第76話 ジョー・サッコ『パレスチナ』占領地・人々・会話


ジョー・サッコ『パレスチナ』特別増補版

 書籍を色々ご紹介している夜稿百話ですが、マンガについてご紹介するのは初めてのことです。アニメについてご紹介したことはありますね。マンガを蔑視している訳ではなくて、子供の頃は、手塚治虫、水木しげる、川崎のぼる、ちばてつや、藤子不二雄などなどの漫画家さんたちの作品、とりわけ楳図かずおは独特でしたが、彼らの作品が少年マガジンや少年サンデーに連載され、次のストーリーの展開をドキドキしながら待っていたマンガ愛好少年でありました。その頃は駄菓子屋さんが貸本屋もしていて安い値段で借りて読めていたのも懐かしい。それらの作品は良く知られているでしょう。

 しかし、今回はジョー・サッコ
の『パレスチナ』をご紹介することにしました。マスコミの報道に懐疑的だが標準的なアメリカ青年である彼は、恐る恐る1991年から1992年の冬にパレスチナの占領地区に入り現地の人間との会話をメモし、日記を書き、スケッチをし、写真を撮った。帰国後、彼が感じたままをマンガに描きました。特ダネを求めるジャーナリストになろうとした訳でも政策決定に影響を及ぼした事実を探そうとしたわけでもない。急ぐこともなく、さして目的意識もなく強制されているパレスチナ人と時間を共有した。その姿をエドワード・W・サイードは激賞している。今回の夜稿百話は、この「コミック・ジャーナリズム」という分野を確立したサッコのマンガをご紹介します。しかしながら、著作権の関係で彼の絵は出てきません。‥‥さわりに触れることのできる動画を掲載しておきました‥‥悪しからず。


著者 ジョー・サッコ



ジョー・サッコ(1960-)イラクにて 2005

 ジョー・サッコは1960年シチリア島の南に位置する島、マルタに生まれた。マルタはイギリスの植民地だったが第二次大戦後自治権を獲得し、1964年に独立国家となっている。彼の出自が、かつて植民地であったことは、その後の彼の行動に影響を与えたのかどうかは分からない。父親はエンジニア、母親は教師だったが、1972年にロサンゼルスに移住、その後オレゴン州の高校で学びオレゴン大学でジャーナリズムの学位を取得し1981年に卒業した。だが、職業として普通の新聞とか雑誌の仕事に就くことは諦めたらしい。それは、少しでも満足のいく仕事を見つけられなかったからだと言う。そうこうするうちにマンガを描くことへの情熱が再燃し始めた。


マルタの首都 バレッタ

 1985年までオレゴン州ポートランドでマンガ雑誌を創刊した。その後、コミック雑誌社で働いたりしたが、3年後にはヨーロッパへ旅立ち、湾岸戦争へと発展しようとする緊張感が彼の注意のカーソルを中東へと向けさせ、そのことを自伝的なマンガにした。そして、1991年にはベルリンからパレスチナに入り、本書のもとになるツアーを行っている。アメリカに帰国すると、その成果はコミックブックとして9回に亘って刊行され、第一巻はアメリカンブック・アワードを受賞した。この情熱はボスニア紛争末期のサラエヴォとゴラジュデへの取材へと飛び火し、その作品は2001年にコミック業界で最も権威あるアイズナー賞を受賞している。その後、クリス・ヘッジスの文にサッコが絵をつけたアメリカ国内の犠牲地帯を描いた『破壊の日々・反乱の日々』など多くの作品を発表している。


ボスニア戦争時代の吊り橋の記念碑
ゴラジュデにあるアリヤ・イゼトベゴヴィッチ橋下


パレスチナ報道への懐疑


 サッコは「やむに已まれぬ思いを抱えてパレスチナ占領地へ行った」という。理由は、自分がアメリカの納税者であること。もう一つは、大学でジャーナリズム学科を卒業したが、大学を出るまでパレスチナ人や彼らの闘いについて何も知らずにいたからである。やがて「イスラエルは狂ったアラブ民族に囲まれて苦境に立つ弱者だ」という世の中に流布されていたイメージに疑念を持つようになった。

 切っ掛けは1980年代初頭におけるイスラエル軍によるレバノン侵攻だった。これによってアラファトの率いるPLOはチュニジアに逃れることになる。サブラーとシャティーラの難民キャンプでは何百人ものパレスチナ人がイスラエル軍とキリスト教マロン派の民兵組織によって虐殺された。彼はパレスチナ問題を報じるマスコミの恐ろしいほどのお粗末さに呆れ返えるようになる。一方で、イスラエルの入植後の土地収奪、極めて巧妙で悪質な占領政策に直接的にも間接的にも資金を提供しているのはアメリカであることに気づかされる。


