この言葉に不意を突かれた。「女は天井に登って神になる。」黒田日出男さんの『民衆としぐさの中世史』という本の中の「『異香』と『ねぶる』」という章にある。明恵上人が天竺に渡ろうとするのを阻止するために春日明神が上人の伯母である湯浅宗光の妻に憑依したのである。普通の婦女に尸童 (よりまし) して影向するのだ。異質の空間に登場しなければ御威光がない。「われは是、春日大明神なり」と宣う。本当か? 明恵上人は疑った。
やがて、彼女の伏していた部屋から得も言われぬ異香が漂ってくる。すると白小袖姿となって彼女は、あり得ない空間である天井に登った。音もなく天井から降りてくるとその体から発する香はいよいよ強さを増し、周囲の人たちは歓喜して観音像にほおずりするように彼女の手足を「ねぶる」。甘ずらのような甘味な味であったと言う。周囲の人々は競ってその手足を舐めた。ちょっと粘液質な展開だが、「慈愍 (じみん) の御景色にて」少しも嫌がらなかった。ここには、かつての民衆の視覚・嗅覚・触覚・味覚という総合的な感覚が聖なる力を全面的享受したいという欲望が発動していた。
絵巻の醍醐味は人物表現にある。人それぞれの姿、表情、しぐさ、行為、そういうものをどのように表現し、それらがどのように関係づけられているかを読み解くことは尽きない喜びであるらしい。そういう作業は、一般に図像学と呼ばれる。アビ・ヴァールブルクに端を発するイコノロジーのことだ。日本にイコノロジー的な研究が在るのかどうか、しばらく疑っていたが、そういった流れが歴史学の分野でも育ちつつあった。ある図像が「いかに」表象されたか、「何が」表象されていたかというだけでなく、「なぜ、そのように」表象されたかまで問う。意識的にも無意識的にも、その作品に凝集される国や時代、宗教や哲学的信条まで考慮するのである。
しかし、聖なる神を舐めるとは ! かつて、中世の「誓約の場」では、鐘の音と共に誓言を唱え、起請文を焼いて、その信義を煙にして神に届け、灰になる事が神が受け取ったことの証になり、護符を千切って水に浮かべて飲むようにその灰を飲んだ。視覚・聴覚・味覚・嗅覚といった五感の全てに感応する空間が「誓約の場」であったのだと黒田さんは言う。
さて、今回の夜稿百話は、前々から興味津々であった日本の歴史における図像学に迫るべく黒田日出男さんの著作をプロットしながらその芳香を満喫したいと思っている。
著者 黒田日出男
根っからの説話物語愛から『源氏物語』は苦手であったらしい。興味を覚えたのは12世紀の『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』『吉備大臣入唐絵巻』『粉河寺縁起絵巻』であり、それらを分析、読解して一冊にまとめることを研究の目標にしたと言う。素敵なラインナップだ。絵巻に沿って物語の展開を追いつつ解読された『信貴山縁起絵巻』の秋山光和 (あきやま・てるかず) さん の著作に魅了されたのが切っ掛けだった。1955年に出版されたものだ。
黒田さんは1941年、東京のお生まれ。早稲田大学文学部で学ばれ同大学院博士課程満期退学後、文学博士号を取得している。東京大学資料編纂所や同付属画像史解析センターで所長、群馬県立歴史博物館の館長などを歴任された。日本中世史、とりわけ絵画史料論と歴史画像学を専門とされている。図像などの史料をもとに一貫して歴史の細部を眺めてきた人だ。東京大学名誉教授であられる。
伴大納言絵巻 謎を呼ぶ二人
それでは『伴大納言絵巻 (ばんだいなごんえまき) 』をご紹介しよう。この絵巻は貞観八 (866) 年に起こった応天門の炎上に関わる疑獄事件を題材にしている。当初は左大臣であった源信 (みなもとのまこと) が冤罪を着せられたが、太政大臣藤原良房 (忠仁公) によって救われ、後に密告があり、真犯人は大納言伴善男 (とものよしお) と息子の中庸 (なかつね) であることが判明し、二人は伊豆に配流となった。これが応天門の変である。それを12世紀に絵巻にしたのが『伴大納言絵巻』ではあるのだが、これは史実というより当時の説話の絵画化であったことは踏まえておかねばならない。
(一) 会昌門から応天門の火事を見に押し寄せる群集
ここの描写に関しては、この絵巻の作者を後白河院との関連から常盤源二光長 (ときわげんじみつなが) と断じた福井利吉郎 (ふくい りきちろう) 氏の名解説があるので一部ご紹介する。この絵巻には以下のような場面読解の記述が研究の数だけあるという。
‥‥種々雑多の階級人が所狭い迄に会昌門前の広場を埋めている。先の「群集(朱雀門近くの群集)」は主として一般民衆であり、また殆ど屈強の男のみであったが、ここには衣冠の人さえも多く、老幼女子も混じっている。人と共に見る者の心もまた前とは違う。彼に驚きと恐れがあれば、此れにはあきらめと或る壮美に打たれた快感さへも見え、軽率な燥 (はしゃ) ぎやも居れば、沈着な哲学面も居る。とにもかくにも前後を通じて二百の「群集」の一々の心の動きを読み得る許りに描出した偉観は無類である。満目の煙焔に覆われた応天門の一層大きさを増すのも、此の「群集」の絵画的効果の一寄与である。(福井利吉郎『岩波講座日本文学』「絵巻物概説」)
