第63話 黒田日出男『謎解き 伴大納言絵巻』歴史は絵巻の細部に宿る


黒田日出男 『姿としぐさの中世史』


 この言葉に不意を突かれた。「女は天井に登って神になる。」黒田日出男さんの『民衆としぐさの中世史』という本の中の「『異香』と『ねぶる』」という章にある。明恵上人が天竺に渡ろうとするのを阻止するために春日明神が上人の伯母である湯浅宗光の妻に憑依したのである。普通の婦女に尸童 (よりまし) して影向するのだ。異質の空間に登場しなければ御威光がない。「われは是、春日大明神なり」と宣う。本当か? 明恵上人は疑った。

春日明神権現記絵巻

春日明神権現記絵巻
託宣する湯浅宗光の妻と感涙する明恵上人

 やがて、彼女の伏していた部屋から得も言われぬ異香が漂ってくる。すると白小袖姿となって彼女は、あり得ない空間である天井に登った。音もなく天井から降りてくるとその体から発する香はいよいよ強さを増し、周囲の人たちは歓喜して観音像にほおずりするように彼女の手足を「ねぶる」。甘ずらのような甘味な味であったと言う。周囲の人々は競ってその手足を舐めた。ちょっと粘液質な展開だが、「慈愍 (じみん) の御景色にて」少しも嫌がらなかった。ここには、かつての民衆の視覚・嗅覚・触覚・味覚という総合的な感覚が聖なる力を全面的享受したいという欲望が発動していた。

アビ・ヴァールブルク(1886-1929)

アビ・ヴァールブルク(1886-1929)

 絵巻の醍醐味は人物表現にある。人それぞれの姿、表情、しぐさ、行為、そういうものをどのように表現し、それらがどのように関係づけられているかを読み解くことは尽きない喜びであるらしい。そういう作業は、一般に図像学と呼ばれる。アビ・ヴァールブルクに端を発するイコノロジーのことだ。日本にイコノロジー的な研究が在るのかどうか、しばらく疑っていたが、そういった流れが歴史学の分野でも育ちつつあった。ある図像が「いかに」表象されたか、「何が」表象されていたかというだけでなく、「なぜ、そのように」表象されたかまで問う。意識的にも無意識的にも、その作品に凝集される国や時代、宗教や哲学的信条まで考慮するのである。

 しかし、聖なる神を舐めるとは !  かつて、中世の「誓約の場」では、鐘の音と共に誓言を唱え、起請文を焼いて、その信義を煙にして神に届け、灰になる事が神が受け取ったことの証になり、護符を千切って水に浮かべて飲むようにその灰を飲んだ。視覚・聴覚・味覚・嗅覚といった五感の全てに感応する空間が「誓約の場」であったのだと黒田さんは言う。


熊野本宮大社の牛王神符 
このような神符の裏面に起請文が書かれた。

 さて、今回の夜稿百話は、前々から興味津々であった日本の歴史における図像学に迫るべく黒田日出男さんの著作をプロットしながらその芳香を満喫したいと思っている。


著者 黒田日出男


黒田日出男 (1941-)
『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く』より

 根っからの説話物語愛から『源氏物語』は苦手であったらしい。興味を覚えたのは12世紀の『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』『吉備大臣入唐絵巻』『粉河寺縁起絵巻』であり、それらを分析、読解して一冊にまとめることを研究の目標にしたと言う。素敵なラインナップだ。絵巻に沿って物語の展開を追いつつ解読された『信貴山縁起絵巻』の秋山光和 (あきやま・てるかず) さん の著作に魅了されたのが切っ掛けだった。1955年に出版されたものだ。

 黒田さんは1941年、東京のお生まれ。早稲田大学文学部で学ばれ同大学院博士課程満期退学後、文学博士号を取得している。東京大学資料編纂所や同付属画像史解析センターで所長、群馬県立歴史博物館の館長などを歴任された。日本中世史、とりわけ絵画史料論と歴史画像学を専門とされている。図像などの史料をもとに一貫して歴史の細部を眺めてきた人だ。東京大学名誉教授であられる。


