
梁楷 『寒山拾得』 宋
魁夷なる異貌、風狂聖、放蕩無頼、天衣無縫‥‥
禅のお坊さんにはこんなイメージが付いて回る。しかし、道元にはそんなイメージが欠片もない。あくまで端正だ。その点、禅の修行にことさら励んだ明恵上人に通ずるところがある。道元は、一休じゃないし、白隠でもない、ましてや寒山や拾得(じっとく)、普化(ふけ)でもないのである。
寒山は詩にこう書いた。
人生の塵蒙(じんもう)に在るや
恰(あたか)も盆中の蟲に似たり
終日 行くこと遶遶(じょうじょう/めぐりめぐり)たるも
その盆中を離れず
神仙は得可からず
煩悩は計るに窮まり無し
歳月 流水の如し
須臾 (しゅうゆ/しばしの間) にして老翁と作 (な) る
三界に人蠢蠢(しゅんしゅん/愚かに動き回る)
六道に人茫茫(ぼうぼう/多く)
財を貪り淫欲を愛し
心の悪しきこと豺狼(さいろう)のごとし
人生の塵・芥の中にいれば盆の中の虫のようにぐるぐると回るだけで煩悩は極まりなく歳月は水のように流れ去る。輪廻する三つの世界に人は愚かに動き回り六道に堕し財と淫欲を好み、悪心は狼や豹の如しだと言う。
道元(1200-1253)は、かの高名な『正法眼蔵/しょうぼうげんぞう』の冒頭、つまり「弁道話」で、そのような人間が救われるのに最上の妙術があるのだとこのように書いている。
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これはただ、ほとけ仏にさずけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
通り一遍読んでも何のことか分からない。明治の曹洞宗の僧侶である西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師は、その講話を収めた『正法眼蔵啓迪/しょうぼうげんぞうけいてき』(以下啓迪)の中で、この冒頭の一段は、一篇の始終を数百篇熟読してみなければ分からないと書いている。啓迪とは教え導くことだ。西田幾多郎の弟子筋である西谷啓治(にしたに けいじ)さんは、自分など2,3度しか読んでないので分かるはずもないと書いている(正法眼蔵講話)ものの、ちゃんと解説してくださっている。この西谷さんが『正法眼蔵』の注釈を読むなら澤木興道(さわき こうどう)禅師の『正法眼蔵弁道話提唱』か、近代の曹洞宗で有名なものとして、この西有穆山禅師の『啓迪』を薦めている。それは、正解だと僕は膝を打った。西谷さんについては 第五話『細川俊夫 音楽を語る』で少し触れておいた。
今回の夜稿百話は明治の傑僧・西有穆山禅師の『正法眼蔵啓迪』を中心に西谷啓治さんの『正法眼蔵講話』を交えてご紹介する。
西有穆山禅師

