第82話 大野一雄『稽古の言葉』舞踏の風姿花伝


『大野一雄 稽古の言葉』

 この人の舞踏を見ていると、16世紀のドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトの描く手を思い出す。手が精神を越え、身体を離れて越え出ようとしている。こんな手を表現できるのは、グリューネヴァルトとこの人しかいない。これは、すでに美しいという世界とは異なる次元に突入しているのだ。

 大野一雄(おおの かずお/1906-2010)さんの舞踏の動画を見て、若い人たちは、このお爺さんは、いったい何をしているのだろうかと訝るかもしれない。パントマイムにしては具体的に何かを真似ようとしていないし、普通の踊りというには表現主義的だし、ステップを踏んでダンスのように優雅とも言い難い。でも、この切々と伝わるものは一体なんなのだろうかと、きっと感じるものがあるのではないかと思う。一途であることは、芸術家の最も重要な資質であると武満徹は書いている(『遠い呼び声の彼方に』)。この切なさは、きっと一途であったことの結果なのだ。何に一途だったのか。踊ることにである。90歳を超えてもなお踊り続けた人である。

 さあ、今日はここから始めよう。『大野一雄 稽古の言葉』だ。舞踏を学びに来る人たちに大野一雄さんが語った言葉である。でも、こんな本は、人様に紹介するよりは、自分の心の中に大切にしまって、抱きしめていたほうが良かったかもしれないのだが‥‥


マティアス・グリューネヴァルト(1470- 1528)
『磔刑図』部分 1523-24


稽古の言葉 Ⅰ


1.石蹴り遊び

漂う勇気が、死と生が背中合わせになって。言葉でなくて、あなたが発する輝きだ。宇宙全域とそのかかわりなかで、あなたは石蹴り遊びをしているんだ。

2.一粒の砂のような微細なもの

ほんの一粒の砂のような微細なものでいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるに値することがあるだろう。大事にして、些細な事柄に極まりなくどこまでもどこまでも入り込んでいったほうがいい。今からでも遅くない。

3.舞踏とは何か

舞踏とは何か。土方さんが、[舞踏とは命がけで突っ立っている死体である]、こう言った。これはどうも技術を越えた世界のように思える。想像力という問題だけ考えても、自分が想像力を作ったんじゃなくて、天地の始めから現在にいたるまで、先人が死んで魂に刻み込んで、外側から、宇宙の側から刻み込んで、そういう長い億単位という年月のなかで、想像力というものが積み重ねの中で生まれた。たくさんの積み重ね。その中の自分‥‥。

4.箸の持ち方

箸を持って御飯を食べるときに、その箸が宇宙の果てまで伸びていって、あなたが生きている証しのような、喜びのような、悲しみそのもののような箸となって、あなたが食事をするときに何気なくもつ箸が、そんな箸であってほしい。今は気づかなくてもいいが、千年たっても万年たっても気がつかないとすれば、その箸の持ち方はだめだ。

5.立ち昇るもの

何もかもご破算にして投げ出して。そこから立ち昇るものがあなたのものだ。考え出したのではなくて、立ち昇るものがあなたのものだ。細密画のように立ち昇るものを。追いかけることと立ち昇るものが一つでなければならない。立ち昇るものと追いかけることをして、立ち昇ったときにはあなたはすでに始めている。立ち昇るそのものがあなたの踊りだ。空はどうなっているんだい。立ち昇るものを受け入れろ。空はいったいどうなっているんだい。そして、自由にひろがっていく。手が足が、命が際限なく自由に立ち上がるときに手足は同時に行動している。あとじゃだめだ。

6.花が美しいから

花が美しいから、ああきれいだな、っと踊ることはないわけですよ。あなたが見ているその目が、魂が、見てるその姿がさ、いままで稽古したこと全部のエネルギーが燃焼しているならば、花ができるわけですよ。できるでしょう。延々と極限まで、永久にずうっと花を咲かせる。核心に入ってきましたからね。体がねじれても、目からなにから全部ささげてね、花を見てる。それそのものが花を成立させるもととなるように。


