第75話 石を聴く― 天と地を結んで蹴つまずくもの

わたしは星が好きだ
道の上の石に似ているから
空をはだしで歩いたら
やはり星にけつまずくだろう

わたしは道の上の石が好きだ
星に似ているから
朝から晩までわたしの
行く先を照らしてくれる


(イジ―・ヴォルケル『巡礼のひとりごと』栗栖継 訳) 


瑪瑙   カツァフスキエ山 ポーロンド

 今回夜稿百話は石がテーマですが、いろんな人が色々に書いているのが面白い。まるでカタログのように石について述べているのは澁澤龍彦の『石の夢』。博覧強記の人も色々いるけれど、ちょっと感心する。

 古代エペイロスの王であったピュロスの持つ宝石のうちの一つ、それは九人のミューズと竪琴を手にしたアポロンの姿を見ることのできる瑪瑙だった。プリニウスの『博物誌』の中の記述である。それは、自然に石理(いしめ)によって生じた模様であった。同じように『和漢三才図絵』の「瑪瑙」の項にも「その中に人物、鳥、獣の形有るもの最も貴し」とあり、こんな石の模様を人間の想像力と「類推の魔」が、意味ある形に捉えてしまうのは洋の東西を問わないらしい。 


瑪瑙 ケン川のデンドリティックアゲート インド
樹が描かれたような模様を見ることができる。

 「絵のある石」については、フランスの美術史家バルトルシャイテスの著書『アベラシオン』に例が沢山紹介されているし、僕は未見だけれどもカイヨワの『石の書』にもあるらしい。普遍博士とよばれたケルンのキリスト教神学者であったアルベルトゥス・マグヌスは石の中に形成される絵は星の影響だとしている。稀代の錬金術師でもあったから魔術や錬金術と占星術とが親和しているのは当然だった。

 ルイ13世の宮廷司祭であり、リシュリュー枢機卿の司書でもあり、並びなき東洋学者でもあったジャック・ガファレルは、パラケルススのいう「ガマエ」なる石が星と感応し、その降り注ぐ光を吸収して成長する生きた霊石だと信じていた。フランスの詩的な哲学者・科学者であったガストン・バシュラールは『大地と意志の夢想』の中で「黄金は土中の中で松露のように熟する。しかし、完全な熟成に達するためには数千年が必要である。」と書いている。大地が意志と結びつけられているのは良い。


アタナシウス・キルヒャー『地下世界』より 1664

 17世紀の驚嘆すべきエンサイクロペディストであるわれらがイエズス会士アタナシウス・キルヒャーにとって、地球は一個の有機体であり、鉱物も金属も燃える地殻の内部に生じるとした。ということは岩石火生説の立場ということになろう。かたや、ノヴァーリスの師であった鉱物学者アブラハム・ゴットロップ・ウェルネルは岩石水生説を標榜し、おびただしい石の標本を家族のように愛していたという。

 石を愛した人は多い。明恵上人は白上峰の眼下にある鷹島と刈藻島から拾ってきた小さな丸い石を生涯手もとに置いて愛玩していたと言うし、『雲根志』を著した木内石亭は幼き頃より玉石を珍玩し、ユングは少年の頃、ライン河から拾ってきた楕円の石を上下絵具で塗り分けてポケットに入れて持ち歩いていたと回想している。誰しも少年・少女の頃の記憶の断片の中にこのような光景が、そっと忍んでいないだろうか。そのユングは「神々の生まれた場所と見做された石(例えばミトラ神の生まれた石)は、石の誕生を説く原始の伝説と結びついている(『元型研究』)」と書き、折口信夫は「神の容れものとしての石(『霊魂の話』)」と書いていてぴったり符合するのである。


トパァスのつゆはツァランツァリルリン、
 こぼれてきらめく サング、サンガリン、
 ひかりのに すみながら
 なぁにがこんなにかなしかろ

(宮澤賢治『虹の絵具皿』)


宮澤賢治の『虹の絵具皿』

 水生説と火生説ではないけれど、石の中には火と水がある。石の中の水を書いているのはカイヨワで「程よい大きさの瑪瑙は‥‥その内部が中空になっていて水が入っていることが分かる(『石』)」という。「水以前の液体」だというのだ。石を気長に磨り上げて水から一分というところまでで留めると石の中の魚が泳いでいるこの上なく美しい姿が見えるというのは「長崎の石」の民話である。一方、石の中の火を書いたのは宮澤賢治の『貝の火』で、子ウサギが贈られたのは中が赤や黄の焔をあげてせわしく燃える玉だった。そして、鉱石の百花繚乱というべき世界を言祝いだ彼の極め付けの作品は、十力(じゅうりき)の金剛石を描いたこの『虹の絵具皿』である。

