
ケネス・スネルソン『ニードルタワー』1969
テンセグリティーを用いた構造物
僕は中・高生を教えていた時期があって、中学生たちには、21世紀は立体でものを考える時代だよと言ってきたけれど、まあ神話論理を教えるわけにもいかないでしょ。高校生には、バックミンスター・フラーとケネス・スネルソンが開発したテンセグリティー(張力統合体)を教えることにしていたのだけれど、ある時から材料のスチレン棒が製造中止になり、手にはいらなくなって困ってしまった。高校生にテンセグリティーを教えているといったらフラーの共同研究者だった梶川泰(かじかわ やすし)さんは随分喜んでくださった。梶川さんに『シナジェティク幾何学』の翻訳しないんですかと聞いたら、『コズモグラフィー』を翻訳したらねとかわされてしまった。
今回は、前回に引き続き文化人類学、民俗学の泰斗クロード・レヴィ=ストロースの著作をとりあげる。前回 part1では、日本に関する著作を集めた『月の裏側』をご紹介したけれど、今回は神話の解読とその表現に精魂をかたむけた『神話論理』をご紹介する予定である。四部構成、合計5冊の大著だった。

トーテム操作媒体 『野生の思考』より
神話論理では、ある神話が基準神話として設定される。それは、古いとか、他の神話より単純だからとか、完璧だからといった理由ではない。神話にはグループ群があり、どちらかといえば、その中で典型的というより、特異だと思われる神話を恣意的に選んでいるのに過ぎないとレヴィ=ストロースはいう。そこからある規則に合致する神話が水平軸上に順序よく並んでいき、それらから得られる図式が導き手となっていく。こんどは、ある神話から垂直上に別の類似点を持つ神話のいくつかの軸をたどっていくのだ。それは一種のマトリックスになるのである (上図参照) 。
こうして混沌としたものの広がりは中心が固まり、形が整っていく。それぞれの繋がりが満たされ関連が成立して、混沌の背後に秩序のようなものがうっすら見えてくる。そのように多次元集合体になっていくのだ。集合体の中心部は、その構造がはっきりしているのに対して周辺部は、ぼやけている。だが、分析によってバラバラになった神話の素材が結晶して、安定し確定した構造というイメージを呈することを期待してはいけないという。最終段階に達することもあり得ないとも言う。彼が問題にしているのは、動いてやまない現実である。その現実は、それを崩壊させる過去とそれを変える未来に攻撃されているというのだ(『生のものと火を通したもの』早水洋太郎 訳)。
神話とは動いてやまない現実であるなら、それを分析するための手法が構造分析であろう。今回ご紹介する『神話論理』で試みられているのは、分析的な歩みをできる限り再現し、神話的思考それ自体に存在する動きをなぞってみようとすることなのだ。我々読者が立ち会うのは、ある神話と別の神話が出会う時に生じる変換あるいは変形が別の神話を生む、その現場や瞬間であり、そのようなダイナミズムの場なのである。いまだにレヴィ=ストロースに向けられる批判にあるように、二元論に基づく静的な構造が問題にされているのではない。
まずは、重要な基準神話となっている南アメリカ中央部に住むボロロの神話M1とボロロ族の近くに住むジェ語を話す部族シェレンテの神話M12を『神話論理』からご紹介したい。MはMythology= 神話である。

ボロロ族 ブラジル先住民競技大会
大昔、女たちが若者の成人式のためにヤシを森に取りに行った時、若者が母親を襲ってインセスト(近親相姦)が起こる。妻の帯に引っかかった羽に気づいて調べると自分の息子のものであった。父親は復讐のために水の世界にある死者の霊の巣へと息子を送り、踊りに使う大きなガラガラであるバポを取って来るように命じた。祖母は死の危険を教えハチドリに助けを求めるように忠告した。死者の霊の巣でハチドリはすばやく飛んでガラガラの紐を切り、傷つくことなくそれを持ち帰る。2度目の小さなガラガラはシャコバトが、3番目の小さな音の鳴るブットーレは矢に射られながらもバッタが持ち帰った。


