第95話 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』月の眼の如き世界像


ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』

 ジェイムズ・ジョイスは、ホメロスが描いたオデュッセウスの帰郷を果たすまでの10年間の放浪の旅をダブリン市内の朝に理屈と自意識ばかりで中身のない母親を失った作家志望のスティーヴン・ディーダラスが居候している塔を出て、息子を亡くした中年の平凡で好色なレオポルド・ブルームが夜中過ぎに妻と床を共にするまでの1904年6月16日のほぼ一日に短縮してしまうという芸当をやってのけた。『オデュッセイア』は、この二人の人物の一日を描くことで20世紀に復活したのである。

 実は本書について書く契機になったのは、ユングが『ユリシーズ』をドイツ語訳して出版したチューリッヒの出版社の所有者から精神分析家として、その作品に対する意見を求められて執筆したものを『ユリシーズ ―― 心理学者のモノローグ』(邦題『ユング、ユリシーズを読む』)と題して1932年に書き改めたものがあることを知ったからである。内容は「この尋常ではない不気味なジョイスの精神の特徴は、彼の作品が冷血動物の類、とりわけうじ虫の科に属していることをしめしている」とまで書いていて、全く理解できなかったが、何故話題となり、版を重ねるのかの方に興味があったようだ。


 ちょっと、このユングの反応が面白かった。それで今回の夜稿百話は、ジョイスの『ユリシーズ』を取り上げることにしました。

ジェイムズ・ジョイス

ジェイムズ・ジョイス (1882-1941) 

ジェイムズ・ジョイス (1882-1941) 

 ジョイスはアイルランドの首都、ダブリン近郊のラスガーで10人の兄弟姉妹の最初の子として生まれる。父親は、南にあるコーク市の土地を遺産として受け継いで、資産を持ち政治活動の貢献で課税官にもなった。幼い頃、犬に襲われ犬恐怖症になる (この事件はリチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』には出てこない) 。本書での犬の描写にも嫌悪は露わで猫には愛着があるらしかった。伝記については、このリチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』を大いに参考にさせていただいた。

 6歳頃イエズス会の名門校に入学したが、父親が多額の借金の返済を迫られたり収税組織変革の煽りを受けて失職するなど、中流一家は破産状態となり、どん底に落下する。父は広告取りや選挙の仕事で金を得ても飲み代に潰やした。ジェイムズは、家庭で、次いで貧困家庭のためのキリスト教系の学校で学ぶことになるが、次々に引っ越しを余儀なくされ、次々に兄弟姉妹が誕生する家庭環境は騒然とした。家庭はドストエフスキー的惨状を呈していたという (リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』)

 11歳の時、かつてのイエズス会の学校で旧知であったコンミー神父の厚意で弟と共にイエズス会の名門校べルヴェディア・カレッジに入学できることになり、優秀な成績を収めて何度も奨学金を得ることができた。イエズス会教育の特徴である細部へのこだわりは彼にとって重要だっただろう。頃は思春期である。弟のスタニスロースのいうところの若い女中との〈フリー・スタイル・レスリング〉もありはしたが、14歳の時、観劇の帰り道、運河の土手で娼婦と出合い初体験をした。性行為へのある種の恥辱の感触を味わったようだ。

 早熟さは文学世界へと彼を追いやった。16歳で卒業するまでに数多くの書物に触れ、カトリックの信仰にも疑問を持ち始める。つまり、世の中を斜めに見始めたのである。この頃、既にウィリアム・イェイツとイプセンに心酔し、特に後者については「『激しい風のように』体を吹き抜ける『気ままな少年のような美しい魂』を感じ (リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』)」、演劇の重要性を確信するようになった。


ヘンリック・イプセン (1828-1906)

 1898年、カトリック系のダブリ大学に進学したが当時の民族主義運動やアイルランド文芸復興運動には、いっこうに無関心で、露骨な民族主義を嫌っていた。トマス・アクィナスに興味を抱き、引き続きイプセン論に埋没した。その論文がイギリスの著名な雑誌に掲載され、イプセンから好意的な手紙があったことを出版社から知らされた。文芸劇場を批判する『わいわい騒ぎの日』、悲劇の詩人に関する論文『ジェイムズ・クラレンス・マンガン』を発表して頭角を現しはじめていた。

 1902年、20歳の頃、輪廻、神々の継承、永遠の母性信仰といったテーマから接神論 (神智学) に興味を持ち始め、『フィネガンズ・ウェイク』は、これらすべてを半ば「秘密の教義」に集約したものだという (リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』) 。ウィリアム・ブレイクへの傾倒もやがて始まった。この頃、父親が目指して挫折した医学校に入学したが苦手だった化学が理解できず、出たとこ勝負だったのか、いたたまれなかったのかパリに出奔するも生活費が続かず帰国。途中、37歳のウィリアム・イェイツと出合っている。翌年、伝手を頼ってパリで仕切り直しを図ったが、母の危篤の知らせを受けて再び帰国、頼みの綱の母は44歳でガンで亡くなってしまう。最後の数時間に母は昏睡状態になり、家族はベッドを囲んで祈っていたが、母の兄ジョン・マレーがジョイスも弟のスタニスロースもひざまずいていないのを見て頭ごなしに祈れと命じたが、それに従わなかったという。