ほろびのほのお 湧わきいでて
つちとひととを つつめども
こはやすらけき くににして
ひかりのひとら みちみてり
ひかりにみてる あめつちは
…………………

(宮澤賢治『虹の絵具皿』より) 


オパール(蛋白石) 火が見えるプレシャス・オパール

 ある日、王子は光輝く蛋白石や大臣の子のいう虹の脚もとにあるルビーの絵具皿を探そう、あるいは山の頂上の金剛石を目指そうと出かけることになりました。霧が晴れて虹が立ちます。虹の脚元に行こうとするが虹は逃げるのです。また、霧が出ると「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。はやしのなかにふる霧は、蟻のお手玉、三角帽子のちいさなけまり」と歌うものがある。王子の青い大きな帽子につけられた雀蜂の飾りでした。彼らの案内で王子たちは、草の丘の頂上に立つ。あたりが明るくなると雨がざーと降りはじめ、あられに変わりました。それはみんなダイヤモンドやトパァス、それにサファイアだったのです。賢治の描写が続きます。

 「その宝石の雨は、草に落おちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は刻まれた天河石(アマゾンストン)と、打ち劈(くだ)かれた天河石で組み上がり、その葉は、なめらかな硅孔雀石(クリソコラ)でできていました。黄色な草穂は、かがやく猫睛石(キャッツアイ)、いちめんのうめばちそうの花びらは、かすかな虹を含ふくむ乳色の蛋白石、とうやくの葉は碧玉(へきぎょく)、そのつぼみは紫水晶(アメシスト)の美しいさきを持っていました。そして、それらの中でいちばん立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は、茶色の琥珀や紫がかった霰石(アラゴナイト)でみがきあげられ、その実は、まっかなルビーでした。(『虹の絵具皿』)」 


天河石(アマゾナイト)の結晶 コロラド、エル・パソ産

 しかし、ダイヤモンドの露をしたたらせながら、りんどうは悲しげで、うめばちそうもこう歌います。「青空はふるい ひかりはくだけ 風のしきり 陽は織れど かなし」と。 そして、丘一面の草や花はいっせいに「十力の金剛石はきょうも来ず めぐみの宝石(いし)はきょうも降らず 十力の宝石の落ちざれば、 光の丘も まっくろのよる」と歌うのでした。さらにりんどうは、「十力の金剛石は春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときは卵がたです。霧より小さなつぶにでもなれば、そらとつちとをうずめもします」と語ります。と、俄かにスズメバチがキイーンと背中の鋼鉄の骨もはじけたかと思うほど鋭い叫びをあげると、とうとう十力の金剛石が降って来るのでした。かすかな楽の響、光の波、芳しく清い香り、透き通った風とともに、スズランの葉は今やほんとうに柔らかな、うす光する緑色となりました。賢治はこう書きます

 「ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹(あおたか)のように若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでしょうか(『虹の絵具皿』)。」


人々は石を崇拝した、というか、石を霊的作用の道具として、彼ら自身の防御や死者の防御のためのエネルギーの中心として利用した。‥‥ その石は、宗教的機能というより、むしろ呪術的機能を果たしていた。 (ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』久米博 訳) 。


 中央インドのゴンダ族の慣習では死者が出るとその後継者は3メートル達するような巨大な石を墓に立てなければならなかった。イギリスの人類学者ハットン (おそらくジョン・ハットン) は、石を立てることによって死者の魂を宿らせ、徘徊したり害を及ぼしたりすることがなく、その霊的力によって畑の地味に良い影響を与えると考えられていたと指摘している (ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』)。まるで、晋の郭璞(かく はく/276年 – 324年) に仮託される『葬経』を思わせる。列石を山脈に置き換えれば地脈になるのである。葬礼石には祖先の魂が住む。そうすることで死者から生者を守ってくれる「かなめ石」となるのだ。しかし、それだけではない。それはその土地に豊饒をもたらすのである。