出会い 細江英公


 もう、もうひと昔前になった。2011年の岡本太郎美術館で開催された『岡本太郎生誕百年記念展 芸術と科学の婚姻ー虚舟』でのレセプションの時、僕は思ってもみない予期せぬ人とお会いすることができた。細江英公(ほそえ えいこう)さんがいた。嬉しかった。三島由紀夫や土方巽(ひじかた たつみ/1928-1986)といった人達をモデルにして素晴らしい作品を撮り続けた人だった。僕が高校生の頃、ほとんど唖然として自失するほかなかった写真集『鎌鼬』、この写真集の作者だ。「あれは、日本人の原風景ですよね」と僕が言うと、細江さんは「そういうふうに見ていただければうれしい」と素直に喜んでくださった。

 それは、戦後の60年代、明治の面影濃い東北の農村を舞台に、不気味にして哀愁を添え、面白くも聖なる、奇怪にして高尚たる、土方巽という稀代の器官なき身体が写しだされていた。昭和から縄文までの位相空間、畳(たた)なわる蟻通しの世界、歪む時空。これを見た時から、土方巽とはいったい何者なのかという疑問が頭から離れなくなっていた。もう天を舞うこともない堕天使たちが、地霊と化して大地を這う踊り、暗黒舞踏の創始者だった。この人に影響を与え、幾度も共演を重ねた人が、今回の主人公、大野一雄さんだ。


細江英公(1933-)『鎌鼬』

土方巽(ひじかた たつみ/1928-1986)
『土方巽全集Ⅱ』

 岡本太郎美術館でお会いしたもう一かたは、大野一雄さんのご子息である大野慶人(おおの よしと/1938-)さんだった。1959年、21歳の時、土方巽の『禁色』で少年役を演じている。何も知らず、ただ純真なものだけがあったという。この『禁色』は、ジャン・ジュネの男色のエピソードにまつわる踊りだった。60年代の暗黒舞踏派公演に参加、1970年から1984年まで舞台から遠ざかった。その後、父親の一雄さんと共に、あるいはソロで踊った。父親から、自分はダンスを研究しているから、それを受け取ってほしい、だから君は習いにきなさいと言われたらしい(カガヤ サナエ インタヴュー『大野一雄氏100歳をお祝いして』)。

 岡本太郎美術館でお会いした時も「舞踏」について熱く語っておられた。父から受け継いだもの、世界的に発展している「BUTOH」の行方、自らの役割。メキシコの女性アーティストに贈られた例の一雄さんの人形も持っておられた。その後、横浜の稽古場を訪ねたいと思ったのだが、折あしく、慶人さんは海外のワークショップへ出かけられていて断念せざるを得なかった。出不精な僕は、それっきりなのだけれど‥‥。


大野一雄とノイエタンツ 



大野一雄ダンスフィルムDVD 
『KAZUO OHNO & O氏の肖像』

左 ハロルド・クロイツベルク 『愚か者の踊り』1927
右 クロイツベルクとルース・ペイジ 1934

 大野一雄さんは、1906年、北海道函館に生まれた。19歳の時、日本体育会体操学校(現在の日体大)に入学する。1926年に帝国劇場でスペイン舞踏の舞姫、ラ・アルヘンチーナ(アントニア・メルセ)の公演を見て衝撃を受ける。これが第一の契機であった。大野さんは、その姿を50年の間胸に秘め続けるのである。その後ミッション系の女学校でダンスを教えることになった。その頃、ドイツ表現主義の舞踏家、マリー・ウィッグマンの高弟であったハロルド・クロイツベルクの来日公演を見る。そのマリー・ウィッグマンにドイツでノイエタンツを学び、日本のモダンダンスの中核的存在となった江口隆哉と宮操子(みや みさこ)の主宰する江口・宮舞踊研究所に1936年に入所した。

 このノイエタンツ(新しい踊り)との出会いが第二の契機となった。ちなみに、ドイツでは、このノイエタンツの流れの中にピナ・バウシュがいる。1926-28、1938-45、二度に亘る兵役。復員後、1946年から江口・宮舞踏研究所に復帰し、代稽古なども行うようになった。1949年から「大野一雄現代舞踏公演」を開催し始める。43歳だった。遅いデヴューである。そして、50歳で土方巽との運命の共演を開始する。