 ダブリンに帰った後、私立学校の臨時教員をしたり音楽に手を染めたり、ジョージ・ラッセルの勧めで農業組合の機関誌に短編を発表したりするが、なんといっても特筆すべきは自伝的小説『芸術家の肖像』を執筆したことだった。こうなっては、羽ばたきたい彼にとって家庭は抜け出すべき網であった。仲は悪くなかったようだが経済的に無能な父親と多くの兄弟姉妹は重荷となるのは理解できる。だが、家族を養おうとするほど律儀な人間ではなかった。友人の一人は、ジョイスを「あまりにも無機質」だと評した。

 1904年6月16日は、『ユリシーズ』の物語が展開される一日として設定されたが、それは後にジョイス夫人となるノラ・バーナクルと出合った日だった。彼女はダブリンのナッソー通りを誇らしげに栗毛の髪を靡かせる背の高い美人だった。バーナクルはフジツボの意味で、それを知った父親は、その娘は息子にくっ付いて離れないなと語ったという。

 その頃のエピソードとしてもう一つ印象的なのは、ジョイスが男連れの女性に声をかけ、男との言い争いの結果「目にはあざ、手首と足首は捻挫、顎と手には裂傷」という状態になった時、ほとんど面識のないアルフレッド・H・ハンターというユダヤ人に正統的サマリア人のやり方で埃を払い家まで送ってもらったことだった。自分をとりまいているものに無関心か敵対的だったジョイスにとって、それはエピファニー (聖なるものの顕現) とも言うべき体験だったという。その年、ノラと連れ立ってクロアチア国境に近いイタリアの街、トリエステで英語教師として働き始めた。

 1905年には『ダブリンの市民』を書き始め、1907年、32歳頃、かつての『芸術家の肖像』を『若い芸術家の肖像』として書き改める。そして、いよいよユリシーズの執筆準備を始めた。アメリカの雑誌に連載が始まるのは1918年、36歳の時からである。トリエステ時代の後、チューリッヒ時代、パリ時代、再びチューリッヒ時代と生活の場所を移していった。

『オデュッセイア』と『ユリシーズ』

 ユリシーズは、オデュッセウスのラテン語の変形ウリッセース Ulisses の英語読み Ulysses から来ている。幼いジョイスがオデュッセウス、つまりユリシーズの世界に触れたのはチャールズ・ラム (1775-1834) の『ユリシーズの冒険』を読んだのが契機であったようだ。この人は東インド会社に長らく勤めながら気の触れた姉の面倒を見、随筆などの文筆活動を行ってきた人だった。主人公の一人スティーヴン・ディーダラスはギリシア語ふうでは、ステパノス・ダイダロスとなり、ステパノスは花冠または冠を意味し、ダイダロスはギリシア神話に登場する巧みとして知られる工人であり、蝋で翼を作ったが息子のイカロスは太陽に近づき過ぎて翼の蝋が融けて落下し、落命した逸話で知られる。

 
ここでは、スティーヴン・ディーダラスが『オデュッセイア』におけるテレマコスに見立てられているけれど、飛ぼうとするのは友人のバック・マリガンの方で別れ際に、冷やかしながらこう歌う。


―― 《さよなら、あばよ。おれの言葉を
伝えておくれ、みごとに復活したんだぜ。
空を飛ぶのは血筋のせいさ。落ちてたまるか、
橄欖山*はそよ風だい。―― さよなら、あばよ》

彼は二人の前を、翼のように両手をひらひらさせ、ぴょんぴょん飛び跳ねながらフォーティフットの淵へ駆け降りて行った。


(『ユリシーズ』第一部 テレマコス 丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳)
橄欖山*(かんらんさん) はキリスト昇天の地 (『ユリシーズ』訳注)


ダイダロス

 『ユリシーズ』のクライマックスは、「キルケ」の章だと言われている。ちょっと『オデュッセイア』との関係を見てみよう。キルケはアイアイエー島に住み、陽の神へリオスが父でありオケアノスの娘のぺルセが母だった。オデュッセウスの部下たちは故国を忘れさせるための薬を飲まされ、豚に変えられ、豚小屋に追い立てられる。ヘルメイアス (へルメス) の忠告でキルケの策略を逃れたオデュッセウスは仲間と共にキルケの壮麗な屋敷で四人の仙女にかしずかれながら忘郷の日々を送ることになる。

 『ユリシーズ』の「キルケ」の章では、煙の渦さえ「甘い歓びは甘いのよ。罪の甘い歓びなのよ」と謳う売春街が舞台になる。この章は幻想シーンが随所に組み込まれていてレオポルド・ブルームの前には父親や母親の霊、妻の幻想、かつて恋心をいだいたミセス・ブリーンが現れ、巡査たちに不審尋問されていると黒水銀を注入された顔が現れる。ブルームは裁判にかけられ、メアリ・ドリスコルら四人の女性から言い寄られた旨の陳述があり、彼女たちの何人かは打ちのめしてやればいいなどと激昂し始める。四人の仙女にかしずかれるのとは逆になっている。