伴大納言絵巻 謎を呼ぶ二人



黒田日出男『謎解き伴大納言絵巻』

 それでは『伴大納言絵巻 (ばんだいなごんえまき) 』をご紹介しよう。この絵巻は貞観八 (866) 年に起こった応天門の炎上に関わる疑獄事件を題材にしている。当初は左大臣であった源信 (みなもとのまこと) が冤罪を着せられたが、太政大臣藤原良房 (忠仁公) によって救われ、後に密告があり、真犯人は大納言伴善男 (とものよしお) と息子の中庸 (なかつね) であることが判明し、二人は伊豆に配流となった。これが応天門の変である。それを12世紀に絵巻にしたのが『伴大納言絵巻』ではあるのだが、これは史実というより当時の説話の絵画化であったことは踏まえておかねばならない。

(一) 会昌門から応天門の火事を見に押し寄せる群集


応天門の火事を見に押し寄せる群集
この群集表現はお見事

 ここの描写に関しては、この絵巻の作者を後白河院との関連から常盤源二光長 (ときわげんじみつなが) と断じた福井利吉郎 (ふくい りきちろう) 氏の名解説があるので一部ご紹介する。この絵巻には以下のような場面読解の記述が研究の数だけあるという。

 ‥‥種々雑多の階級人が所狭い迄に会昌門前の広場を埋めている。先の「群集(朱雀門近くの群集)」は主として一般民衆であり、また殆ど屈強の男のみであったが、ここには衣冠の人さえも多く、老幼女子も混じっている。人と共に見る者の心もまた前とは違う。彼に驚きと恐れがあれば、此れにはあきらめと或る壮美に打たれた快感さへも見え、軽率な燥 (はしゃ) ぎやも居れば、沈着な哲学面も居る。とにもかくにも前後を通じて二百の「群集」の一々の心の動きを読み得る許りに描出した偉観は無類である。満目の煙焔に覆われた応天門の一層大きさを増すのも、此の「群集」の絵画的効果の一寄与である。(福井利吉郎『岩波講座日本文学』「絵巻物概説」)
まるでレンブラントがエッチングに
描くキリストを取り巻く会衆を思い起こさせる。


清涼殿庭上の貴人
左四分の一にある継ぎ目の部分には失われた一紙分が
あったとされる。束帯の裾は明らかに後世の加筆である。

 この清涼殿庭上の人物と下図の清和天皇を説得する忠仁公の場面に登場する広廂 (ひろびさし) の下の右端の人物がいったい誰なのかという疑問は、先の福井利吉郎氏の1933年における仮説以来、その数十指に及ぶのである。果たして伴善男が源信か、はたまた忠仁公か頭中将か。

(二) 大納言伴善男の讒言により源信が冤罪を着せられる。しかし、すでに隠居していた忠仁公こと太政大臣藤原良房が清和天皇を説得して冤罪を解いた。


清和天皇を説得する藤原良房 (忠仁公)

庭に荒菰を敷いて天道に祈る源信

(三) 右兵衛の舎人、夜更けて応天門の階段から降りて走り逃げる伴善男とその息子、そして家人を目撃する。放火であったが、敢て口外しようとはしなかった。その舎人の子供と伴大納言家の出納の子とが喧嘩をしたのだが、親である出納が喧嘩を止めるのではなく舎人の子の髪を取って死ぬほど蹴った (踏んだ) 。出納は伴大納言の威勢を借りて悪口雑言、それに対して舎人は自分が口を開けばお前の主人は終わりだと言い放った。その言葉は周囲の者から都中に広まることとなる。


舎人の子と出納の子の喧嘩
上段 出納 (左)、舎人の子 (中) と出納の子 下段 舎人の子を蹴り飛ばす出納

 日本中世は被り物の時代であり近世は無帽の時代である。僧でもなければ男たちは烏帽子を被る。それを被らないのは女性か子供だった。中世社会では子供は「人」ではない、性別も「人」にだけ男と女がある。子供は単に童 (わらべ) であり、服装や髪型を変えながら段階的な成長儀礼を経て「人」になっていくものらしい。それに子供は冬でも裸足だった。