ケルトのメンヒル ウェールズ

 石の霊的力の中には子供を授ける力もある。南インドのセイレムで子供の欲しい女性はドルメンに花やご飯、白檀などを供えて、その石を擦る。石は多産であり、一人でに生まれ、殖えていくと信じられていた。ニューギニアのカイ島やマダガスカルでは、子供を望む女性は石に脂を塗る。面白いことに商売繁盛を願う商人たちも同じことをするという。ヨーロッパなどでも子宝に授かりたい夫婦が石の上を歩く。フランスのサン・ルナンでは牝馬石と呼ばれる大きな岩の上に三晩も寝たり、腹を擦りつけると言うのだ。アテネでは妊婦がニンフの丘に登って岩の上を滑りながら安産をアポロンに祈る。アクロポリスの西北、ニンフの丘近くにはアレオパゴスの岩塊がある。


アレオパゴスの岩塊 アクロポリス西北 アテネ

 新生児に石の孔を通らせる風習はかなりあるらしい。先史時代のインド人は孔の開いた石をヨニ (陰門) の標と見なし、孔を通り抜ける儀礼的行為は、女性の宇宙的原理を介しての再生を意味していた。この意味で下に掲載したヨニ・リンガは意味深長だ。やはり、ヨニの意味に近いのは先史時代の北欧における祭祀用石臼である。インドにおいて、環石には太陽のシンボルとしての意味があり、この石は「世界の門」と呼ばれた。石は神の子宮となり、太陽の象徴を通って人は再生するのである。イサム・ノグチの黒御影石の彫刻『黒い太陽』は20世紀の「世界の門」だった。

ヨニ・リンガ ネパール

ヨニ・リンガ ネパール



涯もなく青空おほふはてもなき
闇 (くら) がりを彫(ゑ)りて星々の棲む

(明石海人『白描・白描以後』より)


日本の石信仰


大洗磯前神社の神磯鳥居
二つの奇妙な石が出現し、その神霊が人に依って大己貴(おおむなち)命、

少名彦命と名のったという。その石が現われた大洗磯前の二柱降臨の地。

 石が海岸に漂着するという寄り石信仰は常陸の大磯洗神社などが有名であるらしい。それから石の成長する話、その類話は石が子を産む話だろうか。石女といえば不生女(うまずめ)という蔑称の感があるが、救いはあった。富士山の麓の子持石村にはその名の石があり、石の脇の穴を竹竿でくじると羽根つきの球くらいの石が転び出たという。土地の伝承では「子無き婦人が一七日(七日)の間、身を清く保ち、朔日(ついたち)毎にこの石を清浄な水に浸し、その水を服する時は忽ち子を孕む」と伝えられたと江戸時代の奇石収集家であった木内石亭は『雲根志』に書いている。

 同じ石を持ち上げた時の軽重によって事の成就を占う「天神石」の話も同書に載っている。いわゆる石占いである。それから、ナマズが地震を起こすのを押えているというかなめ石は常陸の鹿島明神にあるが、これなどは石の霊力のなせる業と考えられていた。それにもう一つの石信仰は、生殖器の形をした石の崇拝で、岐(さえ)の神と呼ばれる。道祖神を思い浮かべていただければ良いだろう。これが折口信夫のいう石信仰のラインナップである。


生石 (おうしこ) 神社 石の宝殿 高砂市 

同上

 兵庫県の高砂市には生石 (おうしこ) 神社があり、やはり御祭神は大穴牟遅命、少毘古那命となっている。『播州石宝殿略縁起』には大穴牟遅命が出雲からこの地を平定に来て一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが阿賀の神の反乱により未完のまま残したと伝えられている。近くには巨大な石切り場がある。

中国の石のイメジャリー


女媧 簫雲従(1596-1673)「天問図」より
岩峰に巻きつく人面蛇身の神

 どうも同じような内容の話は、中国の神話・伝承にもあるようだ。ジン・ワンの『石の物語』には中国の石に関する神話・伝承が紹介され、『紅楼夢』『西遊記』『水滸伝』に共通する石のイメジャリーが展開されるという極めて興味深い内容の本になっている。その石の話は女媧(じょか)の伝説に集約されそうだ。

 「女媧は人の頭と蛇の体をもっていたと言われ、一日に七十回『化』した(屈原『洪興祖』)。」さらに『山海経』には「女媧の腸(はらわた)という十人の神がいる。彼らは神の姿となり、栗広の野に住んで道をふさいだ」とある。エーリッヒ・ノイマンは、それがグレート・マザー元型を支配する女性性に具わる変形という特徴であり、妊娠と出産においてその働きを象徴しているという。そして、女媧は、黄色い土を固めて人を作ったが、それが重労働であったために今度は泥の中に縄を入れて引き揚げ、振り落とされた泥で人を作った。しかし、前者は富貴で聡明な人となり、後者は貧賤で凡庸な人になったと習俗、伝承を集めた後漢末の『風俗通義』に記録されている。人を産みだす神であった。