 その後、現実に戻りベラ・コーエンの家で若い娼婦のゾーイと出合う。ゾーイとの会話の合間には、性的な美しいメタファーに彩られるも恥と欲情という表現に終わる間奏が入る。ここらあたりはジョイスの文飾の上手さが冴えている。


強烈な松脂の匂いを放つ毛の茂み。東が燃える、青玉いろの空が、ブロンズの鷲どもの飛翔に引き裂かれて。その空の下に女の都が横たわる。裸のまま、白く、ひっそりと、ひんやりと、豪奢に。薄紅いろの薔薇に囲まれた泉がつぶやく。巨大な薔薇の花々が、ひそひそと真紅の葡萄の房の話をする。恥と欲情と、血の葡萄酒がにじみ出て、聞きなれぬ声でつぶやく。

(『ユリシーズ』第二部 キルケ 丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳)

 ブルームがゾーイに音楽室に案内されるとそこにはリンチとスティーヴン、それにキティとフロリーという娼婦たちもいた。娼婦館の主、ベラ・コーエンは支配的な女性でキルケに当たるのは間違いないだろう。ブルームは気おされて彼女に支配されたいと思ってしまう。若い娼婦シシ―も後に加わって四人となる。こんな具合だが、『オデュッセイア』の内容を『ユリシーズ』と照応させるのはなかなか難しいのだけれど、これも本書を読む楽しみの一つなのかもしれない。

 ちなみに後半ではスティーヴンに母親の怖い亡霊が現れたり、兵隊に殴られて横たわるスティーヴンにブルームが寄り添っていると生後11日で亡くなったブルームの息子のルーディが声もなく呼びかけるところでこの章は突然終わる。

ユリシーズ』は何故難しいのか

 『ユリシーズ』は何故難しいのか句読点の省略、文法の歪曲、主語の欠落などの問題があるが、その文体に当惑したユングの指摘を挙げておけば、ほぼ尽くしているだろう。こんな具合である。鋭い観察力、知覚に対する感覚の写真的記憶、外部と内部へ向けられた驚くべき好奇心、回顧的テーマと恨みの深さ、ここまでは良いのだが、主観的なものと心理的なものを客観的現実と混同し錯乱する、読者へお構いなしの造語、断片的な引用、物音と話し言葉の連想、好き放題の「思考の突然の転換と中断」、皮肉への耽溺。

 ジョイス自身、話の起承転結や整合性をわざと破壊しているようだ。よく意識の流れを描写していると言われるけれど、連想の流れもあれば、眼の前の気づきもあり、幻想もまじるといった具合でとりとめのない内容を〈意識して〉書いているといった感じです。


これだ。そのひび割れたピンを突っ込んでおけよ。ぼくの文字板は。口が女の接吻に。いやエムはふたつなけりゃ。エムをぴったりくっつけちまえ。口が女の口の接吻に。
 彼の唇は空に浮かぶ肉のない唇に唇を重ね、口を合せた。口を女のムームに。ウーム、あらゆるものをはらむ墓。彼の口は形を作り息を吐きだしたが、言葉にはならなかった。ウゥイィィハー滝のような惑星の響き。球となり、燃えあがり、唸りながら消える。遠い、遠い、遠い、遠い、遠い向こうへ。紙だ、札じゃないか、ちくしょうめ。ディージー爺さんの手紙があるぞ。‥‥


(『ユリシーズ』第一部 プロテウス 丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳)

訳注によれば、
●「口が女の口の接吻に」には原文が mouth to her mouth’s kiss となっていて mouth の m が二つあり「エムはふたつなけりゃ」へ繋がる。

●「エムをぴったりくっつけちまえ」は、Glue ‘em well とあり、Glueはくっ付けるの意味で、’em はアルファベットの m と「それら」あるいは「両方」の ‘em=them の両方の意味を兼ねているという。
●「ムーム」は、moomb の一語で、月 moon、 口 mouth 、子宮 womb、 呻き moan、 接吻の擬音が集約されているという。
●「あらゆるものをはらむ墓」とは子宮 womb と墓 tomb という脚韻を踏む古典的な用例であるらしい。

 かなりイマジナブルな言葉遊びとなっていて、その後は、遠い惑星の響きが幻想のように沸き立ち、自分の勤めている学校の校長からの手紙が意識にのぼることになる。

 こう言った例からは、ある造語や語句には何かの仕掛けがなされていて、その言葉遊びを楽しんでいると、話の筋はそっちのけになるのも仕方ないと思えるのは僕だけだろうか。人間の想念の流れとは、ここに描写されているように取り止めもないものではなかろうか。それに僕には、大きなストーリーの発掘に気を取られなければ、それぞれの文章を愉しめる作品だと思える。


スティーヴン
(肩越しにゾーイを振り返って。) 君の好みは、プロテスタントの過ちを確立した喧嘩っ早い牧師さんのほうだろうな。でも犬賢者のアンテイステネスには気をつけろよ。異端の首領アリウスの最後にも、便所のなかで断末魔の苦しみさ。
リンチ
彼女にとっちゃあ、どれも同じ神様だよ。
スティーヴン
(うやうやしく。) そして、万物をつかさどる至高の主。
フロリー
(スティーヴンに。) あんた、きっと聖職者から追い出されたのね。それとも修道士かな。
リンチ
そう。枢機卿の息子。
スティーヴン
枢機卿の大いなる罪の息子。極道の修道士どもってやつ。



