年齢をかぞえて二十歳(はたち)の年、
恋愛神が若者たちから通行税を
徴収する年齢だが、ある晩わたしは
寝にいった、いつものように、
そうしてなにしろグッスリ眠りこんで、
眠りながら、夢を見た‥‥
(堀越孝一訳)
のび太君は気がいいけれど優柔不断な少年を、しずかちゃんは才気煥発でチャーミングな少女を、同じようにムーミンとスノークお嬢さんにもそんなトロールな性格が与えられています。人形劇もそうだと思うけれどアニメにはキャラクターと言うものがちゃんと設定されている。実は、この問題はシンボル(象徴)やアレゴリー(寓意)や擬人化という問題と深く関わっています。アレゴリーは抽象的な概念や思想を具体的な形で暗示する手法だと一般に考えられていたけれど、どうもそれだけではないらしい。
中世では、宗教や道徳的善悪と結びつけられた概念がよくアレゴリー化された。つまり、優柔不断をのび太君という姿で、才気煥発をしずかちゃんという具体的なフィギュア(表象)で表現する。この時、人は様々な感情の動きをそれらの具体的なキャラクターや人形に託して物語を追体験することになります。それも、追体験だけではない。自分の理想も欲望も孤独も喜怒哀楽もそのモデルに投影さえしてしまいます。これは、けっして中世においてのみのことではありませんよね。
「だからもし誰かにわたしの取りかかる物語の名を尋ねられたら、『薔薇物語』と答えよう。そこには『愛の技法』がすっかり収められている。素材は優れ、かつ、新しい。わたしはある女性のためにこの物語を企てた。‥‥多くの美質に恵まれ、まことに愛されるのに値する人なのだから、『薔薇』と呼ばれるのにふさわしい女性なのだ。(篠田勝英訳)」
こうして薔薇物語が書かれました。この物語は夢が歌い上げられているのです。各詩行が八音節からなり、aa、bbと二行ずつ韻を踏む、中世の詩としては標準的な八音綴平韻の形式で13世紀に書かれた傑作です。八音綴りを生かせば冒頭の堀越孝一訳のようになりますが、本書では普通の散文訳になっている。中世最大のロマンス(物語)と言われた。日本にあって源氏物語がそうであったように、字の読める者なら誰もが一度は読むべき書であり、当然ながら、多くの詩や物語に本歌取りされました。
本書を翻訳した篠田 勝英(しのだ かつひで)さんは、1948年生まれのフランス文学者。東京大学文学部仏文科に学び同大学院博士課程単位取得満期退学。白百合女子大学教授であられる。『中世の結婚』の翻訳で渋沢クローデル賞受賞。この『薔薇物語』の翻訳で読売文学賞、『慈しみの女神たち』で日本翻訳出版文化賞を受賞されている。
ヨハン・ホイジンガの『中世の秋』、なんとすばらしい本なんでしょうね。そこには中世後期のヨーロッパの生活文化の特性がどのように変化していったかが述べられているのです。表象の形態学とも呼べる人間の感性的経験の変遷が語られます。12世紀「中世の春」に、プロヴァンスの吟遊詩人たちが、はじめて満たされぬ恋の思いを歌の調べにのせた。このトルバドゥールたちのヴィオールの音は、いやましに高まって、生(き)の女性との愛の中に倫理的な内容をふんだんに盛り込んだ愛欲の思考形式が創造されたというのです。官能の愛が報われることを期待しない、気高い女性奉仕の歌が生まれる。だが、ついにダンテの清新詩体『新生』を以って浄化された熱情に永遠の調和が見出されるとホイジンガは述べています。
フランスでは『薔薇物語』が宮廷好みの愛の作法に新たな内容を注ぎ込んだ。この作品は、実に2世紀もの間、貴族たちの恋愛作法を完全に支配したばかりか、およそ考えうるかぎり、ありとあらゆる分野に触れ、まさに百科全書を想わせる題材の豊かさによって、読み書きのできる一般の俗人に対し、知識の宝庫を提供し、生き生きとした精神の糧をそこからひきだすことを、彼らに許したと述べています。どんな物語だったのでしょうね。
第一章「悦楽の園」から第三章「薔薇の蕾をめぐって」までが前篇でギョーム・ド・ロリスの作とされていますが、彼が作者だという確証があるわけではないらしく、どんな人かもよく分かっていない。後篇はかなり長く、第四章「理性の勧告」から第十一章「総攻撃――巡礼」までがジャン・ド・マンに書き継がれたとされています。後篇の方は、およそ、1260年頃から1280年頃までの間に書かれたようでが、この後編にある記述を信じれば、前篇はその40年前に書かれたことになります。ジャン・ド・マンの方は実在した人らしい。生年は不明ですが、亡くなった年が1305年で、その他に翻訳として『ピエール・アベラール師とその妻エロイーズ往復書簡集』、国王フィリップ四世に献呈されたポエティウスの『哲学の慰め』などがあるようです。