まるでレンブラントがエッチングに描くキリストを取り巻く会衆を思い起こさせる。
この清涼殿庭上の人物と下図の清和天皇を説得する忠仁公の場面に登場する広廂 (ひろびさし) の下の右端の人物がいったい誰なのかという疑問は、先の福井利吉郎氏の1933年における仮説以来、その数十指に及ぶのである。果たして伴善男が源信か、はたまた忠仁公か頭中将か。
(二) 大納言伴善男の讒言により源信が冤罪を着せられる。しかし、すでに隠居していた忠仁公こと太政大臣藤原良房が清和天皇を説得して冤罪を解いた。
(三) 右兵衛の舎人、夜更けて応天門の階段から降りて走り逃げる伴善男とその息子、そして家人を目撃する。放火であったが、敢て口外しようとはしなかった。その舎人の子供と伴大納言家の出納の子とが喧嘩をしたのだが、親である出納が喧嘩を止めるのではなく舎人の子の髪を取って死ぬほど蹴った (踏んだ) 。出納は伴大納言の威勢を借りて悪口雑言、それに対して舎人は自分が口を開けばお前の主人は終わりだと言い放った。その言葉は周囲の者から都中に広まることとなる。
日本中世は被り物の時代であり近世は無帽の時代である。僧でもなければ男たちは烏帽子を被る。それを被らないのは女性か子供だった。中世社会では子供は「人」ではない、性別も「人」にだけ男と女がある。子供は単に童 (わらべ) であり、服装や髪型を変えながら段階的な成長儀礼を経て「人」になっていくものらしい。それに子供は冬でも裸足だった。
(四) 伴大納言、捕えられ伊豆に配流され、自分が大臣になる野望は潰える。
● 謎の二人
謎の二人の正体だが黒田さんは細部への細かな絵画表現の分析によってしか真相には届かないという。鍵を握るのは清涼殿の東庭を歩く人物である。かつては、応天門の火事を望む伴善男と言われていたが火事の場面とは〈霞〉で隔てらており別の場面である。そして、彼は浅沓 (あさくつ) ではなく襪 (しとうず/足袋) 姿であることが注目される。この人物は清涼殿から直に庭から退出しているとしか考えられない。そうしなければならなかった理由があるに違いなかった。
二人を比較すると清涼殿の広廂 (ひろびさし) の下の人物の方が若さが強調されており、服装も藻勝見 (もかつみ) と呼ばれる同じ文様だが、こちらの方が文様が大きいことが分かる。二人は別人である。そして、彼には一定の年齢で重い地位にある者に必須の髭がない。
忠仁公こと藤原良房が寝間にある清和天皇を説得するために正装も整えず訪れたのは夜であり、彼らを緊急に合わせることのできる若い官僚ならば『宇治拾遺物語』の記述からすれば頭中将ということになる。より詳しく文学史料から考えれば参議藤原基経ということになるが、黒田さんは説話の絵画化であることを踏まえれば頭中将としておくと言う。それでは東庭から沓も履かず人知れず静々と歩む者は誰か ? それは讒言した後の伴善男その人だろうと言うのである。
プチ絵巻史
日本の絵巻の草創期は奈良時代と言われている。絵因果経と呼ばれる釈迦の前世から悟りを開くまでの過程が上部に描かれ、下部に経文が書かれている。平安時代になると国風化の波が訪れ物語や説話をもとに絵巻が作られるようになった。
12世紀が絵巻の黄金時代と言われている。『源氏物語』『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』『吉備大臣入唐絵巻』『粉河寺縁起絵巻』『伴大納言絵巻』に加え浄土思想や末法思想との関係から六道絵巻と言われる『地獄草紙』『餓鬼草紙』『病草紙』などが平安末期に制作される。
この頃には「段落式」と「連続式」という二つの形式が登場する。段落式は『源氏物語絵巻』に代表され、画面が舞台のように割と短く区切られていて、登場人物の動きや表情はかなり抑えられている。細密画のように絵具が塗り重ねられ墨による細い線で引目鉤鼻というような細かな部分が描かれる、いわゆる「女絵」と言われるものである。これに対して連続式は情景や出来事が連続的に描かれ画面が長く時間的空間的な広がりを表現するのに適していて『信貴山縁起絵巻』がその代表的なものである。人物の姿態や表情、動きが自由闊達で最初に引いた線の上に彩色されていく技法で「男絵」と呼ばれる。
鎌倉時代になると平安時代の絵巻の技法の上に似絵や宋画の技法が加味され、従来の宮廷社会での受容に加えて寺社の縁起や開祖伝絵巻、似絵、歌仙、歌合絵などの新たなジャンルの絵巻も登場し武家社会でも受容されるようになった。14世紀の南北朝時代が新たな転機となる。絵巻は、より民衆化され以前にもまして寺社の縁起や開祖伝絵巻に加え、御伽草紙絵巻が大量生産されたが、それに連れて質が低下し、室町時代には冊子が登場して絵巻の存在価値は薄れていった。
