も果てた後に私たちはどこへ行けばよいのか、
最後の空も尽きた後に鳥たちはどこを飛べばよいのか。
(『パレスチナとは何か』より 島弘之 訳)
夜稿百話関連リンク
第52話 エドワード・W・サイード『オスロからイラクへ』
第76話 ジョー・サッコ『パレスチナ』
第77話 サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』
流風一詩関連リンク
第1話 スヘイル・ハンマード『スカーレットの雨』


右 「パレスチナに自由を」のTシャツを着る四方田犬彦

エドワード・W・サイード『パレスチナとは何か』
「1948年 (イスラエル建国) 以降、私たちの存在は、ずっと軽視されてきた。私たちが、これまでに経験してきたことの多くは、記録にとどめられていない。私たちの多くが殺害され、また多くが負傷し発言権を奪われても、何の痕跡も残っていないのである。(序より 島弘之 訳)
マフムード・ダルウィーシュ『パレスチナの恋人』収載

エドワード・W・サイード『パレスチナに帰る』
サイード1992年にパレスチナの地を26年ぶりに踏みしめた。6万5千人の難民を抱えたガザのジャバリ・キャンプに入った。彼が見た場所の中で最も凄まじい場所であったと言う。水たまりの浮いた凸凹の狭い道に遊ぶおびただしい子供たちには眼の輝きがあったが、大人たちの悲しみと苦しみに満ちた顔と対照的だった。下水設備のないキャンプには悪臭が漂っている。乳児死亡率、失業率は最高を記録し、一人当たりの年収は最低、夜間通行禁止時間最長、医療設備はほとんどない。材木と泥とブリキでつくられた粗末な小屋、区画整理も景観化も、滞留し腐敗した汚水を排出することも、家屋の改築もほとんど不可能と言えるような許可を必要としていた。20人ほどの人たちと話しをしたが多くの怒りがあった。耳に残った言葉は「マウト・バティ/緩やかな死」という言葉だったという。西岸の住民に対して、彼らは特権の上に胡坐をかき、鈍くなり駄目になったとガザの人々は見ていたと言う。サイードは、こう書いている。「ガザの大きな意味での運命を、劇的に(あるいはささいなことからでも)改善する作業が想像もつかぬほど困難である以上、わたしは少なくともそれを記憶に留めることで、みずからを繰り返し慰めたのだった。(四方田犬彦 訳)」

エドワード・W・サイード 『イスラム報道』
サイード三部作の一つ。イスラム報道の問題点から浮かび上がる報道そのものへの批判が展開される。一部ご紹介する。
アメリカのマスコミが行う海外報道は、それぞれの国に対して強調点が異なる。それらの異なる点の共通の中心、つまりコンセンサスを解明し、具体化しようとすることに自覚的だと言う。しかし、結局彼らは「アメリカ」さらに「西洋」といった共同のアイデンティティに奉仕し、それを増大させる団体である。みんな、その中心に同一のコンセンサスをいだいているという。それは良く言えば文化の所産と言える。アメリカは対立する多数のサブカルチャーからなる複雑な社会であり、特異なアメリカ人意識やアイデンティティや役割などを表現する美辞麗句によって標準化された共通文化を築く必要があった。それが「星条旗の旗のもと」だったのである。
コンセンサスはそれ以上踏み超える必要のない境界線を形づくる。アメリカの軍事力を悪意をもって使うとかはコンセンサスになり得ないが、アメリカ人は悪者やヤクザ者から土地を奪いとる開拓者的な新たな精神を具体化している海外の社会や文化と一体化する傾向がある。例えばイスラエルである。ところが彼らは伝統文化、特に革命的再生のさなかにある伝統文化さえ信頼せず関心をもとうとしないと言うのである。

現代詩手帳 2024年5月号
特集 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く
リファト・アラアイール『もし、私が死なねばならないのなら』、スヘイル・ハンマード『ガザ詩篇』収載。

『W.B.イエイツ全詩集』
アイルランド独立戦争 (1919-の1921) の端緒となった「復活祭蜂起 (1916)」を詠った『復活祭、1916年』や『十六人の死者』が収録されているが後者を抜粋でご紹介しておく。
ああ、十六人が射殺される以前は / みなで意をつくして語りあったとさ、/
けれど、十六人の死者がそこらをさまよい / 沸騰する釜をかき混ぜているというのに / だれが互譲の精神や、かくすべし、/ かくすべからずなど話題にできるかね。
君たちはドイツを説伏するときまで /祖国を静まらせておかねばというけれど / ピアスの耳と口がふさがれたいま / それを弁じたてる者がいるだろうかね。/ 十六人の抱いた論理がマクドナの骨ばった/ 親指よりも重みをもつことになろうかね。
‥‥
(鈴木弘訳)
*ピアス、マクドナはいずれも「復活祭蜂起」の首謀者である知識人たちで、イギリス軍によって銃殺されている。

溝口健二の墓参りをするゴダール 1966

エドワード・サイード国立音楽院
エルサレム ラマラ
ガザ南部にも支部があり現在でも細々と活動が続けられている (ロイター通信 2025/8)

ハナーン・ミハイル・アシュラウィ 2013

『レダと白鳥』
ミケランジェロ作品の模写 16世紀 オリジナルは現存していない。
ギリシア神話ではゼウスが白鳥に変身してスパルタの王テュンダレーオスの妻であるレダを誘惑した話として知られる。



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