西有穆山(にしあり ぼくざん 1821-1910)
90歳の御影
西有穆山禅師は文政4年(1821年)に八戸に生まれる。化政文化がまだ華やかな時期だった。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。鳳林寺で資格を得て故郷の奥州に帰郷すると母は、わずかの出世を鼻にかけ家の敷居を跨ぐことはならんと追い返した。この人にこの母ありだった。小田原海蔵寺の月潭全竜禅師の下で修行。法名の瑾英を授けられ、龍海院の諸嶽奕堂 (もろたけ えきどう) 禅師の下で大悟し印可を受けた。湯たらいの熱湯に足をつけ、思わず「あっ、熱い」と足を引き上げると行者が庭の雪を掴んでたらいに雪を投げ込むとシュウという音と共に大悟したという。幕末の争乱の時代であった。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれた。翌明治35年(1902年)に曹洞宗の宗門代表である管長となっている。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。
弁道話
弁道とは成弁道業のことで成弁は完成すること、道業は仏道の事業のことである。仏道は無上であり、それを成し遂げる道=弁道とは三昧座禅のことだという。したがって、弁道話とは座禅物語、座禅話のことだと穆山師は言うのである。では、妙法とは何か。仏道とは阿耨菩提(あのくぼだい)の無上道のことだが、では、阿耨菩提とは何か。そして、自受用三昧とは何のことなのだろうか。
どうも、学者先生や文人たちの書く『正法眼蔵』は、あまりスッキリしたものがない。字義にこだわり過ぎるのか推測の域を出ないと自分で感じられるのかスパッとしたものがないのである。その点、この穆山師の『啓迪』は、実に小気味いい。
阿耨菩提とは上に書かれた妙法を指している。「妙法蓮華」という。それは、人の本性である。蓮華が泥の中にあって泥に染まらないように前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する。それが人の本性なのだというのである。十方三世の諸仏に決して余の仕事は無い。この妙法を蝋燭から蝋燭へと火をともすように単伝し、人の心を開明する。そこで「阿耨菩提を証する」。阿耨菩提とは無上の智慧、仏果の円満を指すのである。百千万劫の修行によって我が心田に鋼鉄の撃てど砕けぬ確証が生まれ、仏祖の恩力も借りぬ「肯心自ら許す」証拠が上がらなければならないという。「智慧がいつも、喜怒哀楽の後におるから愚痴になるのだ、智慧の方が七情の先におれば、決して動転することはない」と穆山(ぼくざん)師はいう。修行せよと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案
一顆明珠 即心是仏 有時 山水経
心不可得」注釈
その仏果の智慧である阿耨菩提を証する方法には、「最上無為の妙術あり」という分けなのだが、無為とは無分別のことである。ああしよう、こうしようと分別しない。阿耨菩提は分別では届かない。それは無分別であるからだと穆山師は言う。人はこの阿耨菩提を合点すれば誰でも仏である。悟る者は誰でも仏であり、凡夫が伝授しても凡法には堕さない。だから、「よこしまなることなし」なのである。
自受容三昧
何でそうなのかといえば自受用三昧、これが目印だからだという。この自受用三昧という語は、『唯識』『梵網』、あるいは洞山禅師の語にもある。ごくベッタリ言うと自とは己であり、己を受用するとは手前で手前を用いることだという。己が己を自由にしていくこと。自分の働きを自分で自由にして、自心を自心で自由にする。仏の恩も、祖師の力も天神地祇、父母師僧、山河大地、そのような恩分など決して蒙らぬ自己独立の境界、これを自受用三昧というのである。穆山師の言葉を引こう。
「達磨はこれを凝住壁観 (二入四行論) といわれ開山 (道元) はこれを身心脱落 (しんじんとつらく) といわれる。凝住壁観という時、達磨の外に世界はない。尽界が一蒲団上じゃ。身心というも、五蘊 (人の心身を構成する要素) 中の色心 (物・心) をいうのではない。この身心は法界の身心で、故に身心脱落という時は法界が開山の身心となりきる時である。先ずかように自己の特立、自己の徧法界、対手なしの境界を自受用三昧という。」
それは非思量の座布団なのである。この自受用三昧に遊び戯れる。学問をするとも考えるとも皆外のものを目がけるのであって自己に遊戯するのではない。何でも独りで対手なしにいる、この法楽は何がもたらすかといえば座禅である。妙法とは前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する人の本性なのだ。それが無上の智慧である阿耨菩提である。阿耨菩提を証する方法には、最上無為の妙術があり、それが自受用三昧だという。無分別であること、対手なしに己が己を自由にしていくこと。対手がないから妄念の起こりようもない。それは座禅によってもたらされる。そういう座禅話、それが弁道話だと言うのである。スッキリしている。
丙丁(びょうじょう)童子来りて火を求む