サブラ・シャティーラ虐殺記念碑 南ベイルート

 サッコにパレスチナへのより深い理解を与えてくれたのはエドワード・サイードの『パレスチナ問題』、ノーム・チョムスキーの『運命の三角形』、クリストファー・ヒッチェンズとサイードによって編集された『犠牲者を非難する』であったという。後者の二冊については邦訳はなさそうだ。ベルリンでコミックブックやポスターの仕事をしながらもパレスチナが気になっていた。人権状況をマンガで伝えることは四角四面の面白みのないものになるだろう。それなら、自分で占領地に行って、その体験談をマンガで書こうと決意した。第一次インティファーダ (民衆蜂起) の衰退期の頃だった。


第一次インィファーダ

第一次インティファーダ ガザ

それでは、本書からいくつかのエピソードを選んで要約してご紹介する。


現場・会話・記録 Ⅰ


 1991年、ベルリンからエジプト経由でイスラエルに入ることにした。イスラエルのベングリオン空港でコミックを書くつもりだと滞在目的を言ったら直ちに帰国便に乗せられるんじゃないかと心配になったらしい。エジプトでの両替でボッタクラレ、案内を買って出た男に姉が病気で金が要るとせがまれ50ドイツマルクをやってしまう。気の良い青年だが、ちょっと臆病で無防備だなあ。カイロからバスでエルサレムに着くと格安ホテルに泊まった。貧乏旅行だったのである。

●ホステルの若者
 ホステルにはオランダ、オーストラリア、南アフリカなど世界中から若者たちが集まってくる。キブツに引き寄せられるのだ。アルゼンチンから3週間のボランティアでエルサレムに来たメリー・アンはイスラエルの若者が自国やそのアイデンティティにいだく気持ちは素敵だと言い、アメリカから来たデイヴは、ここが故郷のような気がすると語る。

●ナクバの記憶
 ガザの難民キャンプについては、後ほどもう一度触れるけれど、そこでパレスチナの古老は、こんな話をしてくれた。1948年にイスラエルの独立とアラブ軍の侵略の後、ユダヤ人たちは夜にやって来て、人々が中で眠っている家々を破壊し、農場に地雷を仕掛けた。そうやって殺された人もいた。ユダヤ人たちが村を占領し、残っていた父親や義理の兄弟たち、その他の村人全員を逮捕し連れ去った。自分は妊娠していた妻と4日間歩いて故郷を逃れたが途中イスラエルによって爆撃された。それは暗黒の日・ナクバ (大災厄) だった。その10年前、イギリスが統治していた時代にパレスチナ人は武装解除されていたという。


徒歩で退避するパレスチナ難民 1948

 何年かしてイスラエル当局の許可が出て故郷に帰った時、立ちすくんだ。何もかも破壊され片付けられて、自分たちの家や学校も跡形もなかった。


●ギドロン・ヴァリーの子供たち
 シルワンから来た男の子は入植者たちに自分と家族が追い出されたと言う。もう一人の子と木の上の鳥に向かって石を投げつける、鳥がいなくなっても何度も何度も。別れ際に金をくれと言う。3シュケル半 (イスラエルの通貨で約150円) を渡すと行かせてくれた。「ガキどもめ ! シルワンから来たなんて嘘だろう ! それを口実に僕にたかろうと‥‥くそっ」とうそぶく。あの投石を見せつけられたのだ。

●ナブルスの病院
 自分を日本人だと誤解した男と出合い、5回も撃たれたという16歳くらいの若者を紹介され、一緒に病院へ連れていかれた。その若者は病棟へ自分を引っ張って行った。一番目も二番目の患者も足にギブスをしている。三番目の患者は小腸と肝臓を撃たれ重体だった。次のベッドにいたのは今朝入院した男の子で家で坐っていると壁を突き抜けてきた弾に当たった。校庭で撃たれ複雑骨折した可愛らしい女の子もいる。M16ライフルとガリル・ライフル (イスラエル製の歩兵小銃) で武装した兵隊に石を投げようとしたら向こうの方が早かったらしい。87年末から88年にかけての入植の最初の年に400人のパレスチナ人が殺され2万人が負傷して以来、注目を呼ぶような鋭敏な世界の反応も少なくなったという。

 一旦、衝突が起こるとイスラエル兵たちは救急車を追って緊急治療室や手術室にマスクもせずに入り、負傷者に尋問し、面会者に詰問し、献血者を怒鳴りつけ院長を殴って患者たちを連れ去ったと言う。やりたい放題だった。その話をしてくれた病院の女性スタッフはビル・ゼイト大学でベツレヘム大学における殺戮に抗議していた時、喉に銃弾を受け、三度もの大きな手術をしたのだと話す。

