第86話 エピクロスとルクレティウス 無限の原子と空虚がもたらす倫理

 ドゥルーズと言えば『差異と反復』で知られる哲学者である。哲学は多様なものを多様なものとして考えることに失敗したというルクレティウスのテーゼにドゥルーズは注目する。〈自然/ピュシス〉はパルメニデスの言うように〈一なるもの=一者〉でもなく〈在るもの=存在〉でもない。〈自然〉は「である」ではなく「そして」という言葉によって表現されるという。〈自然〉は充満と空虚から成る舞台の枠組みを構成する。あるものとあらぬものが互いに限定しながら互いに無限な「限定されざるもの」として位置づけられていた。エピクロスとルクレティウスによって哲学における多元論は真に高度な段階に至ったという。


1417年にローマ教皇の秘書で
あったブラッチョリーニによって
『事物の本性について』は発見され
るがその写本のうちの一冊 

 ルクレティウスについては色々書かれている。寺田寅彦は〈物質元子〉の無秩序運動の表現に感銘をうけ、ソシュールは「身体の始原空 (カオス) 、語の場 (コーラ) 」としてその詩を分析し、ミッシェル・セールは、そこに流体力学の夜明けを見、ジル・ドゥルーズはルクレティウスの〈自然〉を類似と差異の無限として『差異と反復』への影響を書いている。ルクレティウスについて書いた著者たちに驚嘆させられる。

 そのルクレティウスの新しい翻訳が出版された。確かに読みやすい。今回の夜稿百話は、新訳なったルクレティウスの〈事物の本性について〉と彼に多大な影響を与えたエピクロスの思想とをご紹介します。

エピクロスの思想

 家の暗がりに差し込む光の中で無数の粒子が舞い踊る。空虚の中をさ迷うなら、物の元素は全てその重さか他の元素との衝突によって運動するに違いないとルクレティウスは述べた。それで寺田寅彦は『ルクレティウスと科学』の中で「暗室にさし入る日光の中に舞踏する微塵の混乱状態を例示して物質元子の無秩序運動を説明した」として驚嘆の念に打たれたと書いた。このクリナメンと呼ばれる擾乱のアナロギアは抜群に素晴らしかったのだ。

 1931年に『原子』を著したジャン・ペランはブラウン運動に関してルクレティウスが予知し、それを記述したことは誰しも称賛するところだと述べている。しかし、一般にルクレティウスのこの作品『事物の本性について』は詩であって科学ではない、せいぜいエピクロスのエピゴーネンとされており、それに加えて倫理や宗教、政治や自由について書いたものだとされてきたのである。では、エピクロスの思想とはどのようなものであったのだろうか。

 エピクロスは前341年にアテナイの植民地であったサモス島に貧しい植民者の子として生まれ、14歳の時からプラトン主義者のパンピロスに学んだ。18歳の時に二年間の兵役のためにアテナイに滞在するが、その年アレクサンダー大王が没し、マケドニア総督であったアンティパトロスに対するアテナイ側の抵抗運動が弾圧にあった。アテナイは自立的な経済的・政治的な基盤を失い、アテナイの植民者もサモス島から追い出され、家族はイオニア地方のコロポンへと移住を余儀なくされた。エピクロスもそこに合流することになる。それが、ヘレニズム時代の到来だった。


エピクロス関係地図 

 この争乱は「平静な心」による快を求める彼の思想に少なからず影響を及ぼしたと言われている。イオニアではロドス島に住むアリストテレス学派のプラクシパネスに学び、懐疑論者のピュロンの影響受けたテオスに住む原子論者のナウシパネスにも学ぶ。当時の教養を身に着けたが、いずれの師にも反感は強かったようだ (堀田彰『エピクロスとストア派』) 。いくつかの地域を経て35歳頃にアテナイに戻り「庭園学園」を創設し弟子たちを教え、終生その地で過ごした。学徒たちには神の如く崇められたという。このエピクロスの思想を『ヘロドトス宛の手紙』から少しご紹介する。