法眼文益(885-958)唐末五代の禅僧
そこで、なんだ自受用三昧とは自分勝手にやりたいことをすることかと思った人は、人のことは言えないが自分の胸に手を当てて考えてみてください。やりたいことには対手がある。それは、自由ではない。では、己が己を自由にして「自己とはすなわち仏」と了解しきることが妙法を得たことだと思ったとしたら「目出度くも的はずれ」。「弁道話」には道元の老婆心が表れているという問答が書かれている。その中でも有数な十六問答には、「即心是仏が分かれば他に何を求める必要がある。座禅など煩わしいのではないか」という問いが提出されている。それに対して道元は法眼禅師と則監寺(そくかんす)の問答をもって答えるのである。監寺とは寺の事務を預かる役職である。
法眼禅師が、その則公という弟子にこう尋ねることから話は始まる。
法眼「お前は俺の所に来てからどれくらいになる。」
則公「三年になります。」
法眼「それは随分永いことだ。なんで俺に仏法を問はないのだ。」
則公「私は、あなたを欺いたりしません。青峰禅師のところで得心することがありました。」
ここでは、則公は無私であり正直だった。法眼は三年の間に機の熟するのを待っていたのである。どういう悟道があったのか言ってみろという。則公は青峰禅師に「いかなるかこれ学人の自己なる」と問うた。
則公「青峰禅師は『丙丁(びょうじょう)童子来りて火を求む』と答えられました。」
法眼「良い答えだが、お前は分かってはおるまい。」
則公「丙(ひのえ)丁(ひのと)は火に属します。その童子ならばみな火です。その丙丁(びょうじょう)童子が来て火を求むと言えば火をもって火を求めるということです。即ち自己をもって自己を求めるの道理です。」
これは大正解なのだが法眼はこう言って罵った。
法眼「よく分かった。お前は分かっておらぬ。そんなことなら仏法も今日まで伝わってはおらぬわ。」
法眼には初めからそうだと分かっていて則公をからかいあざけった。則公はむっとして立ち上がり出て行ったが、途中で引き返す。則公気がついたのである。師には思うところあってそう言われたに違いない。懺悔して詫びた。ここで鼻は折れて素っ裸になる。そして、こう問うた。
則公「いかなるかこれ学人の自己。」
ところがである、法眼はこう答えた。「『丙丁童子来りて火を求む』。」百雷落下するようなこの言葉の音声に則公は一撃された。穆山師は、この時、則公は全身これ独露現成したという。初めて自己即仏に成り切ったと言うのだ。以前の則公にとって「自己をもって自己を求める」ということが既に対手になってしまっていた。それでは自由とは言えない。禅とは動詞である。だから修行しなければならんだが‥‥
道元の疑問

道元 月見の像 1250年頃
道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に庶子として生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。村上源氏の第六代で内大臣であった源通親(みちちか/1149-1202)、あるいはその後継の通具(みちとも/1171-1227)ではないかと言われている。後鳥羽院政期の頃のことだ。母は藤原基房(もとふさ/1144-1230)の娘というのが有力な説であり、そうなら道元は藤原北家の血筋でもあった。木曾義仲の妻であったが、再度政略結婚を強いられる。八歳の年、母が亡くなった。この母の遺言もあって早くから出家を志したと言われる。十三歳の年、比叡山に登った。奇しくも法然が八十歳で示寂した年である。翌年剃髪・得度し、天台宗の密教の方ではなく止観業(しかんごう)と呼ばれる顕教の課程を学んだ。
だが、学べば学ぶほどに頭をもたげてくる問いがあった。それが、天台本覚思想である。ここでは簡単に触れるだけにしたい。無明によって迷い、目覚めていない心の状態を不覚という。不覚を徐々に打ち破って心の本源を悟るのを始覚と呼ぶ。人はそのために修行するのだが、「本覚」とは、人が初めから目覚めているとする。「本来本法性、天然自性身」を言挙げしている。それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それが自然な自性身ならわざわざ見性成仏の必要はないのではないか。初めから目覚めているなら、「何故修行しなければならないのか」という疑問が彼を捉えて離さなくなるのである。
彼は悩み抜く。そして自分の内にではなく、外に向って答えを求めた。親戚であった三井寺の公胤(こういん)僧正に尋ねたが、要領を得ない。そこで、渡宋の経験をもつ建仁寺の栄西に会うように薦められ、その弟子明全のもとで修行することになる。明全は道元の問いにこう答えた。「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却(りぬびゃっこかえ)って有ることを知る。」「過去・現在・未来の諸仏は知らないが、狸や白牛なら知っている」という南泉普願の語(『碧巌録』六十一則)をもって答えたのである。道元は「はぁ?」と思ったことだろう。十六・七歳の頃のことである。建仁寺で修行の後、二十四歳の年にその明全とともに宋に渡り、天童山の無際了派禅師、ついで如淨禅師のもとで参禅することになるのである。
師如浄の答え

