


右 ジュール・ラフォルグ (1860-1887) 「時の人」誌表紙
‥‥
コーラス
ちえっ ! こんなところに
人間に、好んで生まれたわけじゃない。
でもここで生きていくんだから、
しっかりしがみついているだけさ !
子らよお聴き ! ――《ああ ! 死ぬわ ! いやよ、それより
選びぬかれた執行吏の打撲を受けて身を捩じらせたい ! 》
「地球」はそんな夢を見る。ラードのように水腫れの
月はその上で、あまりの心地よさにアリアを歌い
天の川の横たわる燃える天頂へと歌を漂わす
(今宵そのあたり、ありきたりの掟にない美しさ ! )
七月は抜身を構えた ! 美しい眸の傍観者たちよ、
なんと幸福な内陣桟敷を今宵の空は築きあげていることか、
聖なる糧 (マナ) 、星の花粉をちりばめた天空、
キリストがご自身の鶏たちを撒き給うたのだ……
‥‥
ジュール・ラフォルグ 『妖精会議』より 広田正敏 訳
笑っていながら泣いてもいる、泣いていながら笑っている詩たち。今回の流風一詩はT.S.エリオットやエズラ・パウンド、中原中也といった日本の作家にもかなりな影響を与えた19世紀末の夭逝した詩人ジュール・ラフォルグを取り上げます。
ラフォルグの作品は、時にシニカルであったり、メルヘンぽかったり、そうかと思えば宇宙的であったりして、月の詩人とか天体の詩人かしらと思わせるようなものもある。上の詩は亡くなる前年の作品で『妖精会議』という作品からの抜粋だけれど、一種のカンタータを思わせるような劇詩の体裁になっていて『善意の花』という作品から同じ詩句が使われている。なにせイザイ兄弟とは親密だった。
天体と虚無 中也とラフォルグ
月は、かつてのロマンチックで霊的な存在の座にありながら地球は人間の技術に脅かされる存在へと滑り落ちている。彼が亡くなった15年後の1902年にはジョルジュ・メリエスの映画『月世界旅行』が公開され、怪しげな月世界に弾丸のような宇宙船を打ち込む映像が登場する。月世界も征服すべき世界になるのである。世の中は移り変わっていった。

ジョルジュ・メリエス『月世界旅行』
1902
『メメント (悲しきソネ) 』には、以下にこんな詩句もある。この詩をお読みになって、中原中也の作品を思い出した方は勘が良いかもしれない。あえぐ球体 = 地球、今日の壊れかけそうな地球を予感しているのか。この詩は18~23歳頃書かれた詩集『地球のすすり泣き』の中の作品で、ボードレールの影響下にあった。それにエドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無への還元」というペシミズムに支配されてもいた。世界の根源は無意識にあるとする深層心理学に影響を受けた「無意識の哲学」が一世を風靡した時代だった。ラフォルグはこの思想に仏教を繋げようとする。松澤宥ではないけれどニルヴァーナに向かって「人類よ消滅しよう」というわけらしい。
‥‥
彼方で …… 彼方で …… 永遠にぽっかり開いた
谺なき深淵をただひとりさまよう巡礼の星、
凍てつく球体が喘ぐ。それはお前、「地球」だ !
全て孤独で、すべて虚無へ没してしまい、
また青い深淵の底を夢見た証人も皆無だから、
至高の岩塊よ、お前も無名の灰塵に崩壊せよ。
(ジュール・ラフォルグ 『未刊行詩集』より『メメント (悲しきソネ) 』広田正敏 訳)
ちなみに中原中也の地獄の季節ならぬ『地極の天使』の冒頭はこんなふうになっている。ラフォルグより過激だ。
われ星に甘え、われ太陽に傲岸ならん時、人々自らを死物と観念してあらんことを! われは御身等を呪ふ。
心は腐れ、器物は穢れぬ。「夕暮」なき競走、油と虫となる理想! ――言葉は既に無益なるのみ。われは世界の壊滅を願ふ!
蜂の尾と、ラム酒とに、世界は分解されしなり。夢のうちなる遠近法、夏の夜風の小鎚の重量、それ等は既になし。
陣営の野に笑へる陽炎、空を匿して笑へる歯、――おゝ古代! ――心は寧ろ笛にまで、堕落すべきなり。
‥‥
(中原中也『地極の天使』より)
中也の文章の中にジュール・ラフォルグの名をタイトルとして冠したものは、まだ見つけられていないが『トリスタン・コルビエールを紹介す』の中には、その名が登場する。中也はラフォルグの批評を引きながらこう書いている。
「『詩もなければ韻文もない、辛うじて文学が……』ラフォルグはコルビエールの作品を愛してゐたが、部分的にしか了解してはゐなかった。」
自分の愛するコルビエールの詩に対して毀誉褒貶するラフォルグに不満を表明している。それでもラフォルグを象徴派作家としての優勢な地位を認めてはいるのである。
夭逝の詩人ラフォルグ
ジュール・ラフォルグは1860年にウルグアイでフランス人の両親のもとに生まれ、1887年にパリで亡くなっている。フランス世紀末の詩人だ。1870-71年の普仏戦争に敗れたフランスはアルザス・ロレーヌ地域をドイツに割譲し、フランス第二帝政は崩壊し、ドイツ帝国が成立する。父親は南米が多くの移民を受け入れた中の一人で、モンテビデオで銀行に勤務していたが、ジュールが6歳の時、母親は両親と子どもたちと共に渡仏し、父の故郷であるピレネー山脈に近いタルブに住んだ。
だが、翌年、父親が一時帰国して母親と下の子供たちを連れてウルグアイに戻ったためジュールと兄は親戚の家に預けられる。まど・みちお じゃないけれど見捨てられたという感覚は後々まで消えなかったらしい。9歳になると兄とともにタルブのリセ (高等学校) の寄宿生となる。1876年 (16歳) には南米から引き揚げてきた父母、家族と共にパリで暮らすようになった。翌年、母親が12番目の子を流産した後に肺炎で亡くなっている。母の記憶は殆ど6歳までのものしかなかった。