●六つの原則
 第一に確証したいもの、不明なものを解釈するためには精神的にせよ感覚による判断にせよ、現前の直覚的把握に従えとしている。第二に無からは何ものも生じないし無に帰するものもない。根本原理としてあるものは不可分な物体的実在=原子 (アトム/粒子) でなければならない。第三に宇宙には端がなく物体の数においても限りがない。第四に原子は様々な形状を持っていて、その相違は理解を超えるほどの数ある。第五は原子の運動についてだが、原子は永遠に運動し、あるものは垂直に落下し、あるものは方向が偏り、衝突しランダムに跳ね返り絡み合う。空虚は各々の原子を隔てることを本性とし、その運動に対して抵抗できない。第六に世界は限りなく多くある。何故なら宇宙は限りなく、物質も限りないからである。

●原子の性質と運動
 多宇宙論はジョルダーノ・ブルーノやヒュー・エバレットの多世界解釈を思い出させるが、この多世界にも動物や植物の他、この世界に見られるあらゆるものがあると信じるべきであるとエピクロスは述べる。感覚される全ての事物は大きさの様々な原子の複合体であるが、それらを構成する原子は分割できない。その事物の特殊な塊から原子は分離し、全ては再び分解される。あるいは原子は位置を変え、ある原子は付加したり分離したりするが、それらの原子は消滅しない。原子は形、重さ、大きさ、それぞれの性質を持つが、それ以外の性質はない。原子は何ものの衝突をうけることが無ければ大きさに関係なく空虚の中を等速で運動する。原子固有の重さによって下方へと運動するが、衝突による方向が変わってもその速度は変わらない。上方、下方といっても絶対的な上方、下方といったものはない。

●霊魂と感覚
 霊魂は熱をある程度含んだ風のようであるが、それより遥かに微細な部分からなる物体である。それは感覚の主要な要因であり、肉体と霊魂との相互的な働きによって感覚は生まれる。それゆえ、霊魂が肉体から分離すると感覚は無くなる。肉体が一部損なわれ、その部分の霊魂が滅びても残った霊魂があれば感覚は存続する。

ルクレティウスの生涯

 ティトゥス・ルクレティウス・カルスは、エピクロスがこの世を去って170年後の前99年頃生まれている。ローマの共和制期だった。生没年も諸説あってはっきりしないが、没年は前55年頃とされている。その生涯は、ほとんど闇のなかである。しかし、幾つかの手掛かりがある。唯一の著作『事物の本性について』についてのヴェニス版 (1495年) には彼の生涯の概略が書かれていて、それによると弁論家リキニウス・クラッススと神祇官ムティウス・スカエウォラが執政官だった時に、長らく子供がなかった母から生まれたとされている。

 ローマ第一の知識人と言われたアッティクス、それにペトラルカやダンテの鑑であったキケロ、英語読みのブルータスでしられるブルトゥスらと極めて仲がよかったという。とりわけキケロには近作の詩を知らせており、多くの才能の光に満ち、技巧に極めて長じていると評されたが、時に「天空の洞窟」といった荒唐無稽な比喩は慎むようにとダメ出しされたりしている。

 その死については、なかなかゴシッピーな内容があって、ヒエロニムスが3世紀のエウセビウスの『年代誌』へ「彼はのちに媚薬のために発狂し、狂気の合間合間に幾巻かの書物を書き、キケロが後日これに手を加えた。四十四歳の時、みずからの手によって命を絶った」と書き込んでいたが、どうも眉唾ものらしい。(藤沢令夫『事物の本性について』解説)

ルクレティウス『事物の本性について』

 さて、ルクレティウスの『事物の本性について』だが、この詩集はエピクロスの主張に対する盛沢山の注釈あるいは解説と言っていい。ただし、問題なのは、彼の詩の構成力と結合術の妙である。彼の詩が単なる無味乾燥な原子論の注釈に終わっていないのは、そのためである。第一巻からエピクロスと共通する自然観と彼の手練を見ていきたい。

■第一巻 概略と抜粋

●ウェヌス賛歌
ローマを建国したとされるアエネアスの母であるウェヌス神への賛歌に始まる。この賛歌は栄えある女神よローマ人に静かな平和を乞い給へとの懇願で終わり、祖国の困難に、そこから身を退くわけにはいかないという決意表明が述べられる。

●エピクロスへの賛辞
このギリシア人 (エピクロス) の思想をラテン語の詩句として表現するのは困難であるが友情が私を探求に向かわせるとして、その救国の師としてエピクロスへの讃嘆の念が以下のように詠われている。

