新石器時代の仰韶 (ぎょうしょう) 文化の遺跡にみられた貝殻で表現された龍と虎は古 (いにしえ) のシャーマンたちが異界を旅する乗り物としての龍蹻や虎蹻を想起させた。それらのトーテミズムは饕餮という魔神に結実し、青銅の表面には動物たちと山岳の文様とが蠢く華やかな意匠として表現されていった。やがて異界への旅は、巡って限りない地気に導かれて地界のトポスである洞庭に注ぎ込まれる。この地気は結んで山となり、融けて川となった。山水の誕生である。
今回の夜稿百話は『識られざるもののイメージ』として山水が中国というマトリックスの中でどのように成立したのか、ほぼ同時に出現した風水がその山水画にどのように 残響していったのか見ていきます。
色彩溢れる随・唐
四百年続いた争乱を統一したのは随であったが、やがて唐が誕生し、二世紀以上にわたる平和と繁栄がもたらされる。唐代では、仏教も勢力を伸ばしてはいたが、朝廷は、ほぼ道教を信奉していて不老長生の金丹のために水銀中毒死で何人もの皇帝が命を落とした。写実性が一層進むと共におおらかで充足感に満ちた作品が出現する。仏教の本格的な流入とシルクロードを経由した西域との通行は美術にも影響を与えずには置かなかった。隋代の山水画として展子虔 (てんしけん/生没年未詳) の『游春図』が知られているが真作は失われ唐代の摸本が残っているのみである。この頃から群青と緑青の絵の具を用いた青緑山水が登場する。

展子虔 (てんしけん) 『游春図』摸本 五代~宋
時代を代表する随一の文化人といわれた王維 (699-761) は山水画の名手としても知られている。長安郊外にあった別荘を中心とした詩を書き絵に描いた。絵の方の『輞川 (もうせん) 図』は現存しておらず何度も摸本が制作されたが、それらは原形を留めていないのではないかと考えられている。だがその詩は残った。『輞川図』については、風水図との関係で後でもう一度触れる。王族の血統である李思訓 (653-718) と息子の李昭道 (675-758) は秀逸な青緑山水を描いていて、特に昭道の安禄山の乱から蜀へ逃げる玄宗を描いた『明皇幸蜀図』が世に知られている。緻密で明快な描写と俊鋭な山岳が特徴的だ。

李思訓 『九成避暑図』

李昭道『明皇幸蜀図』

同上 部分
一方、唐の中期には逸品画家と呼ばれる人たちが登場した。ちょうど呉道玄の白画の線が「意気をもちいて成る」と言われたように中唐の溌墨家たちが一気呵成で意志的な線描を発展させる。王墨、張志和、李霊省といった人たちが逸格の画家として知られているが、現存する作品はない。王墨は瘋癲にして酒狂と言われ松石山水を描いたが酔っては髻 (もとどり) に墨を含ませて絹地に描いたという。張志和も山水を描くことを好み、痛飲しては興に乗って撃鼓吹笛し、目を閉じ、あるいは顔をそむけて筆が舞い墨が飛んで形を成していったと顔真卿 (がん しんけい) が『文忠集』に書いている。これについては第55話『徐渭の水墨』で触れておいた。ここで注目すべきは、このアクション・ペインティングのような作品が破墨や溌墨のような描かれ方をしたということである。それは五代の禅僧画家の内に流れこんで水墨画の隆盛の要因となる。
唐の画論で重要と思うのは荊告の『筆法記』である。山中での一老翁との対話形式で、このように書かれている。姿を似せるだけで生気を描き得ないのでは真を描いていることにはならない。対象の生気と本質を写し出して画面に輝きをもたらすなら書や絵画は真実を学び取る賢者の道となる。気とは作者の生き生きとした想像力が筆と一致して画面を巡り、描きだす形を選び取るのに外物に惑わされることなく、のびのびと描くことであると述べている。(今道友信『東洋の美学』)
ここには、南北朝時代に宗炳 (そうへい) が『画山水序』に書いた「山水画は世界の本質把握の技法」という内容が踏襲されていた。しかし、神仙たちは影を潜め幻想的な要素も後退した。
識られざるものの気配
人が死ぬと「魂は天に帰り、形 (肉体) ・魄 (はく) は地に帰る (『礼記』) 。天に昇った魂は神 (しん) と呼ばれ、地に降った魄は鬼 (き) と呼ばれた。神は祖霊となり天上において永生を保って子孫を守り、そのもとに回帰する。鬼は帰であり、地に帰り消滅するのだが、この世に帰ってはならないものだった。死者の魂を迎える場所が廟であり、死者の形魄を地に送る場所が墓である。気によって魂・魄・形は形づくられる。その差は気の純度の問題に過ぎないと考えられていた。宋の哲学者たちは、無神論を推し進めて鬼神から宗教性を除いて陰陽二気の運動として捉えた。
儒教を中興し、総合哲学体系とも言える朱子学を確立した朱熹だが、その思想には程顥 (ていこう) ・程頤 (ていい) 兄弟の老荘思想が含まれている。興味深いのは朱熹が亡くなった妻のために選定し、自らも合葬されるように選んだ土地が風水に適う地形であったことが知られていることだ。(三浦國雄『風水/中国人のトポス』)