ジュール・ラフォルグと
兄のエミール 1867年
18~19歳にかけて大学入学試験 (バカロレア) に三度失敗したが、この頃、雑誌に詩やデッサンを発表し始める。図書館通いをしながらエドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無意識の哲学」から仏教思想にも接近し、ロマン派や高踏派の詩集に触れ、ボードレールを知った。「イドロパット」などの文学カフェに出入りして象徴派の若者たちや印象派の画家たちとも交わり、文芸批評家・作家として名声を馳せる8歳年上のポール・ブールジェと知り合っている。
この頃書かれたのが『地球のなげき』だ。21歳の時にはパリの美術雑誌ガゼット・デ・ボザール誌の社長秘書として働くようになり、ブールジェの指導を受けながら小説も書き、詩集『地球のすすり泣き』をまとめつつあったが、このころの作品はペシミズムに覆われていた。


右 皇后アウグステ・ヴィクトリア (1858-1921) 1913
1881年 (21歳) 、ラフォルグは父を失うが、彼の人生に大転換期が訪れる。ドイツのヴィルヘルム二世の妃アウグストのフランス語読書家係のポストが空くことを知ったポール・ブールジェがラフォルグを後釜に据えることに成功したのである。つまり、2歳年上のドイツ皇后となるアウグステ・ヴィクトリアのフランス語読書係になった。だが、フランス本国では彼を批判する理由にもなったのである。仕事は夕刻か夜に1時間「フィガロ」紙や「ジュルナン・デ・デパ」などの日刊紙の主要記事や小説などを皇后の前で読むことだったという。しばらくして大ヴァイオリニストとなるウージェーヌ・イザイと弟のピアニストであるテオフィル・イザイと親交を結ぶようになり、多くの音楽会に連れられるようになる。

ジュール・ラフォルグ
(1860-1887) 1885
皇后がバーデン・バーデンやコブレンツなどの地へ移動するに伴って彼も従い、宮廷女性と思われる R とのごたごたした恋愛もあった。俗謡を取り入れた『なげきうた』が出版されると、批判はあったがマラルメやユイスマンスらの共感を得たようだ。次いで『聖母なる月のまねび』や『伝説寓話』などを執筆している。1886年 (26歳) 頃には読書係の仕事を辞してパリに戻るが、イギリス生まれの女性リア・リーとロンドンで挙式する。「ラ・ヴォーグ」、「ル・デカダン」、「ル・サンボリスト」などに寄稿するが収入は少なく貧窮し始めた。結核が篤くなり翌1887年に死去している。葬儀にはテオフィル・イザイ、ジョルジュ・スーラ、ポール・ブールジェらが参列したという。
(『ジュール・ラフォルグ全集Ⅲ』年譜より)
彼もまたダンス・マカーブルを詠うのか