人間の生活が重苦しい迷信によって押しひしがれて、
見るも無残に地上に倒れ横たわり、
その迷信は空の領域から頭をのぞかせて
死すべき人間らをその怖ろしい姿で上からおびやかしていた時、
ひとりのギリシア人 (エピクロス) がはじめてこれに向かって敢然と
死すべき者の眼を上げ、はじめてこれに立ち向かったのである。

(ルクレティウス『事物の本性について』第一巻 藤沢令夫、岩田義一 訳)


●宗教的恐怖への批判
 エピクロスとそのプロパガンダ活動家であったルクレティウスは無神論的であり、魂の不滅を否定していたためにキリスト教下では長らく日の目を見なかった。だが、迷信的な宗教に対して反発の強かったヴォルテールはルクレティウスへの共感を隠さなかったという (小池澄夫、瀬口昌久 著・訳 ルクレティウス『事物の本性について』) 。エピクロスが自然学者であり倫理家であったようにルクレティウスも自然の中で何が生じ、何が生じないかを明らかにし、それぞれのものに可能な能力と限界とを考える。宗教が標榜する迷信的な要素は批判された。イピゲネイアにまつわる以下の詩句はアイスキュロスの『アガメムノン』やエウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』が本歌取りされている。

かの宗教こそかえって
邪悪、不敬虔の行為をたびたび犯したのである。
たとえばアウリスの、辻の神アルテミスの神殿を
勇士の華、ギリシア軍の首領たちが
イピゲネイアの血でむごたらしくも汚したように。
彼女のゆいあげた処女の髪に飾りの紐がまかれて
両頬へ同じ長さに垂れさがると同時に、
そして祭壇の前に父親が悲しみながら立ち、
彼のそばに剣をかくした祭司がひかえ、
彼女の姿をみて人々が涙をながしているのに気づくとともに
畏れに言葉もなく、彼女は膝をついて地にたおれた。
(同上)


●無からは物は生じないし、生まれたものは無に帰ることも出来ない。
物の元素をみることが出来ないからと言って、私の言葉を疑ってはならない。目には見えないが確かに存在すると言えるものは、風の激しい力‥‥

こうして風の吹き方もこれと同じでなければならぬ。
それは激流さながらに、どの方向へでも押しすすんでは、
さえぎる物をつきとばし、攻撃を繰り返して吹きたおし、
ある時は渦巻く旋風となって物みなひっさらい、
また旋回する竜巻となってあっという間に運び去る。
(同上)


●物の中には空虚が存在する。
もし、それが無ければ物は動くことが出来ない。そして、どれほど物が隙間の無いものに見えようとも隙間はある。

食物は動物の全身にゆきわたり、
樹々は成長して時が来れば果実をもたらすが
それは養分が根の末端から幹をとおりすべての枝々をとおり、
全体にくまなく行き渡るためである。
声は壁を貫き、閉ざされた部屋にまでとびこみ、
厳しい寒さは骨にまでしみわたる。
このことは、それぞれの物に通り抜けることをゆるす空虚なるものが
存在しないときには決して見ることはないだろう。
(同上)


●現に存在するものの総体 (宇宙) には端がない
宇宙には涯がなく、境界もなく、限界もなく、あらゆる方向に無限な全体を残している。誰かが宇宙の端から槍を投げたとしても、元に戻ってくるか、遥か遠くに飛んでいくか、いずれかを選択したとしても宇宙の限界は先から先へと延びて行き、それからは逃れられない。無数の物質は無限の空間から生み出され原子同士の衝突から失ったものを適時に補う。


●全てが宇宙の中心へ向かうことへの批判
当時、地球は宇宙の中心であると思われていた。これに対して、宇宙の中心は存在しないとしている。現在で言う重力説への批判が述べられ、大地は水に映る鏡像のように反転して存在することはないという。中心に向かうのは土や水だけであり、風や熱は中心から遠ざかる。どこかで物体(アトム)が足りないところがあれば、その部分は万物に対して死の門となり、そこを通って物質の全集団は外へと逃げ出すだろうと述べている。ブラックホールかしらと思わせる記述もある。