この二人の作者の性格はかなり対照的で物語の性格も色合いが変わっていきます。ギョーム・ド・ロリスが明るく理想主義的な性格であるのに対して、ジャン・ド・マンは博学ですが、否定的でいささか晦渋な性格であるようです。文章からは、そう思える。前篇でギョームは宮廷風の理想に沿う形で全体のプランを設定します。彼は物語の方向性とキャラクターの外観をまずラフスケッチした。そこにジャンは自分の描いて見たかった「何か」をおぼろげな全体像として垣間見た。それに自分の思いと知識を載せて書き継いでいったというわけです。
愛の庭園の外壁には憎悪、悪意、下賤、貪欲、強欲、羨望、悲哀、老い、偽信心、貧困といった否定的なイメージの絵が描かれている。これは一種の配役紹介というところでしょうか。そうこうしていると少女閑暇が主人公の若者を中に迎え入れる。悦楽と歓喜のカップルと礼節、愛の神が輪舞を踊り、美や富、鷹揚、気高さ、若さといった擬人化された登場人物たちがいるのです。このあたりの情景は、確かにホイジンガの言うようにボッティチェッリの『春』を思い起こさせますね。
これが、寓意化されたキャラクターたちです。道徳の本か何かに出てきそうな言葉が名前としてずらっと出てくる。そんな関連の言葉を並列し、いわば、尽くしている。これも中世の特性かもしれません。あまり詳しい人物描写はないけれども意外にこの簡素さは重要であるかもしれない。何故かと言うと何も顔の描かれていない人形を幼い子供たちは喜ぶ傾向がある。その方が自分の想像力を発揮できるからです。同じように読者はそこに自分が見たいものを描き加えることができるのではないでしょうか。
この若者は、やがてナルシスの泉で愛の予感に捉えられ、愛の神(クピド)に5本もの矢を射られて、薔薇に対する恋の苦しみを植えつけられ、愛の神の臣下とされてしまいます。まあ、愛の虜になるというわけです。理性にお説教されるが耳に入らない。友の登場によって薔薇の見張り役である拒絶との付き合い方を教えてもらった若者は、ウェヌスの援助と歓待の手引きで首尾よく薔薇に接吻することができましたが、心の疼きは強まっていきます。恋の炎がいや増すのです。薔薇を守る嫉妬によって、薔薇の周りには掘割が作られ正方形の城が築かれます。囲い地の中心に円い塔が築かれ、歓待はその中に閉じ込められてしまう。その城を愛の神が軍勢を率いて攻めたてるという予告がなされ、前篇は終わることになります。ここから物語の雰囲気はメルヘン調から百科全書的な知の開陳へと様変わりしていきます。
後篇の第四章「理性の勧告」では、愛の神の矢に射られて恋に惑う若者と理性との会話が延々と続けられる。前篇の設定を繰り返します。この『薔薇物語』解説によれば、理性の話の拠りどころはキケロの『友情論』のようです。ここでは「言葉と物」論争が面白い。睾丸と男根について、女性である理性が自分が命名したのだから立派な言葉とするのに対して若者がそれを卑しい言葉として言い争う場面は、苦笑を禁じ得ません。中世ではこんな議論が生真面目に行われていたのかもしれませんね。このような微に入ったやり取りは前篇にはありません。
第五章「友の忠告」では、世間によく見られる「結婚の不幸」が語られる場面があります。今は失われたテオフラストゥスの『黄金の書』に基づいているとされるけれど、実際には、イギリスのスコラ哲学者ソールズベリのジョン(1115-1180)の『ポリクラティックス』が典拠のようです。この著書が名指しされるのは、『薔薇物語』では、前章の第四章での一ヵ所だけなのですが、中世の典型的な本の一つなのでご紹介しておきましょう。プロローグにはこう書かれているらしい。「貴兄がトゥールーズ攻囲攻撃に忙殺されておいでの間、『文学なき生活は生ける人間の死であり埋葬である』という考えに思いを致しながら、私はこの作品に着手し、宮廷生活の愚行から我が身を解放したのであります(柴田平三郎 訳『中世の春』)。」