●悲しきトマト
 ガザでトマト栽培者の話を聞いた。収穫したトマトをガザから数十キロ先の西岸に運ぶのに6つの許可書がいる。生産品の販売許可には事前にVAT (付加価値税) 局に1万2000シュケル (約50万円) を支払わなければならずイスラエルの農民には18%が返還されるがパレスチナの農民にはその恩恵はない。それに、イスラエルの仲買を経るためヨーロッパに出荷するためにイスラエルの農民の2倍の航空運賃を仕払わなければならない。最悪なのはイスラエルが水源を支配していて、西岸では水の17%しかパレスチナ人は使用できない。ガザではイスラエルが給水の35%を管理し、入植地では200mもの深い井戸が掘られるため、パレスチナ人の浅い井戸は塩分濃度が上がっていて健康に悪いほどになっている。パレスチナの仲買人とグルになってガザ産のトマトをイスラエル産として売る会社もあるらしい。


 ここで、サッコの画風を知っていただく上でYouTubeの動画をみていただきたい。メージをめくっているのでちょっとパラパラマンガのような感じになっている。



Palestine Graphic Novel – Joe Sacco

現場・会話・記録 Ⅱ


●パレスチナ製ジョーク
 パレスチナ人からこんなジョークを聞いた。CIA、KGB、シン・ベト (イスラエル公安庁/国内情報を扱う) の三人の秘密情報部員が森のはずれを歩いている。兎が森に入っていくのを見て誰が早く捕まえるか競争することになった。兎を放すとCIAは10分で兎を連れて帰ってきた。KGBは5分で帰ってくる。しかし、シン・ベトの男は何分経っても帰ってこない、先の二人は森の奥まで彼を探しに行った。すると叫び声が聞こえてくる。シン・ベトの男は馬を殴打しながら兎だと認めろと怒鳴っていた。

●パレスチナ難民キャンプツアー
 UNRWA (国連パレスチナ難民救済事業機関) に連絡するとパレスチナ難民キャンプへのツアーの手配をしてくれる。スウェーデン人や日本人のグループに加えたがるが、一人で体験したいと主張し、車が止まる所では難民たちと話がしたい、写真も撮りたいと言えばいいと教えられた。白とオレンジのIDF (イスラエル国防軍) の監視塔の下では止めてくれと言わなくても止まる。見学ツアーの人たちが見せたいのは垂れ流しの汚水や監視塔ではなく、耳の聞こえない子供たちが学ぶリハビリ・センターだった。授業は自分のために中断され、唇の動きが読め黒板に字も書けるクラスの優等生が紹介される。

●身の縮む思い
 西岸のバラタ・キャンプのひどさにゾッとしたけれど、「これがひどいと思うならガザのキャンプを見るべきだ」と言われた。そのガザでの会話には身の縮む思いだった。インティファーダ (第一次) 以来、パレスチナは世界中からのジャーナリストだらけだ。当初、私たちは彼らを歓迎したが、パレスチナのために何が変わった ? あんたを責めてはいないが、イスラエルのしたことをアメリカ人はどう思っている ?  国際法をどう思っているんだ ? イスラエルに撤退せよとした国連決議はどうなんだ ?  国連決議はイラクに対してだけ重要なのか ? アメリカ人はわしらのことより動物の権利に関心があるんだろうか ?

パレスチナMAP 本書より

●ガザ北部にあるジャバリアの難民キャンプを訪れる。
 インティファーダの発祥の地、難民と汚物と不衛生さのディズニーランド、「ついに来たぜ。僕はパレスチナ体験を復習してるくそったれの冒険マンガ家さ (小野耕生 訳)。」と作者はうそぶく。季節は冬だがイスラエル当局はキャンプの6万5000人に対して電気代を払う者があまりに少ないので連帯処罰として電気を止めた。その中の一人であるサミ―フは2年間も無収入だった。海外で働いた貯金と父親がイスラエルで日雇いとして働いた僅かな賃金で生活している。仕事をしたくても職が無かった。彼はカイロで学び、イエメンで哲学を教えていた人で、けっして怠け者ではなくキャンプのリハビリセンターで奉仕活動をしている。ジャバリアには1200人の障碍者がいた。障碍者のケアのための修士学位を取りたいと望んでいるが、そのためにはイスラエルの許可が必要だった。

 彼は、通訳として取材の準備をしてくれる。嵐の後、家の側面に下水が溢れ、放棄された家もある。水漏れを防ぐのに屋根にビニールシートを拡げているところもある。サミ―フの家は屋根と壁の間に隙間があったが、他のパレスチナ人と同様にできるだけ快適に過ごせるように配慮して暮らしていた。