江戸時代の17世紀になると絵巻は御伽草子の豪華版として制作されたり、題材も古典のものを含め、職人の物づくり、近世都市や祭礼のあり様、天災、異国船の渡来、遊郭・遊里などの風俗などを扱った多様な巻物が制作されたが、古代・中世の絵巻とは区別されており、日本の絵巻は室町末期で終わったと言うのが通説であるらしい。
嘆きの時系列と行末への悲嘆
『伴大納言絵巻』には左大臣源信邸と大納言伴善男邸の女房達の嘆きのシーンがそれぞれあって、その比較が面白い。同じ嘆きのシーンと考えられがちだが二人の命運が分かれるように、この二つの邸における情景も二つに分れる。
冤罪を着せられた源信の邸での、このシーンは通常、主上の罪科に青天の霹靂であった女房たちの嘆きの姿があり、左最奥の正室と思われる婦人のさすがの落ち着きと解釈されていた。邸内は三つの部屋に分割されていて、ここに朝廷からの使者が来たと言う知らせが届くのだが、右側の大きな部屋では朝廷の使いがやって来たことを知らせる女房の様子が右端に描かれる。次いで右の部屋と中の部屋の境に立つ女房は明るい表情で何かを告げている。そして、中の部屋で手をついて報告している女房にも嘆きの様子はない。子供と共にいる左奥の部屋の正室は微笑んでいる。つまり、許された知らせの時系列が表情やしぐさによって表現されているのである。詞書のとおり「許し給う由、おほせかけて参りぬれば、また喜び泣き、おびただしかり」様が描かれた。
黒田さんの指摘では上図の右の部屋と中の部屋の境で柱にすがっている女房の口は「へ」の字から「笑み」の形に書き換えられているという。整合性が図られたのであろう。
次は主人が連行された後の伴善男邸の女房達の様子である。ここでは茫然自失の涙から号泣までの様々な泣声が、そのしぐさから表現されている。御簾にに取りすがり泣く女房、茫然自失する女房、七転八倒する女房たちの姿は、彼女たちの行く末がいかに暗いかが痛切に表現されている。
アリの眼目線の歴史学
歴史は俯瞰する鳥の眼目線である。しかし、黒田さんのような図像学に携わる人々にとって重要なのはアリの眼目線であるのは間違いないだろう。社会学の分野でも、集団に共有される行動や思考の様式を問題にするデュルケームの俯瞰的な社会学よりもタルドの多様な存在の作用によって起こる意識のコミュニケーションとその変容を考えるアリの眼目線の社会学が注目されはじめたのは割と最近のことだ。ラトゥールは自らのANT理論(Actor- Network-Theory)の先駆としてタルドを位置づけている。これは形式主義の美術史からイコノロジーとしての美術史へという流れとパラレルではなかろうか。
本書を通じて素晴らしい著作の存在を知った。それが『絵巻物による日本常民生活絵引』だった。澁澤敬三氏による、まさに前人未踏の仕事と言っていい。かの澁澤栄一氏、つまり一万円札に使われた肖像の人のお孫さんにあたる。庶民という言い方は貴族や武士などの階級に比して下賤な者というニュアンスを持つためにわざわざ常民という言葉が使われたと言う。エリート文化を支えるのは常に常民文化だと考えている。武州血洗島 (ぶしゅう ちあらいじま) の親方百姓の血統のなせる業らしい (有賀喜左衛門『絵引によせて』)。多くの絵には、その常民文化が生き生きと記録されている。そのため、そこに表現された常民の人々の衣食住、生業、技術、交通・運搬、交易・交易品、容姿・動作・労働、人生・身分・病、死・埋葬、児童生活、娯楽・遊戯・交際、年中行事、神仏・祭・信仰、動物・植物・自然といった多彩な項目にわたって詳細な図示があり解説がつけられている。これほどのアリの眼目線があるだろうか。
タルドは、このように述べている。ガリア・ローマ人の歴史ならカエサルの征服について述べれば終わりである。次のような細かな事柄が紹介されなければ、激しく変動する社会が備えている並外れた規則性を理解できない。ラテン語の語彙、ローマにおける儀式、軍事演習、職業、慣習、任務、方法が、ローマからピレネー、そしてライン地方まで暫時伝えられ、それらの文化が旧来の観念やケルトの慣習に対して激しい抵抗を生み出し、そこに住む人々の手や口、心を奪って、カエサルとローマの熱狂的な模倣者にしたこと。さらに、ローマの言葉における単語や文法、宗教儀式の手順、軍隊の訓練法、寺院、バシリカ会堂、円形闘技場、水道などの建築物、学校で教えられたウェルギリウスやホラティウスなどの詩、職人から徒弟へ、教師から生徒へ忠実に際限なく伝えられた産業・芸術的な技法、そういったものまで説明されなければ変動期の社会の規則性を正確に理解できない。(ガブリエル・タルド『模倣の法則』)
日本の図像学万歳 !!
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