道元『宝慶記』
渡宋した道元が記す師・如淨への求法の記録
道元は如淨への求法録とも言うべき『宝慶記』(ほうきょうき)の中で、如淨にもそのことを尋ねたことを書いている。「魚は水の中に住み冷暖を自ずから知るといいます。もし自らを知ることが仏の悟りとするなら生きとし生けるものは皆自ら知る働きを持っており、そのことを以って、はたして悟りを得た仏といえるのでしょうか」と。如淨はそれを明確に否定してこう答えた。「本来あるものでもない自分をその自分が得たと思って諸仏と比較するなどとは、真実をまだ得ないのに得たと言い、真実を実証していないのに実証したという増長慢の謗りを逃れるものではない。」ここに修証一等という実践が標榜されることになるのである。「本来あるものでもない自分」とは対手がまだある自分のことである。一時の修は一時の証となる。座禅せよと。
証とは、究極に達して決着することであり、完成して故郷に在ることをいうと西谷啓治はいう。何故なら人は仏の世界の中にいるからである。それが本覚の立場だ。修とはどこまでも途中にいることである。これでもう救われたという安心が証であり、いつまでも旅の途中にあるという意識が修である。人は仏の世界にいて仏に向う。人は求め、仏に求められる。その二面が一体のことを修証一等という。我が家にいなから動詞となって進み続けることだ。そして、この本覚始覚の問題を西谷啓治は西欧思想と比較している。彼の『正法眼蔵講話』にちょっと脱線したい。
本覚ー始覚問題

西谷啓治『正法眼蔵講話 一』
キリスト教では神の意図が一切の出来事の基礎となっている。神の摂理(プロヴィデンス)という考えである。神の永遠の立場からは、あらゆる出来事は前もって全て一挙に見通されている。人間の自由はどこにあるのか、悪は何処から現れるのか。この悪の問題は、ヤコブ・ベーメを悩ませた。プロティノスでは「絶対の一者」が根本にあり、それと結びついた理法界ともいうべき「ヌース」の世界がある。では、悪はどうなるのか。
そういう神の摂理やヌースの世界の内にあって何故救済や信仰が必要なのか。それは「本覚ー始覚」の問題とパラレルになっているという。イデアのような絶対的なものや諸仏の本体としての永遠なもの、そのようなもののアンチテーゼとして狸や白牛、あるいは猫や犬でもいいのだけれど、それらの今があり無心がある。「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯 (こ/牛) 却って有ることを知る(南泉普願 碧巌録)」は先にご紹介した。眠りが来れば眠り、空腹が来れば食べ、恐怖が来れば恐怖に成り切る。そこに対手という隙間がない。そこには生きていることの確かさ、本質がある。天然に成り切り、法に成り切っているという。哲学の古い言い方ではエグジイステンツ (現実存在) がある。狸や白牛にあるのは諸仏の永遠の法ではなく、積極的、実定的な形で現成される法、時間の内に働く永遠というようなものだというのである。瞬間=永遠、それが西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」、絶対否定を含んだ絶対肯定すなわち即非の論理だと西谷は述べる。(『正法眼蔵講話 一』序ー道元の生涯と思想)
正法眼蔵 「古鏡」