 ガザは中東で最高の出生率を持つ。おそらく平均寿命の短い国では大家族であることは幸せのバロメーターなのではないだろうか。ジャバリアの難民キャンプは地上最高の人口密度で2平方キロの場所に6万5000人がいる。サミ―フの二人の姉妹は夫と子供たち、それに他の三つの家族と共に35人が10m四方の家に住んでいる。一部屋に7人ずつだった。そんな過密なキャンプの中に広大な空き地がある。1971年にシャロン将軍が難民キャンプの一部をブルドーザーで破壊しイスラエル軍の車両が通りやすいようにした。武力による鎮静化を図るための準備だったのだ。

 サミ―フは、クーフィーヤ (頭巾/本書ではコフィーエ) を着けないと言う。黒色のクーフィーヤを着けているのはアラファトの組織ファタハと結びつき、PLOへの共感を手っ取り早く表すものだと言う。現在ではアラブ連帯の象徴ともされているらしい。ハマース (イスラーム抵抗運動) が前面に出てくるのは2006年の立法選挙でファタハに勝利して事実上のガザの統治当局になってからだった。


クーフィーヤ
(白黒頭巾)

●ラファフの母親
 難民キャンプがイスラエル兵に襲われた時、中庭に催涙ガス弾が落ちた。息子は催涙ガスを受けた人を助けようと家から外を覗いた時、頭を撃たれた。ハーン・ユーニスの病院で、イスラエルの病院に連れて行かないといけないと言われが、兵隊たちは救急車で行かせることを拒否し飛行機で運ぶと言う。30分後、言われたところに行くと飛行機は無かった。病院に戻ると別の場所を指示されたが、そこにも飛行機はいなかった。医者たちはイスラエルへ救急車で行こうと決めた。息子が撃たれたのは午前11時でイスラエルの病院に到着したのは午後6時だった。しかし、息子のところに誰も来なかった。治療もなく、包帯も変えられることなく酸素吸入だけだった。45時間後に息子は死んだ。外出禁止令の出る午後8時に墓地に行くように兵隊たちは言った。午前1時まで待って、やっと遺体が運ばれてきたが遺体を洗うのに15分しか許されず近くの家で洗い埋葬した。

 叔父の息子が殺された三日後、自分のもう一人の息子アハメドが学校での衝突でまたしても撃たれイスラエルの病院に連れていかれたが、結局、前の息子と同様だった。通夜の最中に兵隊たちが自分たちの家を襲い、長男の頭を殴りつけて連行しようとした。女たちは家から出て兵隊たちに叫んだ、わしらは兵隊たちに部屋に押し込められたが窓を破って外に出た。人があまりに多く兵隊たちは長男を連行できなかったが身分証を取り上げていった。七か月後、夫が心臓麻痺で路上で死んだ。エジプトで治療を受ける許可は結局おりなかった。

●雨の中の少年
 本書の終末近くにはイスラエル兵に尋問される12~13歳の少年のエピソードが語られる。その少年を兵隊たちが止めた。彼らは廂の下に入り、少年にクーフィーヤを脱がせ雨の中に立たせた。少年は質問に答える。そうするしかないのだ。作者はこう書いている。「たぶん少年にとってそれまで何十回も受けた恥辱の一つで個人的なとてもいやな事だろうが、これまでの他の経験と同じ程度なのか‥‥ぼくにはわからない。(小野耕生 訳/以下同じ)」「この時、この場での彼の受けた虐待は克服されなければならない問題だ。エルサレムの地位、入植者の未来、戻ってくる難民、などとは無縁だ。ここに平和がくるとすれば、それは別のものだろう。」「雨の中に立っている少年は何を考えている ?」 「 いつか良い世界になって、この兵隊たちと自分は隣人同士として挨拶すると考えているのか ?」 「僕は来る前に想像できただろうか。こちらに来て、驚きと共に感じた。全ての力を持ち得る人間に何が起きるか ?」「 自分にはなんの力もないと信じたときはどうなるのか ? 」


破壊されたザ地区のジャバリアキャンプ  2012年12月

空爆によるジャバリア難民キャンプ犠牲者 2023年10月9日


マンガと戦争


 戦争を扱ったマンガは結構あります。水木しげるさんが南方での戦役で片手を失ったこと、手塚治虫さんが大阪の工場で働いていた時、大空襲にあって辛くも助かったことは戦争を扱う作品を描く上で直接の契機になっているかもしれない。この二人だけに限らないけれど戦争をテーマにした作品を目にした人は少なくないのではと思う。