 いくつかの抜粋しかご紹介しないけれども、事実が事実を一つずつ明らかにして自然の究極を見極めて行けば、あなたから「道」は取り去られないだろうとルクレティウスは結んでいる。このように見て来ると現代物理学に比して、いい線いってるような気がする。それに、なかなか華麗な修辞ではないか。

ソシュール「テキストの始原空 (カオス) 、語の場 (コーラ)


フェルディナン・ド・ソシュール
『伝説・神話研究』

 愛の幻惑を巡るルクレティウスの11行の詩をソシュールは分析している。ソシュールが伝説や神話の研究をしていたことは良く知られているが、ルクレティウスの詩の分析もその一環だった。『事物の本性について』の第四巻は「感覚と恋愛」をテーマに書かれており、その1160~1170行からである。これは愛の盲目についての詩行で「すべて言い尽くそうと思ったら、いったいどこで止めればいいのか。」で終わる。あばたも笑窪の例なのだが、一部をご紹介する。

1 Niga melichrus est, inmunda et foetida acosmos,
  色の黒い女がメリクローロス (蜂蜜色の宝石) であったり、うすぎたない、臭い女が身なりを構わない女であったり、
2 Caesia Palladium, neruosa et lignea dorcas,
  緑眼の女がパルラスに似た女であったり、筋張った棒のような女が羚羊 (かもしか) のようであったり
3 Paruula, pumilio, chartion mia, tota merum sal,
  ずんぐりした小女が優雅姉妹神 (カリテス) の一人であって、全身これ純然たる機知の塊であったり、
4 Magna atque immanis cataplexis plenague honoris.
  巨大な大女が驚異的存在で且つ威厳に満ちた女であったりする。
5 Balba loqui non quit, traulizi, muta pudens est;
  吃りで喋れないとトラウリゼイ (舌が廻らない) ということになり、啞の女が淑やかであったり、
6 At flagrans, odiosa, loqacula Lampadium fit.
 気ぜわしい、始末におえないお喋りが可愛い炬松 たいまつ(ランバデウム) になったりするし、
‥‥
8 Prae macie; rhadine uerost iam mortua tussi.
  咳をしていて今にも死にそうな女がラディネー (すらりとした女) であったりする。
‥‥

(ルクレティウス『事物の本性について』第四巻 金澤忠信 訳)

 ソシュールのまことに微細かつ執拗な分析をまとめる能力は僕には無いけれど雰囲気だけでも分かっていただけるようにご紹介しようと思う。ある単語や詩句のいくつかの音素 (aとかbなどの文字) を局所的なアナグラムとして、マヌカンと呼ばれる別の語群の中に分散させる手法をご紹介しておく。いわゆる散種と呼ばれるものでフレーブニコフなどの詩がよく例に挙げられる修辞の技法である。

2行目「Caesia Palladium」の文字は3行目「Paruula, pumilio, chartion に分散されている。
3行目「Mia」は4行目「Magna」に
6行目「 Lampadium」は8行目「rhadine」と5行目の「traulizi」と呼応している。
同じく8行目「Prae masie」は、その直後の「rhadine」のマヌカンとなっている。

 このような感じだが、本文はもっと微細な分析になっていることはお断りしておかなければならない。この章を提示・編集したフランシス・ガンドンは「テキストは、翻って、生まれつつある複合怪物 (キマイラ) を見せる。驚くべきは、原則的に強い離接 (余白、音節、句読法) によって切り離されている存在どうしの連結である (金澤忠信 訳) 」という。ここには記号論的な「テキストの始原空 (カオス) 」、
「語の場 (コーラ) 」の中で溶解と凝固を繰り返す韻律学 (リトミック) があるというのである。ここで皆さんは、きっと思い出されるだろう。エピクロスのいう空虚の中を原子が落下し、衝突しあい、絡み合い、色々な物体を構成し、そこから分離し、補足するという自然の摂理を。

ドゥルーズとエピクロス+ルクレティウス


ジル・ドゥルーズ『原子と分身』

 クリナメンと呼ばれる進路からの原子の偏りは、現在では〈ゆらぎ〉と呼ばれているものではないだろうか。それは原子にとって一つの法則のようなものであって単なる偶然性や不確実性を表しているのではないとドゥルーズは言う。その偏りは、最小の時間の中で起こると考えられる。思惟する時間や感覚で捉えられる時間よりももっと小さな極少の時間なのである。エピクロスの自然学とは、思想的に見た「自然主義」のことであり、その核心は無限論と時間的空間的な最小理論との内に在るとドゥルーズは指摘する。