西有穆山『正法眼蔵啓迪』中巻
「古鏡 看経 仏性
行仏威儀 神通 座禅箴」注釈
穆山(ぼくざん)師の『啓迪』に戻りたい。今度は『正法眼蔵』の「古鏡」注釈を取りあげる。この古鏡とは森羅万象を写す心の鏡のことではない。写す、写されるという関係はない。道元のいう鏡とは尽法界ただ一面の鏡なのである。山の突兀たるこれ鏡、海の満々たるこれ鏡、尽天尽地にこれに対するものはないのである。諸仏諸祖が受持し単伝するのはこの鏡だ。第十八祖の伽耶舎多尊者の誕生と共に生じた円鏡、第三十三祖の大鑑禅師の明鏡、黄帝の十二面の鏡の話など、鏡にまつわる禅話がこの「古鏡」では語られている。
その中の馬祖と南嶽との磨塼(ません)の話をご紹介して終わりたいと思う。磨塼とは瓦か材質が瓦のような床石を磨くことであるという。師の南嶽が弟子の馬祖に問う。「お前は、近頃どうしておる。」
馬祖「坐っております。」
南嶽「座禅してどうするつもりだ。」
馬祖「仏になろうと思います。」
座禅とはひたすら座ることである。ぜんたい何をすることもない。不思量底を思量することであり、只管打座(しかんたざ)する。しかし、馬祖は南嶽のもとで印可を受け、15年修行した強者である。仏になろうと思いますとぬけぬけと言ったのである。南嶽は馬祖に老婆心でちょっかいを出す。一片の甎(かわら)を持って来て馬祖の庵のほとりにあった石にこすって磨きはじめた。
馬祖「甎を磨いてどうするおつもりで。」
南嶽「磨いて鏡にしようと思う。」
馬祖「甎を磨いたら鏡になるのですか。」
南嶽「座禅したら仏になれるのか。」
この一段は、昔から身体を用いる禅だけではなく心の禅も心がけよと南嶽が馬祖を教え励ましているのだと捉えられてきた。道元はそうではないという。

「磨塼(ません)の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、座禅すみやかに座禅となる。かるがゆゑに塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる、しかあれば塼のなれる古鏡あり。この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汙なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに作鏡の功徳現成する、すなわち仏祖の工夫なり(『正法眼蔵』古鏡)」
甎(かわら)は決して鏡にはならない。仏になろうと座禅して仏にはなれない。磨塼とは、座禅を徹底座禅で貫くことを指していると穆山師はいう。座に入れば座で十方三世を貫く。仏も図らない。甎は甎で貫くのである。しかし、座禅は直に仏なのだともいう。ここに即非の論理がある。「馬祖が作仏する時、馬祖はすみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となる時、座禅はすみやかに座禅となる。」このゆえに作鏡の功徳が現成し、古鏡が現われる。座禅になりきることが南嶽のいう鏡だ。己を己で自由にするからである。自己の正しく自己なる時が座禅である。一時の座禅は一時の作仏であろう。六祖慧能はもと樵夫であった。それが米搗きをしていて本来無一物と磨きを入れたら大鑑高祖と現成したという。これが明鏡、つまり古鏡である。

慧能(中央) 雲谷等益 17世紀前半
鏡来鏡現の鏡子

馬祖道一 (688 or 709 – 763 or 788)
さらに道元は畳みかける。「仏を作り、鏡を作るという『作』があるということを誰が図り得るだろうか。」また、「古鏡を磨こうとして甎を磨いてはいないかと疑う必要もない。」悟りも甎も鏡も一体無二であり、古鏡のありどうしなのである。「人は仏になる。人が仏になるからには塼は鏡となる。人が心あらば塼にも心ある。」三界唯心の時、甎も石もみな心である。道元の表現はいよいよ彼独特なものになっていく。「誰が知ろう、塼来塼現の鏡子があることを。また誰が知ろう、鏡来鏡現の鏡子あることを」と道元は書いている。この言い換えは独特だ。
穆山師は塼来って塼が現ずるというのはそれがそれということであるという。雪峰禅師と弟子の玄沙の問答に登場する「胡来胡現、漢来漢現」では胡漢が鏡に写ることになって対手が出来てしまう。塼が現われたとは鏡=それが現われたのである。塼が鏡に写ったのではない。塼来は鏡現であり、鏡来は塼現であると言われる。これで対手がなくなる。穆山師の言葉を引こう。
「さらに『鏡来鏡現の鏡子』があると。これはまたいっそうきりつめたお言葉じゃ。鏡が現われたとは鏡が現われたことである。尽界は古鏡の千変万化で、古鏡のほかに森羅万象もない。塼来塼現、鏡来鏡現の鏡子、これはまことに適切である。」
三界唯心、鏡なら尽法界一面の鏡、塼なら尽法界一面の塼、各刹那にエグジイステンツ (現実存在) がある。徧界不曾蔵 (へんかいふそんぞう/あまねく世界は今まで何も隠していない) 。これが『正法眼蔵啓迪』におけるライトモチーフだった。開山 (道元) のお示しなのである。