手塚治虫『手塚治虫と戦争』

 しかし、今回のサッコの作品はマンガをジャーナリズムまでに変貌させた点で特異と言える。序文として掲げられたエドワード・W・サイ―ドの文章は、その特徴を余すことなく捉えている。サイードについては第52話『オスロかららイラクへ』ナクバは続いているに書いておいた。メディアが飽和状態でありながら、それらの映像はロンドンやニューヨークの一握りの人たちにコントロールされている。日本の報道はそれらを引用することで済ませていることが多い。直接のソースを使っていることは稀だ。一方、このコミックブックでは、その場の過激な状況が断定的に描かれ、時にはグロテスクなまでに強調されていると言う。

 本書に描かれるのは第一次インティファーダの時期の占領下にあるパレスチナ人たちと作者との出会いであり、それはしばしば皮肉なものだったが、その出会いから得た感覚を彼自身の言葉で、彼の呟きをも加味しながら誰にでも分かる言葉と絵で表現しようとしている。彼のイメージは間違いなく文だけで読んだり映像だけで見るよりも真に迫っているとサイードは言う。そこに映像のリアルとは異なるマンガの大きなインパクトをもたらす効果があり、その躍動する世界に人々は安々と誘導されてしまうのである。

 通常のマンガには悪を滅ぼすヒーローたちやハーピーエンドで終わるロマンスがある。パレスチナの住民たちは希望もなく、周辺に追いやられ、確立された組織もない、サイードが言うところの「歴史の敗者」である。しかし、こうも述べている。「ただあるのは一途な不撓不屈の精神、ほとんど語られることのない前進への意志、自分たちの物語にこだわり続け、それを繰り返し語り、彼らを一掃しようとする企てに抵抗する気持ちのみなのだ (小野耕生 訳)」と。それは本書からも強く伝わってくる。

 とは言え、トランプ大統領によるアメリカのガザ所有やパレスチナ人の域外移住案は大きな不安を生じさせている。それは、かつて何処かの国がユダヤ人をマダガスカル島に移住させようとしたのと同じ発想ではないだろうか。




夜稿百話
ジョー・サッコの著作 一部


●ジョー・サッコ『ゴラジュデの安全地帯』『Safe Area Goražde』

1995年から1996年にかけて4か月間のボスニア滞在での経験をマンガ化している。ゴラジュデはボスニア南東部にありボスニア戦争 (1992-1995) においてボスニア・セルビア軍に包囲された。そこは主にイスラム教スンニ派を信仰するボシャニャク人の住む飛び地だった。ボスニア戦争では戦闘だけでなく苛烈な民族浄化が行われたことで知られる。

ドナウ川に面するゴラジュデの街並み




●ジョー・サッコ『ガザ 欄外の声を求めて』

1956年にラファと隣町のハーン・ユーニスで起こったイスラエル軍による400人近いパレスチナ人殺害に関して、そこに住むパレスチナ人たちとの会話から作品を制作している。それに取材当時のガザでの出来事、勃発したイラク戦争、それに親パレスチナ国際連帯運動のメンバーでラファフにおけるパレスチナ人の家屋破壊に対して抗議していたレイチェル・コリーがイスラエルの装甲ブルドーザーに押しつぶされて亡くなった事件などが描かれている。

レイチェル・コリー(1979-2003)




●クリス・ヘッジス 文 + ジョー・サッコ 絵『破壊の日々・反乱の日々』
『Days of Destruction Days of Revolt』

米国での抑制の無い破壊や反乱にさらされる地域である、いわゆる犠牲地帯での人々へのインタビューを通してその土地の重工業や鉱業による環境変化や汚染、経済的投資の撤退による望ましくない土地利用について以下の五つの地域が俎上に上がる。サウスダコタ州パインリッジ、ニュージャージー州カムデン、ウェストバージニア州ウェルチ、フロリダ州イカモリー、ニューヨーク市リバティスクエア。

ミズリー州の環境汚染
露天掘りの石炭採掘からの酸性排水が流入するミズリー州の小川。オレンジ色の部分が沈殿した鉄水酸化物。




関連図書

エドワード・W・サイード『パレスチナ問題』

エドワード・W・サイード『パレスチナ問題』

本書は『オリエンタリズム』、『イスラム報道/隠蔽』と並ぶサイード三部作の二番目といわれる。章立てをご紹介しておく。

第一章 パレスチナ問題
1.パレスチナとパレスチナ人
2.パレスチナとリベラルな西洋
3.表象の問題
4.パレスチナ人の権利

第二章 犠牲者の視点から見たシオニズム
1.シオニズムとヨーロッパ植民地主義の姿勢
2.シオニストの住民化とパレスチナ人の非住民化

第三章 パレスチナ人の民族自決に向けて
1.残留者、逃亡者、そして占領下の人々
2.パレスチナ人意識の発生
3.PLOの擡頭
4.審議未了のパレスチナ人

第四章 キャンプ・デーヴィッド以降のパレスチナ問題
1.委託された権限 ― 修辞と権力
2.エジプト、イスラエル、合衆国 ― それ以外に条約が含意したもの
3.パレスチナ人および地域の現実
4.不透明な未来