(『ユリシーズ』第二部 キルケ 丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳)

●「プロテスタントの過ちを確立した喧嘩っ早い牧師さん」とはルターを指す。
●「犬賢者のアンテイステネス」とは犬儒派の祖アンテイステネスのことで美女ヘレネより貞淑なペネロペイアを讃えている。
●「異端の首領アリウス」は、キリストは神に創造された被造物であるとして異端を宣言された。その天罰、あるいは敵対者からの毒殺によって、コンスタンティヌス・フォルムの近くで激しい腹痛を訴え、トイレを捜したが、気を失い、排便とともに腸が突出するなどして、ほぼ即死したとされる。
●ゾーイは若い娼婦で彼女にとっては、どれも同じ神だというわけだ。
●「極道の修道士たち」とはアイルランド愛国者で弁護士のジョン・フィルポット・カランの詩のタイトルである。

 この会話の後は、かつて聖職者を志望したこともあるスティーヴン自身が全アイルランドの首座大司教サイモン・スティーヴン・ディーダラス枢機卿猊下として幻覚に現れることになる。赤いスータン (カトリック聖職者の普段着) 姿で登場し、やはり赤い法衣を着た七つの大罪を意味する七人の小猿の待祭たちが彼の裳裾をかかげて下から覗くシーンとなる。変幻自在にシーンは入れ替わった。

ユングの語る『ユリシーズ』


C.G.ユング『ユング、ユリシーズを読む』

 ユングは、『ユリシーズ』に対して、驚くほど生殖能力が高いが、見た目は麗しいとは言えない生きている宇宙であり、さながら蠕動するサナダムシのようだという。その量にも拘らず本質的なことは言われておらず、ジョイスは心の中では「本質的な事」が作品に含まれることを期待しながら何故それを隠すのだろうかと疑問に思う。ひょっとして彼自身を提示しているだけであって、そこには永久の孤独があるのではないか。その描写は全て影の中の経験であり混沌として、その繋がりをさがすには拡大鏡が必要だとも言う。自分は中世の人間だからと断りながら、かなり辛辣な批評をしている。

 しかし、繰り返しの単調さは無く、描写は流れるように連続し、あらゆるものが動いている。一点に集中した目標と厳密な選択があり、それは統一した個人の意思と断固とした意図の存在を示していて精神の機能はしっかり制御され気ままに迷走することはない。感覚と直観という知覚機能は絶えず優先される一方、考え・感じる識別機能は一貫して抑圧される。突然美しいものに触れて身を委ねたいと誘惑にさらされても精神・世界の影絵を作ろうとすることは抑止される。これらは精神障害には見られない特徴であるとユングは言う。嫌疑は晴れたようだ。そして、こう述べている。

 「『ユリシーズ』で驚嘆させられるのは、千のヴェールの裏に何ひとつ隠されたものがなく、それは心にも世界にも向かわず、宇宙空間から眺める月のように冷ややかに、成長、存在、衰退のドラマの進行を見守っているということである。‥‥それは月の眼になること、物から解放され、神々にも身をゆだねず、愛にも憎しみにも、確信にも偏見にも縛られない意識になることを願っている。『ユリシーズ』は、このことを説くのではなく実践している (C.G.ユング『ユリシーズを読む』小田井勝彦、近藤耕人 訳)」と。

 ちなみにジョイスは、この『ユリシーズを読む/原題 : ユリシーズ ―― 心理学者のモノローグ』を手紙と共に送られて気分は良くなかったようだが、娘の精神治療をユングに委ねたようである。

終局

 『ユリシーズ』の終局。午前二時半にブルームは帰宅し、妻のモリーと共にベッドに入る。モリーは、ブルームとのこと、かつての恋人たちや不倫相手のボイランのこと、夫が連れてきた若いスティーヴンのことなど、色々なことを長い想念の流れに身を委ねる現代のペネロペイアであった。


‥‥夜まわりは声をはりあげていた O* あのおそろしい深くおちこんで行くきゅうなながれ O そして海だ海だあるときはほのおのように赤くそしてかがやかしいゆう日そしてアラメダこうえんのいちじくの木 Yes そしていろいろのへんてこなちいさなとおりそして桃いろと青と黄いろの家いえそしてばらの花ぞのそれからジャスミンとゼラニウムとサボテンそれからジブラルタル娘のころあたしはあの町で山にさく花 Yes あたしがばらの花を髪にさすとアンダルシアの娘たちがやるようにそれとも赤いのつけましょか Yes そして彼がムーア人の城へきの下であたしにキスしたし方そしてあたしはもうひとりとおなじほど彼のことも好きだと思ったそしてあたしはまず彼をだきしめて Yes 山にさくぼくの花 Yes と言っておくれとそしてあたしはまず彼をだきしめて Yes そして彼を引きよせ彼があたしの乳ぶさにすっかりふれることができるように匂やかに Yes そして彼の心ぞうはたか鳴っていてそして Yes とあたしは言った Yes いいことよ Yes 。