西欧政治思想史の研究者である柴田平三郎さんによれば、この『ポリクラティックス』は「12世紀中葉の教養思潮の百科全書」といわれ、欧米の政治思想事典には「統治のマニュアル、君主のための鑑、モラリストの宮廷批判、教訓的哲学論文、文芸の百科事典」とあるそうです。全八巻166章には、過剰なまでに繰り返される古典作家や聖書、教父からの引用句の羅列があり、無数の脱線、例証、懐旧談のかたまりとなっているらしい。彼は中世12世紀の代表的な人文主義者でもある。ジャンもそのような百科全書的知の横溢を開陳しようとした。後に述べますが、オウィディウスの『愛の技法』の引用もある。浮気で不実な女房に対する直情径行な亭主のいかにも世俗的なぼやきも語られる。世の多くの夫たちが、頻りにわが身をかこったことでしょう。それに「女性との付き合い方」という語りもある。ここらあたりは世俗的な話題で共感を呼び込み読者を引きつけようとするジャン・ド・マンの巧さと言えるでしょうね。
第六章「愛の神の軍勢――みせかけの弁明」に入ると、作者は奇妙な著述を開始します。今は亡きティブルスやオウィディウスといった偉大な古代ローマの詩人たちをギョーム・ド・ロリスが引き継いだ。だが、仇敵嫉妬のために危機に瀕している。彼のために城壁と塔を打ち破って城を攻囲すべきだと愛の神は言うのです。愛に苦しむこの若者は詩人ギョーム・ド・ロリスだと言っているようにも思える。ギョームが亡くなって、この物語は中断するが、きっかり40年後にジャンが書き継ぐことになるという予言が行われる。ここで、物語が引き継がれた経緯が劇中劇の形で伝えられるということになるのですよ。なかなかやりますね。
イタリアのスルモナに生まれた古代ローマのの詩人オウィディウス(前43-後17)は若くして才能を発揮し、『恋の歌』『女の顔の手入れについて』などの機知に富む恋愛詩で一世を風靡しました。この『恋の技法』もそんな、軽佻浮薄な世相を背景に歌われた世俗的な恋愛指南の詩でした。「だれかもし、この民族のうちに愛する術(すべ)を知らない者があれば、これなる詩を読むがいい。そして、この詩を読んで、術を心得、恋愛を実行するがいい。早い船が橈(かい)で進むのも、技術あってのうえである。恋愛も技術あってのことである(樋口勝彦 訳)」と歌い上げた。その後、『変身物語』という傑作を書きます。この『恋の技法(アルス・アマトリア)』は『弁論術(アルス・レートリカ)』などの教訓詩のパロディになっている。「何々すべし」「君に何々を伝授しよう」という語りは教訓詩のものであった(沓掛良彦『恋の技法』解説)。
オウィディウスはこんな具合に書きました。「不恰好な足はかならず真っ白な靴で隠すがいい。そして骨ばった脛をその桎梏(覆い物)から解放してはならない。いかり肩には薄い詰め物が便利であるし、不恰好な胸には胸当てをかうがいい(樋口勝彦 訳)。」やがて、彼はアウグストゥス帝の風紀粛清政策に触れて前8年に黒海沿岸のトミスに流刑に処せられ、許されることなくその地で果てた。その時書かれたのが『哀しみの歌(トリスチア)』です。
第八章「攻撃開始」で、戦いの端緒が開かれます。拒絶、羞恥、小心に対して気高さ、憐憫、快楽、隠れ上手、大胆、安全が取っ組み合いの戦いをはじめ、それぞれの手下たちもそれに加わるのですが、愛の神は自軍の旗色が悪いのをみてとり、休戦を結んで母親のウェヌスに助けを求めることになります。彼女は、鳩たちが駆る金と真珠を散りばめた四輪の戦車に乗ってワルキューレのように戦場に向います。
第九章「自然の告解」では、天球のもとにあらゆる個体を創り出すことに腐心する女性、自然が登場し、聴罪司祭ゲニウスが慰める。ゲニウスは、本来人や土地の守護霊です。日本で言う産土神(うぶすながみ)に近い。万象に内在する力、ギリシア語のダイモ―ンに近いという人もいる。自然は自分の仕事場である鍛冶場で悲嘆にくれている。ここでは、技芸、錬金術、天体運行、体液論と運命、自由意志と神の予知、気象、虹と光学、20世紀の美術史家バルトルシャイテスが喜びそうな鏡について、幻影、夢、彗星とまさにミニ百科全書となった感があります。最期に人間だけが傲慢で自分に逆らう悪逆非道な存在だと自然は非難するのです。自然の告白は3500行に及びこの物語の中で最も長い。その次に長いのは理性と友の語る3000行、老婆の2000行となっている(『薔薇物語』解説)。後篇になると俄然話が長くなり、脱線もしばしは起こるという訳です。