(四) 伴大納言、捕えられ伊豆に配流され、自分が大臣になる野望は潰える。


伴善男の

● 謎の二人
 謎の二人の正体だが黒田さんは細部への細かな絵画表現の分析によってしか真相には届かないという。鍵を握るのは清涼殿の東庭を歩く人物である。かつては、応天門の火事を望む伴善男と言われていたが火事の場面とは〈霞〉で隔てらており別の場面である。そして、彼は浅沓 (あさくつ) ではなく襪 (しとうず/足袋) 姿であることが注目される。この人物は清涼殿から直に庭から退出しているとしか考えられない。そうしなければならなかった理由があるに違いなかった。

 二人を比較すると
清涼殿の広廂 (ひろびさし) の下の人物の方が若さが強調されており、服装も藻勝見 (もかつみ) と呼ばれる同じ文様だが、こちらの方が文様が大きいことが分かる。二人は別人である。そして、彼には一定の年齢で重い地位にある者に必須の髭がない。


左 清涼殿の広廂の下の人物 右 清涼殿の東庭を歩く人物
木下千春氏の白描トレース 本書より

 忠仁公こと藤原良房が寝間にある清和天皇を説得するために正装も整えず訪れたのは夜であり、彼らを緊急に合わせることのできる若い官僚ならば『宇治拾遺物語』の記述からすれば頭中将ということになる。より詳しく文学史料から考えれば参議藤原基経ということになるが、黒田さんは説話の絵画化であることを踏まえれば頭中将としておくと言う。それでは東庭から沓も履かず人知れず静々と歩む者は誰か ? それは讒言した後の伴善男その人だろうと言うのである。


プチ絵巻史


 日本の絵巻の草創期は奈良時代と言われている。絵因果経と呼ばれる釈迦の前世から悟りを開くまでの過程が上部に描かれ、下部に経文が書かれている。平安時代になると国風化の波が訪れ物語や説話をもとに絵巻が作られるようになった。
12世紀が絵巻の黄金時代と言われている。『源氏物語』『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』『吉備大臣入唐絵巻』『粉河寺縁起絵巻』『伴大納言絵巻』に加え浄土思想や末法思想との関係から六道絵巻と言われる『地獄草紙』『餓鬼草紙』『病草紙』などが平安末期に制作される。

『源氏物語絵巻』(伝 藤原隆能 筆)「宿木 三」 平安時代 

『源氏物語絵巻』(伝 藤原隆能 筆)「宿木 三」 平安時代 

『信貴山縁起絵巻』山崎長者の巻 平安時代

 この頃には「段落式」と「連続式」という二つの形式が登場する。段落式は『源氏物語絵巻』に代表され、画面が舞台のように割と短く区切られていて、登場人物の動きや表情はかなり抑えられている。細密画のように絵具が塗り重ねられ墨による細い線で引目鉤鼻というような細かな部分が描かれる、いわゆる「女絵」と言われるものである。これに対して連続式は情景や出来事が連続的に描かれ画面が長く時間的空間的な広がりを表現するのに適していて『信貴山縁起絵巻』がその代表的なものである。人物の姿態や表情、動きが自由闊達で最初に引いた線の上に彩色されていく技法で「男絵」と呼ばれる。


『法然上人絵伝』 14世紀

 鎌倉時代になると平安時代の絵巻の技法の上に似絵や宋画の技法が加味され、従来の宮廷社会での受容に加えて寺社の縁起や開祖伝絵巻、似絵、歌仙、歌合絵などの新たなジャンルの絵巻も登場し武家社会でも受容されるようになった。14世紀の南北朝時代が新たな転機となる。絵巻は、より民衆化され以前にもまして寺社の縁起や開祖伝絵巻に加え、御伽草紙絵巻が大量生産されたが、それに連れて質が低下し、室町時代には冊子が登場して絵巻の存在価値は薄れていった。