ジル・ドゥルーズ (1925-1995)

つまり、粒子 (アトム) が空虚をとおってまっすぐにそれ自身の
重さのために下に向かって進む時、時刻も全く確定せず
場所も確定しないごくわずか、その進路から、
外れることである。少なくも運動の向きがかわったといえるほどに。
もし、外れないとしたら、全ての粒子 (アトム) は下に向かって、
ちょうど雨滴のように、深い空虚を通っておちてゆき、
元素 (アトム) の衝突もおこらず、衝撃も生ぜず
こうして自然は何ものをも生み出さなかったであろうに。
(ルクレティウス『事物の本性について』第二巻 藤沢令夫、岩田義一 訳)

 エピクロスにとって視覚は、固体と類似した形 (エイドス) の剥離物が生じ、流出し、その映像 (エイドーロン) の流れに途中何ものも、あるいはほとんど衝突することなく我々に到達することから生まれる。剥離と流出が起きても物体の大きさが減少しないのは絶えず代わりの原子によって補完されると考えていた。映像の生成は思想と同じ原子的速さで起こり、我々の内に入る。それは対象との間にある空気や光線によるためではなく、固体内部の原子の振動によるためである。夢であれ、感覚的な現実であれ、映像は相継ぐ反復と残存によって生じる。(エピクロス『ヘロドトス宛の手紙』)

 ドゥルーズは、事物から剥離した模像 (シュミラークル) が、それ自体として知覚されるのではなく、感覚で捉えられる最小な時間の中で模像 (シュミラークル) の堆積として知覚されるに過ぎないことを強調する。それが映像となり、それもまたある継続する時間を持つ。この映像の内に偽りの無限という幻影 (ミラージュ) を生み出し、快楽と責苦というという無限の可能性という二重の幻想 (イリュージョン) を生み出すとドゥルーズは言うのである。

 これについては雨音を例にとると分かりやすいかもしれない。雨の一滴はそれぞれの別個の物に当たり音を立ているが、その雨滴たちは別々の音を鳴らしているはずであり、それを我々も暗い意識のもとで知覚していると思われるが、実際には一括りの雨音として聞いている。この過程で差異的な微細表象は無理やり統合され異化されることになる。それが雨音という幻想になるなら雨滴の音という無数の集積は偽りと言えるのかもしれない。

水と穀物への欲望はたやすく満たされる。
それに反し人間の顔と美しい色香からは、手にもとれない
希薄な像のほかには何ら楽しむべきものが体に与えられないのだから。
それゆえ先の望みは痛ましくもしばしば風にさらわれてゆく。
(同上 第四巻 ) 

 このように幻影から生じる欲望は、しばしば自らの期待に反して失望に転落し、責苦となる。厳密な区分によって真の無限と入れ子状の時間をその極限にまで遡らなければ幻想 (イリュージョン) を退けることは出来ない。

しばしば怖れを抱く心の上に臨むとき、
神々の恐怖で人の心を低く垂れさせ
地面におしつけてしまう。なぜなら、
その原因への無知が、万事を神々の支配にゆだね
その統治を認めさすのだから。
‥‥
その人は再び昔の宗教に連れかえされ
厳しい主人をいただき、その主人こそすべてを
なし得るのだと哀れにも信じるのだから、それは何が可能であり
何が不可能であり、それぞれのものに定まった能力がどのような仕方で
与えられ、限界がどれほどきつく定まっているかを知らないからなのだ。
(同上 第六巻)

 エピクロス+ルクレティウスの言う幻想=偽りの無限は宗教の無限とそれが表現される神学的・性愛的・夢幻的なあらゆる神話を告発する。愛が永遠であることの欲望の中に痛みと責苦があるように神の無限は人間の感情のうちに渇望に対する苦悩、貧欲に対すると罪悪感という二重の幻想 (イリュージョン) を際限なく生じさせる。それはニーチェにおいて再確認されるのである。