大野慶人編集 『大野一雄 魂の糧』

父と子の踊り


 今度は慶人さんが父、大野一雄を書いた『大野一雄 魂の糧』からいくつかご紹介したい。父親の一雄さんの手は、土方巽も嫉妬するほど大きかったと言う。指の根っこが特に長い。慶人さんは、その手によって表現される父の世界を、一輪の花の中にも宇宙があるように、手の中にも宇宙があると形容する。そういう手で動物や鳥や昆虫を踊った。とくに昆虫の動きに注意を払っていたという。グレーゴル・ザムザの姿勢とは何か。それに、原石鼎(1886-1951/はら せきてい)の俳句、[うれしさの狐手を出せ曇り花]を例にとる。あんまりきれいな桜に、狐が思わずフッと出てきたことを詠んだ句だが、誰だって人間は動物をどっかに持っている。大野一雄は、まさに自分の中にある化け物、つまり「化身」という発想を持っていたというのである。


『イーゼンハイム祭壇画1512-16年
磔刑パネルからマグダラのマリア

 慶人さんは、一雄の動きのフォルムを見ていると、次にフォルムがどうなるのか計算が立たない。まず、ひとつのフォルムがある。全部、そのすべてが、一だという。一があって二、三、四、五というふうに、ひとつひとつが全部で、しかも連続していく。本番中、動きを間違えてしまったことがあるけれど、普通だったら、パッと動きを変える。でも、大野の場合、いけないと思った時に間違えた動きを手がかりにして、ひとつの直感的な宇宙を新しくつかんでしまうという。それは予測し得ない動きなのである。僕は、大野さんの動きには手の指の五本ともに異なる型があるように思える。手の甲や腕、肘、顔のそれぞれの筋肉など、各々の肉体のパーツにそのような細かい型があると感じるのだ。いわば、微分的な型といっていい。その完成度は、スティル写真に撮られた姿に一枚も弛緩した姿がないことで分かる。一枚もだ。ただ、その繋ぎ方は、かなり自由だったのではないだろうか。

 それから、モダンダンスでは上に、重力に逆らってというふうな思いが強いのだが、一雄の場合は、本人がそう感じた時、反対に落下するという。その時の落下する速度は凄いらしい。あっというまに床に行っているという。当然、即興で落ちる。頭でわかってそういう動きをしようなんていう速度ではないという。 [落ちる]ということは、一瞬何かが切られる。鋭い刃物で、ハッと空間のある何かを切る。だから言葉を変えると、垂直に切って水平に開くと言っていいという。‥‥普通の技術ではこれはできない。舞踏では、特に膝から下の世界というのは大事だというのである。


細江英公
『胡蝶の夢 細江英公

人間写真集 舞踏家・大野一雄』
表紙にある曽我蕭白の絵を

大野一雄の体に投影した写真がとても印象的だ。

 なぜ女性を踊るのかということは、本人もよく言っているそうなのだが、「女性になる」、「女に変身する」というよりも、命の一番の根源にさかのぼる行為であるという。そこに帰りたいと。そうすると、どうしても、母親というものの存在に入って行かざるを得ないという。言い換えれば、生まれたての子供のダンスなのだと。死と誕生のダンス。本人もよく言うが、生まれる前は男も女もなかった。あるいは、自分の中の、何か忘れてきてしまった肉体があるとも言う。はぐれてしまった肉体。そこに帰って行きたいという根源的な欲望のためにフッと男をやめる、もうさんざ日常的な中で男性をやっているから、脱ぎ捨ててドレスを着るという‥‥

 慶人さんが父一雄さんを舞踏家として意識したのは、昭和二十四年、神田共立講堂で二千人を集めて舞台を踏んだ時だ。自分の父親がやる舞台に対してこれだけの観客がいることにびっくりしたというのだ。でも、その発表会の頃からすごい借金をしていたと述べている。当時の入場料が仮に三百円とすると、三百円の税金をとるという国の決まりがあった。借金しながらやっていたのである。‥‥だから、絶対踊りで儲かるわけがない。そんな舞台は贅沢な人だけがやることだった。すぐに給料の一年分くらいはなくなってしまい、給料は、全部前借り。まともに貰ったことはないという。給料日の次の日から前借りだった。それをやり通すというのはたいへんなことだったろう。だが、慶人さんは、母親のちえさんからいっさいグチを聞いたことがなかったという。一雄さんは、連れ合いにもめぐまれたのだ。「夫婦は天界において一人の天使だ」というスウェーデンボルグの言葉をよく口にしていたという。