西有穆山『正法眼蔵啓迪』下巻
「恁麼 海印三昧 授記 観音 阿羅漢 栢樹子 光明 身心学道 夢中説夢 画餅 説心説性 諸法実相 無情説法 生死」注釈
夢中説夢
本末みな偽 (いつわり) のつくも髪 (老女の白髪) おもひ乱るゝ夢を社 (こそ) とけ
「夢中説夢啓迪」のさわりをご紹介する。
この巻の主旨は「一切法無性に尽きる」と穆山師は言う。言い換えると、それが「実相」であり、これを夢という。諸法が実相であるなら夢も実相であり、そうなら森羅万象皆夢である。あらゆる存在の現象を夢は露のように儚く、雷のように一瞬であると観念しなければならない。そう金剛経にある。この夢は人間界で言う泡の如く幻の如き夢ではない。夢は無自性、つまり実体はない。取ることを得ず捨てることを得ず、破壊し得ない故に金剛なのである。これによって一切の諸法の自性は如何とみれば無自性不可得で一切は夢の現成であり、それを四祖は一切諸法悉皆解脱と言われた。この解脱の消息が分かればこの巻はすぐに分かるのだと言う。

道元 『正法眼蔵』(一)第一から第十八まで
弁道話、現成公安、魔訶般若波羅蜜、仏性、身心学道、即身是仏、他

道元 『正法眼蔵』(二)第十九から第四十三まで
古鏡、有時、授記、全機、都機、画餅、渓声山色、他

道元 『正法眼蔵』(三)第四十四から第七十二まで
仏道、密語、無情説法、仏経、法性、陀羅尼、他

澤木興道全集 第六巻
正法眼蔵講話 (袈裟功徳・伝衣)
正法眼蔵講話であるが、講話だから時々脱線もある。ご自分の体験談も交えて面白い。澤木禅師のキャラクターである。袈裟は如来衣であり仏体であるという。これがテーゼである。二十八代達磨大師が震旦国 (古代中国) に正伝し、二祖慧可以下五伝して六祖慧能、つまり第三十三代にいたる。五祖弘忍は夜中にこっそり米つきの下役だった六祖に衣鉢を伝えたが追手から逃れねばならなかった。傍系には仏袈裟は授けられない。達磨の兄弟弟子である仏陀跋陀羅 (ブッダバドラ) や鳩摩羅什の四哲といわれた高弟の一人である僧肇 (そうじょう/374-414) なども優れた人だったが傍系である。袈裟は左肩一方に掛ける。これは釈尊が袈裟を両肩 (通肩) に掛けていたことに対する畏敬の念からであるらしい。
「この袈裟を受持したてまつり」「この正法にあふたてまつり、あくまで日夜に修習す」つまりこの袈裟をよく保護し、この袈裟におおわれ、この袈裟によって自らも救われ、「常恆(じょうごう)に頂戴護持す」るのである。