 エピクロス+ルクレティウスの〈自然主義〉は「全ての要素が同時に構成されることのない無限の総和」であり、「相互につけ加えられることのない有限な結合体についての感覚でもある」という。この二つの在り方によって多種多様体 (ミュルティプル) が肯定され、喜びの対象となる。そこに〈自然〉の積極性、肯定の哲学としての〈自然主義〉があり、多様体に結びついた感覚論である快楽主義 、あらゆる欺瞞に対する実践批判があると結んでいる。

自然学と言葉

 自然学とは、勿論科学とは似て非なるものであるけれど、改めてドゥルーズの考えに耳を傾けてみるとエピクロスやルクレティウスのそれが倫理的な事柄と無関係ではないことが分かる。そして、ルクレティウスの修辞においては、テキストのカオスの中から原子というべき音素の結合と分散の妙が見てとれる。関連図書に書いておいたがセールはエピクロスの原子説を乱流を含めた流体力学から説明しようとしている。これは、自然が非線形性であるからである。自然とは何か改めて考えさせるが、一つだけ申し上げておくとすれば、これらは言葉で分析し説明する世界であるということである。だが、彼らが魂の不死を否定し無神論的であるにもかかわらずその言説が生き残ったには理由がある。

生命は誰かの所有物でもなく、すべてのものに使用されるもの。
われわれの生まれる前に過ぎ去った、永劫の時間の古い幾年代が
どれほどわれわれにとって無であるか、もう一度顧みるがよい。
さればこそ、それはわれわれの死後に来るべき時間を映す鏡として
自然がわれわれに差し出してみせるものなのだ。
一体そこに何か恐ろしいものが映っているのか、何か悲しいことが
見えるのか。どんな眠りよりも安らかなものではないのか。 
(同上 第六巻 小池澄夫、瀬口昌久 訳)






夜稿百話
関連図書

堀田 彰『エピクロスとストア』

本書はエピクロスについてのまとまった著作で、彼の生涯、エピクロスの学園サークルとシステムの紹介がある。当時エピクロス派に敵対していたストア派の紹介もあって貴重。彼の哲学は規準論 (知識論) 、自然学、倫理学の三部から成るため著作はそれに応じて三部に分かれる。
規準論では『表象について』『見ることについて』『触覚について』『標識または規準について』。
自然学では『自然について』『ピュトクレス宛の手紙』『映像について』『原子と空虚について』『ヘロドトス宛の手紙』
倫理学では断片となったものも多いが、『メノイケウス宛の手紙』『主要教説』『哲学への勧め』『生活について』『神々について』『敬虔について』『正しい行為について』『正義とその他の徳について』などがある。



ミシェル・セール
『ルクレティウスのテキストにおける物理学の誕生』

ミシェル・セール (1930-2019)

ルクレティウスの『事物の本性について』は詩であって科学ではない、せいぜいエピクロスのエピゴーネンとされており、それに加えて倫理や宗教、政治や自由について書いたものだとされてきたことは本文に述べた。この批判に対してパリ第一大学で科学史口座を担当し、数学、物理、生物、人類史、宗教史、文学を網羅して百科全書的哲学者として知られたミシェル・セールは、ルクレティウスのクリナメンは渦巻きとしての流体力学である喝破する。流体のイメージにおいて原初の一様な原子の降下は微細な偏向が生まれて渦になる。ここには1970年ころから台頭してきたカオス理論の後押しがあった。ルクレティウスは、原子論の物理的な概念を先輩のエピクロスの思想から受け取っていたが、既にアルキメデスによってクリナメンを説明するための数学的な材料は揃っていたという。

1. 非常に大きな原子の集団
2. 曲線の接線、接触角
3. 立体角、円錐
4. 渦巻き曲線
5. 無限に小さいもの
6. 平衡とずれ
7. 流れ、液体媒質

アルキメデスが既に開発していた数学上のテーマを結び付けると以下のようになる。その時代、宇宙は地球を中心とした球、つまり恒星球と考えられていて、それを埋める砂の数を計算し 1063 (この数値には色々異説がある) を超えないと結論づけた。これが原子の集団という考えを導く。スクリュー螺旋の考案は名高いが、それは渦巻き形の流体を形成する。同時に、ある曲線で構成された平面を回転・移動させることによってできる立体空間でもある。その立体幾何学の前段階として直線で仕切られた放物線の面積を計測するのに積分の方法をアルキメデスは用いた。それに一つの関数のある地点における傾きを求めるのが微分であり、それは瞬間の変化率を求めることであるのは高校生の時に習った。