 
左 顓頊(せんぎょく)漢の碑文より 右 共工 山海経より

 共工は顓頊(せんぎょく)と天子の座を争った時、勝てなくて怒りにまかせて不周山に激突した。天の柱は折れ、地の四隅を繋いだ綱が切れて大地は傾いた。そこで、女媧は五色の石を溶かして天を補修した(『淮南子』)。石の霊力を以って癒す神である。縁結びと子授けの地母神である高媒においては、その祭壇に石が置かれている。高媒は夏王朝では女媧または塗山、殷では簡狄、周では姜嫄と女性の始祖として呼ばれたという説がある。

 石は地母神の最古の象徴であるという。ちなみに塗山は禹の妻で熊の姿になった夫を見ると石に変身し、その石が裂けて子供の啓を産んだ。「啓」の意味は「ひらく」である。禹の出生には諸説あるが、『淮南子』には禹が石から生まれたとあり、その母は石に感応して彼を産んだという注もある。また、別のテキスト『史記』には禹の母が、流星が昴を貫くのを見て、夢で心に感じるものがあって彼を産んだとある。禹は舜帝から黒い玉 (ぎょく) を贈られて治水の功績を天下に知らしめることになる。別のテキストでは人面蛇身の神が玉のふだを彼に授け、それによって禹は水と土を治めるのである。こうなると多くが繋がってくる。


玉壁 祭祀用の最も重要な玉器
透閃石や緑閃石などの軟玉で造られる。
これに対して翡翠は硬玉と呼ばれる。

  その他に、秦の始皇帝がはじめたとされる泰山に登り石を立て壇を築いて供犠を行う封禅、厄除け石として知られる石敢当、漁師の網にかかった成長する石、動くのみならず足の生えた石、子授け石である乞子石、音・音楽や言葉を発する鳴石、鏡のように光る照石や石鏡、僧の説法を聞いて頷く点頭頑石(これなどは可愛らしい)、そして石女が紹介されている。


別世界の書は別世界の話を伝え、
人と石は再びまったき一つのものとなる

(曹雪芹『紅楼夢』)


西遊記・紅楼夢・水滸伝を結ぶ石

●西遊記
 四大部州の一つ、東勝神州の海のかなたの傲来(ごうらい)国、その近くの大海中に花果山という名山があった。その頂には仙石があり、高さ三丈六尺五寸は天周三百六十五度に準じ、周囲二丈四尺は暦の二十四気になぞらえられていて、九つの竅(きょう/細い穴)と孔(つきぬけた穴)は九宮と八卦に基づくといわれている。この石は天地開闢以来、日月の精華を受けて霊気を孕み仙胎を宿す。ある日、その石が裂け割れて石の卵が生まれ、そこから一匹の石猿が生まれた。御存じ孫悟空である。 


金陵十二釵 林黛玉 費丹旭(1801-1850)
『中国歴代仕女集』より

●紅楼夢
 女媧が石を鍛えて天のほころびをつくろった時、大荒山の無稽崖にて高さ十二丈、幅二十四丈の大きな荒石三万六千五百一個を精錬するのだが、その内一つだけが使われずに青挭峰の下に捨てられる。この石は、精錬によって霊性を備え、歩くことも大きさを変えることも自由にできたが、使われなかった悲しみに昼夜泣いていた。ある日、僧と道士が通りがかり紅塵の下界の話をしていると石は富貴の園、温柔の郷に遊び楽しみたいと頻りに頼み込む。話す石なのである。


 願いを聞いてやった二人は、その石を扇子の根付くらいの大きさの通霊宝玉という美しい玉(ぎょく)に変えてやった。一方、天上界の太虚幻境では神瑛待者(しんえいじしゃ)が霊河のほとりに生えた絳珠草(こうじゅそう)に甘露をかけてやったので女性の姿に変わることができた。神瑛待者は下界に降りることを望んだ。姿を変えてもらった女媧石の五彩に輝く通霊宝玉を口にくわえて賈宝玉(か ほうぎょく)として下界に生まれ変わる。絳珠草は、林黛玉(りん たいぎょく)としてその後を追い、大貴族の賈(か)家に集うことになる。白話(口語体)小説『紅楼夢』は、こうして始まるのです。