 江戸時代の17世紀になると絵巻は御伽草子の豪華版として制作されたり、題材も古典のものを含め、職人の物づくり、近世都市や祭礼のあり様、天災、異国船の渡来、遊郭・遊里などの風俗などを扱った多様な巻物が制作されたが、古代・中世の絵巻とは区別されており、日本の絵巻は室町末期で終わったと言うのが通説であるらしい。


嘆きの時系列と行末への悲嘆


 『伴大納言絵巻』には左大臣源信邸と大納言伴善男邸の女房達の嘆きのシーンがそれぞれあって、その比較が面白い。同じ嘆きのシーンと考えられがちだが二人の命運が分かれるように、この二つの邸における情景も二つに分れる。


源信邸における女房達の嘆きのシーン

木下千春氏の白描トレース 本書より

左奥の正室、中の部屋で報告する女房 右と中の部屋の境で何かを告げる女房

 冤罪を着せられた源信の邸での、このシーンは通常、主上の罪科に青天の霹靂であった女房たちの嘆きの姿があり、左最奥の正室と思われる婦人のさすがの落ち着きと解釈されていた。邸内は三つの部屋に分割されていて、ここに朝廷からの使者が来たと言う知らせが届くのだが、右側の大きな部屋では朝廷の使いがやって来たことを知らせる女房の様子が右端に描かれる。次いで右の部屋と中の部屋の境に立つ女房は明るい表情で何かを告げている。そして、中の部屋で手をついて報告している女房にも嘆きの様子はない。子供と共にいる左奥の部屋の正室は微笑んでいる。つまり、許された知らせの時系列が表情やしぐさによって表現されているのである。詞書のとおり「許し給う由、おほせかけて参りぬれば、また喜び泣き、おびただしかり」様が描かれた。

 黒田さんの指摘では上図の右の部屋と中の部屋の境で柱にすがっている女房の口は「へ」の字から「笑み」の形に書き換えられているという。整合性が図られたのであろう。

 次は主人が連行された後の伴善男邸の女房達の様子である。ここでは茫然自失の涙から号泣までの様々な泣声が、そのしぐさから表現されている。御簾にに取りすがり泣く女房
茫然自失する女房、七転八倒する女房たちの姿は、彼女たちの行く末がいかに暗いかが痛切に表現されている。


伴善男邸での女房達の嘆きのシーン

上の場面の白描トレース 本書より

左 茫然自失の女房と御簾に取りすがり泣く女房
右 七転八倒して号泣する女房達

アリの眼目線の歴史学


 歴史は俯瞰する鳥の眼目線である。しかし、黒田さんのような図像学に携わる人々にとって重要なのはアリの眼目線であるのは間違いないだろう。社会学の分野でも、集団に共有される行動や思考の様式を問題にするデュルケームの俯瞰的な社会学よりもタルドの多様な存在の作用によって起こる意識のコミュニケーションとその変容を考えるアリの眼目線の社会学が注目されはじめたのは割と最近のことだ。ラトゥールは自らのANT理論(Actor- Network-Theory)の先駆としてタルドを位置づけている。これは形式主義の美術史からイコノロジーとしての美術史へという流れとパラレルではなかろうか。