左 アンナハチドリ 右 ルリコンゴウインコ (アララ鸚鵡)
計画の進まない父親は、息子を岩山の中腹の巣へとコンゴウインコを捕りに行かせる。祖母は、今度は魔法の杖を孫に与えた。父親は棒を立てて息子によじ登らせ、それを取り去る。岩の割れ目に杖を突き刺して宙づりになった息子は、蔓を伝って崖の頂上にたどりつく。飢えた主人公は木の枝で弓と矢を作り、頂上にいたトカゲを狩って食べたが、その死骸は悪臭を生じ始める。死骸はコンドルの餌となり若者も尻を食われるが、意識を取り戻してコンドルに崖から降ろされ助かる。トカゲに姿を変えて祖母と弟のもとに戻るが、その姿に困惑されてしまう。決心して二人に本当の姿を見せると、その夜、雷雨を伴う激しい嵐が起こり、村全体が水に浸かり、祖母の火だけが消えずに残った。息子は、狩りに出かけた父親に偽物の角をつけて鹿に変身し父親を突き殺し湖に落とす。父親は人食い魚のブイオゴエの霊に食われ、その後には水に沈んだ骸骨と水面に浮かぶ肺しか残らなかった。肺は水草になったという。(『生のものと火を通したもの』)

クロード・レヴィ=ストロース
神話論理Ⅰ『生のものと火を通したもの』

1935-1939年にレヴィ=ストロースが訪れた
ブラジル西部の地域と民族名 (一部)
シェレンテ 火の起源神話 M 12
ある日、男が義弟を連れて森へ行き、木の空洞に巣を作っているコンゴウインコを捕まえることにした。男は義弟を高い棒に登らせたが、少年は巣の高さに来ると、巣の中には卵しかないと嘘をついた。下にいた男が執拗に要求するので。主人公の少年はポケットに入れていた白い石を取りだして投げた。石は落ちる途中で卵になり、地面で砕けた。男は不満で、主人公を木の上に見捨て、主人公は五日間身動きできなかった。
一匹のジャガーが通りがかり、木の上の少年に気づき、彼の身に起きたことを尋ねる。少年に餌として巣の中にいた二羽のひな鳥を求め、飛び降りるように勧めて、少年を足で捕まえる。少年は怖かったが、ジャガーは何もしなかった。ジャガーは少年を背中に乗せて川に連れて行く。彼は咽喉が渇いていたが、水を飲むことが許されない。水はコンドルのものであるとジャガーは言う。次の川でも、水は「ちいさな鳥たち」のものである。三番目の川に来ると主人公はごくごくと飲み、小川を干上がらせ、水の主であるワニの懇願にもかかわらず、一滴も残さない。主人公はジャガーの妻からは歓迎されない。「このように痩せて醜い子」を連れてきた夫を非難する。妻は少年に自分のシラミをとらせ、彼を脚で挟んで怖がらせる。ジャガーは少年に弓、矢、装飾品、焼いた肉の蓄えを与え、妻が迫ってきたら頸動脈を狙うように助言する。全てが予言どおり起こり、妻は殺される。


左 ジャガー 右 コンドル
その少し後で、少年は二人の兄弟の物音を耳にする。兄弟は少年が生きていることを認め、村に帰って知らせるが母親は信じない。少年はしばらく身を隠し、アイクマンと呼ばれる葬式に姿を現わす。少年が持ってきた焼いた肉を見て、全員が驚愕する。「どうして火を通したのか」という問いに、「天日で」と頑強に答えるが、ついにオジに真実を語る。人々は遠征して、ジャガーから火を奪う。火のついている幹は、走るのが早い鳥であるホウカンチョウとバンが運び、その後を追って、シャクケイが落ちた燠をついばむ。(『生のものと火を通したもの』)


左 ホウカンチョウ 右 ハジロシャクケイ

バン
神話の骨格とメッセージ
レヴィ=ストロースは、二つまたはいくつかの神話の間に恒常的に認められる特性を集めたものを骨格と呼び、個々の神話がこれらの特性に与える機能の体系をコードと呼び、特定の神話の内容をメッセージと呼ぶ。言葉は、ある社会集団の取り決めた記号であって「しるしと意味がセットになった」組み合わせであるとスイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールが明らかにした。ジャガーという音節の集まりが、ジャガーという動物に結び付けられるには色々なルールの取り決めが必要なのだが、その多くは知らず知らずの内に私たちに刷り込まれていて気がつかない場合が多い。その記号の解読ルールが集まったものがコードである。
言葉や礼儀作法、料理も音楽もみんな記号として機能していて、それが、どんなメッセージを発しているかを研究する学問が20世紀のはじめにはスタートしようとしていた。例えば、レヴィ=ストロースは『密から灰へ』の中で、分節された言葉と音楽の関係に関する「聴覚のコード」として、呼びかけ、言葉、楽器(の言葉)をあげている。呼びかけには「口笛で」「名前で」「叩いて」という種類があって、人間を別の存在である動物=誘惑者に結びつける合図という共通した性格を持っているという。コードは、概念体系を形づくることによってメッセージ間の可換性を保証するのである。上記の二つの神話、ボロロM1とシェレンテM12の神話では、骨格はほぼ同じで、コードが変形し、メッセージが逆転しているという。