ジン・ワン『石の物語』 
アメリカの比較文学研究者の著作。
間テキスト性満載になっている。

●水滸伝
 蔓延する疫病を調伏するための祈祷を竜虎山に住む仙人張天師に願うために北宋の皇帝仁宗は、国防大臣にあたる大尉の洪信を遣わした。仙人に出会えた洪信は翌日、道教寺院である道観内で「伏魔殿」という額の掛った建物を目にする。腕の太さほどもある鎖で閉ざされ数十枚の封印とその上に押された珠印で厳重に封印された朱塗りの格子扉があった。かつて、老祖天師が魔王をその中に閉じ込めたのだと道士たちはいう。止める道士たちを押し切って洪信は扉を開けさせた。


 ただ、石碑が真ん中に一つあるだけだった。高さは五・六尺ほどで下には石亀の台座があり、松明で照らしてみても表側は古代文字で読めない、しかし、裏には「洪に偶いて開く」と彫られてあった。欣喜雀躍した洪信は警告などものともせず、台座の下の四角い石版を掘り出して除けると忽ち閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去ったという。その石版が「かなめ石」であり、それらの星が梁山泊の百八人の頭領たちだった。つまり、石が魔星を封じていた。


岱廟 山東省泰安市 北宋時代の道観

 水滸伝における読めない文字が彫られた石碑のかなめ石は、天の意思として開かれることが定められていた。一方、『紅楼夢』の話は人間界で過ごした女媧石がその経験した事件の顛末を自らに刻んで石碑の如くとなり、その文字を仙道修行の空々道人が写し取って世に伝えたとされている。それに、宝玉がくわえて生まれる玉には、その裏に三つの文章が刻まれていて、その一つが「祟りを除(はら)う」であった。そして玉になる前の女媧石は大きくなることも小さくなることも話すこと歩くことさえ可能だった。それは、石の持つエネルギー、ある種の豊饒さにつながる。石猿の孫悟空が如意棒を自在に操り、多彩に変化(へんげ)する活躍にも、梁山泊の頭領たちの立ち回りにもそのエネルギーを見ることができるだろう。

 中国のこの三小説に関連する広大なテキスト相関的空間を横断しているのは、特定可能な神話や儀礼の一団であると筆者のワンは述べている。気の核である石は女媧の伝説に集約されてそのイメジャリーを巡る円環が生じるように僕にも思えるのである。そういえば、文学の統合原理は穏喩と神話だと言ったのはノースロップ・フライだった。


ときとして、星々からふりそそがれた光線は(同じ本性であるかぎり)、最高所からおちてきた金属、石、鉱物と結合し、それらにすっかり浸みこんで、それらと結合する。このような接合にこそ、ガマエはその起源をもつ。(ヨハンニス・グラセット『カバラ化学の円型視象をめぐる自然生理学』)



タバリーの『集史』におけるカーバの黒石の挿絵 1315年頃  部分
真ん中に黒石を持つムハンマドと周囲に
互いに対立する族長たちの姿が描かれている

 空を突き破って地上に落ちて来る石もある。隕石である。メッカのカーバ神殿の聖石が有名だが、隕石ではないという説もあるらしい。隕石は隕鉄をもたらすゆえに鉄の冶金術が発展するまで鉄は唯一隕鉄からもたらされた。その使用は一説には紀元前4000年に遡るとされ、シュメールやヒッタイト人は「天からの火」と呼びエジプト人は「天空の金属」と呼んだ。

 それから、ポエニ戦争の際、紀元前204年にローマに運ばれたというプリギュア (フリギア) の大母神キュベレのペッシヌス (ペシノス) の黒石がある。この黒石は隕鉄であり、神の姿として表現されていない、いわゆるアニコン石と言われている。ハンニバルとの戦いの最中にユピテルによる恐ろしく不思議な出来事がローマで起き (それが何であるかは分からない)、ローマの十人委員会は古代ギリシアの神託詩集『シビュラの書』を紐解いた。危機の時代にはしばしばその書に御伺いがたてられたのだ。神々の母キュベレが崇拝されるプリギュアのペッシヌスに間もなく天から何かが降ってくると伝えられ、それをローマに輸送しなければならないと言うのである (アッピアノス『ローマ史』)