『絵巻物による 日本常民生活絵引』

『絵巻物による 日本常民生活絵引』より
『伴大納言絵巻』の子供の喧嘩後に舎人の夫婦が怒鳴っているのを聞く人々

 本書を通じて素晴らしい著作の存在を知った。それが『絵巻物による日本常民生活絵引』だった。澁澤敬三氏による、まさに前人未踏の仕事と言っていい。かの澁澤栄一氏、つまり一万円札に使われた肖像の人のお孫さんにあたる。庶民という言い方は貴族や武士などの階級に比して下賤な者というニュアンスを持つためにわざわざ常民という言葉が使われたと言う。エリート文化を支えるのは常に常民文化だと考えている。武州血洗島 (ぶしゅう ちあらいじま) の親方百姓の血統のなせる業らしい (有賀喜左衛門『絵引によせて』)。多くの絵には、その常民文化が生き生きと記録されている。そのため、そこに表現された常民の人々の衣食住、生業、技術、交通・運搬、交易・交易品、容姿・動作・労働、人生・身分・病、死・埋葬、児童生活、娯楽・遊戯・交際、年中行事、神仏・祭・信仰、動物・植物・自然といった多彩な項目にわたって詳細な図示があり解説がつけられている。これほどのアリの眼目線があるだろうか。

 タルドは、このように述べている。ガリア・ローマ人の歴史ならカエサルの征服について述べれば終わりである。次のような細かな事柄が紹介されなければ、激しく変動する社会が備えている並外れた規則性を理解できない。ラテン語の語彙、ローマにおける儀式、軍事演習、職業、慣習、任務、方法が、ローマからピレネー、そしてライン地方まで暫時伝えられ、それらの文化が旧来の観念やケルトの慣習に対して激しい抵抗を生み出し、そこに住む人々の手や口、心を奪って、カエサルとローマの熱狂的な模倣者にしたこと。さらに、ローマの言葉における単語や文法、宗教儀式の手順、軍隊の訓練法、寺院、バシリカ会堂、円形闘技場、水道などの建築物、学校で教えられたウェルギリウスやホラティウスなどの詩、職人から徒弟へ、教師から生徒へ忠実に際限なく伝えられた産業・芸術的な技法、そういったものまで説明されなければ変動期の社会の規則性を正確に理解できない。(ガブリエル・タルド『模倣の法則』)

 日本の図像学万歳 !!





夜稿百話
黒田日出男 著作 一部

黒田日出男『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く』

日本の絵巻物が、その質において室町時代をもって終わったと言われるのだが、制作量が最も多かったのは江戸時代前期だった。この江戸の絵巻の中で、出色なのは岩佐又兵衛 (1578-1650) とその画室による『山中常盤/やまなかときわ』、『堀江物語』、『上瑠璃』などの古浄瑠璃本をテキストにした説話絵巻であった。これを受けて17世紀後半には軍記物の長大な絵巻が次々と生み出されることになる。注文主は二代将軍秀忠の甥の松平忠直で正室は秀忠の娘の勝姫であった。しかし、藩内の内紛や大阪の陣での功績に対する不満などで、参勤交代途中で領国へ引き返したり、勝姫の待女二人を殺害するなどの乱行があり、隠居に及んで又兵衛への制作依頼も絶えたと言われる。ここらあたりの心の葛藤は又兵衛の絵巻の題材にも影響を与えたと考えられていて、黒田さんの仮説が面白い。

『山中常盤/やまなかときわ』は、こんな話になっている。義経の母、常盤が奥州藤原氏の屋敷にいる息子に逢おうと、めのとの待従と旅立つ。その道中の描写が素晴らしい。しかし、美濃の国の山中の宿において六人の盗賊によって身ぐるみ剥がれて惨殺されることになる。この場面が前半の見せ場であり、時を同じくして奥州から常盤のもとへ急いでいた義経が一日遅れで美濃の宿につき、宿の主人から事の顛末を聞いて母の仇を討つというのが後半の見せ場になっている。

岩佐又兵衛『山中常盤』 本書より




黒田日出男『姿としぐさの中世史』

第三章「シンボリックな風景」から「犬」と「烏」をご紹介しよう。

近世初期の犬はペットとして飼われたり、狩猟用として使役されるのは勿論だが、鷹の餌、犬追物の標的、甲冑用の皮革、はては食肉としても利用もされていた。犬は『春日権現絵巻』や『法然上人絵伝』などよく絵巻にも登場する。『弘法大師行状絵詞』では疫病で倒れた死者を食べている。そして、烏が傍で様子をうかがっていた。彼らは、いわば、村落の清掃役を果たしている。今昔物語でも強盗に人質に取られ、身ぐるみ剥がれて捨てられ、凍え死んで犬に食われる話がある。「朝見れば、いと長き髪と赤き頭と紅の袴と、切れ切れにして氷の中にあるばかり」となっていた。明恵上人伝にも自害しようとして鳥野辺の墓地で犬にくわれようとする話が載っている。