葉公回校 『朱熹年譜』より
文公は博聞の意味 塋墓は墓のある地域
三浦國雄『風水/中国人のトポス』より
中国では崑崙山が祖宗山であり、崑崙から東に向かって三本の巨大な支脈が走り、そこから枝分かれして中国全土へ龍脈が走っているとされた。その一枝は朝鮮半島の白頭山を経て海をもぐり台湾や日本まで到達している。

『建築雑誌』1985 11月号 堀米憲二論文より
風水説の理論的説明のための図式から形似の写景へ、図から絵への展開があり、山水画との関わりが生まれた必然性も考えられるのである (牧尾良海 『風水説と中国山水画』)。宇宙の始原は広大な無であり、気の集散の運動から山や川が生成された。しかし、晋の時代に風水説が「葬術」などを通じて広まったとしても山水画に大きな影響を及ぼし始めたのは唐代からだろうというのが定説のようである。山水画は徐々にその写実性を高めていくが、その下層には風水図が広範にトレースされていったのではなかろうか。
●宋の山水画
北宋の時代には、李成や范寛 (はんかん) 、郭煕 (かくき) 、董源 (とうげん) 、巨然 (きょねん) など天才的な画家たちが活躍し、まさに崇高な山水が続出した。それに、根本的実在として気の運動に対して理が秩序を与えるとして「理気二元論」の朱子学が生まれたのは、南宋の時代であった。

李成(919-967頃) 『晴巒蕭寺図』
宋代の絵画は人間と自然が一体となる静謐な瞑想世界を形づくった。李成は『山水訣』の中で「主峰のもっとも理想的な形態は高く聳えていること、客山は奔(はし)っているようでなければならない。その客山がぐるりと囲んだところに僧舎があれば落ち着くし、水陸のほとりに人家を置くのがよい」と書いている。主峰を「主山」、客山を「青龍・白虎」、僧舎を「明堂」、水陸のほとりを「水口」と読み換えれば立派な風水図と見做すこともできるだろう。

郭忠恕 「輞川図巻」摸本 部分 制作者不詳 明 or 清
先にも述べた唐代の詩人で画家であった王維は自分の別荘についての詩を集めた『輞川(もうせん)集』を書き、その絵を清源寺の壁に描いた。その壁画は現存していないのだが、北宋の画人、郭忠恕(かくちゅうじょ/ 929-977)が、その詩をもとに「輞川図巻」を再現している。これは郭忠恕の独創といってよい作品であるらしいが、その模本が現在に伝わっている。ややこしい話なのだが、そこには「得水蔵風」にかなった情景が描かれていた。
人物画にかわって山水画は第一級の地位を獲得していったが、気とは自然の霊妙な生気という感覚とそれを描く作者やそれを理解する鑑賞者の精神性とが一体となることによって、描かれるものと描く者あるいは見る者との一体性が強調されていく。宋代の最も重要な山水画家である郭煕 (かくき/ 1023頃-1085頃) は、その貴重な画論『林泉高致』を著した。自らが林泉に化したつもりで山水画を見ると、初めてその価値が分かり、そのように自然と交感すれば、自然はもはや死物ではなく「山は活物」であるという。「山は水を以って血脈と為し」「水は山を以って面 (おもて) と為す」と述べる。山水は生き物のように生気に満たされていた。 蘇軾はこの山水との交感を詩に託している。(今道友信『東洋の美学』)