ライオンに曳かれる車に乗るキュベレ神 
2世紀後半 ローマ時代
右手に捧げものの碗であるパテラ、左手に太鼓を持つ

 隕石が何故崇拝の対象になったのかは、よく分かる。その石は星の欠けらだからだ。空を突き破って穴を開け天上世界と地上とを結ぶのである。エリアーデは嵐の神は大地を「雷石」で射ち、天と地の神聖婚の合図を発すると言う。農耕と豊穣と冶金術に関する神話は比較的新しもので、食物採取と小規模な首領生活の時代の天空神は大地母の夫神で多産を催す強力な神に取って代わられていた。かつて、天空神によって「無からの創造」は神性婚と血の供犠による創造に取って代わられる。盤古やプルシャなどの自己犠牲によって創造は生殖へと移行するというのである。


石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。(アンドレ・ブルトン『石の言葉』巖谷國士 訳)


石を聴く


ヘイデン・ヘレーラ『石を聴く』2018年刊 
かなり詳しいイサム・ノグチの伝記

 く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもつ。聴く者の知りたがっていることを教えてくれる。石たちの中には呼びあっているように見えるものもある。ふと近づいてみると、石どうしが語りあっているさまに出会うこともある。そんな場合、石たちの会話は、太古のもの、不滅のものの実質そのものを私たち自身の思念の鋳型に流しこむことによって、私たちの条件をのりこえさせてくれるという計りしれぬ益をもつと述べたのはアンドレ・ブルトンだった (『石の言葉』巖谷國士 訳)

 石に耳を傾け、太古のもの、不滅のものの実質をその作品の中に鋳込んだ芸術家、それが、イサム・ノグチだった。2018年にヘイデン・ヘレーラによる詳しい評伝が出版されている。1960年代の末、ノグチには四国の香川で石工の和泉正敏と運命的な出会いがあった。彼は花崗岩や玄武岩といった硬い石を彫りたいと考えるようになっていた。『黒い太陽』はブラジルから30トンの花崗岩を取り寄せ、高松近郊の庵治(あじ)で和泉をアシスタントとして彫られた素晴らしい作品だった。

 同じく高松の牟礼(むれ)でノグチはこう語った。「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。‥‥」一方で石を彫る時のノグチは、石を征服しようとするかの如くで、そんな時には人が変るという。小さな子供なら近くによって話しかけられないほどの空気が漂いはじめるのだ 。あまりに顔を近づけて強く彫るので、石工たちは眼に石屑が入るのではないかと心配していた。実際、眼に入ってもノグチは、そんな心配を無視したという。1986年のヴェネチア・ビエンナーレの後、ノグチはインタヴューにこう答えた。「日本にもどり、石と向かい合ったら、石がともかくもぼくに語りかけてくれるだろう。ぼくは石の頭を叩く。石になにかを語らせるためなら、ぼくはなんでもするだろう。」


自然は一つの化石した魔都である。(ノヴァ―リス『断片・続断片』飯田安 訳)


 新たな人間を生み出すためにデウカリオンは母の骨を背後の地上に投げた。世界子宮である大地母の「骨」は石なのだとエリアーデはいう。石から生まれた人間の神話と生殖の石。大地の中の岩の子宮からは宝石が生まれる。紅玉は大地の子宮のなかで血で養われたように赤い。鉱石は植物のように大地の中で成長し、成熟していく。そして星の欠片である隕石は天の子宮から雷電と同じように落下し、大地に豊穣をもたらすと考えられてきた。春先の雷雨は稲を実らせるのである。そこには天界と地上と地下という異なる原理を持つ異世界を結ぶ物質である石があった。石は世界の秘密を語るのだ。聴こえる人には聴こえるらしい。時々、人を蹴つまずかせるけれど‥‥

 さて、今回の石を巡るお話しはいかがでしたか。僕も石の話が聴こえる人になりたいと思った次第ですが、真のアーティストにしか与えられない特権かもしれませんね。最後に、石に関する僕の最愛の詩をご紹介して終わりましょう。

きょうは こどもを
ころばせて
きょうは お馬を
つまずかす。
あしたは 誰が
とおるやら。

田舎のみちの
石ころは
赤い夕日に
けろりかん。
(金子みすゞ『石ころ』)