左 ミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』1493年
右 ラフォルグのデッサン『ラフォルグ全集Ⅱ』より
中世ヨーロッパにはダンス・マカーブル (死の舞踏) と呼ばれる図像がよく描かれるようになり、フランソワ・ヴィヨンなどは、その絵にちなんだペーソスと皮肉が、ない混ぜになった詩を残しているけれど、ラフォルグも「19世紀の死の舞踏のごときもの」を書いている。だが、ヴィヨンほど長閑ではない。
『ギターⅣ』
やがてあなたは腐蝕する、誇りたかく洗練された社交界の夫人よ、
パリが生んだ唯一の傑作よ、
犬の死骸さながらに腐蝕する ! 鉛封もこの樫の棺も
嗤 (わら) うべき庇護にすぎない !
美しいあなた その寛い心 ! 大きな魂は
深い宇宙の声にむけて開かれていた、
全てなるあなた ! 腐蝕するのだ、悪臭を放ち、動かぬ肉は崩れ
正体不明の腐肉の塊。
昨日はピンクのドレスで女性らしさを追い求めた
しとやかなひとの子は
足蹴にされる老犬の死骸と今は同じになるだろう !
おお 考える : 夢想だにしなかったわ !
‥‥
白いその乳房もひからびた果実のように乾いてしまい、
臀 (しり) の肉もぼろ屑となり、
鼻っ柱の強かったその鼻はただの三つ葉模様の穴
そして腕は細い二本の骨ばかり。
全てが腐蝕する ! あなたの手、森の中であんなに優雅に
手綱をさばき馴れたその手も、
‥‥
狂おしさに長々と痙攣し、失神のうちに身を捩じらせた
あなたのクリトリスも。
青い眸は空洞となり、うじ虫が夢をみるだろう、
絹のような燃える金髪は
抜け落ち、そしてあなたは歯をことごとくむき出し
べとべとした虫たちに愛想笑いをするだろう。
(ジュール・ラフォルグ『地球のすすり泣き』より 広田正敏 訳)
詩集『地球のすすり泣き』のうちの作品だが、この作品もボードレールの影響下にあってペシミズムが支配する時代のものである。ラフォルグはボードレールについて、こう書いている。
「うねり孕んだ詩句は波打ち (ローリング) そっくり返り、横に揺れる (彼は、女が腰を振り、スカートを揺らしながら歩くのを見るのが好きだった) 」あるいは「彼は醜いものに対してすら、常に慇懃である。」(ジュール・ラフォルグ『ボードレール覚え書き』武藤武史 訳)
ちなみに犬と言えば T.S.エリオットの『マリーナ』だが、アングロ・カトリックに改宗後のかなり教訓詩的な色が濃厚になっているこんな詩だ。エリオットはラフォルグを自分が愛する形而上的奇想詩人といわれるジョン・ダンの流儀に近いとして高く評価していた (中江俊夫 解説 ジュール・ラフォルグって ? 」)。
『マリーナ』
犬の歯を研ぐ者は
死に向かい
蜂鳥の栄光に輝くものは
死に向かい
飽満の淫売の館に坐す者は
死に向かい
動物の恍惚を味わう者は
死に向かい
(T.S.エリオットの『マリーナ』より抜粋 古川隆夫 訳)
詩のダダ風オペラコミック
ラフォルグは晩年、と言っても24歳前後だが、フランスを中心とした俗謡に興味を示し「ママン、小舟たちが」「アヴィニョンの橋で」「あめがふる、あめがふるひつじ飼いの娘 ! 」などの口誦性、擬声、擬態、寓意性に興味持ち始めたと言われ、造語の使用も増している。『小さな心臓肥大症患者のうた』は『地球のすすり泣き』に含まれてはいるが、ラフォルグが新たな詩境を開いた『なげきうた』に収録された詩の予告としてとらえられている重要な詩だ。 (中江俊夫 解説 ジュール・ラフォルグって ?)
『なげきうた』は1884年 (24歳) には出版が計画されていた。彼は理想や哲学的な詩を放棄し、いっそう精緻で「道化た方法」で気まぐれな独創的な小品を書きたいと述べている (「シャルル・アンリ宛書簡」1884年) 。ついでにアイロニーも脱し始めた。ちなみに狭心症で亡くなったのは母ではなく父である。
『小さな心臓肥大症患者のうた』
心臓の病でさ
死んだんだよ、医者が僕に言った、
チル ラン レール !
かわいそうなおふくろは。
そして僕もそのせいで あっちに、
おふくろとねんねしにいくだろう。
僕の心臓が搏 (う) っているのがきこえる、
ママンだよ 僕を呼んでいる !
ひとびとが僕を笑う 街なかで、
僕の馬鹿気た恰好を
ラ イ トウ !
酔っぱらった子供みたいと。
ああ ! 神さま ! ひと足毎に
息がつまる、僕が、よろめく !
僕の心臓が搏 (う) っているのがきこえる、
ママンだよ 僕を呼んでいる !
そいで僕は野っ原へ
夕陽にしゃくりあげて泣きにいく、
ラ イ レット !
確かに馬鹿気てるよ。
でも太陽は、なぜだか知らんけれど、
僕には涙を流している心臓のように思える !
僕の心臓が搏っているのがきこえる、
ママンだよ 僕を呼んでいる !
‥‥
(ジュール・ラフォルグ 詩集『地球のすすり泣き』より 中江俊夫 訳)
ちょっと面白いので (ご本人には失礼かも知れないが) 、訳者の中江俊夫が何十年も前の青春時代のひたむきな演奏として同じの詩の翻訳を特別な苦さと名状しがたい感慨をもって掲載するとしているのでご紹介する。(中江俊夫 解説 ジュール・ラフォルグって ?) 幼児語や幼児の口調をそのまま訳すとこんな感じなのかもしれない。これほどの訳になるとダダ風と言うべきか、ジョイス的なのか。
『しんぞうのふくれたこどものうた』
びょうき デ しんぞ デデ
しんダン ダ おいシャガ いっタ、
ちらんれる !
おかあちゃよぅ。
ぼくもいくダダろ ト あっちへ ト、
ゴロン死にかのじょ ト。
しんドガ うっ てる ド、
ぼくをからか ウ パリのまちなか、
ダ らしないかおつき ダ ぜぼか
らいとぅ !
よっぱらいこどもぅ。
あ ! ちくしょ ! ひとあしごと
いき ガ つまッテ、 ぼく、 グラグラ !
しんドガ うっ てる ド、
おふくろガ よんデる ド !
そいデ パンパやタルブのあののっぱらえ
なきじゃくりにいく あのゆうひのところえ、
らりれっと
まるであほ。
デ おひさま、 なんダ か、
なみダ をなガすしんド にみえタ !
しんドガ うっ てる ド、
おふくろガ よんデる ド !
‥‥
(ジュール・ラフォルグ 詩集『地球のすすり泣き』より 中江俊夫 訳)
Fair’ dodo z`avec elle. などドドとかダとかが頻出するけれど dodo はフランスの幼児語で「ねんね」の意味であり、z`avec elle の z (ズ) は幼児や下層階級の言い回しを真似たものであるという。avec elle は「彼女といっしょに」の意味で、その詩句は「ゴロン死にかのじょ ト」と訳されている。音感を強調するとこうなるのか。ハルトマンのいう無意識に服従する姿勢と夢中になってはしゃぎまわる異常な語の組み合わせが際立つ詩となっている。面白いデショ !
喪の紫とランボー