郭熙(1023頃-1085頃)『早春図』 台北故宮博物院

同上 部分
上図のような「曲がりくねった深い峡谷の奥の、岩のトンネルをくぐりぬけたところにひろがる円い盆地」というトポスが、風景の描写に執するエドガー・アラン・ポーの作品『アルンハイムの地所』などで描かれる風景に似ているとは中野美代子さんの『龍の住むランドスケープ』の中での指摘である。それは、鉄道の発達によって車窓からの奥行きを失ったパノラマ的風景への嫌悪から来ているという。図らずも中国における「理想郷としての閉空間」とシンクロしていたのである。
●明の山水画
実景を前にした山水画の制作に際して風水の景観が背後にトレースされているとすれば、龍穴そのものが女陰のイメージをメタファーしているのであるから山をファロスと見ることもあながち無理ではない。もともと、道教そのものが「谷神は死せず、是れを玄牝 (げんぴん) という。玄牝の門、是れを天地の根という (老子『道徳経』) 」と言挙げしている。谷神は女性性・母性性を持つものなのである。ただ、現実の景観は前面に押し出され風水的なイメージは通奏低音のように響くに過ぎなくなるのである。
この風水的な風景とも言うべきものは明の時代においても存在する。明代では沈周に絵を学び文徴明とも仲が良かった唐寅(とういん /1470-1524)が知られている。後に周臣から宋の李唐の画風を学んだという。この唐寅も風水図的な山水を描く画家だと中野美代子さんは指摘している (『龍の住むランドスケープ』) 。下図には龍穴の前に家屋が描かれているようなのだが、この頃には構図上のルーティーンとしてか、あるいは無意識的な残存するイメージといったものになっていたのではないだろうか。明末の文人・政治家であった王世貞 (おうせいてい /1526-1590) は、その書論『芸苑巵言(しげん)』の中で、「絵画は五百年の間続くが、八百年に至ってその精妙なる趣は去り、千年にして滅びると述べ、書は八百年続くが千年に至って神去り、千二百年にして絶ゆと述べる。ここに造詣芸術の悲しさがある。

唐寅(1470-1524)
『幽人燕坐図軸』
●残存する風水の造形 清

中野美代子『龍の住むランドスケープ』
清の時代は、八大山人をはじめとして個性的な画家たちを輩出する時代だが、風水的な骨組みは必要とされなくなると言っても良いだろう。清初の画人石濤 (せきとう/ 1642-1707) は、元中期の湯垕 (とうこう) が、その『画論』に述べた〈写意〉、つまり内面の吐露を第一としたように、画は人の心に従うものであり絵画の大本である一画の法、つまり一本の線から自らの法則を定立すべきだという表現主義的な主張となっていく (『画語録』)。

石濤 『黄山鉢勝画冊 鳴絃泉 虎頭岩』 17世紀後半
しかし、意外なところに風水は生き残っていた。中野美代子さんは『龍の住むランドスケープ』の中で紹介してくださっている。下図は「北辰の石」である玉、つまり翡翠に彫られた山水である。明代の博物誌『本草綱目』には「石とは、気の核であり、土の骨である。大きければ岩厳となり、細かければ砂塵となる。その精が金となり玉となるのだ」とある。中国人の玉に対する愛着は先史時代からはじまるようであるが、商 (殷)・ 周から秦、漢にかけて非常に精巧な玉細工が出土しているようだ。清の乾隆帝の時代も一つのピークだったようである。
玉は、はるか于闉 (コータン)で産する崑崙の玉だった。乾隆帝が新疆(しんきょう)一円を支配するようになってからは北京にも大量の玉がもたらされるようになったという。中野さんは、写真のこの寿山について、長い杖をついた仙人が童子と語らいながら仙宮をめざして登っている場面であるとし、童子が背負っているのが桃の実であることを指摘し、この洞窟が風水的には理想的な龍穴であるという。山としての陽と洞窟としての陰が合体した両性具有の宇宙卵だと言うのである。