(『ユリシーズ』第三部 ペネロペイア 丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳)

O* は婉曲的に女性性器を表現するが、この場合はモリ―と女性一般のシンボル (『ユリシーズ』訳注) 。


ジェイムズ・ジョイス 1915


 ジョイスは『若い芸術家の肖像』や『ユリシーズ』、『フィネガンズ・ウェイク』でもそうだったが、現実の人々と神話の登場人物たちと融合しようとし、あらゆる時代のものを一つのものとして見ようとし、彼の小説の全てを演劇的にしようとしたとリチャード・エルマンは『ジェイムズ・ジョイス伝』で述べている。これは、ウィリアム・ブレイクを熱烈に支持していたノースロップ・フライのいう「文学の統合原理は隠喩と神話だ」という論を彷彿とさせる『ユリシーズ』は複雑に絡み合った糸、混沌であり、絡み合うことによって膨らみ巨大なアナーキーへと成長していく神話形成であった。そして、時に、その時空間はブレイクの「予言書」のように変幻自在となる。そして、登場人物たちはオウィディウスの『変身物語』のように対象への反応と同化するジョイス自身の変容する姿であったかもしれない。

 ユングの言うようにジョイスの文章は観念や思想より感情的イメージが優先される。主人公への共感を自分が是認するのではなく、主人公に自分を語らせているのである。その会話は、時にはゴシップ的で明け透けになりミハイル・バフチンの言うカーニバル的であり、グロテスク・リアリズムと言ってよく、体の復権もまた言祝がれる。特徴的なのは、色々な例を挙げることが出来るけれど、「ペネロペイア」の最終部 (これはジョイス夫人ノラの手紙をもとに書かれている/ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』) で描かれるように、夢とも記憶ともつかない想念の持続の中で宇宙に融けていくような響きで描写されていることである。その状況が、その状況に相応しい響きを持つ文体によって描写される。その語り自体への共感にジョイスは Yes なのであった。






夜稿百話
ジョイスの著作 一部

ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』

ジョイスが若い頃の自分をモデルに描いた作品で、実名も出ているらしい。彼の生い立ちや人間関係を知ることが出来るエピソードに溢れた作品となっている。一部ご紹介する。

一週間の内で主要な勉強は作文だったが、ある日、主人公スティーヴン・ディーダラスは、英語の先生であるミスタ・テイトに造物主と魂に関する作文の中に異端の箇所があると指摘されてしまう。「永久に達する可能性なしに」の箇所だった。その場は上手くしのいだが、優等生に対する悪意は残った。薄暗闇の中で同級生三人に呼び止められ一番偉い作家の話になった。枢機卿のニューマンの文章が好きで、彼の散文の文体が最高だと答える。そして最高の詩人はバイロンだと答えると無教育な連中向けの詩人だと嘲笑され、異端で不道徳な奴だと言われた。そんなことは問題じゃないと言うと口論となり、スティーヴンはステッキとどぶに転がっていたキャベツの茎で殴られ、有刺鉄線に押し付けられた。不思議に怒りは沸いてこなかった。「何かある力が、まるで果物の熟したやわらかい皮をむくみたいに、あの唐突な怒りをあっさりはぎ取ってしまったように感じたのだ (丸谷才一 訳)。」

リチャード・エルマンの『ジェイムズ・ジョイス伝』によれば、実際の彼は泣いて家に帰り母親に慰められ服を繕ってもらったという。それは、芸術に関する彼の受難のはじまりであったというのだ。しかし、本書の続きでは、綺麗な女の子のことを思い浮かべ、鷲のような容貌の同級生、ヘロンとの会話に繋がっている。妙な跳躍ではあるが映画のような場面切り替えになっているのだ。

荒々しい男性的な健康の力も息子としての情愛も知らず、魂の中で奮い立つのは冷たく残酷で愛のない欲情だとスティーヴンは思う。心を疲弊させる欲情の炎が燃え上がる。狭くてきたならしい迷路のような通りで桃色の長いガウンを着た若い女に腕を捉えられ「今晩は、お兄さん ! 」と声をかけられ
、心臓が胸の中で乱れ騒いだ。「彼は眼をつむり、身も心も彼女に屈して、意識しているのはただ女のやわらかにあけた唇の暗い圧迫だけ。その唇はまるで曖昧な言葉の容器であるみたいに、彼の唇にと同様、頭脳に圧迫を加えてくる。そしてその唇のあいだに、まだ知らない感触、罪の混迷よりも暗く、音の響きや香りよりもやわらかなものを感じた (丸谷才一 訳)。」

その体験はスティーヴンに恥辱の感触と憧れのエマに対する罪悪感を呼び起こした。『ジェイムズ・ジョイス伝』によれば、ジョイスは、そのことについて告解することになるのだが、イエズス会のカレッジの礼拝堂ではなくカプチン修道会へ行き、修道士は男の少年の罪に同情したという。それによって逆に精神性は高められ、信仰をより堅固なものにしたのだが、それも束の間、宗教的恐怖心の最後の火花となるだけだった。

ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク Ⅰ・Ⅱ』

ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク Ⅲ・Ⅳ』

フィネガンズ・ウェイク はアイルランドのバラッド (韻文による歴史物語) の一つ Finnegan’s Wake (フィネガンの通夜) に因んでいると言われる。何層もの物語、幾つもの言語の使用、単語やイディオムの改変、マザー・グースなどの童話の翻案、それらの文章は複雑怪奇な暗号文のようになっている。

冒頭の文章の意味は、だいたい以下の通り。
川は流れ、イヴとアダムの亭を通り過ぎ、くねる岸辺から湾の曲がり角まで、私たちを順調に循環させ、ホウス城とその周辺へと連れて行く。

本書の柳瀬尚紀氏の訳は以下のようになっている。
「川走 (せんそう) 、イヴとアダム礼拝亭 (れいはいてい) を過ぎ、く寝 (ね) る岸辺から輪 (わ) ん曲する湾へ、今 (こん) も度失 (どう ) せぬ巡り路を媚行 (びこう) し、巡り戻るは栄地四囲委蛇 (えいちしいいい) たるホウス城とその周円。」

さすがに、この実験的作品は『ユリシーズ』を支持したエズラ・パウンドでさえ理解不能と言わしめた。少しずつ読み深めていくしかないようですね。ムムム~ズ~イ。

無原罪懐胎教会 ダブリン
アダムとイヴの教会として知られている。

ジェイムズ・ジョイス『猫と悪魔』

ジョイスが孫のスティーヴン (何処かで聞いた名だ) のために書いた童話。
スイスなどにある悪魔だましの話を翻案したもので、悪魔の力で渡した橋を最初に通る者は悪魔のものになるという話であるが、市長が猫にバケツの水を浴びせて橋の向こうの悪魔のもとに走らせて悪魔の裏をかいた。最後はこうある。「さうさう。悪魔はたいてい、ベラベラペチャペチャという言葉をしゃべります。これは、そのときそのとき、自分で勝手にこしらへる言葉なんですね。でも、ひどく腹を立てたときは、とても悪いフランス語を、とても上手にしゃべることができる。聞いたことのある人の話では、きついダブリンなまりがあるそうです (丸谷才一 訳) 。」ジョイスの独白と言っていい。大澤正佳氏は巻末にこう解説している。ベルシバブル (Bellsybabble) という名の悪魔語は「ベラベラペチャペチャ」と訳されている。これは美しい (belle) 、鈴 (bell) 、言葉 (syllable) 、おしゃべり (babble) といった言葉の合成語であるが、魔王ベルゼブル (Beelzebub/蠅の王) と重ねられている。
彼の造語はインスピレーションのほとばしりではあるが、決して単なる思いつきではないのである。父の生まれ代りのように誕生した孫のスティーヴン、父を失った悲しみをジョイスは7つの曜日に託してこう綴った。「月曜日―呻きの日/モウンズデイ」「火曜日―涙の日/ティアズデイ」「水曜日―咽び泣きの日/ウエイルズデイ」「木曜日―ドキドキの日/サンプスデイ」「金曜日―びくびくの日/フライトデイ」「土曜日―がたがたの日/シャタデイ」、日曜日に関する言い換えは記載されていない。

参考図書

リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝1』

極めて綿密なジョイスの伝記で、彼の人間関係や文学上の影響、私生活での細かな様子などがきめ細かく紹介されている。ジョイスを詳しく知るためには絶好の書ではないだろうか。本文でもいくつか文章を引用させていただいた。

ノラ・ジョイス (アラン島の娘の衣装を着けたジョイス夫人)  1918
(本書より)

リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝2』



ホメロス『オデュッセイア 上』

神々の集会ではアテネによるゼウスへの進言で、カリュプソの島に足止めされているオデュッセウスを帰国させることになる。カリュプソの島へはヘルメスが、オデュッセウスの故郷イタケの島にいる息子テレマコスへはアテネが向かうことになった。息子は、母に求婚を求める者たちの悪行を詰るが効果は無く、ピュロスへ旅立った。そこでトロイア戦争でギリシア軍として戦ったネストルに出会うが、彼はオデュッセウスの消息をしらず、テレマコスはスパルタに向かった。そこで、やはりギリシア軍の副将であったメネラオスに出会うが、彼も父が生きている言うことしか知らなかった。一方で求婚者たちはテレマコスの殺害を計画する。ヘルメスはカリュプソにオデュッセウスの帰国が決定されたことを知らせる。乗って出た筏はポセイドンに破壊されるも海の女神レウコエテに助けられる。洗い場付近で眠っていたオデュッセウスは、アテネの夢告によってその場に向かったナウシカに救いを求めた。ナウシカの父アルキノオスは翌日帰国させると約束する。別れの宴席で楽人デモドコスがトロイの陥落や木馬の物語を歌うとオデュッセウスは落涙してしまう。素性を尋ねられ、彼は、漂流の途中、キコネス人の国を荒し、隻眼のキュクロプスの国で多くの部下を食われながらも、その目を潰し、その島を脱出する話を語る。風の神の島アイオロスで歓待をうける一行だったが風を封じた袋を部下が明けてしまうため帰国寸前だったオデュッセウスはアイオロス島に引き戻されてしまう。ライストリュゴネス族の島で部下を失い、キルケの島で一年を過ごすことになる。彼女に冥府のテイレシアスに帰路についての指示を仰ぐように言われ、彼のもとを訪れたオデュッセウスは、そこで母の霊から留守宅の様子を聞き、旧友たちの姿を見る。魔女セイレンたち、ブラブラと垂れた12本の脚と長い首が六つ、口には三列の歯がぎっしりとつまった怪物スキュレ、魔の淵のカリュブディスなどをやり過ごしてトリナキエ島にたどり着く。しかし、部下が禁断の牛を殺してしまい、部下はみな死んでしまう。オデュッセウスだけが髪うるわしきカリュプソの島にたどり着く。