夜稿百話
関連図書

『書物の王国6 鉱物』 国書刊行会

澁澤龍彦「石の夢」、ヴォルケル「巡礼のひとりごと」、ブルトン「石の言葉」、木内石亭「雲根志」、明石海人「白描・白描以後」他収載

二編ほどご紹介しておく。

杜光庭『録異記』岡本綺堂 訳
 帝堯の時、五つの星が天から落ちる。その内の一つは土の精で穀城山の上に落ちた。漢の時代、その星は圮橋 (ききょう) 老人となって張良に、この書を読めば帝師になれると兵書を授けたと言う。張良は漢のために功績を立てた後、穀城山にある圮橋老人が化した黄石を発見した。身罷って後に黄石と共に葬られたが墓の上には黄色い気が高く昇ったという。漢の末に赤眉の賊兵に墓を暴かれたが遺骸も石もなく、その後、黄気も絶えたと伝えられている。

種村季弘 「生む石」

 『日本霊異記』に石を生んだ二十代の女の話がある。処女懐胎は異常だったが、三年もの妊娠期間もあり得なかった。大きさが15cmで、一つは青の疎ら、もう一つは真っ青だったと言う。しかも、生きていてどんどん大きくなる。朴者に占ってもらうと近隣の伊奈婆大神の子だと言う。それで女の家に忌籬 (いがき) をたてて斎きまつった。その後の消息は語られていない。

『日本霊異記』にはもう一つ妙なものを生んだ女の話がある。肥後、八代の豊服廣公 (とよぶくのひろぎみ) の妻が卵のような一つの肉団子を生んだ。桶に入れて山の石の中に置いておいたら肉塊は二つに割れて女の子が生まれていた。娘には頤 (おとがい) がなかったし、性器もなく尿を出す穴だけがあった。しかし、この子は天才で7歳にして法華経を読み、出家して人々に敬われたという。卵のような肉塊から生まれて山の石の中でもう一度 生まれ直した女の子は、文字通りの石女 (うまずめ) だった。


ジン・ワン『石の物語』

本書は『紅楼夢』、『水滸伝』、『西遊記』にある石のイメージャリーを間テクスト性を重視しながら民間伝承の石と文学における石との相関性を述べていく。

 縁結びの神である高媒 (媒神/皋媒) の儀礼は春分の日の陽気な祭りであり、かつては若い男女の出会いが設けられていた。これは若い男女の縁組に関わる民間祭祀であったと同時に媒宮で子に恵まれない夫婦が子供を授かるように祈る行事だった。その高媒壇には石が設置されるが南北朝期 (420-589) には、この女神への礼拝場所が一個の石と考えられていたらしい。それは太古の石信仰と地母神信仰を想起させる。
 夏王朝の始祖である禹は洪水を治めるために出かけたに太鼓が鳴ったら塗山に食事を持ってくるように頼んでいたが、禹が、うっかり石を蹴飛ばして太鼓が鳴ってしまう。この時、禹はクマの姿になっていたために塗山は岩に姿を変え、その岩から息子の啓が生まれたという (『漢書』) 。この塗山は部族の母だったが、中国の地母神伝説には含まれていないらしい。一方、禹は『淮南子』において石から生まれたとされ、その注には禹の母は石に感応して禹を身ごもり、彼は母の胸を破って出生したとされている。『論衡』では妊娠の理由が蓮の実を飲み込んだためとあり、『潜夫論』には流星を見たためだとある。『史記』ではこの二つが折衷され、禹の父である鯀 (こん) の妻である脩己は流星がスバルを貫くのを見て、夢に感応するものがあり、神珠と蓮の実を飲み、胸が裂けて禹を生んだとされている。その禹は洪水の制圧のために黒い玉を贈られ (『水経 注』) 、あるいは天地を測ることのできる玉のふだを授けられる (『拾遺記』) など玉を媒介とする洪水伝説がのべられているのである。このように禹にまつわる伝承には石と母性原理、英雄の石からの出生譚、流星と隕石、天界からの授かり物と天下平定の道具としての玉が語られているのである。