澤木興道 (1880-1965) 1920

澤木興道全集 第七巻
正法眼蔵講話(谿声山色・法華転法華)
法華転法華を永平寺第五世の義雲禅師は「月に照らされて月を弄ぶ」と言われた。法華に照らされて法華を弄ぶことだと言う。
道元禅師は『法華経』のあちこちをいっぺんに集めてご自分の文章にしてしまわれるので目が舞うようだと興道師は言う。だから転法華というらしい。
五祖がおられた山を牛頭山という。牛の頭のように峰が二つあったから破頭山ともいった。そこは黄梅県にあり、昭和九年に興道師が訪れたが寂れて汚い町だったらしい。六祖慧能は、ある時金剛経の一説を耳にとめ、それを五祖の所で得たと聞いて、牛頭山に赴き八か月米つきをして法を得た。その六祖の所へ法達という法華経読みが来て三千部を読んだと自慢する。六祖は文字を知らなかったと言われるが、そこで一度お経を唱えてみろ解説してやると言う。説いたのは方便品で因縁出世を語ったヶ所だった。広大無辺な一大事因縁は「即仏知見」である。つまり衆生をして仏知見に入らしめるという因縁によって諸仏は世に出られたと語る。仏知見とは尽天地は書かざる経を繰り返しているということを悟ることである。全ては法華経であり、法華経でないものはない。法達は啓発を受けて欣喜雀躍して「経誦三千部、曹谿 (六祖慧能) の一句に亡ず」と偈を呈して師を賛した。
「音もなく香もなく 常にあめつちは書かざる経をくりかえしつつ (二宮尊徳) 」
「火宅に心迷あり、門外に心迷あり、門前に心迷あり、門内に心迷あり」。欲界、色界、無色界の三界は皆火宅である。観音経普門品に「無刹不現身」と言うのがある。刹とは社会と言うほどの意味で、観音はどの社会にも姿を現わさないと言うことはない。その身の処し方は三十三身十九説法、衆生済度という遊びに尽きるのだと言う。このように観音は火宅から衆生を救おうとする。それ故「普門の一門に開示悟入を転ずるあり」と言われ、「当門の一門に開示悟入を転ずるあり」と述べられる。火宅もそこから逃れ出た露地も一つである。それを、こちらでは火宅と見、あちらでは露地とみる。開示悟入とは誰の出入りする門であるのか。法華人であれば、出入りするもの皆法華であると言う。

懐奘 編 『正法眼蔵随聞記』
道元の高弟懐奘(えじょう)が聞き書きした師の語録。
(一・九)
開山が宋の禅院で古人の語録を見ていた時、ある西川 (四川省西部) の僧が、語録を見てどうするのだと問う。古人の行道を知ろうと思うと答えると。何のためにと問う。帰国して人に説き聞かそうと思うと答えると更に何のためにと問う。他の利生のためだと言うと、結局何のためだと問う。後に、このことを考えてみると自行化他のために語録公案を参究して人に説くことは畢竟無用だと思った。只管打座して大事を明らかにすれば後は一字を知らなくても他者に開示つくすことはない。
これについ『正法眼蔵啓迪解題』のなかで榑林皓堂師はこう述べている。道元が入宋して天童山景徳寺 (天童寺) の無際了派の門下となるが、この師は栄西・明全と同系の臨済禅であり、看話禅・見性禅を強調し語録公案は重視された。道元は了派に満たされないものを感じて天童山を下り一時は帰国も考えたが、了派の後任の長翁如浄のことを聞き再び天童山に登る。天童山は五山十刹の一つで官寺であったから詔勅によって任免が決められ宗派・系統にこだわりはなかった。如浄は曹洞系であり洞山良价 (807-869) の黙照禅を継ぐ者であった。遡れば六祖慧能 (638-713) の正法を伝える人だった。それゆえ修証の立場は本覚思想にあり、正しく道元の疑問を解き得る人だったと言う。

秋月龍珉『道元禅師の「典座教訓」を読む』
典座とはどのようなものなのか、その真の姿を自覚したのは他ならぬ道元自身であった。日本では、それがどのようなものなのか全く理解されていなかったのである。彼は典座のような労働に真の修行の一端を見た。それで、帰国後『典座教訓』という心得を書くのである。1223年の四月、明全とともに宋に着いた道元は、しばらくその船に留まっていた。翌五月、そこに禅宗五山の一つである阿育王山の年老いた典座が椎茸を求めに来る。20数キロの道のりを歩いて来たという。日本産の干し椎茸は美味で知られていた。端午の節句が近いから修行僧たちにご馳走するのだという。道元は「あなたのような年齢で典座のような煩わしい仕事を何故なさるのです。座禅し、公案を参究されればよろしいのに」と言った。泊まって行けという道元の誘いに「外国の人、あなたは、まだ弁道のなんたるかをお解りでない」という。道元は恥ずかしさを覚えて「どのようなものが文字なのか。どのようなものが弁道ですか」と聞いた。すると老典座は「もし、その質問の意味するところとすれ違わないなら、それが文字を知り、弁道を体得した人というものです」と答えて、納得がいかなければ阿育王山においでなさいという言葉を残して急ぎ帰っていった。
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