『九想図巻』犬に食われる遺体
本書より

農家にとって通常は害鳥の烏も正月神事に投げた餅を食べるかどうかで占いに一役かうようである。阿倍晴明にとっては式神のひとつであり、源平盛衰記では清盛が禿童 (かむろ) に市中の情報活動と取り締まらせていた時、梅枝の楚 (しもと) に赤い符をつけた烏を鈴付けて手に持たせていたとある。烏はいわば先導する存在であり、ミサキものとしての境界者であった。

鳩車で遊ぶ禿童 『歴世女装考』

一方、『弘法大師行状絵伝』では大師を高野山に先導する黒と白の二匹の犬がある。烏もまた、熊野信仰などで神の使いとしての役割を担っていた。彼らは、神の使い、ミサキ神として現世と異界との境界者と言える。

烏が登場するのは市と墓場と乞食小屋であった。市の場面を描く絵巻は少ないが、その数少ない例の一つは『一遍聖絵』である。片瀬の館の御堂で断食した翌日、往生院へ招かれ、その翌日、地蔵堂に移り数日過ごした。貴賤あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとく群集したと言う。そこには地蔵堂の縁日に立つ市を目当てにした乞食たちの小屋が並んでいて、ある小屋には乞食の遺体があり、屋根の上には白い穀物のようなものが干してあって烏が狙っている。そして、食事の用意をしている小屋の前には犬が一匹坐っている。『一遍聖絵』にはこのような乞食たちの貧寒な生活が描かれるが、そこには烏と犬がその同伴者としてあった。市は周縁的な境界地で、古代には歌垣、邪霊祓除、祈雨、それに処刑の場であったし、墓地も亦、他界との境界地である。絵巻に登場する犬や烏はそのような境界者としての存在なのである。



黒田日出男『謎解き洛中洛外図』

京都の風景・風俗を描いた洛中洛外図屏風は70点以上の作品があると言われるが、本書が問題とするのは狩野永徳によって制作されたとされ、織田信長によって上杉謙信に贈られたとされる作品で上杉本と呼ばれるものであるが、誰が何時、描いたのか。誰が注文し、信長が謙信に贈ったとしてよいのか。このような問題が解読されていくことになる。

狩野永徳『洛中洛外図屏風』

この研究には以下の三つのアプローチがあった。⑴ 美術史家と建築史家によって行われた。⑵ 描かれた建物によって景観年代論的な方法が行われた。⑶ 作者論・作品論的な研究がなされた。