ヘイデン・ヘレーラ『石を聴く』

本書はイサム・ノグチのかなり詳しい評伝になっている。

奨学金を得てパリのブランクーシの下でアシスタントをしながら、その彫刻に浸り、アメリカに帰ったノグチは、やがて肖像彫刻家として芸術界と特権階級に多くの友人を持つ著名な作家となっていた。その後、パリ、モスクワや北京、日本にも滞在して父親の野口米次郎とも会っている。満州事変が起きた年だった。アメリカに戻るとメキシコに滞在したり、インターホンや家具の制作をしたりもした。しかし、1941年、日本軍による真珠湾攻撃のニュースが飛び込んでくる。日本がアメリカ本土を攻撃すると言う噂で彼が住んでいたカルフォルニアは人種差別的ヒステリーが増大していた。翌年には西海岸在住の日系人は敵性外国人であるというルーズベルトの大統領令が発布されて立ち退き要求が出され強制収容所移動させられることになる。そこでは新たなコミュニティーの形成が図られ農業、衣料、木工、陶芸、建築資材などの制作によって最低賃金が支払われたることになっていると強制移住局からの回状がた。コロラド、アリゾナ、ワイオミングなど各州に十カ所ほどの収容所が建設される。ノグチはカリフォルニアを発ってワシントンに向かい、日系人のために何か協力出来ることはないかと国務省の役人に尋ねたが追い払われた。しかし、ネイティブ・インディアンの支援をしてきた理想家肌のジョン・コリア―と会い最大の日系人収容所のあるアリゾナ州ポストンがインディアン居留地の内にあることを知る。そこの強制収容所での理想的コミュニティーの実現のために公園とリクリエーション施設の設計と建設を助けるようにアドバイスされた。ノグチは自ら収容所に入るのである。収容された日系人はノグチよりもずっと若く、彼は年上のアーティストして遇せられることになった。しかし、リクリエーション&アートセンターのための物資は支援もなく手作りの作業が始まったが、当局はそのような理想的な共同コミュ二ティーなど必要としていなかった。それでノグチの存在は無意味化したし、このポストンにくるまであちこちと飛び回ったことから管理側からは疑わしい人物と考えられていた。彼は収容所での時間の一部を自分の彫刻の制作にあてるようにもなる。戦時移住局の局長へ手紙を書くなどの努力の結果、1942年の11月には仮出所が許された。戦時移住局での収容所の目的についての談判は徒労に終わり、反ファシズム闘争に関わる仕事を見つけようとしたが、それも実を結ばなかった。結局、全てを投げ出して自由の身となったが、1945年末までFBIの監視下に置かれていたと言う。


ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』 宗教学概論2

ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』 宗教学概論2

循環的生成の法則に支配されている水、雨、植物、豊穣といった宇宙のあらゆる面を月が規制している。螺旋、蛇、稲妻といったシンボリズムは、月の周期的変化や豊穣への関与によって、その直観から来ていることは明らかである。南西ヨーロッパを中心とした古ヨーロッパの遺物や縄文の土器などを見れば分かる。月は満ち欠けの周期的変化によって農耕と深く関わり、水、雨、植物の関係を一層深めただけでなく女性の多産、死後の人間の運命、加入儀礼などとリンクするようになった。氷河時代から螺旋は月のシンボルとして知られていたが陰門=貝殻という性的イメージ、二重渦巻きや、角などが豊穣のイメージも組み込まれるようになる。月の力は古代人の直観によって得られたため、その月の働きは益々全体性を発揮し、その象徴は益々多彩になっていった。月の満ち欠けによってその姿が消えたり、現れたりすることが蝸牛の角がでたり入ったりするのと同じであるなら古代メキシコの神テクシッテカルトは蝸牛の殻に閉じ込められた姿で表される。とりわけ月の循環的な再生は人間の生についての再生や新生への希望となっていた。このような月という言葉に関わる象徴、ヒエロファニー、神話、儀礼、護符は古代人の意識の中では、一つの全体であり、照応、類似、融即によって互いに結び付けられていたとエリアーデは言う。とりわけ彼が強調するのは、宇宙や地上の物体を、それ自体として崇拝されることは宗教史上ないということ。それは窮極の「実在」を啓示しているか、それを分有しているのであって、その特性によって常に何かの「聖」を具現しているという。その稀な形態、あるいはヒエロファニー、その物体にまつわる儀礼、他の聖なるものや人との接触によって「聖なるもの」として崇められ、聖別されるというのである。月は月自体として崇拝されるのではなく、月は聖を啓示するゆえに崇拝されという分けである。




関連画像


鹿島神宮 拝殿

要石 鹿島神宮



行天宮 台湾 20世紀に建造された新しい道観





ライオンが曳く戦車に乗るキュベレ神(左)と太陽神ヘリオスの胸像(中)、右端のニケ 前3世紀 銀製金メッキ
アイ・カヌム、アフガニスタン出土





イサム・ノグチ 彫刻作品




アル・ナスラア岩 サウジアラビア
風化によって底が削られ綺麗に二つに割れている巨石。




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