サイード・アブデルワーヘド
『ガザ通信』

本書はガザに住む大学教授であるサイード・アブデルワーヘド氏が知人たちに送ったメールの翻訳である。ガザの大学の英語科の教授だ。メールは日本にも送られていて翻訳された。どのようなものか冒頭などの一部だけを端折ってご紹介する。

●2008/12/27 12:51
何十もの高層ビルが爆撃された。死亡者は120人以上、負傷者は何百人にものぼる。標的となったのはビルのうち、一つは我が家から100メートルのところ‥‥
●2008/12/27 18:03
‥‥シファー病院は、195人以上の遺体、570名以上の負傷者が同病院に運ばれていると声明を発表している。刻一刻と死傷者の数は増え続けている。他の町や村、難民キャンプからの公式の報告はない。
自宅アパートの近くで末息子がスクール・バスを待っていたところ、以前、治安警察 (パレスチナに特有の警察組織) があった場所が攻撃された。息子が立っていた場所から50メートルしか離れていないところで、男性2人と少女2人が即死した。真っ暗な夜だ。小さな発電機を動かして、インターネットを通じて世界に発信している。
●2008/12/27 23:09
11:00pm。イスラエルのF16戦闘機による、複数回にわたる新たな空襲。ガザでは視聴できるテレビ局は3局だけで、それも電力をなんとか確保できた場合の話だ。空襲はガザ市東部に集中。ある女性は家族のうち10人を失った。生き残ったのは彼女と娘1人だけだ。娘はメディアに向かって何も語ることができなかった。‥‥
●2009/1/10 20:31
どこもかしこも死が漂っている。昨晩の空襲は70回以上、さらに今日は30回 ! これらの空襲で何百人もの子供たちや女性が死んだ ! このすさまじい破壊の様は、あなたがたには想像できまい。人々は、この引き続く爆撃にとても耐えられない。いくつもの家族が爆撃された建物の瓦礫の下敷きになって一家全滅した ! ‥‥ガザ市全体が食糧難に陥っている。当然のことながら果物や野菜などまったくない。電気と水の状況も依然、ひどい。今日、ガザのいくつかの地域で2時間、電気が供給された ! ガザは人道的・環境的危機の限界にある ! 保健衛生状況も、貧弱な病院の数々も、崩壊しつつある !
●2009/2/19 9:27
ガザの保健省は市民に対して何型でもよいから (おもにRh-) 緊急に献血を要請している。全ての病院と血液銀行でRh-の全ての型の血液が底をついたのだ ! 保健省は人々にこれらの必要な型のうち何型でも可能な限り献血するように求めている ! それに加えて91種類の薬がガザではもはや完全に入手不可能だ。ゼロになってしまったのだ ! これらの薬について、当然、人々はどうすることもできない !

(この2009/2/19のメールが46通目で最後となっている。)




サラ・ロイ 『ホロコーストからガザへ』

サラ・ロイは1955年に生まれたユダヤ系アメリカ人の政治経済学者である。両親ともにナチスの強制収容所からの、とりわけ父親は絶滅収容所からの稀有な生存者であった。彼女はイスラエルの占領を痛烈に批判する研究者と知られている。そして、ガザ占領の総体を分析した最も信頼のある研究書を発表し、『ガザ回廊ー反開発の政治経済学』は高い評価を受けている。概略をご紹介する。