寿山 中野美代子 『龍の住むランドスケープ』より
左 裏 右 表
黄河の源流と考えられていた地は「北辰の石」つまり「北極星の石」と呼ばれていた。北極星信仰は北方民族には広く見られると言われている。天の中心には北極五星があり、その中のβ星コカプは中国では帝星と呼ばれ、二千年前には北極星であった。この北極五星は皇帝一族を象徴し、その左右には皇族を守護する紫微垣(しびえん)と呼ばれる星々が並んでいる。紫微垣は転じて皇宮の意味になる。この紫微垣の外には皇帝の乗り物である北斗七星が控えているのである。
この天帝の世界は地上に投影されて崑崙となる。そこは気の核である最上の玉を生み出す地であった。崑崙は実際の山脈であると同時に象徴的な異界の空間でもある。そこは気の発する場所=龍脈の源であり、壺中天を蔵するひょうたんのある場所=汲めどもつきない黄河の源、不死の仙界であり、同時に「存思」の場所、つまり瞑想空間に存在する崑崙山でもあった。(『高奔内経玉書』)。全ての源は崑崙にあった。
識られざるものを視覚化する
謝赫は、後世の美術理論すべての基礎となった原則を打ち立てたとマイケル・サリヴァンはこのように書いている。「この美学の中核となったのは、『気』の概念、すなわち宇宙のエネルギーであり、画家は自らと調和させなければならないのである。このエネルギーはまた、描かれた形それ自体に潜む抽象的活力の内部のみならず、より正確に言えば、山から発散される雲や水蒸気のなかに表れるものであり、さらに宇宙の力そのものとして描かれるべきものなのである。 (『中国山水画の誕生』中野美代子 杉野目康子 訳) 。」
生動する気韻、その巡って止まない運動の一刹那を山水画は切り取っている。風水はその運動を地勢にみたのである。山水画とは運動の芸術表現だったとも言える。この自然の中の躍動する働きは流体力学のイメージに見ることが出来るだろう。ドイツの流体力学者テオドール・シュベンク (第46話) は、大気の中や水流の中に巡って止まない運動の気配を可視化している。識られざる自然のイメージは今日ではこのような世界に垣間見れるのである。

ヤンマイエン島の背後に生成され雲を媒介にして可視化された
大気中のカルマン渦

上 太乙金華宗旨 瞑想図
下 雪片図形(フラクタル図形の例)
さらに付け加えるなら中国人たちのイメージは壷中天がクラインの壺を連想させるように位相幾何学的であり、呂道賓 (りょどうひん) に仮託される太乙金華宗旨の瞑想図はフラクタル化し、巡って止まない気のイメージは渦となって大きくうねり、揺蕩う。世界は非線形的であることを彼らは知っていたのである。ちなみに古の青銅器のイメージはこのような形で生き残っている。