第十章は自然に罪障消滅を保証したゲニウスが愛の神の軍勢のもとへ赴き、演説を行います。第十一章ではウェヌスの指揮で総攻撃が始り、ピュグマリオンの挿話でウェヌスの力を言祝いだ後、城は陥落します。そして、若者の巡礼が始り、性的なメタファーを経て薔薇を手に入れることができる。終わり方はわりとあっけない。そして、夜が明け、主人公は目を覚ます。それが夢の終わりでもあった。
ホイジンガは『中世の秋』の中で、こう述べています。「ひとつの時代のはじめから終わりまで、支配層の人びとが、生活と教養の知識を、恋愛術という枠のなかで学びとったということ、このことは、いくら重視されてもされすぎることはない。世俗の文化の理想が、これほどまでに、女の愛の理想と溶け合ってしまったような時代は、十二世紀から十五世紀にかけてのこの時代をおいて、ほかになかった(堀越孝一 訳)。」キリスト教の徳目、社会道徳、生活スタイルのあるべき姿は、この愛の体系に組み込まれたという。それは、同時代のスコラ学と同じようにある一つの視点に立って、人生の全てを理解しようとする中世精神の大がかりな努力を示していると。それは、どうしようもなく粗野な現実の中で、中世の一つの理想である美しい生活を求めようとする努力のあらわれでもあったというのです。
『薔薇物語』は14世紀には、しばしば論争の種になりました。ヴェネチア生まれの才女、フランス初の女流文学者といわれる詩人のクリスティーヌ・ド・ピザン(1365頃-1430)は、この女性蔑視の物語に怒りを込めて矛先を向けます。弁護者の中にはリールの代官ジャン・ド・モントルイユのような高官もいた。このような人が属していたサークルが後のフランス人文主義の土壌を形成していくとホイジンガは言うのです。彼らが、ウェヌス(ヴィーナス)ら古代の神々に復権をもたらすことになるのでしょう。自然に背かぬエロティシズムとキリスト教的愛の問題は、やがてワーグナーの『タンホイザー』の中で別の解決を見ることになります。
最期に寓意の行方についてお伝えしておきましょう。象徴と寓意が決定的に区分されるのは、19世紀以降のことです。ゲーテはこう書いています。「寓意は現象を概念に、概念を形象に変える。しかし、その際に概念は、形象の中で一定の枠をはめられたまま、いつまでも完全に保持され、形象に即して言い表されなければならない(前田富士男 訳『箴言と省察』)。」ゲーテにとって象徴は普遍なものを瞬間的に啓示するものであり、理念を現象に変え、その現象の中で象徴連鎖を伴うような、より動的で包括的な働きをするものでした。この『薔薇物語』の頃には、その区別は判然とはしていません。
ホイジンガは、軍神マルスに従う「恐怖」とか女神「和合(コンコルディア)」のようにローマ人が抽象概念から作りだしたローマの神々のイメージと『薔薇物語』の登場人物たちが、同一線上にあると述べています。寓意による擬人像は、当時の人びとのイメージを活性させ、なかば神に近い存在としての生命を与えられていた。この頃、寓話を読む人々の心には生き生きとした感情が湧きあがっていたのです。しかし、古典古代が復活するルネサンス期には、寓意とオリンポスの神々の力関係は逆転していきます。自然感覚につつまれた詩の美しさが流れ出すところ、寓意はついに色あせ、消えて行くとホイジンガはいうのです。
しかし、ヴァルター・ベンヤミンは、バロック時代をテーマとする『ドイツ悲劇の根源』の中でこう書いていた。「象徴においては没落の美化とともに、変容した自然の顔貌が救済の光のもとで、一瞬その姿を現すのに対して、寓意においては歴史の死相が、凝固した原風景として、見る者の眼前にひろがっている」と。この救済の光と死相との対比は印象的ですが、アンガス・フレッチャーは、大著『アレゴリー』の中で、対立する二つの要素を別の形に置き換えて表現することに純粋のアレゴリーをみていたことは書き添えておきたいと思います。これについては、山口裕之『映画を見る歴史の天使』で触れておきました。アレゴリーは、実は深いものを持っている。
本稿は2018年1月に投稿したものに加筆して再録いたしました。
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