・パレスチナはオスマントルコの支配を脱した後にイギリスの委任統治下でイスラエル人の移民が進み、資本主義経済の発展がみられた。安価なパレスチナ人の労働力に頼ったユダヤ人だったが純粋にユダヤ人のみの国家とするためには彼らは不要となっていった。
・自給経済から市場経済への移行は農業に従事していた人々を賃金労働者に変え、困窮した農民は土地を売らざるを得なくなりアラブの農村の解体を招く結果となる。ユダヤ人の資本主義経済と解体されつつ部分的に商品化されるアラブ人経済とは二重構造を形成し始めた。
・エジプト統治期 (1948-67) は第一次中東戦争のイスラエルの勝利により狭いガザ地区の範囲が確定され、大量のパレスチナ難民が流入する。イギリス・フランスのスエズ侵攻と重なり1956年に第二次中東戦争が始まった。エジプトはこの間ガザを切り離したままでもっぱらUNRWA (国連パレスチナ難民救済事業機関) がサポートしていたため経済発展は進まなかった。
・1967年の第三次中東戦争によってイスラエルがガザと西岸地区を全面占領するまでの間、エジプトはパレスチナ人を自国に受け入れることを拒絶していたためにガザは土地の狭さ、資源の乏しさによって経済発展するはずもなかった。
・一般の植民地政策では、その地の住民の潜在的な生産力を活用して利潤を得ることを目的とするけれども、シオニズムは純粋なパレスチナ国家を目指していてパレスチナ人には消滅してほしいと願っているとロイは言う。イスラエルにとってパレスチナは主権国家ではなく、そうなるための生産手段が周到に否定されていく場所となる。
・パレスチナ民衆による抵抗運動、即ちインティファーダは1987年以降始まり、1991-92年の湾岸戦争を受けて大きな広がりを見せる。イスラエル側は武力による鎮圧だけでなく、封鎖、外出禁止令、磁気登録IDカードの導入などによって経済生活の破壊を意図し始める。地域によっては外出禁止が1年の内に100~150日に達した。許可が出る労働日数は半分から三分の一になりガザのGNPは約40%減少した。出稼ぎ労働者は戦争によって職を失うか送金が不能になる。イラクを支持したPLOは湾岸諸国からの送金を打ち切られ破産状態になった。
・1993年にはガザ、西岸地区ともに封鎖され労働許可の全面停止となり、UNRWAの支援活動に全面的に頼ることとなる。しかし、これはオスロ合意への地ならしであったとロイは言う。1994年にイスラエルとPLO の間で取り交わされたガザ・ジェリコ協定に定められたのは土地の返還ではなくイスラエル支配のもとで土地を「共有」することだった。これによってガザは独自に経済発展する道を断たれる。土地、水などの資源の配分権、外部の資本や市場への接続の道も主権や外交、治安までもイスラエルが握った。
・オスロ合意が画餅に過ぎなかったことが明らかになってくる。西岸地区とガザのGNPは20%も減少すると2000年から第二次インティファーダが勃発し、第一次の時のデモやストライキ、投石といった抵抗だけでなく自爆攻撃も起こるようになる。イスラエルの入植地、そのためのバイパス道路網、軍事基地、軍事検問所などの建設によって都市の周囲のパレスチナ人の土地は切り取られ、再分化され、隔離壁などによって囲い込まれた。
・2005年のイスラエルのガザ撤退はこの地域のゲットー化を強めるとロイは予想していた。実質的な経済活動が成り立たない監獄と化した。イスラエル側の占領ではないとの主張は隠れ蓑にすぎなかった。ここにハマースの台頭の理由がある。そうならないためにはイスラエルやエジプトとの境界を超えて人・物の移動の自由が必要であり、空港や港の再建とそのための国際的な援助が必要だとロイは言う。

ハマースとの停戦合意が破られたガザへの包囲攻撃が始まったのは2008年、前述の『ガザ通信』が始まる一ヶ月前だった。11月5日にイスラエル政府は、ガザに繋がる道路を全面封鎖し、食料・医薬品・燃料、水道設備や公衆衛生設備の備品・肥料・ビニールシート・電話・紙類などの搬入を完全に、あるいは部分的に制限した。イスラエル側の包囲攻撃には二つの目的があるとロイは言う。一つは、ガザ地区のパレスチナ人たちは政治的アイデンティティや主張を持たず単なる物乞いで政治的な問題ではなく人道的な問題であると偽装すること。もう一つはガザ地区をエジプトに押し付けることだと言う。後者についてはバイデン政権での働きかけはなかった。