アルキメデス螺旋による螺旋式水揚機

直線で区切られた放物線の面積
内接する三角形の面積の4/3倍に等しくなる。

関数における接線の傾き

ある関数上のある位置における接線の傾きが運動の変化率を表している。それを求めるのが微分だった。ここからが重要なのだが、あらゆる傾きの現象においてゼロからのズレや平衡の破れが存在する場合に起こる事を評価する人がなければ静力学は存在しなかったとセールは言う。水などの流体が平行に流れることを層流という。川や海の表面で、水の相がトランプのカードが上の層を次々と滑って行くような状態である。層流から媒質内の粘性などの違いや障害物によって乱流が生じるのは流体力学で論じられるところだが、セールはクリナメンを偶発性による流体としてのある種の乱れとしてみている。ただ、僕には分子のブラウン運動と乱流とを結びつけて良いのかどうかは、よく分からない。

アルキメデス (前287頃-前212頃) 
シラクサ ルチアーノ・カンピージ (1859-1933) 作

乱流、螺旋、渦巻きは平衡からのズレであり、ズレの微分である。そして、文字は原子とも言うべきものであって組み合わされて文章になり、集まって書物になるともいう。アルキメデスはこの過程を厳密化し、エピクロスとルクレティウスは、それを世界の中で現実化するというのである。



ジル・ドゥルーズ『原子と分身』

本書は「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」と「ルクレティウスと模像」という二部構成になっている。小説家トゥルニエはドゥルーズと大学の同窓で、『フライデーあるいは太平洋の冥界』や『魔王』といった作品がある。今回はトゥルニエには触れない。





フェルディナン・ド・ソシュール『伝説・神話研究』

ソシュールが伝説や神話の研究した際の手稿がまとまって出版された最初の本であるというから極めて貴重な著作ではあるが専門書と言っていい。僕のような素人にはなかなか困難な本である。以下の四部からなる。
・北欧の伝説と説話 ― ジークフリートからトリスタンまで
・身体の始原空 (カオス) 、語の場 (コーラ) ― 愛の幻惑をめぐるルクレーティウスの11詩行
・ライプチッヒからの手紙(1876-1880年)
・ポリティキュスの冒険

面白いのは最後の「ポリティキュスの冒険」でソシュール自身の小さなデッサンが、ふんだんに挿入されている。アテーナイ市民のポリティキュスと従者イビュルジュの冒険は、なかなかレアな作品である。

ソシュール画
アテーナイで退屈するポリティキュス

友人の占い師であるピクラトがやって来て政治家ポリティキュスに生贄を忘れているから、ちゃんとお勤めを果たせという。雄羊を一頭買った。生贄を屠殺する部屋にはギロチンのような大層な機械が置いてある。日本人から拝借した腹裂き器で雄羊は腹が開かれた。多分、内臓占いなんだと思うが、ピクラトからの六歩格叙事詩 (ヘクサメートル) で書かれた宣託を待っていた。答えは「アテーナイを出よ。デルポイの神託を聞くべし。よく生贄を捧げよ。」ポリティキュスは家来イビュルジュと生贄のウサギを用意してロバのオノクリトスと旅立とうとする。しかし、アテーナイの入市税関での職員とのトラブルでウサギを取り上げられてしまい、やがてロバも失ってしまう。エレウシースに到着したポリティキュス一行は12年前から1000ドラクマ貸しのあるダニステースに出会うが、入会済み (イニシエ) でなければ払わないという。二人は入会式に参加するが豊穣の女神 (ケレース) の秘儀では加入者全員に追いかけまわされ、全員眠るように指示され、起きている者は首を刎ねると申し渡される。眠れない家来のイビュルジュは穢れた者として落とし穴に突き落とされた。眠っている入会者たちから金を奪おうとする祭司たちに抵抗するポリティキュスも、やはり落とし穴に落とされた。海に流された主従はネプチューンによって差し向けられたイルカによって助けられコリントスの港、ケクリエスに着いた。コリントスに向かう途中喉が渇いたのだが、大きな樽が見えた。どんなワインが入っているか見てみようとするとディオゲネスのような住人が中に住んでいて殴りかかられたので、樽ごと海に転がり落してしまう。コリントスで一息ついていると、プロクリュトスという山賊がアッティカ地方を荒らしていて、オリゴスのヘーラクレースという男が人類の幸福のために戦う準備をしているという噂を聞く。‥‥