ホメロス『オデュッセイア 下』

オデュッセウスはパイエケス人に送られて故郷のイタケ島に帰還したが彼らの舟はポセイドンによって石に変えられてしまう。オデュッセウスはアテネと求婚者たちに立ち向かう手筈を相談する。アテネによって老人の姿に変えられたオデュッセウスは忠実な豚飼いのエウマイオスに会い一年以内のオデュッセウスは帰還すると告げる。アテネに帰国を催されたテレマコスはスパルタからイタケに向かう途中、占いに長けたテオクリュメノスと連れだった。アテネはオデュッセウスと息子を再会させ、豚飼いは妃のペネロペイアに息子の帰還を伝え、息子のテレマコスは母に再会した。乞食姿のオデュッセウスは豚飼いと町に入るが屋敷で求婚者たちのリーダー格のアンティノオスに屈辱を受け、それに耐え忍ぶ。ペネロペイアは夫の消息を知ろうと乞食を呼ぶが、土地の乞食がオデュッセウスに喧嘩を売り打ち据えられた。一方、ペネロペイアは求婚者たちの無法を責め自分への贈り物を要求する。オデュッセウス父子は広間に武器を隠し、偽りの姿のオデュッセウスは妃ペネロペイアと対面し夫が近く帰還すると告げる。オデュッセウスの足を洗った老女エウリュクレイアはその古傷にオデュッセウスと知るが口外を禁じられる。ペネロペイアは新たな夫を選ぶための弓の競技会をみずからを賞品として開催することを宣言する。アテネに援助が約束されゼウスが吉兆を示した。牛飼いエウマイオスと同様に忠義の牧人であるピロイティオスが家畜を運んできた。アテネに宴会の求婚者たちは錯乱状態にされ、テオクリュメノスは彼らの最後を予言する。弓を反り曲げて張ることが出来、12の斧を射通した者に嫁ぐとペネロペイアは宣言する。求婚者たちは次々と失敗しオデュッセウスだけが成功する。その弓で求婚者のリーダだったアンティノオスとエウリュマコスは斃され、テレマコスや牛飼いエウマイオス、牧人ピロイティオスと共にアテネの援護を受けながら求婚者全て殺害し、不忠の山羊飼いや女中を処刑した。ペネロペイアは乳母から客人が求婚者たちを征伐したと告げられるが、それがオデュッセウスであるとは容易に信じられない。夫は見事な寝台がどのように作られたかを逐一物語ると妻は泣きながら夫の首に縋りついた。オイディウスは妻に寝物語として漂流中の出来事を語ってやるのだった。求婚者たちの霊はヘルメス神によって冥界に導かれてアガメムノンやアキレウスの霊と出合う。オデュッセウスは農園で父と涙の再会を果たし、求婚者たちの親族たちの半数はアンティノオスの父であるエウペイテスに扇動されて仇討ちを試みるが戦端が開かれると間もなくアテネが和解させるのであった。


川口喬一『「ユリシーズ」演義』

『ユリシーズ』の全章に渡って抄訳が掲載され、その解説が述べられていく。『ユリシーズ』参考書としては、なかなか良いのではないだろうか。

第9章のスティーヴンとブルームが出会う場面を本書から紹介しておこう。『ユリシーズ』では「スキュレとカリュブディス」の章にあたる。
ブルームは妻のモリ―の不倫相手であるボイランを避けるために国立博物館に逃げ込む。同じ敷地内に国立図書館があり、スティーヴンは勤め先の校長から預かった投稿論文を「アイリッシュ・ホームステッド」の編集長であるAEことジョージ・ラッセルに渡そうとしている。ブルームは、博物館で女神の彫像の真ん中の割れ目を見ようとしていたとスティーヴンの友人のバック・マリガンに揶揄されるのだが、ある広告のために新聞のバックナンバーを調べに図書館に来ていた。そこで、スティーヴンはブルームをちらっと見ることになる。

図書館ではシェークスピア論争が繰り広げられていた。スティーヴンの主張は、このようなものだった。シェークスピアは、かなり年上のアン・ハサウェイ (こんな名のアメリカの女優さんもいるが) に誘惑され、アンは妊娠し結婚せざるをえなくなり、そのことが彼にとってトラウマとなって女性を愛することが出来なくなる。彼はロンドンに出て芝居を書き始めるがストラトフォードに残してきた妻は彼の弟の一人と不倫の仲となった。シェークスピアは単純にハムレットではなく、ハムレットの父王であり、アンが夫を裏切って弟へと走ったガートルードである。『ハムレット』を書いたころ、シェークスピアは息子のハムネットを亡くしたばかりであり、芝居では母と叔父にないがしろにされる王子ハムレットとなるのだというものだった。