 僕は、長らく大野一雄と土方巽を同列に考えるのは無理があるような気がしていた。というわけで、今回いいチャンスなので、二人の違いがどこにあるかを確認してみたいと思う。


暗黒舞踏 加害者 大野一雄・点火人 土方巽



『土方巽の舞踏-肉体のシュルレアリスム 
身体のオントロジー』岡本太郎美術館 

左が土方巽

 土方巽は、秋田製鋼に勤める傍ら、秋田市内の江口隆哉の流れを汲む舞踊研究所でドイツ系のモダンダンスであるノイエタンツを学び始めた。1946年、18歳のことだった。21歳の時、一時、上京する。この時、神田共立講堂で大野一雄の舞踏公演を見て衝撃を受けた。こぼれる程の抒情味を湛えた、そのシミーズ(女性の下着)をつけた男の踊りは、頻りに顎で空間を切って感動は長く尾を引いたと述べている(『美貌の青空』)。三年後の24歳の時、上京し、安藤三子舞踊研究所に入門、その後、ドイツ現代舞踊を学んだ津田信敏近代舞踊学校に入学するのである。スパニッシュ、ジャズ、社交ダンス、バレエなども学んだが、手も足も真直ぐにならなかったばかりか片方の足が短かった。この時点で、日本人としての肉体に立脚した現代舞踊を追求し始める。飯詰に押しこまれた「折り畳まれた足」の舞踏だった。

 『暗黒舞踏』の中で彼は、こう述べている。「年頃になって私は、舞師を選んだ者であるが、何故か硬いものを欲していた者であり硬い舞踏ならば、ドイツダンスと思い選んだ結果が、今日になった。‥‥加害者大野一雄、土方巽に依って点火される、このドラマは、加害者と被害者が癲癇のように咲き誇る様に作舞されている、狂気の深部に潜む苦汁が深く飛翔することを私はこの作品に賭けている。」アルトーの残酷劇やサド侯爵の小説、ジャン・ジュネの牢獄・同性愛、観客への挑発、そして、錯乱という名の創造。こうして、暗黒舞踏がはじまるのである。


三上賀代
 『器としての身體―土方巽・

暗黒舞踏技法へのアプローチ』

 ここで、三上賀代さんの『器としての身體』から二人の特徴を対比させてみたい。三上さんは、土方巽の弟子の一人だった。それによれば、海外において、BUTOHは、土方を父に、女装の多い大野一雄を母として誕生したとされている。土方は振付を重視し、大野一雄は即興を重視した。土方直系の大駱駝艦、それから派生した山海塾が派手な演劇性をもっているのに対して、大野の舞踏は「演劇的意志と空想世界の境界線を取り払ってしまった自在な表現者(トビアス・トビ『ニューヨークマガジン』)」と評されている。ちなみに、僕が初めて舞踏なるものを見たのは、1985年の山海塾の日本縦断ツアーの倉敷公演だった。かなり遅かったのである。それはともかく、共通点として二人ともドイツのモダンダンスを学び、なお且つ、それには飽き足りなかった。土方は大野の踊りに感動し、その世界の上に自らの世界を重ねた。互いに共演し、後に土方は、「ラ・アルヘンチーナ頌」などの大野作品の演出をも手がけるようになる。だが、決定的な違いは、恐らく今から述べることにあったのではないだろうか。


土方の「死」と大野の「神」


 もう一度、慶人さんが父、大野一雄を書いた『大野一雄 魂の糧』にもどるのだが、このような言葉がある。「土方さんとの出会いの中で、一雄は根本的に変ったと思います。その前までは、モダンダンスや表現主義的踊りを踊ってたんですけれども、この時から初めて[死]というものの考え方が本格的に入ってきた。それまではどちらかというと生きる、[生]の側から見た踊りだった。」二人とも全面的に信頼しあっていた。「しかし、ある時、やはりうちで話した時に、一度だけ執拗に二人が議論したことがあった。一晩中続いた。土方さんが執拗に一雄に[神とはなんですか、先生はクリスチャンなんだから、神とはどういうもんなんだか教えてください]って言うんです。一雄は、なにか言えばいいのに、一言も言わない。押し黙っているわけです。かなり長い間。それは一晩中朝方までその議論が続いた。」