シュレンテ族
この二つの神話では、主人公はコンゴウインコを得るために崖や木の高い所に登らされ、降りられずに飢える(渇く)。水の世界では、三度(二度)のハードルを乗り越えなければならない。敵である父親やジャガーの妻は殺され、雷雨としての天の水やジャガーの火が得られる。レヴィ=ストロースは、ボロロの先住民たちはこの神話を水の起源神話とみているという。シェレンテの神話は火の起源神話であり、起源神話という点で両者は一致する。ボロロでは、水は、空の有害な外在化された嵐であり、シェレンテでは、水は、大地の有益な内在化された飲める水である。コードは変形されている。そして、彼はこう述べている。ボロロではインセストに対して無関心であり、犯人は逆に犠牲者のように見なされる。シェレンテにおいてもジャガーは、妻に対して無関心であり、逆に妻の殺害を指示する。この二つの無関心には対称性があるという。
そして、レヴィ=ストロースは、こんなことを述べている。「すべてが同じ神話なのであって、ヴァージョンとヴァージョンのあいだに明瞭にある不一致は、その一つ一つが、あるグループの内部で行われた変形の産物として扱われなければならないのである(『生のものと火を通したもの』早水洋太郎 訳)」という。神話の関係性とは、そんなに単純ではなさそうだということが分かっていただけたのではないだろうか。これは先ほど述べた、ある神話と別の神話の遭遇による変換あるいは変形によって別の神話が生まれるという膨大な出来事の一例であり、そのほんのさわりにすぎないのである。
『神話論理』
本題の『神話論理』に入りたい。この大著を要約するのは、僕にはちょっと荷が重いので、気になった部分を恣意的にプロットしておきたいと思っている。神話の大地は球体であり、何処から始めても行程を全うできるとレヴィ=ストロースは言う。しかし、終わりはない。無数に増殖する閉じた点。
第一部『生のものと火を通したもの』は料理を構成する基本的なカテゴリーの対立がテーマだったが、第二部『密から灰へ』では蜂蜜という料理以前の食べ物とタバコという料理を越えた嗜好品が扱われる。それは自然から文化への移行という神話的表現の調査となった。第三巻の『食卓作法の起源』では、南アメリカの鳥の巣あさりの神話と北アメリカの天体の妻の神話が唯一かつ同一の変換群に属することが明らかにされる。この栽培植物の起源に関係する一連の神話は、性の点でいえば天体の妻の物語がまさに北アメリカの星の夫の一連の神話を反転させたものだとレヴィ=ストロースは言うのだ。第四巻『裸の人Ⅰ、Ⅱ』では、新大陸のほぼ全域を覆うこの巨大神話の構造探究にあてられる。
1.神話とは音楽でありインターテクストである。

クロード・レヴィ=ストロース
『蜜から灰へ』
『神話論理』の第一巻『生のものと火を通したもの』は、音楽にささげられていて、章立ては、「序曲」「主題と変奏」「平均律天文学」などの音楽用語からなる題がつけられている。神話の研究には論理的思考と美的センスの両方を必要とする。音楽と神話は非常に似通っているらしい。そして、それを文章として表現するためには資料を呈示する順序が線的ではありえない。解説の一つ一つがたんなる前後関係では結びついていかないからである。分析にはいくつもの軸があり、それは次々と連なるのだが、読者にある種の同時性も印象として与えたかったとレヴィ=ストロースはいう。そこには独特のリズムさえも必要とされた。これが、彼の文章を分かりにくくさせている理由なのである。
少年時代の彼にとって、ドビュッシーの『ペレアスとメリサンド』、ストラヴィンスキーの『結婚』が衝撃の一つであったそうだ。僕にとっては、バッハの『マタイ受難曲』やチベットホルンとその声明だったろうか。そして、何よりも彼にとってワーグナーは神であったらしい。ワーグナーを様々な神話の構造分析の父、あるいは先駆として認めるなら、この分析がまず音楽の中で作られたということは当然であろうと書いている。例えば『マイスタージンガー』のような作品。神話の分析は大曲の総譜の分析と比肩しうるのだという。
神話同士のさまざまな関係を図式化する時、まるで楽譜のような図が使用される時がある。よく似通った神話群は、ある神話の変奏として考えられるからだ。比較対象となる神話の数が増えると関係性の網の目が広がり、いままで分からなかった神話の細部の意味が理解できるようになる。しかし、全体の意味にはけっして至らない。出口顯(でぐち あきら)さんの『神話論理の思想』によれば、レヴィ=ストロースは神話の立体模型をモビールのように天上から吊り下げていたという。
そのような「神話の楽譜」に登場するのは必ず複数の神話である。神話のエピソード群は楽譜に幾度も登場する旋律や和音なのだという。それらの組み合わせ方次第で無数の楽譜が出来上がっていくというのだ。レヴィ=ストロースは「自分には音楽作品をつくる能力が生来欠けているから、音楽以外の何か自分にも近づけそうな領域で、こうして無能の埋めあわせに励んでいる‥‥音を元手に生み出される音楽作品に匹敵する作品を、自分はこれまで意味を元手に築き上げようとしてきた‥‥(『裸の人2』吉田禎吾 他訳)」と書いている。