醒心宮 呂道賓を祀る 台北市


今道友信『東洋の美学』
本書の章立ては part1 の関連図書に書いておいたけれど、今回は「日本の美学」から歌枕について書かれた箇所を少しご紹介しておく。
風吹けばおきつ白波龍田山夜半にや君が独りこゆらむ(古今集 詠み人知らず)
龍田山は「波の立つ」がかかる枕詞になっている。風邪が吹き荒れる海の沖合に白く沸き立つ波といった心象風景、その潮騒のように山をとよもす風、それを夜半にあなたは一人で超えていらっしゃるのでしょうかという歌である。龍田山は不動の場所であるが、そこを吹く風のすごみは海鳴りの動きの音や風景としての動であり過去の体験の象徴ともなっている。時間は回流し、山を超えて来る人の姿にフォーカスされていく。友道さんは歌の姿は歌の意味ではないという。歌が指示する別のものへの動きを示す。ある姿を求めて時を回流するうちに、精神は渦巻きをなして螺旋状に登高して価値に遭遇するというのである。こう述べている。「その回流のための不動の中心が場所としての歌枕であり、その中心を回流する必然的ロゴスが、歴史的回顧を可能にならしめる歌のテーマに読み込まれた記念の地としての歌枕であり、その回顧をイメージの美しさによってあかず行わしめるエネルギーが景色のよさとしての歌枕である。そこに充分な螺旋運動が行われて、ましぐらに歌の超越の方位を示すものが、流麗な七七 (下二句) のほとばしりの末なのである。」これに加えて『新古今集』において彼岸的な幽玄が成立する理由が、少なくとも形式的には理解できるという。幽玄の美は超越的な奥処のほのめきであるからだという。それは「里は仁を美 (よ) しと為す (論語)」という芸術における精神的志向が行き着く頂点であるからだという。これを思えば歌も亦歌の道と呼ばれる理由も分かるというのである。

中野美代子『龍の住むランドスケープ』
中国人の空間デザイン
中野さんは『西遊記』の訳者として知られる人で、日本のシノワズリーにとって最も重要な学者さんの一人であった。少しご紹介しておく。
ハマグリと蜃気楼の話。蜃とは大蛤のことである。『礼記』の「月令 (がつりょう) 」によれば、雉が海か湖か川に入れば蜃となる。また、水中に住む蛟龍 (こうりゅう) が雉と交わるとやはり蜃が生まれ、これが燕を食べて「ハァーッ」と息を吐くと空中に楼閣を作り出し、貝のほうの蜃も「ハァーッ」と息を吐くとそうなるらしい。ハマグリなどの二枚貝は貝殻から舌状の腹足を出して移動したり立ち上がったりするから浮力のイメージがあり砂を吐けば気を吐いているように見えるという分けである。しかし、龍との繋がりは分かるとして、雉や燕とどういう繋がりがあるのかは分からない。

蜃気楼 鳥山石燕 『今昔百鬼捨遺』
山東半島から望める渤海湾は蜃気楼の多い場所として知られており、秦の始皇帝はこの山東半島の成山、之罘山 (しふざん) 、瑯邪山 (ろうやさん) などに足繁く通ったという。司馬遷の『史記』に記された始皇帝が徐福に命じて渤海の東方の彼方にある仙界である蓬莱 (ほうらい)、方丈、瀛州 (えいしゅう) に不老不死の仙薬を探しに行かせた地ということになる。宋代の蘇軾は山東半島東端の登州の長官として着任した時、蜃気楼を見て『海̪市』という詩を作った。着任して五日目に行ってみたが見えなかった。残念に思い海神の広徳王の廟に祈ったところ、その翌日には見えたという。蜃気楼に興味のおありの方はヘルムート・トリブッチの『蜃気楼文明』をお読みになるとよい。

ヘルムート・トリブッチ『蜃気楼文明』

戴進『洞天問道図』 明
明の浙派 (せっぱ) は、この戴進を祖とする。明末の董其昌による命名で浙江省を中心に活躍した画家たちを指している。若い頃は金銀の宝飾品の職人であったが画家に転向した。クリムトみたいだ。宣徳年間には宮廷に仕えることもあったが、辞して野に下り長らく北京で画家として暮らした。この山水は文字通り龍穴である洞天を描いている。

周臣 (1460-1535)『春山游騎図』
明の宮廷画家であった周臣は、戴進と並び称される画家で、山水画を陳仙から学ぶが、宋代の画家に私淑し、李成、郭煕、馬遠などの作品を模写する。とりわけ李唐の作品を愛し多くを学んだ。
彼には呉派の四大家の内の唐寅という著名な弟子がいたが、唐寅が世間との交渉に煩わされるようになると、しばしば周臣に代筆を頼んだという。

朱統『八大山人』 (1626?-1705?)

八大山人『安晩帖』
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