元藤燁子(もとふじ あきこ)
『土方巽とともに』
土方巽夫人による感動的な土方伝

 土方は大野一雄に「死」を感染させ、大野は土方に「神」への畏怖を植えつけたのである。かたや無神論者であり、かたや信仰者であった。土方巽には舞踏の型はゆるぎない確信であり、自己の依るべき所であったろう。大野一雄にとっては、型は魂の航跡であったのだ。そこに即興の自由がなければ、魂は飛翔することができなかったのである。それは、死と生が背中合わせになった漂う勇気によって生まれる輝きだった。宇宙全域とその関わりのなかで、大野一雄は石蹴り遊びをしていた。その広大な手という宇宙の中で。


型のオリジナリティー


 歌舞伎もそうかも知れないが、とりわけ能の場合は独特な型があり、ストップモーションの美学といわれる高いオリジナリティーがある。前回の第81話西谷啓治『正法眼蔵講話』で、その欄外にご紹介しておいた「行ということ」にあるこの言葉はとりわけ重要かもしれない。「『かた』は勝手に作り出したものではなく、自然の内にある理法のようなものに人間が出会い現成してきたものではないか。同時に人間がその理法を実現し、実現することにおいて知る」と。そこに外と内との合一がある西谷は述べている。

 暗黒舞踏には舞台にしゃがむ、寝転がるなどの所作がありバレエダンサーをして嫌悪させるものらしいが、それは能の対極と言ってもいい独特の「型」である。そのオリジナリティーの高さにおいて能と双璧といっていいだろうと僕は思っている。だから、能=(   )=暗黒舞踏という関係性の中で()の中入る言葉を探しだすことが出来れば、日本の舞・踏というものの本質に触れることも可能ではないだろうか。それは、人間と言う「自然」のなかにある理法のようなものであるかもしれない。だが、不可得、不可得‥‥


 最後に『大野一雄 稽古の言葉』から、全ての表現者に捧げるこの言葉をお送りしたい。

7.「おまえの踊りがいま認められなくたって、千年万年経て誰かひとりでもいいから、認めることがあるとすれば、それは成立する。しかし、永久に誰とも関係のない踊りはだめだ。」










夜稿百話

参考図書

土方巽『美貌の青空』

「犬の静脈に嫉妬することから」より一部抜粋をご紹介する。

「犬に打ち負かされる人間の裸体を、私は見ることができます。これは、やはり、舞踏の必須科目で、舞踏家は一体何の先祖なのかということにつながってゆきます。わたしはあばらの骨が大好きですが、それも犬のほうが、わたくしのそれよりも勝っているように思われます。‥‥雨の降る日など、犬のあばらを見て敗北感を味わってしまうことがあります。それにわたくしの舞踏には、もともと邪魔な脂肪と曲線の過剰は必要ではないのです。骨と皮、それにぎりぎりの必要量の筋肉が理想です。もし、犬に静脈が浮いているのなら、おなごの体など金輪際要らなくなると思います‥‥」





土方巽全集Ⅰ
「病める舞姫」「美貌の青空」「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」収載

土方巽、本名米山九日生(よねやま くにお)は1928年秋田に生まれた。生家は半農の蕎麦屋で、11人兄弟の10人目であったという。父は村長の息子で、生家は比較的豊かだったようだ。『病める舞姫』には、蕎麦をゆでていたのだろうか釜の底から湯気の立つ様子が、かなり克明に描写されている。そして、その頃、子供であった土方は、おそらく他の子供と同じように、藁でできた、おひつの保温容器である飯詰(いづめ)の中に入れられて出られないように紐で結わえられて田んぼの畔にほったらかされていた。その描写も『美貌の青空』に詳しい。それは、暗黒舞踏発祥の伝説にさえなっているようだ。