右 11月グループによる『月に憑かれたピエロ』公演ポスター 1922
ラフォルグは、詩集『聖母なる月のまねび』を「月信仰への寄与、月にささげるいくつかの小篇、ピエロたちのデカメロン」と述べている (「友への手紙」) 。ピエロを扱った作品も、かなり含まれているのが注目される。ベルギーの詩人アルベール・ジローの詩を歌詞として用いた『月に憑かれたピエロ』というシェーンベルクの曲があるのはご存知だろう。1884年に発表されたジローのフランス語詩は、イタリアの即興喜劇をヒントにしていて、その詩風は象徴主義の洗練された退廃と評される。だが、ハルトレーベンは表現主義風に独訳したといわれている。「月に酔って」「蒼白い洗濯女」「病める月」などの作品が含まれていて、注目すべきは「聖母」という詩もあることだ。
1886年に発表されたラフォルグの作品は当時としては新たなリズムを模索するもので似て非なるものと言えるだろうが、かつての宇宙観や虚無感は沈黙の女王である月に象徴的に託され、人類や自分の儚さ悲哀はピエロに集約されていくのである。
『御免、ひとこと』
ああ ! 「月」また「月」が、
即興の小唄の調べにのって……
ああ ! なりゆきまかせで
名手の弦の耳ざわりな響きにあわせて ! ……
ああ 一輪の百合の花で
イシスのヴェールを誘惑し ! ……
ああ ! お休みなく、くだばらせるのさ、
倦怠の花飾りで肉体を開花させる
異常の花とも言うべきぼくの脳味噌を ! ……
おお死よ、それがどうした ?
‥‥
(ジュール・ラフォルグ『聖母なる月のまねび』より 広田正敏 訳))
「僕は神秘主義的ペシミストです‥‥人生はあまりに味気なくあまりに汚い‥‥惑星地球は完全に無用なんです」という気分をラフォルグは「喪の紫」と呼んだ (中江俊夫「解説 ジュール・ラフォルグって ?」)。だが、『なげきうた』では新たな展開を見せ、かつての重さから抜け出ている。恋愛もあり、かつて両親に見捨てられた心の傷も癒えつつあったのだろうか。同時に自由詩を積極的に探究しようとした。ただ、韻のパターンなど全てを捨て去った訳ではなく、使うことも使わないことも自由ということらしい。その頃、一つの大きな衝撃があった。
1886年の「ラ・ヴォーグ」誌の表紙にラフォルグの『サロメ』と共にランボーの『イリュミナション』が並記されている。ランボーショックと言うべきもので「なんと彼は完全なのだろう ! ほとんど修辞も束縛もなく」「ランボー、空前絶後の早咲きの花…‥すべてが告白の能力の未曾有の豊かさと完璧なイマージュの尽きざる意外性の中にある」 (遺稿集) と述べている。ランボーやホイットマンの詩は自由詩へと彼を一層傾斜させていく。その探求の結果は、彼の死後1890年に出版された『最後の詩』にみることができる。
『最後の詩』