ソシュール画 ポリティキュスと家来のイビュルジュ





ルクレティウス『事物の本性について』愉しや、嵐の海に

ルクレティウスは、ガイウス・メンミウスという人物の友人かクライアントであったことから本書のプロローグは始まる。この名は第一巻の序歌に見えるのだが、つまらない人物だという。それから寺田寅彦が物質元子の擾乱に関するルクレティウスのアナロギアに対しての感動が紹介される。そして、ラテン語叙事詩の韻律の紹介となりちょっと取りとめがない。
第一章は「修辞的カノン」と題されて有名な四行が俎上に上がる。

愉しきかな、大海に、冬波さかまく嵐のさなか/余人の大いなる惨苦を陸地からながめるのは。/誰か人が苦しんでいるから心嬉しいのではない/おのれの免れた災厄をつぶさに知ることが愉しいのだ。(第二巻 1-4 小池澄夫、瀬口昌久 訳)

これは「傍観者の楽しみ」の例として紀元後79年にポンペイの通称「マルクス・ファビウス・ルフスの家」に最初の三行が書かれていたというし、二千年後の『失われた時を求めて』にも同じ意味で何回か引用されているという。この詩から傍観者の冷酷を感じる人は多いらしい。しかし、この四行はルクレティウスの本歌とりの例なのだという。前5世紀の悲劇詩人ソポクレスには「おお、これにまさる喜びがえられようか/陸地にたどりつき、それから屋根の下で/心安らかに、降りしきる雨の音を聞くよりも。」という詩句があり喜劇詩人アルキッポスはこれを本歌とりしたらしい。また、ルクレティウスの次の二行。

また、愉しきかな、大会戦が平原に繰り広げられるとき、/毫も身に危険を覚えずに、これを観戦することも。
(第二巻 5-6)

これはサッポーの「ある人は言う、騎馬軍団こそは黒い台地の上で最も美しいと。/またある人は歩兵の居並ぶ隊列が、ある人は艦隊がと。/けれど私が一番美しいと思うのは私の恋する人だ。」に基づくのだが、ルクレティウスの詩句はエピクロスの快楽哲学に着地するという。

人の本性が犬のように吼え求めているのは、ただ苦痛が身体より除かれ、心が気遣いと畏れから解き放たれ、喜びの感情で満たされることだけである。
(第二巻 17-19)

これは「われわれの行う選択と忌避はすべて、身体の健康と魂の不安解消に帰着される。それこそは至福なる生の目標である。(エピクロス『メノイケウス宛書簡』)」を踏まえている。こんな感じの紹介が続くのだが、章立てをご紹介しておく。

プロローグ
第一部 書物の旅路 キリスト教世界を生き延びた原子論
第一章 修辞的カノン
第二章 ヴィクトリア朝の桂冠詩人
第三章 写本の発見と復活劇

第二部 作品世界を読む 原子と空虚が生み出す世界
第一章 物質と空間
第二章 原子の運動と形
第三章 生命と精神
第四章 感覚と恋愛
第五章 世界と社会
第六章 気象と地質
エピローグ








ジョルダーノ・ブルーノ像 ローマ

ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』

本書はブルーノ (1548-1600) に仮託されたフィロテオ、彼の弟子のエルピーノ、比較的ブルーノに好意的なフラカストリオ、敵対的なブルキオという四人の会話からなっている。

エルピーノはフィロテオの意見を総合してこのように述べる。「だから太陽は無数に存在し、同じようにそれらの太陽の周りを廻っている地球も無数に存在する。我々の近くにあるあの七遊星がこの太陽の周りをまわっているように。」この言葉に対してフィロテオは「そのとおり。」と答える。(清水純一 訳)

この多宇宙論は、宇宙が無限であるという主張と共に宗教裁判での有罪判決の決め手となった。多宇宙であれば、キリストが他に存在する可能性があるからである。このためブルーノは火刑に処せられた。






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