泣いても叫んでも通じない大空に夕暮が迫る頃、飯詰から抜かれると立てない。完全に足が折れて、感覚が無くなっている。糞尿にまみれた足が体からスーッと逃げて行く。それは、滑稽で厳粛でせっぱつまっていたという。そこには立とうとして立てない足、「立つ」という意志に反する体があった。ここに「崩れる」一瞬前の必死で突っ立とうとする「立ち」方という他に類をみない基本型が成立するのである。立つことについて、このような土方のコメントがある。「東京に出て来た頃は、死刑囚の歩行を原点にしたりしてね、立っているんじゃなくて崩れているんだと。そういう灰柱の歩行を舞踏の原点にしないと大変なことになる‥‥(『極端な豪奢』W-Notation No.2インタヴュー)。」

僕が土方巽と言う人にずっと憧れを持っていたのは確かなことだし、若い頃、その著作『美貌の青空』を読んで頭を抱えたのもそれ以上に確かなことだった。その後、『病める舞姫』のほうがもっと「ワカラナイ」ということを発見した。おおよそ「意味を解く」ということとは縁遠い金輪奈落に住んでいたのである。秋田で生まれ育った生い立ちの記録である『病める舞姫』では、こんな言葉が延々と続くのだが‥‥

「私はたかだか影一匁(もんめ)なのだ。そう、決めてしまうと、空を鉋(かんな)で削るような気持ちにもなり力も形も鉋屑のように翻って気持ちも乾いてくるのだった。木槌で叩かれたように踝(くるぶし)が急に軽くなって、表へ出ていっては飛ぶ影の練習をするのだった。いろいろなだぶった表情をぶら下げて、それを切断するように[飛ぶ影]などと言った呪文をとなえて、刃物の影に似せて飛んでいた。そこには、風の影も発熱して集合していた。揺れているもの、震えているものが一つになっていたはずだが、その寸法は見えてこなかった。私の五厘刈の頭髪の中にひそんでいたからだ。こういう状態にくたびれると、そのくたびれを愛人のようにして道端に立って顎を落としてもいた。顎を落とした場所も、その顎ももう見つからないだろう。私の白こぼの頭からは、白い薄い乾燥した瘡蓋(かさぶた)がはらはらと落ちてもいた。そのような道路を、いろいろな時間を喰いつぶした虱だらけの耄碌婆(もうろくばあ)が、鬼婆めいて空鍋になったようにゆたらゆたらとあっちから近づいて来るのであった。私の眼につく花はこんなものだった。この老婆には、誰でも道をあけて考えごとを考えさせないような顔になったり、粉のように解(ほど)け挨拶したりするのだった。 白っぽく汚れた闇に爛れたような昼間の眼玉がのめり込んで見えた‥‥。」(土方巽『病める舞姫』)

しかし、今考えてみると、みんな舞踏の型を表現しているようにも思える。なかなかミステリアスな世界である。




元藤燁子(もとふじ あきこ)
『土方巽とともに』


土方巽夫人であり、舞踏家であった元藤燁子(もとふじ あきこ)さんが、彼との思い出を綴った『土方巽とともに』は極めて感動的な文章である。一度読んでみられることをお薦めしたい。舞踏家の奥さんは皆さん素晴らしいのかもしれない。それは、ともかく、ここからいくつかご紹介しよう。

阿佐ヶ谷の三畳間の下宿を出て、日比谷公園で数か月野宿したこともあるという。それは、二人にとって「最高の生活」だった。そして、大野一雄宅に近い横浜の赤門町の六畳間に移った。当時、二人はクラブやテレビのコマーシャルなどで踊っていた。みな苦しみの中で新しい芸術を作り、自分たちもまた手さぐりだったという。1960年頃のことだ。マジシャンや落語家など多様な芸人たちとも交わった。そんな頃、モンパリという小さなクラブに仕事に出た時のことなのだが、そのすぐ近くに刑務所があり、土方は、この中でどんな暮らしがなされているのだろうか、死刑の宣告を受けた人はどんな歩行をするのだろうかと問い、その分厚いコンククリートの壁のそばで真剣にその歩行に取り組んでいた姿を夫人は見たという。その時の思いは「刑務所へ」という文章になって残された。