狩野永徳『洛中洛外図屏風』部分
高野聖

●作者については聚光院の襖絵との比較から細密画でありながら極めて自由闊達な筆遣いから土佐派ではなく狩野永徳作としてよいのではないかと考えられている。
●制作年については、描かれた時期の実際の建物であるという説があり、それによると天文十六 (1547) 年五月から閏七月までの間に限られる。この頃、永徳わずか四歳であった。しかし、実際に写実に徹するのは近代の考え方であり、過去に遡って描く場合もあるという反論もあり、描かれた時期は天文十六 (1547) から永禄四 (1561) 年の間ではないかという。その後、結構色々な説が出ているようだ。
●注文主の問題として注目される説は以下のようなものである。天文から弘治にかけての十年間の松永ら新興勢力の屋敷などが描かれていること。右隻の「内裏様」左隻の「公方様」と政治的に対立するものを描いていること。天文末年以降の公方は十三代義輝、十四代義栄、十五代義昭であるが、将軍主導の立て直し策を意欲的に行ったことで知られる義輝に絞られる。永禄五~七年には政治的秩序が安定していたが八年に三好・松永軍に攻められ義輝は自刃する。足利義輝と関白近衛前久 (さきひさ) の関係は従兄どうしで前久の姉は義輝の室であった。そして、上杉謙信と前久とは密かに血書の誓紙を交わしていたと言われる。これらを勘案すると『洛中洛外図屏風』の注文主は足利義輝であるということになった。
●季節の乱れと貴人の大行列についても色々疑問がある。まず、初期の洛中洛外図屏風は右隻が春から夏、左隻が秋と冬に描き分けられているが、本図の左隻にある公方邸は正月の春の花を咲かせている。それは右隻の内裏の春の風景と繋げていて、その絆を強調しているのである。貴人の行列は公方や門跡、あるいは公方に許された管領や大名だけが乗る事が出来る塗輿 (ぬりこし) を中心に総勢四十人ほどのグループで正月初めの儀式のために公方邸 (花の御所) にむかっている。これらのことから注文主は左隻の公方邸の初春の光景とそこに向かう管領クラスの大名を描かせることを意図していたことが分かる。そして、内裏の描写には建物配置などの異例とも言える詳細な書き込みが見られる。贈る相手の興味関心をそそる要素が描かれているのである。そして、近世初期には間違いなくこの図は上杉家に存在していたのである。永禄四年に謙信は義輝によって関東管領に任命されている。

貴人の大行列

●信長から謙信に贈られたかどうかが最後の疑問だった。決定的な発見は近世初期に編纂されたと思われる『(謙信公)御書集』の存在だった。天正十二年に信長が使者として佐々市兵衛を派遣して永禄八 (1565) 年に描いた狩野永徳作の屏風一双を贈ってきたと記されていた。

このようにして黒田さんは作者、制作年、注文主、信長の謙信への贈答の問題を緒論を総合し、新たな文書を発見して解決していったのである。なかなかミステリアスだ。




黒田日出男『歴史としての御伽草子』

御伽草子には一群の「めでたき」物語、「やさしき」物語、「ありがたき」物語がある。御伽草子を聞くこと、読むこと、あるいは読み聞かせることは神仏の名号を唱え、その供養にも等しい行為とみなされていた。子孫繁栄や悲願成就といった呪術的要素がある一方で、一部にイデオロギー的な要素を持つ話もあると言う。それが近世初期に成立した御曹子島渡 (おんぞうししまわたり) の話であるという。

京へ上る夢みる御曹子こと義経が、そのためには千島の都喜見城のかねひら大王の持つ大日の法なる兵法書を見ることだと藤原秀衡に告げられ船で千島に向かうところから話は始まる。様々な島を巡るが75日目に王せん島に着いた。島民は身の丈十丈ほどもあり上半身は馬、下半身は人である。85日目に着いたのは裸島で、男女共に皆裸だった。百日余り後には島民の背丈が一尺に寸ばかりの南方極楽世界から菩薩たちの来るという菩薩島である小さ子島に着いた。蝦夷が島から千島の都に着いた。身の丈十丈余りの鬼たちに取り囲まれるも笛を奏でて鬼たちの歓心を得て大王の処へ連れられる。十六丈の背丈手足は八つ、角は三十もあり、その声は百里四方に響き渡った。大日の法を得るには、かんふう河で朝夕それぞれ三百三十三回の水垢離をとり三年三か月身を清め八月十五日に一度だけ習う大事だと言う。御曹子は大王の前でも今を限りと笛を演奏し大日の兵法のうち「かすみの法」他四つを伝授される。やがて大王の娘である天女あさひ姫と睦み合い、彼女を通して大日の法の巻物を見せてもらい書き写すが、巻物は白紙となって大王の知るところとなる。追手から塩山の法で逃げ延び、早風の法で75日で日本に帰り着いた。大王の怒りによって天女は八つ裂きにされるが彼女の本地は江の島の弁財天であったと言う。御曹子は大日の法を手に入れ日本国を思いのままにし、源氏の御代になるのである。