野村真理『ホロコースト後のユダヤ人』

 第二次大戦後ヨーロッパにおけるユダヤ人難民に対して通常の難民という言葉は当てはまらないためDisplaced Persons を当てるという。略してDPは戦争を原因として元の居住国を離れることを強制もしくは余儀なくされた原則的に連合国の国民で、元の国に帰るか他の再定住先に移るために連合国の保護と援助を受ける資格を持つ者を意味する。ドイツ占領下から難民となったドイツ人は含まれない。主にドイツやオーストリアで強制労働に従事した外国人やナチスの強制収容所から解放された人々を指している。それらの人々はかなりの混乱はあったものの1947年までにUNRRA (連合国救済復興機関) の保護のもとに置かれた。
 ポーランドでは反ソ連と共に反ユダヤ主義が過熱しポグロム (ユダヤ人への集団暴力) が発生したためドイツの連合軍占領地域のDPは10万人から17万人に激増した。ルーマニアでも反ユダヤ主義は根強く飢饉に苦しむソ連支配地域からルーマニアに流入したユダヤ人たちはオーストリアやドイツのDPキャンプへと避難していった。1947年夏の時点で再定住先の決まらないキャンプにいるユダヤ人は16万人にのぼりその7割がポーランド・ユダヤ人だったと言われる。また、キャンプ外で暮らすユダヤ人は3万にいたとPCIRO (国際難民機関準備委員会) は報告し、ニューヨークタイムズも同時期のドイツ・イタリア・オーストリアに滞在するユダヤ人を24万人と報じている。
 DPキャンプの様子だが、例えばバイエルンのランツベルクキャンプでは、ホロコーストを生き延びた人々の精神的な荒廃は著しく5千人のユダヤ人を含む6千人の収容者は哀れではあるが、もてあます存在だったと言う。ドイツ軍の兵舎を用いたが、宿舎、台所、トイレを問はず目を覆うばかりの不潔さとモラルの欠如があった。収用所の鉄柵の上に有刺鉄線が張られ、武器を手にしたアメリカ兵が見張っていた。この有様が新聞で報じられると軍はアメリカ世論の総攻撃を受ける。しかし、根本的な問題は、これらの人々をどうするかだった。そこに白羽の矢が立ったのがパレスチナへの移住だった。
 パレスチナへのユダヤ人移民は1931年に4千人、ナチス政権になる1932年には約1万人、32年から38年までに約20万人と年々増加していき、危機感を持ったアラブ人の襲撃が起こるようになる。統治していたイギリスは石油資源を持つアラブ側への配慮からユダヤ人口の許容範囲をパレスチナ全人口の三分の一迄と制限を設けた。パレスチナのシオニストはこれに反発しイギリスの施設に対する地下軍事組織イグルンによる組織的破壊=テロを行うようになる。ドイツやオーストリアのDPキャンプではシオニズムへの啓蒙が進められていて英米合同調査委員会のキャンプ地訪問はパレスチナへの移住が最適と結論付けた。イギリスはアメリカへの移住を望んでいたが東ヨーロッパの移民を制限するための移民法がアメリカにはあった。しかし、両国とも移住後のパレスチナの政治体制につていては曖昧にしたままだった。パレスチナにおけるパレスチナ人とユダヤ人との暴力的対立は、もはや和解不能状態であり、進退窮まったイギリスはパレスチナ問題を国連に丸投げすることになる。イギリス政府は11ヶ国の代表によって構成されたパレスチナ特別委員会を立ちあげ、エルサレムを国際管理下に置くパレスチナの二国分割案が多数派を占めることになる。

ここまで第一部「ホロコースト後のユダヤ人」の要約である。第二部「約束の地は何処か」は章立てのみご紹介しておく。

第一章 ブリハ――パレスチナへの脱出
1.ブリハとシオニスト
2.約束の地はパレスチナか

第二章 ユダヤ人DPとイスラエル
1.DPキャンプはシオニストの海外領土か
2.ユダヤ人DPの「徴兵」

第三章 「約束の土地」の現実
1.ホロコーストの子らの骨の上に
2.イェリダー――イスラエルからの逃走




水木しげる『漫画で知る 戦争と日本』壮絶/特攻篇

章立てをご紹介する。

・鬼軍曹~それは何だったのか~
. 波の音
・ああ天皇と僕の五十年
・姑娘
・白い旗
・沖縄に散る ―ひめゆり部隊哀歌―
・壮絶 ! 特攻(貸本戦記マンガ作品)

最後の「壮絶 ! 特攻」だけが水木さんの画風とは異なって少し劇画風になっている。
「最下級のものは、自由にものをいうこともゆるされなかった。兵隊はうまも同じだった。下らんことで、いじめ殺されたような兵隊は数えきれなかったろう‥‥(鬼軍曹~それは何だったのか~)より。」


水木しげる『漫画で知る 戦争と日本』敗走篇

・敗走記
・セントジョージ岬 ―総員玉砕せよ―
・幽霊艦長
・ダンビール海峡
・レーモン河畔
・地獄と天国 前編
・地獄と天国 後編
・戦争と日本

ラバウル近くの島にたどり着いた主人公は片腕を失いマラリアにかかっていた。食べるものもままならず、壕から抜け出すと原住民と親しくなり食べ物をもらったり、その村を度々訪れるやようになり、日本に帰国するに際には引きとめられ、心残りではあったが別れを告げた。「そして長くぼくの心をとらえた‥‥それはこの地球に生き残るにはあの野生に満ちた土人 (偉大な土の人) の生活こそがマトモな生活ではなかろうかということだ。文明社会は止んでいる‥‥(戦争と日本より)。」










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