ラフォルグの自筆譜 マラルメ旧所蔵
その十二篇のほぼ全体は愛についての夢想であり、彼は想像の中で「自分の愛の試み」を再び生きるという完全な抒情性に達していると評された。(フランソワ・リュション『ジュール・ラフォルグ』)
故郷で10代の彼に萌した少女マルグリットへの恋、宮廷女性Rとの紆余曲折の愛、結婚したリア・リーへの愛、月は、それらの聖俗併せ持った女性像へと変容していったのである。だが、彼もまた天にいる。
『無題』
その女、他でもないその女が或る美しい晩に、
私の唇から飲むか、或は死ぬ他なくなって来ることになったら。……
ああ、 洗礼、
私が存在する理由の洗礼。
それは誰かが「貴方を愛してます。」と言うことで、
人と神の中を通ってそれが
眼を伏せて
私がいる窓の下まで来るように。
磁石が雷を吸い付ける具合にそれが来るように、
そして私の空は嵐が裂き、破り、
それから朝まで大雨で
夜通しその音が凄じく続き、
そこへ漸くその人が現れますように。
私の祖先である憐憫の天使達よ、この時、
その人が眼を伏せて
我々の教会の前で足を拭きながら
こう言いますように。
「私にとって貴方は他の男の人達と違います。
他はただの男達で、貴方は空から来た。
‥‥
(ジュール・ラフォルグ 詩集『最後の詩』より 吉田健一 訳)

『ジュール・ラフォルグ全集Ⅰ』
広田正敏 訳 創土社
「地球のすすり泣き」「なげきうた」「聖母なる月のまねび」「補遺」

『ジュール・ラフォルグ全集Ⅱ』
広田正敏 訳 創土社
「妖精会議」「善意の花」「最後の詩」「未刊行詩集」「未刊行断章」「草稿」

『ジュール・ラフォルグ全集Ⅲ』
広田正敏 訳 創土社
「伝説寓話」
・ハムレット
・薔薇の奇跡
・ローエングリン
・サロメ
・パンとシュリンクス
・ペルセウスとアンドロメダ
「補遺」
「付録」
・二羽の鳩
・落伍者

ジュール・ラフォルグ
『聖母なる月のまねび』
「最後の詩」「聖母なる月のまねび」「地球のすすり泣き」「訳者による作品解説と小伝」「解説 ジュール・ラフォルグって ? 中江俊夫」」収載