レヴィ=ストロース 行儀作法についてのソナタ(M=mythology 神話)
一部分、読み易くするために順番を入れ替えています。
先ほど述べたようにレヴィ=ストロースは二つまたはいくつかの神話の間に恒常的に認められる特性を集めたものを骨格と呼び、個々の神話がこれらの特性に与える機能の体系をコードと呼ぶ。そして、特定の神話の内容をメッセージと呼んだ。彼はこう述べる。「神話を一つのコードに還元することは不可能であり、複数のコードの和として説明することもできない。一群の神話がそれ自身で一つのコードを構成し、その力は、多岐にわたるメッセージをコード化する個別のコードよりも上位にある。
新造語を使うことを許されるなら、それは真の『インターコード』であり、さまざまなシステムに内在するメッセージを互いに変換する規則のレパートリーの操作を通して、それぞれのシステムの個別の意味作用とは違う統合的な意味作用を生成させるのである(『裸の人1』吉田禎吾 他訳)」という。インターコードは、さしずめ現在でいうインターテクストという言葉が意味する内容と平行関係を持っている。「いかなる神話体系の背後にも、その体系を決定づける主導的因子として別の神話体系の輪郭が現われているとの確信に貫かれているようでなければならない。ある体系の内で何かを語っているのは、まさしくその背後にひかえる他の諸体系なのであり、互いに響きあう体系のこだまは、果てなき過去とはいわないまでも少なくとも数十万年前‥‥生誕したばかりの人類が最初の神話を口にした特定不能な瞬間にまで、はるかに及んでいる(『裸の人2』)」というのだ。神話は読み解かれ続ける一冊の本というわけだ。

クロード・レヴィ=ストロース
『食卓作法の起源』
2.神話の組織化された全体
南アメリカのワラウ族の神話は、神話的思考法の特徴をはっきりと示している。この神話の冒頭で描かれている人食い鬼女は、毎回二匹の魚を捕り、一匹を食べ、一匹を残す。この奇妙な行動は次に二人の人間の犠牲者に対してとる、一人を食い、一人を籠に入れるという行為の予行としか考えられないとレヴィ=ストロースは指摘している。最初のエピソードで鋳型が用意されるのであって、そこに次のエピソードが流し込まれるのだという。鋳型がなければ神話は流動的になり過ぎて形がとれないからだというのだ。こうして操作的対立の体系が連なっていくのであろう。
控えめな兄と慎みに欠ける弟を区別して扱おうとするのは人食い鬼女ではなく神話のほうなのである。人食い鬼女が同じやり方にこだわるのは、そのやり方に後から意味を与えるためだった。この例がはっきり示しているのは神話というものが組織化された全体であって、神話において、語りの展開が説明しているのは、前後関係とは無関係な、その下にある構造だというのである。神話は、対立関係の中で次々に鋳継がれる構造体を持っている。神話の宇宙には隠れた対称性がある。そして、変換によって生み出される神話は、数学的な群論と変換群との関係になぞらえることができるとレヴィ=ストロース考えていた。