この物語がイデオロギー的なそれであると言う理由を黒田さんはこう書いている。南北朝期以降の中世後期から近世初頭にかけて現実の社会は下剋上の時代を迎えて、親子・夫婦・主従関係を巡る鋭いイデオロギー上の対立があったと言う。親子は一世 (現世) の契り、夫婦は二世 (現世・来世) の契り、主従・子弟は三世 (前世・現世・来世) の契りといわれていた。この御曹子島渡 (おんぞうししまわたり) では、義経が天女あさひ姫に夫婦は二世の契り、親子の一世の契りを超えるものであり、父に内緒で大日の法の巻物を見せてくれるように頼むのである。

王せん島の島民と義経 本書より
島民の身の丈十丈ほどもあり上半身は馬、下半身は人である。






参考図書


エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』

19世紀の終わりから20世紀の初頭の美術史は新しい方法論が相次いで提起され活況を呈していた。アビ・ヴァ―ルブルクが〈イコノロジー〉という言葉を初めて使ったのは、1912年のローマにおける国際美術史学会においてであった。「親愛なる神は細部に宿る」という名言を残したことでも知られる人だ。しかし、一般にイコノロジーの定義は弟子のパノフスキーによるものが有名である。パノフスキーは、『イコノロジー研究』の序文で、このような意味のことを述べている。14世紀から15世紀に聖母マリアが寝台や寝椅子に横たわる伝統的な「降誕図」にかわって、聖母が幼児キリストに跪いて礼拝している新しいタイプが登場する。この変化は、イコノグラフィー以前の記述では、構図が長方形から三角形に変化したことを意味するだけのフォーマリズム的な表現であった。イコノグラフィー上の分析では擬ボナヴェントゥーラや聖ブリギッタらの著作の影響が指摘され、中世の後期において特有の新しい情緒的な波の登場を意味していた。イメージの形式だけを考えるのはイコノグラフィー以前であり、図像そのものの意味やそのイメージの組み合わせとしての「物語」や「寓意」を考えるのがイコノグラフィーである。そして、その図像と周辺との関係、つまり無意識に作家の人格に具体化され、その作品に凝集される国や時代、宗教や哲学的信条まで考慮する。ある図像が「いかに」表象されたか、「何が」表象されていたかというより、「なぜ、そのように」表象されたかを探究するのである。これがイコノロジーによる総合である。ただ、このイコノロジーの概念が、パトスフォルメン (情念定型/激しい感情からくる身体表現の型) を重視したアビ・ヴァ―ルブルク自身と弟子たち、とりわけパノフスキーのそれとは食い違うのではないかと美術史家であるディディ=ユベルマンは、その著書『残存するイメージ』の中で指摘している。ここは、ヴァ―ルブルクが一時的に陥った狂気の問題とも絡んでいる。


『新版 絵巻物による 日本常民生活絵引 第一巻』澁澤敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編
本文でご紹介しておいた。



秋山光和 藤田經世『信貴山縁起絵巻』
日本美術史叢書3

本書は黒田さんが座右にしている名著である。特に秋山光和 (あきやま てるかず) 氏の執筆ヶ所は出色であるらしい。絵巻に沿っての場面の読解。線描、彩色などの画法から作者と制作年への論考とそれに関わる多くの謎の指摘。絵画史の流れの中で、奈良時代から平安時代にかけての人物表現や姿態表現の向上を条件とした絵巻という形の位置づけなど骨太で同時に繊細な美術史上の解読が為されている。それは戦後美術史の生き生きとした息吹であったと言う。





参考画像


『春日権現絵』 14世紀

春日明神は藤原吉兼の夢の中で貴女の姿で竹林の上に登場する。女は竹の上に登って神になっている。しかし、時に、束帯姿の貴人、角髪結いたる気高き童子として地獄に現れたりもするが、基本的に翁である。禅竹が押し頂いていた春日明神の御影は、おそらく老翁であったのではないか。




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