これに対してロマン派の主張するハムレット論を図書館長が述べる。 AE の主張はシェークスピア=ベイコンだというような作者探しよりもテクストそのものを見るべきだというニュークリティシズムのような主張だった。素晴らしい詩を前に詩人の生き方を詮索することに意味があるのかという分けである。議論は錯綜していくが、筆者の川口さんはこうまとめている。「スティーヴンの中には酷薄なリアリズムと神の恩寵から転落した『落ちたイカロス』の絶望とが奇妙に同居している」と。そしてスティーヴン自身の言葉をこう紹介する。「われわれはわれわれの中を通りぬけ、泥棒、亡霊、巨人、老人、若者、妻、未亡人、愛の兄弟など、さまざまな人物に出会う。」そして、この言葉にはある種、哀愁があるとしてスティーヴンの言葉をこうも付け加える。この世を創造した劇作家としての神は、最初に「光あれ」と言いながら二日後には太陽をつくるといった間抜けぶりだと。


ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』

『ユリシーズを燃やせ』という表題はこの作品が、猥褻、不道徳とされて焚書の憂き目に会っていたことから来ている。『ユリシーズ』だけでなくジョイスの作品には受難の歴史があった。本書はジョイスの作品が数々の受難を経て、いかに受容されていったかが述べられている。『ダブリン市民』でも、あからさまな猥語、当時の規準として不道徳で下品な箇所はカットされそうになるし、実名で掲載された当のダブリン市民たちから名誉棄損で訴えられることを出版社は恐れて出版を拒絶した。ジョイスは自分で、それらの市民や酒場やレストランに書面で許可を得るとまで言ったが二の足を踏まれた。ロンドンの出版社は見本を一部くれたが、後は全て裁断して処分してしまった。ハリエット・ウィーヴァ―とエズラ・パウンドが主宰する雑誌「エゴイスト」はジョイスの『若き日の芸術家の肖像』を連載しており、彼らは出版してくれる会社を捜したが、戦時下のロンドンでジョイスの作品を出版する会社はなかった。1916年にパウンドは「リトル・レヴュー」という雑誌に掲載の空きが生じることを知った。責任者のマーガレット・アンダーソンは妥協せず良い作品だけを掲載したいと望んだのである。パウンドは、その雑誌の海外編集者となり、ウィリアム・イェイツ、T.S.エリオット、ウィンダム・ルイスらの作品を掲載した。その頃、ジョイスは虹彩炎の激しい発作に苦しめられていた。しかし、アメリカで『ダブリンの市民』と『若い芸術家の肖像』が出版され、翌年には「リトル・レヴュー誌」に『ユリシーズ』が連載されることになった。このような雑誌がジョイスやモダニズムの作家たちの作品を紹介するパイロットランプの役を果たしていた。ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフ夫妻は『ユリシーズ』に興味を持ったが自家出版していた彼らには大部すぎた。第一次大戦後の荒廃したベオグラードで赤十字で働いていた米国人シルヴィア・ビーチはパリで書店を開く決意をする。英語の著作を扱う貸し書店から始めた。それが「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」だった。ジッドやヴァレリーなどの作家たちが訪れるようになり、コミュニティの場へと変化する。そこへパリに拠点を移していたパウンドがジョイスをパリに誘ったのである。ジョイスが彼女と出合った時、その書店の名にある希望を感じた。米国の都市では若く、貧乏で、多様な自分たちの世界を写し出してくれる書籍を待望する空気が生まれ、違法とされた著作も大胆な作家たちは告訴も辞さなかった。一方で『ユリシーズ』の連載された「リトル・レヴュー誌」の五月号は一部残らず郵便局で焼却されるという憂き目に会っていた。「リトル・レヴュー誌」に掲載された『ユリシーズ』の「ナウシカ」は告訴され、編集者たちは10日間の実刑か100ドルの罰金の裁定が下った。ジョイスはシェイクスピア・アンド・カンパニー書店を訪れシルヴィア・ビーチに「私の本はもう決して世に出ることはない」と述べたという。彼女の答えはこうだった。「私が『ユリシーズ』を出すというのはどうかしら ? 」印刷作業はモーリス・ダランティエールの印刷所で行われた。しかし、作業は複雑さを極め終わりを迎えるとは思えなかった。何故ならジョイスはゲラ刷りのうえでも尚、『ユリシーズ』を書き直し続けていたからだった。彼は濃い青の表紙に白字を求めたがその青はギリシアの国旗の色でなければならなかった。それでダランティエールはわざわざドイツまで行ってその通りの色を見つけた。1921年秋に出版予定の本は1922年の1月末に校正刷りが送り返され、ジョイスはあと一つ単語を加えたいと要望したという。こうして『ユリシーズ』は日の目をみたのである。しかし、受難劇は続く。



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