クロード・レヴィ=ストロース 『裸の人Ⅰ』
3. 象徴の意味とコンテキスト
レヴィ=ストロースは、自分の行っている手法では、神話の機能に絶対的意味を与えることは避けているという。絶対的な意味を与えたいのなら神話の外に求めなければならない。そういったやり方はしばしば神話研究に見られるけれど、ほとんどユング主義に行き着くというのだ。分かるような気がする。彼が追求しているのは、神話に先立つ、あるいは神話の向こうにある霊感に支えられた絶対的意味ではないのである。例えば、個々の神話の主人公のあだ名に関して、神話を超越するレベルでその意味を発見しようとしているのではないし、その名に関連づけることのできる神話外の制度を発見しようとしているのでもないと言う。ある操作的価値を与えられている対立の体系に、そのあだ名の相対的意味をコンテキスト (文脈・背景情報) の助けを借りて取り出そうと努めているのだという。
前にも触れたように、レヴィ=ストロースにとって二項対立は分析のための重要な要素であった。あだ名は、ある種の象徴として絶対的な意味を与えられることはない。ちなみに、象徴はそれが指示するものとなんらかの連想によって繋がっている。記号にはそれがない。翼は飛行機の象徴になるけれどキャベツには無理なのである。「象徴に固有で不変の意味があるわけではない。象徴はコンテキストから独立してあるわけではない。象徴の意味はなによりもまず、それが置かれている場によって決まる(『生のものと火を通したもの』早水洋太朗 訳)。」これは、ある単語の意味が文脈の中で決定されるのと同じだ。ある種の相対性を持っているということである。

クロード・レヴィ=ストロース 『裸の人2』
4.神話とは世界構造を意味している。
神話はいくつもの薄片の積み重なった層構造を持っている。神話とは意味が横の列と縦の欄にならんだマトリックスだというのだ。どのように読もうとあるレベルは別のあるレベルしか示しておらず、あるマトリックスは別のあるマトリックスしか指していない。ある神話は別の神話しか指示していない。互いに意味しあうこれらの意味が指し示す最終的に意味されるものは何かと問おうとも、結局、意味全体が何かを意味しなければならない。それは、本来連続的な本質を持つ神話を離散的に、つまり分解するために神話的思考が支払った代償だとレヴィ=ストロースは言う。つまり、見えない本質に多様な光を当てることによって生じる無数の影であるのだ。
彼は、こう述べる。神話や儀礼は誇張を好むが、それは誇張が神話や儀礼に固有の性質だからである。それは、目に見えない論理的構造の目に見える影だという。神話的思考は人間のさまざまな関係の体系を宇宙論的文脈に書きこんでいく(腐敗と熱処理の図を参照してほしい)。宇宙論的文脈の総体は、人間関係と同形で、それなりのやり方で人間の関係を取り込み真似るのだと。だが、それは至る所で人間の関係からはみ出してしまうのだが(『生のものと火を通したもの』早水洋太郎 訳)。そして、神話的思考の方法は言語のそれに重なるという。
その方法は、オノマトペのように繰り返されるということに重要な意味がある。そうすることによって「ぺんぺん」は、ただの記号からお尻をたたく音という意味に変わる。第二のペンは、たまたま口にした音ではなく、第一のぺんが記号であって単なる擬音ではないということを意味する記号になっている。このような誇張は、(例えば戯画という技法は外見を誇張するが)モデルをありのままに再現するのではなく、特定の役目や側面を強調するための方法だという。それが、もどきの意味である。神話は繰り返し誇張することによって意味を作り出しているらしい。

腐敗と熱処理の宇宙論的・社会学的含意
『生のものと火を通したもの』
最終的に意味されるものは何か。提案される唯一の答えは「神話は精神を意味している」とレヴィ=ストロースは言うのである。精神が、自分自身もその一部である世界を使って神話を作り上げている。だから精神によって神話が生み出されると同時に、その神話によって、精神構造に既に書き込まれている世界像が生み出される。精神→神話→精神に書き込まれた世界構造の顕現となる。A I 研究者は神話を学ぶべきなのだろうか。神話は次々と生成を遂げるマトリックスであり、それを外部との関連で説明しようとすれば、人間の大脳の組織のネットワークに目を向けざるを得ない(『裸の人2』)と彼は述べている。
これは興味深い指摘である。文化人類学者のマルセル・エナフによれば、レヴィ=ストロースはソシュールのいう体系としての言語「ラング」(社会で共有される語彙や文法などの約束事[コード])が言語を働かせたり現実化したりする差異と対立からなる仮想的な装置であると考えていたかもしれないという(『神話論理』-言語学と音楽の間で 泉克典 訳)。しかし、いっそう重要なのは変換の関係性であり、かつての解釈学的な説明の伝統が躍起となって明らかにしようとした意味作用から神話や象徴表現の研究を解放した。物語群が持つ意味の問題を、もはや、それがひとつの宇宙を構築する仕方と切り離せなくなったのだとエナフは言うのである。やがて、レヴィ=ストロースは、神話学に対する助けを言語モデルから音楽モデルに切り替えるのである。