マリ ジャンヌ デュリー『月とピエロの詩人 ジュール・ラフォルグ』宮内郁子 訳 1974年 光明社刊
ソルボンヌの文学部教授によるラフォルグに関する貴重な著作で、本格的な論考となっている。
ラフォルグの可笑しさはその自由さにあるという。誰よりも誠実であった彼は、すべてのものが偽る世界で誠実でありつづけられるために、また自分自身のこと、自分の最も真実であることしか言えないのだと喝破する。それをおかしくもうるさくもならないで言えるために彼はおどけたというのである。第二章の最後にこう述べる。「ラフォルグはあざむかないためにこそあざむく詩人である。」
第三章ではパリの女流作家であるミュルツェル夫人宛ての手紙を引いている。「私が臓腑からしぼり出す文学はすべて子供のあの苦痛の言葉ねんねする (ドド)、に要約されるでしょう。」そしてこの世の光景はラフォルグにとってスキャンダルなのだという。燦然たる光の喜びの歌、星の束、それぞれが「人の住むいくつかの世界」を導いていく太陽たちの群、火のように輝く球体から成る無数の家族、そこで「姉妹なる人類は大勢で夢見ている」が何の交渉もないという。地球は孤独なのだ。
第四章では20歳頃から耽溺したハルトマンの思想が触れられる。「幻想」の苦悩「幻想」の死がハルトマンの思想のテーマであるという。ラフォルグは「誤るはずのない無意識」を守護天使と考え願いを叶え責任を取ってくれるものとして考えるようになる。そして、ハルトマンは「世界は存在しない方が良い」という考えに至る。それは無意識の意志への自己放棄と言えた。22歳頃には「以前僕は悲観的な仏教主義者だったが今はディレッタントな仏教主義者だ」と友人に述べたという。
音楽性についても触れられる。『なげきうた』について「弦に驟雨が当たったようなハープ」と述べたという。下は民謡の調性を取り入れた作品。
オルガン、手回しオルガン、
ドン・キホーテ、みんなの笑い者、
吐き出せ、吐き出せ、お前の心。
ぼくのあわれな悩める弩馬 (どば/足の遅い馬) よ。
第五章ではラフォルグの自由詩への接近が語られるが、マラルメの彼に対するコメントを紹介しておく。「疲弊した古い鋳型が空になっているのに、ことさらの反逆、その時、ジュール・ラフォルグは…‥われわれに破格の詩のたしかな魅力を教えた。」

フランス世紀末文学叢書 xiv
『評論・随想集』
ジュール・ラフォルグ「ボードレール覚書」、モーリス・バレス「ボードレールの狂気」、マルセル・プルースト「ギュスターヴ・モローの神秘的世界」他収載
「ボードレール覚書」(武藤剛史 訳)は、かなり格調のある文章になっている。端折っていくつかご紹介しておく。
・霊感に打たれて高らかに歌うという月並みなポーズを捨て、抑制された告白調でひっそりと自分を語った最初の詩人。
・日々呪われた都会の住人として、パリを描いた最初の詩人。
・逸楽の中の倦怠とその風変わりな舞台装置、すなわち淋しげな閨房を描いた最初の詩人。そこがすっかりお気に入りだった。
・彼は醜いものに対してすら慇懃である。彼は常に礼儀正しい。
・旧約聖書の雅歌の比喩に、アメリカ趣味を添えた詩。
・彼は猫の鳴き声にも似た調べを見出した。夜の鳴き声、一風変わった、物憂い、絶望的な、あるいは興奮した鳴声、この上もなく孤独な鳴声。彼の心が高揚してゆくにつれて、その調べもまた、高く飛翔し、法悦境に入る。
・その文体、平韻のアレクサンドランはまさに説教師の雄弁体であり、ソネット形式への偏愛は、同時代人のゴーティエの影響である。
・彼は大衆と決別した最初の詩人である。ブルジョアを遠ざけるために、うわべは自堕落を決めこむ。

ジョルジュ・メリエス (1861-1938)
1930

カフェ・イドロパットの創始者エミール・グドー ジョルジュ・ロラン画

ウージェーヌ・イザイ (1858-1931)

『死の舞踏』ゲアハルト・アルツェンバッハ 17世紀



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