三上賀代『器としての身體』

「死刑台に向かって歩かされる死刑囚」の生と死の抗争、生きたいという「想い」と歩行を強いられる「身体」の背反は、歩きたい「想い」と歩けない「身体」に重なる。舞踏における「立つ」とは「崩れる」に接近するという。歩行は「灰柱の歩行」を原点にしていると三上さんは書いている。「柱」は神を数える時に添える言葉であり、「人柱」のように犠牲者にも用いるという。僕は、土方が『病める舞姫』でよく使う「蚊柱」にも通ずるのでないかとも思うけれど、それは、やはり灰という死のイメ―ジに漂泊されているのだ。風の一吹きに崩れながらも「灰」となっても形を保ち、「灰柱」となって漂う。立てないものが立とうとする拮抗状態が、一瞬崩れて生む動き。その灰柱は水母やタンポポの浮遊、触覚だけによる人体の把握などへと拡張される。それは無数の死に介在された状態だというのである。

重要な身体技法の一つは歩行である。その歩行は「寸法の歩行」によって規定されるという。あまりにも無数の感情が内包されているために寸法になってしまったらしい(『稽古ノート』)。その規定を三上さんが纏めているものをご紹介しよう。土方巽の高弟であった芦川羊子(あしかわ ようこ)さんが1989年のワークショップで発表した歩行の要件(イ~ヲ)を、4つの項目に分けて再構成したものだ。簡単にご紹介する。

1.軸をとる
天と地の間を寸法すなわち長軸となって摺足で移動する。
(イ)寸法となって歩行する。
(ロ)天界と地界の間を歩くのではなく、移行する
(へ)頭上の水盤

2.視線を消す
額に一つ目をイメージすることで神経は額に集中し、それによって背後(後頭部)からの視線が生まれるという。眼は見るという意志や認識を持たないガラス玉となって風景を映す。
(ハ)ガラスの目玉、額に一つ目をつける
(ニ)見る速度より映る速度の方が迅い

3.足を消す(膝が緩む)
カミソリの刃に体重をかけまいとして浮遊感が生じ、膝はゆるむ。そのためには腰がゆるまなければならない。腰がゆるむことによって足の裏が機能し、様々な動きへの対応、調整が可能になる。筋肉や内臓を消し去って空洞になった体を糸で吊るとイメージする。そうして、操り人形のような自由さ軽さ薄さを手に入れる。
(ホ)足裏にカミソリの刃
(ト)蜘蛛の糸で関節が吊(つ)られている
(ヌ)奥歯の森、体の中の空洞に糸

4.命がかたちに追いすがる
「歩く」という意志によって体が動くのではなく、願いが「かたち」を追いかけるようにして動きが生み出されていく。「かたち」は願いという魂、つまり、「いのち」の現われだという。
(チ)歩きたいという願いが先行して、かたちがあとから追いすがる
(ル)既に眼は見ることを止め、足は歩むことを止めるだろう そこに在ることが歩む眼、歩む足となるだろう
(ヲ)歩みが途切れ途切れの不連続を要請し空間の拡がりを促す。

この歩き方を基本にして、その数が200を超えるといわれる舞踏の型が生まれる。








参考画像


ラ・アルヘンチーナ(1890-1936)



山海塾『Kagemi』 セルバンティーノフェスティバル

日本の舞踏集団である山海塾のオフィシャル映像、2011年の DVD “KAGEMI”の一場面である。僕が舞踏なるものを初めて見たのは、倉敷で行われた山海塾の1985年の日本ツアーで、その時の演目は、『金柑少年』と『縄文頌』だった。確か中西夏之(なかにし なつゆき)さんが作った巨大な金属の輪が舞台にあった。その頃に比べるとメンバーも随分変わったし、舞台芸術としてかなりソフィスティケートされたのではないかと思っている。このグループもまた、日本の舞踏を世界の「BUTOH」にした立役者たちであるのだ。麿赤兒(まろ あかじ)の大駱駝艦、大須賀勇の白虎社、友惠しづねと白桃房、そして今回ご紹介したとりふね舞踏舎の三上賀代(みかみ かよ)らがいた。「舞踏」を創始した人々は、それを生産性社会にとって最も憎むべき敵、あるいはそのタブーとして作り上げたという。「悪の体験のもとに血をふき上げる」ようなサクリファイスがあらゆる作業のみなもとであり、それ故「ダンサーはその特質を体験するために放たれた落とし児」として生まれると考えられたのだ。それは、全共闘時代の反体制的な若者文化にシンクロしていた。それを築き上げた人たちが、今回ご紹介した大野一雄さん、そして、土方巽(ひじかた たつみ)さんのお二人であった。





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