ハイタカ
シェレンテ アサレの神話 M 124
末息子のアサレは、兄たちの母親に対するインセスト事件を契機に彼らと旅に出る。父親が狩りをしている間の出来事だった。母親を男の家に呼び出したのだ。父親は息子たちを罰したが、彼らは復讐のために父親の小屋に火をかける。父は煙の中を飛ぶのが好きなハイタカとなって逃げだした。兄たちが掘った穴から水が湧きだしアサレは渇きを癒すが、全部飲みきることができない。それによって増水した川を渡ろうとして、そのことをワニに頼むのだが、断られる。腹いせにワニをからかったために、さんざ追いかけられる羽目になり、オジの所に身を落ち着ける。ワニは旅の途中で殺したトカゲから生まれた。水の増水によって大洋ができあがると兄たちは水浴した。今日でも雨季の終わりには彼らが水の中でふざけあう声がするという。そして、清潔になった彼らは空にスルルの7つの星、プレアデス星団になったというのである。これはブラジルのシェレンテ族の神話(M124)である。

上 プレアデス星団 日本でいう昴
下 プレアデス星団の構成図
ボロロM1の神話では、母が息子にインセストされるのは森であり、成人式のための女性の勤めを果たそうとする時であった。父親は復讐のために水を使い、シェレンテM124(M124は以下省略)の息子たちは火を使う。シェレンテの父親は火の友であるハイタカとなって逃げ、ボロロの息子を助けるのは腐肉と生肉を食べるかまどの火の敵であるコンドルだった。垂直方向の分離が両者に生ずる。ボロロでは息子が空気によって両親から垂直方向に分離されるのに対して、シェレンテの主人公は水によって兄たちから水平方向に分離される。ボロロの主人公は岩壁の頂上で飢えに苦しみ、シェレンテの主人公は村から遙か遠くで渇きに苦しめられる。ボロロではトカゲに変身した主人公が真の姿を現わした夜、雷雨と嵐が起こり村の火は祖母のものを除いてすべて消えてしまう。ボロロもシェレンテもともに水の起源の神話である。一方は空の水、一方は大地から湧き出る水であった。
シェレンテの神話(M 124)はボロロの神話(M 1)を、ある時はメッセージに関して、ある時はコードに関していくつかの変形を加えて忠実に再現しているとレヴィ=ストロースはいう(『生のものと火を通したもの』)。ボロロでは、水は、空の有害な外在化された嵐であり、シェレンテでは、水は、大地の有益な内在化された飲める水である。コードは変形されている。これを読んでいてハタと気づいたのである。何にかと言うと神話とは「あやとり」のようなものではないかということに。勿論、あやとりには結界を作るという意味もあるのだけれど、その変換する動的な操作に注目してみたいのである。
精神から生まれた紐である神話は、世界構造をなぞって多様に変形されていく。時に、はしごや橋になり、木や星や魚になる。それは、トポロジックに変換されていくテンセグリティーなのである。指が外に押す力を作りだし、紐が張力によって引き合うのだ。あたかも、精神が操る言葉によって、神話の世界が構造変換されていく様子を見ているようではないだろうか。最後に、レヴィ=ストロースの構造人類学に多大な影響を与えた、言語学者のロマン・ヤコブソンが「遺伝コードと人間のあらゆる言語のコードの基礎にある建築学的モデル」を想定していたことを付け加えておきたい。

1.トバ族のあやとり
プレアデス『生のものと火を通したもの』より
2.ワラウ族のあやとりⅠ
キワタ(シルク=コットン・ツリー)生命の木ともいわれる。
『蜜から灰へ』より
3.ワラウ族のあやとりⅡ
爪のあるエイ『蜜から灰へ』より
*2016年11月の投稿を再録しました。


クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯 Ⅰ』

クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯 Ⅱ』
「第六部 ボロロ族」より少しご紹介する。
一人の人間は一つの人格であり、人間は社会という宇宙の一部である。ボロロの集落は物理的宇宙と隣り合っていて霊魂を持った存在からも成り立っている。村を形成しているのは土地でも小屋でもなく一つの構造と言える。例として動物について見ると、その一部、特に魚と鳥は人間の世界に属している一方、ある種の陸の動物たちは物理的な世界に属している。ボロロたちは自分たちを魚の名で呼ぶし、輪廻の最後の姿てあるアララ鸚鵡 (ルリコンゴウインコ) は特別な存在であり自分たちの姿は魚からアララ鸚鵡への過渡期にあると信じている。
彼らにとって死は自然であってしかも同時に反文化的であると言う。一人が死ぬと死者の属していない半族が自然に対する討伐としての狩りを行い、できるならジャガーをしとめることを目指す。死者が出れば、その近親者だけでなく社会全体が被害を受けると考えるのである。それは自然に対する負債=モリを意味した。狩りの首長は、死をもたらす禍を成す魂に見破られないように体を黒く塗って死者の魂の化身となり、死者の家族から毛髪で作られた腕章を受け取り羽根で飾られた小さな瓢箪が吹き口で竹の舌のついたクラリネットを獲物の上で吹き鳴らし、獲物の皮を剥ぎ、その肉と皮と爪と歯を死者の近親に分け与える。ある意味で人命を奪う自然は人間的であり、この自然は魂を媒介にして人に働きかける。魂は直接自然に属していて、社会に属するものではないとレヴィ=ストロース言う。
呪術師=バリは物理的な世界にも社会的な世界いずれにも完全に属してはいない。その両方の世界の媒介となる。呪術師になるためには天性もあるし、邪悪な、あるいは恐れられている精霊たちの集団の何人かと契りを結ぶことによって生じる啓示による場合もある。これらの精霊の一部は天体現象や気象を操る天界の者たちで、一部は地下世界の獣である。その集団は死んだ呪術師の魂によって増加してゆく。彼らの姿は毛むくじゃらで頭の穴から煙草の蒸気 (煙) が洩れる恐ろしい姿の者とか、目や鼻、長い髪の毛や爪から雨を吹き出す空の怪物、腹が膨れた一本足で蝙蝠のように綿毛で覆われた者などさまざまである。

クロード・レヴィ=ストロース『ブラジルへの郷愁』
1935-1939年に訪れたブラジル、サン・パウロの町や研究のために滞在した地域に住む部族をレヴィ=ストロース自身が撮った写真が収載されている。
レヴィ=ストロースは、これら被写体の住民たちが人類の未開の姿であると誤解しないように警告している。意外にも内陸地域に逃れたり、もとの地域に置き去りにされた高度な文明の残滓であり、以前の姿を反映していないというのである。1541年にスペインの探検隊がアマゾン川に迷い込み、たどり着いたのは3千キロにわたる数々の都市だった。それらの眩いばかりに白く輝く都市は、その流域に数キロ続き数百戸が立ち並んでいたと言う。巨大な彫刻のある防壁や高地に築かれた城砦、手入れの良い道路が果樹園を横切っていた。スペイン人たちは食料を得るために、そこを襲ったが、食糧庫には千人を一年養うために十分な量が備蓄されていたと言う。ここ数年来の考古学的調査によって、その事実が確かめられ、アマゾン川河口のマラジョー島では敵と川の氾濫から住人を守るための人造の多数の台地が発見されているし、アマゾン川下流には数万の人口を有していたと思われる都市の遺跡が発掘されている。南アメリカは北アメリカより人間の居住の歴史は古いのではないかと考えられる。アンデス諸文明の揺籃の地はアマゾン地方かもしれないとレヴィ=ストロースは言う。
忘れてはならないのは人口の激減が病気のせいばかりでなく、ポルトガル人による民族浄化によって起こり、それが16世紀から19世紀まで続いたことである。役所や植民者の手先だった山師たち、ゴム採取会社や土地商人の手先たち、金やダイヤモンド探しの手合いが住民の皆殺しを続けてきたのである。
ナンビクワラ族は退行した民族であり、ガデュヴォエ族は貴族と戦士と奴隷に階層化された複雑な社会を形成したグアイクル族の子孫である。ボロロ族は18世紀に徒党を組んで襲ってきた山師たちによって何千人も殺され、村は19世紀には荒廃してしまった。村落の平面配置に、その精錬された社会組織の名残りがみられ、それは古い時代のペルー社会構造に類似している。
そして、この19・20世紀の間に無垢に保たれてきた生活様式は都市化という禍によって損なわれ彼らの言語を使う機会も減少してきた。しかし、我々が、かつて彼らにしたことが我々の身にも降りかかっている。19世紀のサン・パウロの姿を思い出す時、自分は限りない喪失感を覚えると言う。それは憂愁を誘発し悲しき熱帯というべき言葉を想起させる。

クロード・レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』
サンタクロースは神話的な存在ではない。かといって伝説上の人物でもない。しかし、この人物はまぎれもなく神々の仲間であると言う。この神を大人は信じていないが、子供たちには、せっせと信じさせようとしている。それは社会を子供と大人とに二分するため、通過儀礼やイニシエーションなどに驚くほど類似しているらしい。プエブロ・インディアンのカチーナは通過儀礼の重要なファクターだった。それは周期的に村を訪れてダンスをし、子供たちに褒美や罰を与える先祖の霊や神の代理である。しかし、サンタさんは罰を与えないので神話的役割変換と言えるだろう。子供たちに贈物をしなければならない期間を限定し、良い子であるように秩序と隷属の中へ囲い込もうとする。それは極めて厄介な「取引」の結果なのだと言う。杉や樅、柊、蔦や宿木などの植物は、かつては住民を構成する二つの集団の間の重要な交換物であった。例えば、先ほどのカチーナの儀礼では、その神が仮面を着けた人間であることは子供たちには知らされていない。この神はプエブロの祖先が移住を続けていた頃に川で溺れて最後を遂げたプエブロの子供たちの魂だと言う。それは死が必然であると同時に死後の命も実在することを明かす神なのである。そして、カチーナが毎年、村を訪れて去っていく時、決まって子供たちをさらって行く。そこでプエブロたちは、毎年、仮面と踊りで「カチーナ」を演じるのと引き換えに神にあの世に留まってもらうように懇願したのだと言う。溺死した子供=カチーナの神=さらわれる子供=村の子供という図式が成立していて、村の子供たちこそカチーナ神であり、死者なのである。
ここまでは共時的な分析で、後半の通時的分析ではサトゥルヌス祭などの例が紹介されていて結論は同じになっている。サトゥルヌス祭は暴力によって横死し、墓もなく野に晒された死者の霊を祭る。この神は我が子を食らう神であったが、やがて子供たちに優しいサンタさんや子供たちに贈物を携える地下界の魔物ユルボック、聖ニコラウスやカチーナのような存在に変わっていくのである。
ともあれ、この一文が書かれたのは1951年にデジョン大聖堂の広場でサンタクロースの人形が火刑に処せられたことが契機となった。教会側は、このような異端の存在の影響力がひろがるのを憂慮したためらしい。そこで、サンタクロースとは何かが構造主義的に分析されることになったのであろう。なかなか興味深い話である。

カチーナ人形 プエブロ・インディアンのポピ族のもの

クケリ バルカン半島やギリシアで新年と四旬節に行われる仮装のお祭りスルヴァに登場する

オクタビオ・パス『クロード・レヴィ=ストロース』

オクタビオ・パス (1914-1998)
メキシコ出身の作家・詩人、外交官であったオクタビオ・パスがクロード・レヴィ=ストロースの思想や文章について語る著作。思弁的ではあるがレヴィ=ストロースの思想を総合的に紹介している。この中から少しご紹介する。
レヴィ=ストロースの文章は具体的なものと抽象的なものの間、対象の無媒介的な直覚と分析の間を揺れ動いている。諸概念を直覚的な形態として、諸形態を知的な記号としてみようとする。それはコードとメッセージとの関係と言える。その思考の一貫性は、科学としてのそれではなく、反哲学的哲学ではあるが哲学的一貫性である。レヴィ=ストロースは地質学とマルクスとフロイトの影響について述べているけれど、それらは隠されたものによって目に見えるものを解釈することだとパスは言う。そして、機能主義から構造主義へと転換した社会学・文化人類学者のマルセル・モースの思想に大きな影響を受ける。重要なのは相対的な解釈ではなく諸々の現象の間の関係であると。その贈与論は互酬的で循環的なポトラッチなどの制度が道具や物以上に法律・宗教・芸術などの総合的体系であることを表明した。ポトラッチは北アメリカのブリティッシュコロンビア州の太平洋沿岸にみられる先住民族の儀式で、成人式、結婚式、葬儀などの特別な行事の祭に人々を招き、魚の乾物、魚油、カヌーといったものを贈与する習わしである。

ポトラッチの祭儀の様子
レヴィ=ストロースは、構造とは体系であり、各体系は、仮に人類学者が解読に成功すれば他の体系へと翻訳可能にするコードによって支配されるとパスは強調する。言語学が人類学研究のモデルと考える最初の人ではなかったが、特に重要なのは人類学が言語学の一部だと断言していることにある。逆ではないのである。それは、諸記号に関わる未来の一般理論の一部となる。それが構造主義の持つ、広がりの大きさなのである。
『生のものと火にかけたもの』が描いている状況はシンフォニーの演奏者が、それぞれ別の部屋で、別の時間にそれぞれのパートを演奏するようなものである。アメリカ大陸の神話体系というシンフォニーのコンサートは数千年前に始まり、今では少数の共同体が最後の和音を奏でている。そのシンフォニー全体を聞く演奏者も聴衆もいなかったのである。『生のものと火にかけたもの』の読者はそのシンフォニーの最初の聞き手であるが、それは一つの翻訳、あるいは一つ変形である。ただ、その神話を生んだ人々は「共通した世界観の中で対立と媒介の弁証法の様々な手段」を利用していたのである。
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